――四――
家を出た僕は傘二本とカメラを持って歩いて廃工場エリアに向かっていた。
(自転車で四〇分の距離は伊達じゃないな……)
家からあの公園までの距離は一二キロ近くあり、いくら男でも歩いて行くには相当な時間がかかる。
今まで彼女は雨の日も公園にいたのだろう。そんな事は気にならなかったのだが、知ってしまうと気になって仕方のない。
(今、彼女はどんな顔をしているだろう。どんな事を考えているのだろう)
そんな思考で脳内が埋められどうしようも無くなってくる。
(これが好きっていう感情なのかな?)
柄にもなくそう思ってしまった。
気が付くともう、昨日登った坂道だ。よく見ると坂道は中央が窪んでおり、そこを川の様に水が流れている。
川をたどりながら昨日来た道に入ると、すぐに公園が見えてきた。
「今日も来てくれたのですか、勝見さんは」
彼女はブランコの上に座っている。その体は全く雨に濡れている様子が無く昨日と同じままだ。
「うん。だって心配だったからね」
そう言った僕の足下は雨に濡れており生ぬるい感触が少し気持ち悪い。
「家からここまで何分くらいなのですか?」
「二時間ちょっとかな。まあ大した距離じゃないよ」
「羨ましいです。そんな長距離を歩いて移動できるなんて……」
僕は彼女の背後に陰がある様な気がした。とても重く暗く深い陰が彼女に罹りそうになっている様なそんな気が……
「その使っていない傘は私の為に持ってきてくれた物ですか?」
「うん……でも、必要ないかな……」
「嬉しいです。勝見さんが差してくれませんか?」
「……分かった」
僕は彼女の隣のブランコに座り傘を差してあげる。
「とても嬉しいです。傘の内側に入るなんて、もうできないと思ってました。こんな雨の日も良いかも知れません」
「少しは景色が違うかな?」
「はい。傘の内側にいながらこの景色を見たのは初めてなのでとても新鮮です」
「良かった。そう言ってもらえると、僕も嬉しいな」
そう照れながら彼女を見て僕は言った。
「前から気になっていたのだけれど、君は成長しているの?」
「私は一応、成長しています。他がどうなのかは知りませんが……」
「へぇ、幽霊も成長するんだ」
「勝見さん」
「何?」
「勝見さんは、私の事を君と呼んでいますけど、名前で呼んでもらえませんか?」
「どうして?」
「私と少し距離を置いている様に感じてくるから、名前で呼んでもらえると少しは楽なんです」
「そ、そうなんだ。距離を置いているつもりはなかったんだけどなぁ……」
「とにかく、名前で呼んで下さい」
「えぇと……」
僕はもの凄く焦っている。二日前に『椎名』という名前を覚えたのだが、肝心の名前を覚えていない。クラスでも名前を覚えてないのがこんなところで響いてきた。
「……勝見さん?もしかしてですが……」
「ごめん、椎名しか覚えていない」
「……勝見さんは教室の中に友達がいないのですか?」
もの凄く痛い所に『言葉の槍』が深々と突き刺さった。
「私の名前を忘れるからです。当然の報いですね」
分かってか分からずか酷い事をさらりと言われる。
「椎名さん、差し支えが無ければお名前をお伺いしても宜しいでしょうか……」
僕が下手に出ると、彼女は「驚いた」という顔をして僕を見た。
「勝見さんがそんな言葉を使えたのが驚きでなりません。私の見る目がなかったという事ですね」
「椎名さん。怒っていらっしゃるのですか?」
「いえいえ、怒っていませんよ。勝見さんの勘違いではないでしょうか?」
そう答える彼女の声は明らかに怒気を孕んでおり身が竦む様な思いだ。
「もう一度言いますが、私は椎名綾香です。『綾香』って呼んで下さいね。次忘れたら死界に引きずり込みますよ?」
疑問系で収めた恐ろしい言葉を言った彼女はそれから笑っていた。
「そう言えば、勝見さんの事を聞いてませんでしたね」
笑い終わった彼女はいきなりこんな事を言い出した。
「そうだったかな?」
「そうですよ。私は勝見さんより記憶力の良いので聞いた事を忘れる事がありません」
「……国籍日本、現住所は福井県鈴原市、性別は男、家族は会社員の父親と大学生の姉、町立小中学校を卒業後地元の県立高校に入学、身分証明書の肩書きは高校生。こんなところでどうかな?」
「なるほど、でも私が聞きたい所ではありません。私の聞きたい所ではありませんね」
「じゃあどこを聞きたいの?」
「また今度聞きたいと思います」
「まあ、なるべく答えやすい質問で……」
僕がそう言うと彼女は話を切り替える様に咳払いをする。
「じゃあ他の質問で、さっき言ったので気になったのですが、答えたくなかったら答えなくても良いです。勝見さんはお母さんがいますか?」
「……いないよ。僕が四歳の時に死んじゃったから」
少し暗い顔になった。
「それでは三人で暮らしているのですか?」
「ううん、親父は単身赴任で北海道の札幌に行ってる。もうかれこれ半年くらいは行っているかな」
「姉と二人暮らしをしているのですか……。不潔?」
「……どうして姉貴と二人きりで暮らすと不潔なの?」
「勝見さん、下手な韜晦は止めて下さい。そう言って勝見さんは自然体でいて姉を口説いているのでしょう?」
彼女は一般常識にいささか難がある様だ、と思った。
「綾香さん、少しはいっ――」
「『綾香』と呼んで下さい、勝見さん」
「いや、それはちょっと……。まだ知り合ってからあまり時間が経ってないから……」
「……まあ、勝見さんが嫌と言うならそれでも良いですが……」
「どうしてそうなる……」
「じゃあ『綾香』と呼んでくれますか?」
「もうちょっと経ったらね」
「仕方がありませんね。ヘタレな勝見さんには『綾香さん』と呼ぶ事を許可します」
「ありがとう、僕の精神的に……」
「それで、さっきのは何なのですか?」
「……ええっと、そうそう、真弓さんは少し一般常識や倫理に欠ける部分が見られるのだけど……」
「それは私が非常識な言動をしているという事ですか?」
「う~ん。そうだね。少し欠いた発言をしているかな」
「どう言うと非常識な発言になるのですか?」
「さっきもそうだったけど実の姉を口説くとか倫理的にダメだと思うんだよね」
「そうですか?近親相姦上等なんて言っている姉弟が居たら私は格好いいと思いますよ」
「いやいやそれもいろいろマズイから……。日本の法律じゃ近親結婚とか姦通罪レベルのアウトだと思うよ」
「そうなんですか。長い事会話をしていなかったのでそういった一般常識が抜けているのかも知れませんね」
彼女は事故が起きた四年前から誰とも話していない事を思い出した。そしてまた僕の悪い癖が出た。
「……そうなんだ。綾香さん、その……」
「何ですか?言うならハッキリ言って下さい、勝見さん」
「その、事故の事を覚えてる?」
そういうと彼女は大きく「はぁ~」とため息をついた。
「……勝見さん、少し意地悪になりましたか?」
「そんなつもりじゃなかったんだけど……気になったから」
「その質問の答えは“Yes”です。あまり思い出したくありませんが勝見さんが聞きたい事なら答えてあげます」
「じゃあどこで起きた事故か覚えている?」
「交差点です」
彼女は頬を膨らませあからさまに拗ねて見せた。とても可愛い。
「その交差点の場所はどこ?」
「鈴原市の交差点です。それが何か?」
彼女の顔は完全に「ドヤ顔」だ。
「いや、ドヤ顔されても……」
「ドヤ顔とは何ですか?」
「ええっと、どうだっ的な感じで自慢げな顔の事かな……」
「したり顔って事ですか?」
「そうそう、そんな……話を戻していいかな……」
僕は見事に彼女の逸らし作戦に引っかかってしまった。そんな彼女は覚えたばかりの『ドヤ顔』を実践している。男がやったらむかつくだけだが彼女がすると子供の様で許してしまいそうだ。
「鈴原市のどこの交差点なの?」
「……小学校の通学路の交差点です。住所などは分かりません」
「事故はいつ?」
「確か六月二六日の下校時間です」
「そうなんだ……」
「もう聞かないんですか?」
「……うん、もう良いよ。それに綾香さんもあまり思い出したくないだろうし」
「やっぱり勝見さんは優しいんですね」
「そうかな。こんな物は当然の気遣いだよ」
「そうですね」
彼女はそう言うと「うふふっ」と頬を綻ばせ笑った。
それから僕も彼女も雨音が包む公園のブランコに何も言わず座っていた。