――二――
僕の起床時刻は平日は六時から始まるのだが今日からは夏休み、つまり休日のため七時半に起きた。昨日は家から自転車で四〇分以上かかる廃工場エリアに行った為、体の節々が痛い。特に太股の筋肉痛が一番辛く、このままベットの上にいたいと思ってしまう程だ。
しかし、今日の天気予報では一日中晴で、降水確率はゼロパーセント。明日は雨が降るようだが、基本日本海側のこの地方は夏は暑く乾いている。しかも、夏になるとフェーン現象が起き、太平洋側よりも四度か五度くらい温度の上がった風が日本海側の街に吹き下ろす。その為に気候的には農業には向いているのだが、そんな事は殆ど関係のない僕としては、ただ暑いだけの要らない気象現象でしかない。
余談であったが、とにかく今日は天気が良い為、絶好の撮影日和だ。そう思い至った僕は、痛みで起きあがりにくい体に鞭を打つように歯を食いしばり立った。自分の部屋のカーテンを開けると雲一つ無い空が広がり清々しい。何度も撮っているはずなのだが、僕は机の上に置いてあるカメラを手に取り起動させる。そして写真を一枚、また一枚とデータ化しメモリーカードに保存する。(今日の撮影枚数は六枚だ)
まだ一日が始まったばかりなのだが撮影した画像をチェックし、自分に聞かせるように思う。一階に行きダイニングでご飯を済ませ、それから歯を磨き、また自分の部屋に戻る。何気ないいつもの事だ。僕が今着ているジャージからクローゼットに入っている出掛ける用の夏服に着替え、僕はカメラを持って家を出た。
廃工場エリアの坂はやはり悪意を持たせて作られたのだろう。そう思わずにはいられない坂の勾配だ。冬にはここら一帯にも五〇センチくらいの雪が積もる。この坂ならばスキー場の中級者コースになりそうだ。僕は試す気のないが、どこかのバカに教えてやってもらおうか……。それにしても、
「坂が、キツイな……」
僕は辛い坂をのぼりながら考える。何故、こんな所に何故工場を建てたのだろう?、と。
(まあ、こんな所に自転車で登るような物好きも少ないか……何でこんな所を撮ろうと思ったんだろ、僕は……)
あまりの辛さに自虐気味になった思考を戻すように住宅エリアの方を見る。昨日と殆ど景色は変わっていない。変わっているのは雲の有無くらいなものだ。
(昨日の女の子はいるのかな?)
僕はここに来て思い出した。今まで殆ど他人の事なんて気にした事のない。他人を気にした事は、小学校の体育の時間に熱中症で倒れたクラスメイトくらいだろう。今はもう名前を覚えていないが、いきなり目の前で倒れた為、何もできずに焦った記憶がある。「大丈夫か?」の一言も掛けられないくらいに、僕のコミュニティー力は退化しているのだ。そんな僕でも、昨日の綺麗な女の子の姿は簡単に思い出す事が出来る。思わず公園の目の前を通る道に入り公園に向かう。まあ、まだ九時前だ。早々いる訳がない。そう思った僕だが、その考えを裏切られた。
「あれ、勝見さんですよね?」
彼女は昨日と同じように公園のブランコに座っていた。
髪型も服装も雰囲気も何一つ変わらず、昨日と同じだった。
「早いね、こんな時間にはもう来ているんだ」
「うん、他に行く所がないしする事がないから……」
「そうなんだ。宿題とかは?」
「ありませんよ。勝見さんの場合は宿題をせずに趣味に走っているのでしょ?」
「そうだね……。確かに宿題は手つかずのまんまだ」
自虐気味に僕はそう言うと、彼女は少し小悪魔的な表情をし、イタズラをしてやろうという顔をした。
「じゃあ、そんな私は勝見さんと一緒にこの周辺の写真を撮りに行こうと思います」
声のトーンが上がった彼女はとても可愛かった。
彼女はブランコから飛び降りると僕の隣を抜けていき公園の入り口に立った。
「ほら、早く行きましょう。人間に与えられた時間は限られているんですよ。あ、あと許可無く私を撮るのはNGですからね」
彼女はそう言うと、待っていられないと体で表現するかの様に駆け足をした。彼女の黒髪と白ワンピースが風に靡き反則なまでに綺麗だ。僕はカメラに納められないその美しさを、網膜と海馬に焼き付けるように魅入った。
「勝見さんはどこを撮りましたか?」
「えっと、もうちょっとい――」
「商店街ですか。じゃあそこ以外といえば廃工場の中とかはどうでしょう?」
話しを途中で折られた。しかし気にせず話を続ける。
「……廃工場の中に入れるの?」
「鍵は錆びて開けられませんが、トタンに体当たりをすれば壊れますよ」
「……そんな事をして大丈夫なの?」
「たまに鉄柱とかにぶつかって痛い思いをしますがそれ以外なら問題ありません。工場の経営上は潰れていますが、建物自体は一度も潰れた事はありません」
そう言うと彼女は笑いながら廃工場の方へ駆けて行った。
錆び付いた廃工場は五〇以上もあり殆どそのまんまだ。彼女が向かった先は公園から歩いて三分程度の廃工場で、公園からは一番近い。
「ここなら大丈夫」
彼女は笑顔でそう言うと錆び付いたトタンの壁を指さした。どうやら僕に「体当たりしろ」と言いたいようだ。僕は彼女が指したトタンをノックする。ゴンゴンゴン。僕は彼女の方を見た。
「ねえ、ここには鉄骨があるんじゃないの?」
「やっぱりばれました?いや、見た目が愚鈍な勝見さんだったら、このまま体当たりしてくれると思ったので……」
「何気に酷い事を言ったよね。僕だって危険察知能力くらいはあるんだから……」
そう言い、少し離れた所をノックすると今度は乾いた音が響いた。
「じゃあ体当たりするよ」
「少し肩に力を入れた方が痛くないですよ」
「そうなんだ」
彼女には前科があるがここは言われたとおり少し肩の二の腕に力を入れる。そして壁に体当たりをした。
バリッ、ゴンッ!
「痛!」
トタンの壁は拍子抜けする程簡単に破れた。しかし、壁の向こうにはすぐに機織り機があり勢いの殆どを残したままぶつかった。
「あははははは、やっばり上手くいった、ははははは」
彼女は機織り機にぶつかった僕の無様な姿を見て思い切り笑う。僕は正直に思った。
(こいつはとてもが付く人格者だ。今のも思い切り確信犯だよね……)
正直に言うと泣きたくなった。
「今の絶対知ってたよね?」
「うん、そっちの方が私が面白いと思ったから」
さらっとそんな事を言うので、怒りよりも清々しさを感じた。
と、ここで埃の舞った廃工場内を見渡す。僕は目を見張った。
とても綺麗だ。
そのまま残された機織り機を覆うようにして埃が舞い、錆び付いた天井にはプラネタリウムの様な穴が空きそこから入ってくる光がまるでスポットライトのようだ。思わず腰に提げているカメラを取り出しシャッターを押すが、その写真にはスポットライトの光が写らない。
「私たち生き物の見る景色と、カメラのような無機物が視る景色は違うよ」
画像の確認をした僕に、彼女はそう囁きかける。
「カメラの景色が正しい事なんて無いの。私たちが見ているこの色、この形、この質感。これが本物なの。カメラなんて人間の見ているものの半分も記録出来ないの。でも、それがいいの。私の目で見て感じ取っている、この景色が本物といえるの」
僕には今彼女の言った事が理解できない。
「カメラの景色は偽物なの?」
「違うよ。本物。だけど私たちの見ている完全の景色とは違うの」
「完全の景色?」
「あなたは私が見えている。それが本物の景色」
僕の頭は混乱している。いきなり彼女の言い出した事は訳の分からない事ばかりだ。ただ、僕は気になった。
(「あなたは私が見えている」その意味はどういう意味なんだ?)
そしてカメラのレンズを彼女に向ける。
ファインダーから見える彼女の顔は悲しそうな笑顔だった。
僕は撮影ボタンを押した。
そして僕は今撮った彼女の写真を見る。
彼女はいなかった。
まるで彼女は最初から居なかったかの様に写真からは消えている。
「それが私。私の時間は止まっているの」
「……それは……」
僕はどういう意味か聞こうと思った。しかし聞けなかった。そんなものは分かり切っている。カメラは本物を映し出す鏡。本物は彼女のいない世界だ。
「私はもう死んでいるの」
「…………」
「四年前に交通事故で、私は死んだ」
「………………」
「それからの殆どをあの公園で過ごしているの」
思えばそうだ。昨日、彼女に写真を見せたとき彼女は自分でカメラを持とうとしなかった。今日も「写真はNG」と言っていた。こういう意味だったのか……。
「もう一度公園に戻ろう」
彼女はそう言い、破られたトタンの壁から出て行った。