――五――
七月二二日の午前八時三〇分に僕は起きた。いつもなら既に起きている時間だが昨日の徒歩の疲労が大きく、寝過ごしてしまった。昨日の雨は止んでおり雲が三割程度残る空が今日は晴だと伝えている。
昨日はあれから彼女とは殆ど話さず、帰るときに「また今度」と言っただけだ。何となく寂しい感じがしたが、彼女との間にあった雰囲気からは、あまり多くの事を話さない方が良いと思ったからだ。
今日は少し彼女について調べようと思う。彼女は孤児院で育ったと言うからおそらく市の西の方の教会に付属されている孤児院だろう。「教会の写真を取りに来ました」という雰囲気で行けばあまり文句は出ないはずだ。
昨日と同じ服を着がえ、昨日と同じように朝食を取り、昨日と同じように歯を磨く。そして自転車に跨ると僕はペダルを強く踏む。第三者から見るといつもと変わらない日常の様な光景だ。しかし僕から見ると、僕の心はこれまでにないくらいに晴れ渡っている様に感じる。これは俗に言う『一目惚れ』という奴なのだろうか……。あの笑顔を思い出すと僕はとても幸せな気持ちになる。不可能かもしれないが彼女の笑顔をこのカメラに収めたい。今、僕はそういう思いでいっぱいだ。
いつもは通らない道。いつもは見ない景色。いつもは気にもならない物。しきい値の低いそれら全てが今日は鋭敏になり入ってくる。今日なら何だってできるかも知れない。そう感じてしまう程に。
孤児院まで自転車で三〇分弱で行けた。孤児院は元々、託児所だった所を教会が買い取り、改装をして使用している。なので外観は託児所の様で子供達がいても可笑しくはない。
僕は託児所を横目に見ながら教会に入った。内部は写真で見る様な教会とさほど変わらない。普通に大きいステンドグラスが東向きに取り付けられており聖母マリアの絵から入る外光が「神の光」として、内部に暖かな光を溜めている。小さな教会なのでパイプオルガンなどはないが学校で使われる様なグランドピアノが右側に置かれ黒い光を放っている。建築様式は日本ではまず見られないゴシック構造をしている。尖型アーチとリヴ・ウォールトが採用されているこの構造は、天に高く伸びる外観、機能から教会の多いヨーロッパでは、ロマネスク美術の根幹から塗り替えたとまで言われている。
そんな貴重な美術作品を僕はいつも通り機械の様に機械に、カメラに収める。パシャ、パシャ。ゴシック様式の教会はとても音を反射しやすい。自分のカメラの音が幾つにも聞こえ驚く程だ。
「この珍しい教会を気に入りましたか?」
初老の男性の声が聞こえ僕は振る向いた。男性は穏やかな顔をして僕に近づいて来る。写真を撮る事に夢中になり、神父が来た事に気が付かなかった。
「別にこの教会を撮影して怒ったりはしませんよ。ここは来る人全ての家なのですから」
「……あの、ありがとうございます」
「礼は要りません。私は神の望む事をしているだけなのですから」
そう言うと神父は至聖所に一番近い長椅子に座り「どうぞ」というように手を椅子に向けた。僕はその指示に従い神父の左に座ると頭の中で質問を必死に考えた。
「えっと、この教会はいつからあるのですか?」
やはり僕のコミュ力はかなり悪い。そう思える様な僕の質問にも神父は笑顔でいる。
「一二〇年くらいになります。明治時代に入り宗教が一時的に自由化された時期にこの教会が建てられました」
「一二〇年ですか……どうしてそんな比較的新しい教会がゴシック様式なのですか?」
「この教会が建てられた一九世紀にイギリスではゴシック・リヴァイヴァルと呼ばれるゴシック再興運動が起きました。それにならって、欧化政策の真っ直中だった日本のこの教会でもこの様式が採用されました。それにゴシック様式というのは日本人の考える西洋の教会の形に一番近い建築様式です。キリスト教のイメージを植え付けたかった教会側としても、この建築様式の方が良かったのではないでしょうか?」
「そうなんですか……」
「私の方からも質問を宜しいでしょうか?」
「別に良いですよ……」
「この教会に来た理由を教えてもらえませんか?あなたはここの教会の写真を取りに来たのではない雰囲気なので、写真を撮る以外の理由を訊きたいのです」
「えっ……えっと、その……教会の隣の施設なのですが……」
「向日葵荘ですか……それで向日葵荘にどんな用件が?」
「いえ、大したことではないのですが……」
「安心して下さい。向日葵荘に住んでいる子供達に悪さをしない限り私は怒りませんよ」
「……椎名綾香という女の子が向日葵荘で住んでいたかどうかを訊きたくて……」
心当たりがある様で、少し神父の顔が引きつった。
「綾香ですか……その名前を聞くのも久しぶりですが、良く覚えています。二歳の時に向日葵荘に入ったのですが今はもう居ません。しかし、綾香とはどこで知り合ったのですか?」
「小学校の時に一つ下にそんな子が居たという事を最近思い出したので……」
「そうでしたか……綾香の話は聞いていますか?」
「……はい。事故にあった、と聞いています」
そう言うと神父はため息をつきこう言った。
「綾香は例えるなら小動物の様な子でした。寂しがりやな性格でしたが五人以上いると四メートルくらい離れた所でじっと本を読んでいました。本は学校や図書館から借りてきて年に二〇〇冊くらい読んでいましたね」
「綾香さんはどんな本を読んでいましたか?」
「主に推理小説や恋愛小説を読んでいました。あっ、そういえば歴史小説も読んでいましたね。三国志は向日葵荘の本棚に買ってくれって泣いてせがんで頼んできましたね」
「三国志の本はどこで買ったのですか?」
「街の古本屋で三冊セットを買ってあげましたね。個人経営の店だったので三百円を二百円に値下げしてもらって……これを下さい、って。店番をしていたお婆さんが笑顔で綾香に本を渡してそれを大事そうに持っていきました」
「その本は今はどこにあるのですか?」
「それが今は無くなっているのです。綾香の部屋を探しても見つかりませんし、私も歳ですからね、どこにやったかは忘れてしまったのかも知れません」
「そうなんですか……」
「まあ、そう悲観する事はありませんよ。失せ物はいつか何気の無い所から見つかります。焦って探しても見つからないときは気長に待つのが一番ですね」
「家宝は寝て待て、ですか。良い事を聞きました。じゃあ僕はこれで……時間の関係もあるので」
そう言って僕は長椅子から立ち、それに合わせる様に神父も立った。
「そうですか……また何かあったら来て下さい。ここは来る人全ての家なのですから」
そう言うと神父は教会を出て行った。
僕は綺麗なステンドグラスを網膜に焼き付ける様に見つめ、教会を出た。
まだ昼にもなっていないはずの空に太陽はその存在を知らしめる様にして居座っていた。