――三――
彼女が公園に向かって歩いている。僕はその後ろの少し離れていた所からついて行った。
彼女も僕も無言で歩いている。何故かしゃべってはいけない様な気がして話しかけられなかった。
それに、もの凄く怖い。それはそうだ。自分とは全く違う存在がいるのだから怖がらない方がおかしい。
「私の事が怖い?」
彼女はまるで僕の思っている事が分かっている様に聞いてくる。
「……うん。まあ、怖いかな……。でも――」
確かに僕は今、彼女が怖い。
しかし僕はそう思うと同時に妙な安心感がある。確かに彼女は幽霊と言い写真にも写らなかった。しかしこの短い時間、接したが見た目や中身は普通の少女だ。妖怪談に出てくる様な触手が生えていたり、首が長かったりするわけではない。
普通の事を話し、普通の事で笑うような普通の女の子なのだ。何にも怖がる必要のない。
それに今まで彼女の事が何も一つ分からなかった僕に、彼女は僕に自分の秘密を教えてくれた。それが純粋に嬉しかった。
「……ありがとう。そんな人に会ったのは初めてかな……」
「誰もそう言ってくれる人がいなかったの?」
「……うん。私ね、両親の顔を知らないの」
「え?どうして?」
「私は捨て子で、二歳の春に孤児院の入り口前にずっと座らされた。お母さんの顔は覚えていないけど、声は覚えている。あのときお母さんは涙声で「ここに座っていなさい」って言ってた」
彼女は公園に入ると黄色いブランコに座り、そう言った。その口調は他人事の様で普通の口調でそう言う。しかし僕は気が付いてしまった。彼女は目に涙を溜め、堪えながら話している事に。
「……その後、私は孤児院で育ったの。みんなと離れるのは嫌だったけれど、孤児院では隅っこの方でじっとしていた。大人数がいる所は好きじゃないから」
随分前だが、僕は捨て子について調べた事がある。
生後間もない頃に捨てられた子供は、拾った人間が事実を伏せるなどしてやれば子供の苦しみは幾分かはマシになるが、三歳くらいの物心付く頃に捨てられた子供は心的外傷後ストレス障害、いわゆるトラウマが残る場合が多いそうだ。彼女の場合も母親に捨てられる時の記憶がトラウマに形を変え縛り付けていたのではないか、僕はそう思う。
「どうしてここにいるの?」
「……ここにね、猫の親子がいたの。母猫と子猫六匹が公園の土管の中で暮らしていた」
そう言い、彼女はブランコの目の前にある土管を指さす。
「子猫はいつも母猫の方へ寄って、ニャーニャーって鳴くの。そうすると母猫は子猫に母乳をやって……それが可愛かった」
「今、その猫はどこに行ったの?」
「分からない。それにここに留まっている理由はそれだけじゃないの――」
彼女の瞳に映っている憧憬は何なのか、僕には分からない。
「――私が行動出来る範囲はこの公園の半径五〇〇メートルと事故にあった交差点だけなの……」
僕は息をのんだ。幽霊の中には浮遊霊の様にどこにでも移動できる霊と、自縛霊の様にある場所のみしか移動できない霊がいるという事を聞いた事がある。彼女の場合は後者だ。彼女は自分の思いが強いこの場所と死ぬきっかけになった場所しか移動できないと言う。僕だったら当然の様にこの場所に来るだろう。誰だって嫌な事は思い出したくないはずだ。
「私はたぶん猫を見つけるまでこの公園に居続けると思う」
「猫はもういないから難しいね」
「うん。でもそれでも良いと思っている」
「……どうして?心残りがあるのは嬉しくない事じゃないの?」
「だってこうして今の私の存在を肯定してくれる人がいたから……」
彼女は恥ずかしそうに顔を赤らめ下を向く。
「ん、どういう意味?」
「勝見さんは鈍感ですね」
「……」
「黙らないで下さい。恥ずかしいじゃないですか」
「……う~ん。どうしようかな?今から……」
「じゃあ、お互いの思い出や秘密などを聞いていくってのはどうですか?」
「面白そうだね、じゃあ僕から聞いていい?」
「いいですよ。なんでもは無理ですが、大抵の事は良いですよ」
「う~ん、勉強で好きな科目と嫌いな科目は?」
「意外に普通な事から聞いてくるんですね。もっと言い辛い事を聞かれると思って身構えていたのに……」
「なかなか心外だね……」
「まあ、そうですね。学校の成績は悪かったですが、理科の解剖実習と体育以外は好きでした」
「へぇ~、解剖実習ね。フナ?イカ?ネズミ?」
「私の学校はフナでした。勝見さんは?」
「僕の所はイカだったね。解剖した後に調理して食べたんだけど、クラスにイカの蝕腕を生で食べて角質環が口に刺さった奴がいたね。もの凄く痛いらしくて、保健室でピンセット使って取ってもらってた」
「角質環ってのは何ですか?」
「イカの吸盤みたいなのに少し堅いギザギザしたとがった物が付いているんだよ。獲物を捕まえて逃げにくくする為にね。焼けば落ちるんだけど、そのまま食べると悲惨な事になるんだよね」
「そうなんですか……じゃあ私ですね。勝見さんは今何歳なのですか?」
僕が彼女に聞きたい質問ナンバーワンがここできた。
「一六だよ。高校二年生。君は?」
ここは自然の流れで聞くのが――
「一五歳です。順当に生きていればですけれど……」
「そ、そうなんだ」
僕は地雷を踏んでしまったかも知れない。
「大丈夫です。逆に謝られたり黙られたりする方が辛いので」
「……分かったよ。孤児院ではペットを飼ってた?」
「鳥を一人一羽渡されました。これの面倒をしっかり見なさいって」
「どうして一人に一羽渡したの?」
「孤児院に預けられる子供達は精神的に病んでいる子が多いらしいです。その解消と、命の大切さを学ぶ為だと院長は言っていました」
「命の大切さ?」
「そうです。男の子に多かったのですが、渡された鳥の面倒を見ずに死なせてしまう子がいました。それでも院長は鳥を渡し続けていました」
「鳥がかわいそうとは思わなかったの?」
「そう思って院長に泣いた事もありました。でも――」
「でも?」
「今なら何故、院長が鳥を渡してくれたかが分かります」
「……」
「院長は命の儚さを教えたかったのだと思います」
「儚さ?」
「籠に入れられた鳥はこまめに餌をやり続けなければ三日も持ちません。命は簡単に消えてしまう。でも、大切にすればしただけ鳥の命は延びます。それを教えたかったのではないかと思います」
「死んじゃった鳥はどうしたの?」
「院長が孤児院の裏口の側で埋めてました。院長はキリスト教だったので木の枝と輪ゴムを使って土に十字架を挿して祈っていました」
「育てていた子は埋めないの?」
「放置状態が殆どでそういう子は鳥なんてどうでも良いと思っていたみたいで……」
「そうなんだ……」
彼女の事情はとても複雑だ。だが、今の彼女は孤児院にいたときの彼女とは違う。僕はそんな事を思った。
「私の中で吸熱反応が起きているみたいに、私はいつも寒さを感じいます」
「……」
「そんな私に勝見さんは心理的な暖かさを与えてくれた。だからもっと暖かくして欲しいんです。だから……」
「……だから……」
「私と友達になってもらえませんか?」
「……僕に……?」
「そう。勝見さんに。」
「僕にそんな事ができるのかな?」
「できるよ。できなきゃ私が困るの」
「まるで女王様みたいな口調だね。僕じゃなかったらたぶん怒ると思うよ」
「大丈夫。勝見さんみたいな人にしか私は見えないと思う。私と勝見さんの相性の周波数が合ったのじゃないかな、偶然に。だから私は勝見さんにこんな事が言えると思う」
「周波数か……ラジオみたいだね」
「ラジオ。確かにそうかも知れないです。発信と受信の周波が合ったときにのみ聞こえて、それ以外では聞こえない。その波長は変える事ができず、こうして意思の疎通ができるのも奇跡の様なものだと思います」
「奇跡……。君とこうして話している人生は、必然と偶然のどちらかな……」
「私としてみれば、人生は偶然が積み重なった必然でできていると思います。どちらか一方しかないのなら、私はそんなものを人生と呼びたくありません」
「全てが必然だったら?」
「個性は無と等価値になります。私たちは、必然というシステムの中の一パーツになってしまいます」
「全てが偶然だったら?」
「偶然に流される浮き草です。自分の個性は不要になり選択は無と等価値になります」
「人生はどっちなの?」
「必然と偶然の間で揺れ動くどちらでもない存在だと私は思います」
「……君は本当に一五歳なの?」
「一五ですよ。同年齢の人より暇があるので黄昏れたり哲学っぽい事を考えたりしていますが……」
「僕よりの何歳か大人に感じるのだけど……」
「それは、私に対して少し失礼ではありませんか?」
「ごめんごめん、ついつい……」
「存外勝見さんは油断のならない人だと分かりました」
「そうかな。僕は基本自然体だけど……」
「自然体だから油断ができないと言っているんです」
「でも……」
「でもではありません」
そういうと彼女はくすくすと笑っていた。
彼女との会話はその後も続き、気が付くと空はあかね色に染まってきた。
僕はポケットの中からスマホを取りだし時間を見る。
「今は何時ですか?」
彼女も時間が気になったらしい。僕に聞いてきた。
「今は午後の五時だね。あれから七時間もここにいるんだね」
「そうですね。私もこんな長時間一人の人と会話をしたのは初めてです。なんか新鮮な感じがします」
「僕もだよ。君と話しているとお腹が減ったのが感じなくなるよ」
「臭いです。勝見さん」
「えっ、僕の体臭そんなにキツイ?」
「そういう意味ではありません。台詞が臭いです」
「……そういう意味なんだ。なんか考えると恥ずかしいな……」
「まあそれも勝見さんらしいです」
「そうかもね。もう僕は帰らなくっちゃ」
「そうですか……。明日は無理そうですね」
「どうして?」
「空を見て下さい。巻層雲が出ています。そして南西には乱層雲が見えるので明日は朝から雨です。雨だと自転車は使えませんから、結論的には勝見さんは来れません」
「そうだね。君はどこか雨をしのげる場所がある?」
「ありませんよ」
「じゃあどうするの?」
「雨晒し、ですね。まあ私は物理的に雨に当たらないので最強です。絶対に濡れませんよ。それに雨の景色も味もありますし」
「そうなんだ。じゃああんまり問題の無いかな」
「はい、ありません。勝見さんにできる事なら大抵、私でもできますから」
「そうだね。じゃあ僕は帰るね」
「勝見さん。また今度」
「うん。また今度に」
そういって彼女と別れた。
公園から出る途中、彼女の声を何度も脳内再生させる。
(また彼女と話せるかな……)
僕はそう考えつつスタンドを降ろし自転車に跨る。そして空を見上げる。
白色の雲があかね色の空に染まり、その景色は文字通り照り映えていた。