冬の王と春の妃
あるところに、冬を象徴するような寒い国がありました。
雪によって真っ白に染め上げられ、国中が凍りつき、その時が止まったかのような景色は幻想的でありながら、耳の痛むような無音が空恐ろしくもありました。雪と寒さの恐ろしさを知る人々はこう言います。
『この国は世界の終りなのだ』
その冬の国では恐怖が絶えず、それに伴い争いもまた、絶えぬ国でありました。人々は温もりを、実りを求め、国内でも争いが頻発していたのです。
雪に囲まれ貧しく、行き来も困難なその国は発展が遅れ、世界の中でも孤立していました。また、この極寒の大地は魔女の呪いによるものだともっぱらの噂だったので、余計に他国から敬遠されていました。今にも雪に押し潰されそうな国は、国民の心まで冷え込ませていました。
そんな中、あるとき一人の王様が新しく即位しました。
王様はその国をそのまま人の形にしたような、冷たく厳しい方でした。にこりと微笑む事も無く、温かい言葉を掛ける事もなく、思いやる心も無いような、厳正で厳格な王様でした。
冷たい王様はその厳しさで政治を取り仕切り、しかしその厳しさ故にそれはどこまでも正しいものでした。悪しき者には罰を、善き者には恩赦を。無用な争いは厳しく取り締まり、意義ある諍いの取り成しを行いました。王様の計らいにより、その国は少しだけ落ち着き、住み良い国へとなって行きました。
王様は日々国政に励み、そして国の為にお妃様を迎え入れる事となりました。王様として国の為に世継ぎを作る必要があり、他国から姫君を迎え入れる事によって、停滞していた他国との外交が再開されたのです。
他国からお輿入れしたお妃様は、未だ少女とも言えるような素直で朗らかな方でした。温かい国からやって来たお妃様は、冬の国の人々が未だ知る由もない、春の日差しのような笑顔を浮かべるのです。
王様は、お妃様を丁重に迎え入れるように指示は出しましたが、ご自身が直接お妃様を思いやるという事はありませんでした。王様が感心を向けるのは国政に関してのみであり、人々が焦がれる愛だの情だのといった事に興味など無いのです。
これは政略結婚であり、遠方からはるばる輿入れてくれたお妃様を気遣う事はあっても、愛そうとする事はありませんでした。
けれど、そんな微笑み一つ浮かべない王様に、お妃様は気を悪くした様子も無く、嬉しそうに寄り添うのです。何度か絵画で見た事のある、春の国の花のような笑顔でした。
「陛下、陛下。わたくしを愛して下さいますか?」
王様の御心など、その眉一つ動かさない冷たいお顔で察せられる事でしょう。けれど、お妃様はそれに傷付いた様子も無く、逸る気持ちそのままの笑顔を浮かべるのでした。
お妃様は、隙を見ては王様のおそばに寄り添い、幸せそうに微笑みました。
王様がそんなお妃様を拒絶しないのは、お仕事の邪魔にならないときだけにしている事と自身が大切な外交の足がかりであるから、それだけである事をお妃様はしっかりと理解していました。
けれど、お妃様はいつも晴れやかな顔で繰り返すのです。
「ねえ、陛下。わたくしを愛して下さいますか?」
王様はいつもそれに無言で、勝手に腕を組むお妃様を好きにさせるだけ。甘えるようなお妃様の言葉や仕草に、目を向ける事さえありませんでした。
それでも、そんな王様に傷付く事も無く、変わらず愛を乞い続けるのは、お妃様が王様を愛していたからでした。
お妃様は、王様が国政にしか興味が無い事を知っていました。それ以外の事には一切の関心がないのです。趣味も持たなければ、もちろん愛という形の無いものも不要でした。お妃様は、そんな王様を愛したのです。
お妃様のお父様は、誰よりも民を想う心優しい王様でした。春の日差しのように穏やかで、春の大地を満たす緑のように雄大な、とても素晴らしい王様でした。国と民を第一に考え、そして民や臣下からも心より慕われる王様でした。お妃様はそんなお父様が大好きで、他の誰よりも信頼していました。
だからこそ、お妃様はお父様と同じように他の何よりも唯一国の事だけを想う王様を、心から愛したのです。けして、その愛が自身へ向けられる事はなくとも、戯れのように愛を乞う事がお妃様の楽しみでした。
王様は、閨でも変わらず冷たい方で、戯れに愛を囁く事もありませんでした。ただ、義務のように、それを自身の責務と割り切り、お妃様と寝所を共にするのです。
そうして、二人の間にはその責務によって、御子が授かったのでした。
お妃様のお腹の中で、御子はすくすくと成長しました。
お妃様は我が身に宿る命を心から愛おしみました。慣れない気候の中で、初めて命を宿す事に不安を感じながらも、お妃様は必死にその御子を守り育みました。お腹を内側から蹴られたときは、きっと元気な王子だわ、と愛おしそうにお腹を撫でたものです。お妃様は幸福でした。その胎内には、愛する王様との御子が宿っているのです。
対して、王様の態度はやはり、御子が宿っても変わる事はありませんでした。その健康状態を心配するものの、それはけして愛ではありません。お妃様に宿る命は、この国のお世継ぎとなるべき存在です。王様には、王様としてその命を守り育てる責務がありました。王様はお妃様のお腹を愛おしげに撫でる事も無く、その健康状態を侍医に確認するばかりです。
御子は、お妃様の愛と、王様の管理を一身に受け、無事に誕生しました。
王様が守る冬の国を継ぐに相応しい、元気な王子様でした。
王子様の誕生に、冬の国は一気に祝賀の雰囲気に包まれました。
国の未来に希望を見て、民もお祭り騒ぎです。この実りなく飢えに苦しむ国で、日々絶望と諦観を繰り返すばかりであった人々が、初めて明るい笑顔を見せていました。
お城でもまた、王子様の誕生を祝うパーティーが開催されました。国中の貴族が集められ、誰もが王様と王子様、そして見事世継ぎを産んだお妃様を称えました。
王子様は多くの祝福を受けました。パーティーの参加者から、そして神殿より遣わされた神官より祝福を与えられました。誰もがこの日を、心より喜んでいました。
そこに、招かれざる客が現われたのです。皺だらけで老いたその人物は、醜く歪んだ笑みを見せる北の森の魔女でした。
人々は静まり返り、遠巻きに魔女の動向を注視しました。何しろ魔女は、この国を雪という絶望に包み込んだと言われる存在です。同時に、誰よりも世界の理を知り、万物を操るとされる恐ろしくも偉大な魔女でした。
魔女は空恐ろしい金切り声で言いました。
「おやおや、おめでたい王子の誕生パーティーに呼んでくれないとは、誰も彼も冷たいじゃないかい」
人々は、警戒して動きを止めます。下手に捕らえようとすれば、絡め取られてしまう事でしょう。配備されている兵士達も、動くに動けない状況でした。
「何か言ったらどうだい、この恩知らず共。都合のいい時ばかり『魔女様』と崇め、邪魔になったら蔑むのかい?貴様らこそ己を恥じたらどうだ」
魔女は周囲を見回して鼻で笑いました。それには、この国の人々に対する心からの侮蔑が込められていました。
「だが、私は優しい『魔女様』だからね。ちゃんと自ら王子の祝福に訪れてやったよ」
「………魔女よ、如何なるつもりだ」
醜悪な笑顔で不穏な事を口にする魔女に、王様は国の頂点に君臨する者として恐れる事なく問いかけました。
「言ったじゃないか、祝福だ。なあ、王よ。知っているかい?人はね、孤独な生き物だ。弱い生き物だ。優しく、そして残酷な生き物だよ。人は、温もりがなくては生きてなどいけないのだよ。孤独に生きるという事は、この世の何よりも忌避すべき事だ。しかし、この極寒の国は温もりに恵まれない。人の心まで、飢えと雪への恐怖で凍えてしまっているのさ。だから私が、王子には温もりだけが感じられるように祝福してやろう」
魔女は両腕を広げ、高らかに宣言しました。老婆から放たれているとは思えないような大音声で、けれど不思議とはっきりと耳に残る声でした。
「これは祝福だ、王よ!王子を孤独にさせぬと誓おう。そう、王子を真に愛し、その愛で温めてくれる存在が現われるまで、王子は眠り続ける。そうすれば、王子はけして孤独を感じる事が無い!」
魔女は、いつの間にかその手に握っていた杖を、お妃様が抱きかかえる王子様へ向けました。兵士達も、その場にいた誰もが動けませんでした。命に代えても守らなければならない王子様が危険に晒されていても、魔女の呪いなのか、誰も身動ぎすら許されませんでした。
そんな中で唯一、お妃様だけが動く事が出来ました。お妃様は腕に抱く王子様を包み込み。魔女に背を向けて王子様を隠しました。魔女の魔法は、王子様ではなく、それを庇うお妃様の背に辿り着きました。
全ては一瞬の事でした。パーティー会場は凍りついてしまったかのように全ての動きが停止し、王子様をしっかりと抱えたままお妃様がその場に倒れた事で、時は流れる事を思い出しました。
王子様をその身で挺して守ったお妃様は意識を失い、気付けば魔女はその場から消えていたのでした。
そのときより、お妃様は長い眠りにつきました。
朝も昼も夜も、一度として目覚める事はなく、眠り続けました。その頬からは血色が失われ、冷え切った冷たい身体は死体のようでありながら、確かに呼吸をしています。お妃様は、お妃様の周りだけ時が止まってしまったかのように、身動ぎ一つする事もなく眠り続けているのです。
お妃様に守られた王子様は、けして目覚めない自身の母親を不思議そうにぺたぺたと触れました。けれどやはり、魔女によって呪いを受けたお妃様は、眠り続けているのです。
魔女は言いました。『真に愛し、その愛で温めてくれる存在が現われるまで眠り続ける』と。お妃様である彼女を愛するに相応しい、唯一の存在は王様でした。王様もまた、自身の妃が眠り続ける事は国政にとっても良くないと考え、お妃様が目覚めるように尽力しました。けれど、お妃様は王様が呼び掛けても、その冷たい身体を抱きしめても、まるで物語のお姫様に対するようにキスをしても、けして目覚める事はありませんでした。
やがて、王様はお妃様を目覚めさせる事を諦め、お妃様がいなくても滞りなく国政を行えるように尽力する事を選びました。
王様はますます仕事にのめり込んでいきました。
隙を見ては寄り添ってくるお妃様も眠りについてしまったので、国政に取り組む時間をより沢山確保する事が出来ました。お世継ぎの心配も無くなり、夜も国政に励む事が出来るようになりました。
王子様はすくすくと育ちます。
王子様が自我を持ち始めた頃には、母であるお妃様はまるで人形のように眠り続ける存在でした。王様は、世継ぎとしての務めを王子様に求めていますが、息子として慈しむ事はありませんでした。王子様は両親の温もりを知らず、しかし心優しい乳母や家臣に守り育まれ、国のお世継ぎとして真っ直ぐに育っていました。
王子様は、時折思い出したようにお妃様が眠る、お妃様の為だけの寝室を覗きます。その度に呼び掛けてみるのですが、お妃様は睫毛一本震わせる事も無く、いつ見ても出来の良い人形のように精巧で無機質な存在でした。
やがて、誰もがその存在を忘れていました。お妃様はそれでも、変わらず時が止まってしまったように眠り続けるばかりでした。
時は瞠るほどの速さで巡り、気付けば幾年もの月日が流れ、王子様は十歳になりました。
その間も王様は国政に勤め、雪に囲まれてばかりの閉鎖的な国は、少しばかり活気付いて来ました。外交も復活し、他国から訪れる人も増え、他国からの物品、食料も流通するようになりました。これでもう、この実りの無い大地でも飢える事はなくまります。また、冬の国独自の文化を他国に売り込む事で国庫も潤い、万一に対する備えを作る事も出来ました。
住み良い国にするにはまだまだ課題も多く残りますが、王様のお陰で国は希望と明るさを手に入れました。今ではもう、誰も悲嘆に暮れる事は無いのです。
王子様はお世継ぎとしてどこに出しても恥ずかしくない、立派な少年へと成長しました。聡明であり理解力に長け、剣の才能にも恵まれ、何より努力家でした。その未だ小さな身体で、己の成すべき事と真っ直ぐに向き合っているのです。また、深い思いやりを持ち、厳しい寒さに耐えて戦う冬の国を、深く愛しておりました。
まだまだ幼い少年ではありますが、王子様は次代を担うに相応しい存在であると、王様も王子様を心から認めています。王子様もまた、父親として慕うにはあまりに遠い存在でありましたが、自身の目指す王として、王様に心からの敬意を払っておりました。
冬の国は今、最も輝けるときを迎えたのです。
それから更に二年ほど経ったときの事です。
誰よりも国の為を想い、誰よりも国の為に働いて来た王様が、それまでの無理が祟るように倒れてしまいました。侍医は、重い病ではないが王様には休息が必要である、と診断を下しました。
働き続けてきた王様は当然その診断に反発しようとしましたが、ここまで国を立てなおした偉大な王にもしもの事があっては敵わない、と家臣に懇願されてようやくその診断を受け入れました。
けれど、これまで休みなく働いていた王様は、休息の取り方が分からないのです。何とか一日目こそ寝台の上に横たわっていたものの、二日目にはもう仕事がしたくて堪らなくなってしまいました。王様は仕事こそが生き甲斐だったのです。
暇を持て余す王様は、ふと昔の事を思い出しました。あるときから妙に身体が疲れやすくなっていたような気がするのです。それから目を逸らし続けて幾年も経ち、今回そのツケが回って来たのだと感じました。
では、何故急に身体が疲れやすくなってしまったのでしょう?それまでとは何が変わってしまったのでしょう?王様は暇を持て余していた為に、初めてそんな事を考えました。
そう、あの頃は何だか適度に休憩を取っていた気がするのです。けれど、王様は休憩など嫌いです。そんな暇があるならば国政に取り組みたい、と考える方です。
繰り返し、繰り返し疑問符を浮かべ、王様はようやく気付きました。
「そうか、余には妃がいたのだな」
当時、仕事に一段落つく度、お妃様が王様に寄り添う為に強制的に休息を取らされていたのです。
王様は、あの忌むべき日から十二年が経ち、ようやく己の妃の存在を思い出したのでした。
暇を持て余した王様は、十二年ぶりにお妃様が眠り続ける部屋に向かいました。
眠り続けるお妃様の侍女達は目を剥き、王様はその侍女達のやつれた様子に瞠目しました。侍女達は、誰もがお妃様を忘れる中、ひた向きにお妃様のお世話をし続けていたのです。
「今更、如何ようなお気持ちでいらっしゃるのですか」
一人の侍女が、敵意を剥き出しにして王様に声を掛けました。周りの制止も聞かないその行動は、とんでもない不敬な行いでした。その場で首を跳ねられたとしても、誰もが納得する事でしょう。
けれど、国政にしか興味の無い王様にとって、噛みつくような侍女も対して問題ではありませんでした。冷たい目で見返せば、年長の侍女が先程の者を下がらせ、王様に深々と頭を下げます。
「陛下のお越しをお妃様の侍女一同、心よりお待ち申し上げておりました。どうか、どうか一目お妃様にお会いしてくださいまし」
侍女達は、一斉に王様に向かって頭を垂れました。
王様はそんな様子に特別心を動かされる事も無く、皆を下がらせました。そして、王様は十二年ぶりに自らの妃との再会を果たすのです。
お妃様は眠りについた当時と変わらない、若く美しい姿のままでした。ただし、顔つきはほっそりと引き締まり、最後にその寝顔を見たときよりも幾分大人びた容姿となっていました。侍女達が毎日気を使っていたのでしょう。髪も爪も、どこも昔の美しいままでした。
王様は久しぶりに見たお妃様に、何とも言えない感慨を覚えました。気の遠くなるような、頭の奥がぼうとするような、何かが鈍くなってしまうような感覚でした。胸の奥にある違和感に、こそばゆさを覚えたのです。
王様は、気紛れのようにお妃様の頬に触れました。まるで死体のように冷たい体温で、けれど記憶の通り柔らかく華奢なままのその姿に、胸の奥の違和感はより大きくなりました。
その日以来、王様はお仕事に復帰してからもお妃様の寝所を訪れる日が増えました。
ひと月に一回だったのが三週間に一回になり、二週間に一回だったのが十日に一回になり、一週間に一回だったのが三日に一回になりました。そして、王様はとうとう毎日お妃様の寝所に足を運ぶようになりました。
何をする訳でもありません。声を掛ける訳でも、目が覚めるように尽力する訳でもありません。ただその寝顔を見詰め、気紛れに頬に手を伸ばすのです。
けれど、やはりお妃様は人形のようにぴくりとも動く事はありませんでした。時が止まってしまったかのように美しい姿のまま、寝台に横たわっているのです。
王様は、それでもお妃様の元へ通い続け、その胸の違和感もまた、変わらず王様へ何かを訴え続けるのでした。
その内、冬の国でも特に寒さの厳しい時期が訪れました。
その国で生まれ育った王様でさえ、寒さに震える時期でした。王様は温かい格好で暖を取りながら仕事に取り組みます。窓の外では一層雪が深々と降り積もっておりました。
王様は、いつものように仕事に取り組みながら、ふとお妃様の事を思い出します。眠り続けるお妃様の寝台はいつも温かく整えられていましたが、今回のこの寒さではそれでもまだ足りないだろう、と気付いたのです。
王様は、いつものようにお妃様の寝所を訪ね、その旨を侍女に伝えました。王様は、更に温かい毛布を用意させるつもりでした。しかし、侍女は首を横に振ります。
「陛下のご配慮、お妃様はさぞお喜びでしょう。けれど、それは不要なのです。お妃様の冷たいお身体は、如何様にも温まらないのです」
王様は、侍女の言葉に納得出来ませんでした。この寒さ厳しい冬の国で、暖はいくら取っても取り過ぎるという事はありません。王様は訝しみながら寝台に眠るお妃様のそばに近づきました。そして、侍女の言葉を確かめるように、王様は初めてお妃様の手を取り、その両手で包んで温めたのです。
けれど、待てども待てでもその手が温もる事はありませんでした。むしろ、王様の体温がどんどん奪われていくのです。王様はその事に、とうとう胸の内の違和感が大きくなってしまいました。
こんなはずでは無かったのです。春の国から現われたお妃様は、いつもその笑顔に相応しい温もりで、どのような寒い日も王様を温めていました。それを意識した事など一度も無く、興味も関心もなかった王様は、その事実に全く気付いていませんでした。王様はこのとき初めて、お妃様の温もりを知ったのです。
『陛下、愛して下さいますか?』
お妃様の愛を乞う言葉が、まるで昨日の事のように王様の中で蘇ります。いつだって愛を乞うていたお妃様に、王様が答えた事は一度としてありませんでした。
「妃よ、余はおまえを愛していたのだろうか」
胸の違和感は痛みへと変わり、王様の心臓を引き裂くように爪を立てました。王様はようやく、十二年前のあの日、掛け替えのないものを失った事を知ったのでした。
王様はその日から、お妃様の寝所に入り浸るようになりました。
眠り続けるお妃様をその両手で抱きしめて、お互いに温め合おうとしました。しかし、冷え切ったお妃様が温もりを生む事はなく、王様は凍えながらお妃様を抱きしめていました。
王様は次第にやつれていきましたが、そのような中でもお仕事だけは変わらず完璧にこなしていました。もしもここでお仕事まで投げ出してお妃様に掛かりきりになってしまったなら、何の為にお妃様を忘れてまでこの国を立て直したというのでしょう。それこそ、お妃様に合わせる顔が無くなってしまいます。
王様は、お妃様に多くを語り掛けるようになりました。
「妃よ、今日は久しぶりに太陽が顔を出した」
「妃よ、南国より珍しい果物が届いたらしい」
「妃よ、王子は今日も立派に勉学に励んでおる」
「妃よ、先日は妃の叔父上が訪れていた」
「妃よ――――――」
やがて王様は口を噤みます。お妃様はけして、そのどれにも答える事はありませんでした。
そして、お妃様が眠りについて、十三年の月日が流れました。
王様はその日も変わらずお妃様をその胸に抱いて、取りとめの無い話を語りかけました。けれど、やはりお妃様がそれに応える事は無いのです。
王様は、お妃様が目覚める為に、再びありとあらゆる方法を試しました。しかし、お妃様は眠りについたまま。森の魔女を捜索させても、その足掛かりすら見付かる事はありませんでした。
王様は、ありとあらゆる方法を探し、試みても変わらない現状にもどかしい想いを抱えていました。様々な方法を模索する中で、十三年前に失敗した事をもう一度試してみようと思いました。かつて失敗したからと候補にも上げていませんでしたが、あの頃とは王様の御心も違います。
『真に愛し、その愛で温めてくれる存在が現われるまで眠り続ける』
魔女のその言葉が真実であるならば、今ならお妃様を目覚めさせる事が出来るのではないかと考えたのです。
王様は、逸る気持ちを抑えながら、お妃様に口付けを落としました。恐れるように震える唇を重ね、そして静かに離れます。
「…………っ何故!」
けれど、お妃様は目覚めません。その瞼を震わせる事さえ無く、変わらず眠り続けていました。
王様は、国王として冷静である事を己に課し続けて来ました。加えて、国政にしか興味の無い王様が心揺られる事などありませんでした。その王様が、王としての威厳も、恥も外聞もかなぐり捨てて慟哭をあげました。
これが罰か、と王様は嘆きます。あるいはこれこそが魔女の呪いだったのか。王様は胸の痛みに耐えきれず、自らの爪でその胸を引き裂いてしまいたい想いでした。王様は知らなかったのです。人はこれを孤独と呼ぶのだと。なるほどそれは、死するに値する恐怖でした。
「すまない、妃よ。余はおまえにもこのような想いをさせていたのだろうか。どうしておまえが愛を乞うたあのとき、目を合わせて向きあう事が出来なかったのか」
愛を知り、同時に孤独を知った王様は、今にも壊れてしまいそうな華奢なお妃様の身体を抱きしめ、過去の己を悔い改めました。愛と孤独を知った王様は、初めてその両の目から涙を溢れさせます。燃えるように熱い雫を拭ってくれる存在がいない事が、王様にまた孤独を教えるのです。
王様の頬を伝った涙は、お妃様の顔に降り注ぎました。小さな雫がぱたぱたとお妃様の額や頬に落ち、やがてその内の一つがお妃様の瞼に落ちました。お妃様の瞼の上で涙は流れ、睫毛で引っかかり、その隙間を埋めるように滲みました。
「………ぃ、か」
降り積もる雪のように、ささやかな声が王様の嘆きを遮りました。王様は聞き覚えのある声に何が起こったのかと周囲を見渡し、自分の腕の中の温もりに目を向けました。そう、気付けばお妃様の身体に温もりが生まれていたのです。
「妃、か?」
伏せられていた瞼が、一度怯えるように震え、長い睫毛を押し上げるようにゆっくりと開かれていきました。その瞼の下から、春の日差しのように温かい眼差しが姿を現したのです。
「まあ。陛、下、愛して…くださいましたのね」
目を覚ましたお妃様は、十三年前と変わらない様子で、王様に明るい笑顔を向けました。王様は信じられないとでも言うようにお妃様の顔を何度も見直しましたが、その幸せそうな微笑みも、腕の中で芽生えた温もりも、全て記憶の中にあるものと同じものでした。
王様は、堪らなくなって強く強くお妃様を抱きしめました。優しく優しくその名を呼びました。お妃様はそれに応えるように王様の事を呼びます。王様は、叫ぶように訴えました。
「愛している」
こうして、王様はただ一人きりのお妃様を、その腕に取り戻したのでした。
王様の愛した国は、その後更なる発展を遂げ、笑顔の溢れる国となりました。
もう、寒さに怯える事も、飢えに恐れる事も無いのです。何故なら人々は希望を目指す心と、それを信じる強さを手に入れたからです。それらは全て、王様が他の何よりも国の事を想い、民の為に尽くした結果でした。
立派に成長した王子様がその跡を継ぎ、王様に見守られ、時に迷いながらも国を良き方へ導いて行きました。王子様もまた、その国を愛しているのです。
王様は国政から引退しても、城下を眺めては愛おしげに微笑んでいました。そして、その隣ではいつでも、王様のお妃様が幸福そうに寄り添っていたといいます。
これは、国を愛した王様と、そんな王様を愛したお妃様の、少しだけ不器用な愛の軌跡。
めでたし、めでたし
読んでいただきありがとうございました。
クリスマス短編の代わりにこんなの浮かんで急ピッチで書きあげたけれど、ギリギリ間に合いませんでした。
久々に童話を書いて、久々に充足感を得られた気がします。
取りあえず、王様が酷過ぎて引かれないか心配です。