――七――
昨日、彼女が生きているということを知ってから僕は彼女に対してどのように伝えようか悩んでいた。
その結果、ストレートに生きているという事を伝えることにした。そう伝えられたとき彼女はどんな顔をするだろうか。うれしがるかも知らないし、怒ってなぜ調べたのか聞かれるかも知れない。それでも彼女には伝えたかった。
三国志と史記を鞄に入れ公園に行った僕を見て彼女は少し微笑んだ。
「……これ……読みたい?」
三国志を取り出して僕は彼女にそう聞いた。
本を見た彼女は、驚いた顔をして視線を本から僕に移し黙っている。
「……勝見さん……昨日、教会に行きましたか?」
しばらく黙っていた彼女が聞いてきた。
「う、うん。教会の神父さんと話してきた」
「……そうですか」
「読む?」
そう聞くと彼女は本を見つめ、
「勝見さんが音読して下さい。私では本を持てません」
と言った。
「……じゃあ読むよ」
そう言って僕は三国志を音読した。
午後一時半の太陽はとても強かった。
彼女の為に僕は三国志を音読している。会話の苦手な僕は音読するということも大の苦手だ。だが彼女の為に僕は途中で水分補給をしながら炎天直下の下、三国志を音読している。思えば事情の知らない第三者が見れば、とても暑い日向の公園のブランコで三国志を音読している孤独な男子高校生だろう。なんか悲しくなってきた。
三国志の第三巻まで読み終えた。
「……勝見さんは音読が下手ですね」
読み終えた頃を見計らって彼女は感想を言った。
「う、そうだよね……」
「まあそれも良い所ですよ。人間なのですから」
「人間ね……綾香さん、知っているか知らないか分からないけど伝えたいことがあるんだ」
「何ですか、唐突に。もしかしてキュウコン?」
「……僕、チューリップの話をしたっけ?」
「いいえしてませんよ。で、改まって話とは何ですか?」
僕はここで深呼吸を入れる。とても緊張した。
「綾香さんは生きている、って事なんだけれどそれ……」
「どういう事ですか!」
いきなり彼女は口調を荒げ僕に詰問した。
「いや、その……」
困っている顔の僕を見て彼女は少し困惑した様な顔になり、
「……すみません。少し……」
と言った。
「僕もごめん。少し直球過ぎたよね……」
「いいえ。長々と話されるよりもそっちの方が嬉しいです」
「……」
『ありがとう』の一言をこのタイミングで言えたら良かったのかも知れない。でも言うタイミングを逃してしまった。
「昨日、教会に行った後に図書館に行って調べたんだ……。椎名綾香の交通事故について。そしたら意識不明の重体としか書いてなかった。もしかしたら死んでないかも知れない、って思って大学病院に行ってみた。そしたら病室に綾香が居た」
彼女は下を向いたまま僕の話を聞いている。
「きちんと生きてた。確かに点滴とか打たれていたけど心拍計はきちんと動いていた」
彼女は下を向いたまま啜り泣き始めた。
「嬉しかった、僕の覚えている事の中では一番に……。まだ綾香さんは生きているよ」
そう言うと彼女は僕の胸倉を掴む様にして僕に寄りかかる様にして体を寄せてきた。
彼女と触れ合っているはずなのに、僕の感覚器官はパルスを僕の大脳に送ってくれないのだろうか?脊髄がパルスを止めているのか?いや、違う。パルスが送られないのではない。パルスが発生しないのだ。マイスナー小体は彼女に対しては感覚器官として機能しない。するはずがない。やっと触れられた彼女の腕は、体は物理的には無いのだから。
「私は……どうすれば良いのですか?どうやったら、かつ……」
そこからは彼女の言葉が聞こえなくなった。
殆ど他人と会話のしなかったツケがここで回ってきた。どうすれば慰めてあげられるか分からない僕は頭を掻くとしばらく彼女と一緒にいる事にした。彼女の感触は分からないが見た目は本当に儚い。泣いている今は更に儚く感じ守ってあげたいと本能的に思ってしまうくらいに……。
ずっと黙って一緒にいると時間の感覚が無くなってくる様な錯覚に陥ってしまう。どのくらいの時間が経ったのだろうか……。三〇分、一時間、もしくはそれ以上かもしれない。ブランコが刻み続ける時間が今、僕の唯一の時計だ。キィキィとブランコの鎖が軋む音がとてもゆっくりに感じる。
「勝見さんはどうして私みたいな幽霊と仲良くしてくれるのですか?」
僕に寄りかかる様な姿勢で彼女は質問してきた。
「……どうしてかな。良く分かんないかも……」
そう言うと彼女は少し微笑んだ。
「……やっぱり変わってますね」
「そうかな。別に僕は周りの人とそんなに変わらないと思うよ」
「やはり自覚は無いのですね……。勝見さんらしいですけれど……」
その言葉に僕は苦笑いするしかなかった。
「……どうすれば自分の体に戻れるのでしょうね……」
「僕の考えでは心残りなことを解消するってのがあると思うけど……」
「……どういう事ですか?」
「えっと、成仏できない幽霊とかって、何か心残りがあるから成仏できないって話を聞いたことがあるから、綾香さんの心残りを解消することで元の体に戻れると思うのだけど……」
「なるほど……無理ですね」
「ええっ、どうして!」
「私には心残りがありませんから」
「……この前この公園にいた猫が好きだったからまた見たいんじゃないの?」
「それは……勝見さんが無くしてくれたじゃないですか……」
そう言うと彼女は少し赤くなる。
「???」
「何ですか、そんな呆けた顔をして」
「いや、そんなことあったけ?って思って……」
彼女は『はぁ~』とため息をついた。
「勝見さんはヒモになりそうな予感がします」
「……想像がつかないので話を進めて良いですか?」
「構いませんよ。他には?」
「霊能力者という方法はどうかな」
「不確定な要素が多いですし、人を呼ぶのにお金が掛かると思います。払った金額に見合うだけの成果が出ると限りませんからね。他には?」
「もう無いよ。そう言う関係はさっぱりの素人だから」
「そうですか……。勝見さんそろそろ時間じゃないですか?」
「ん?」
僕は時計を見た。
「本当だ。じゃあもう帰るね。明日は?」
「明日も居ますけれど楽しみの読書会は無理ですね。南西を見て下さい」
彼女に言われた通り南西を見ると重苦しい灰色の雲が見えた。
「明日は雨ですから本が濡れてしまいます。一、二日来なくても私は大丈夫ですから、明々後日来て下さい」
「うん、分かった。じゃあまた明々後日」
そう言い残して自転車で坂道を下る。来るときに凶悪と言ってもいい様な坂道が続いている為、自転車のブレーキを掛けずに下ると時速三十キロを超える為、軽くブレーキを掛ける。
ひび割れたアスファルトの割れ目に草が生えている。そこに流れてきた赤錆の跡が対照色になりとても映えていた。