猫になった日
あたしはミケが嫌いだ。
自分の飼い猫のミケが嫌いだ。
それは特に理由なんかなくて、あたしの生まれる5年も前からうちにいるこの猫と、本当になんでかは分からないけど相性が悪いのである。
ミケは可愛げというものが微塵もない猫だった。いつもツンとすました風で、歩く時もどこかの女社長かのようにツカツカと歩き、外でノラ猫と喧嘩をしてケガをして帰った時も、絶対に痛そうな顔は見せなかった。
3歳の頃、あたしは高熱を出して寝込んだことがあった。原因はインフルエンザで、まだ小さかったあたしは命に別状はないと言っても、体にかなり負担がかかり、苦しかった。
そんな時、あたしが布団で横になっていると、ミケがなんとなく心配そうな顔で近づいてきた。そんなミケを見たのは初めてだったので、このプライドの高い猫もさすがに心配か、と思ってなんだかそんな彼女が可愛く思えた。
ところが。ところが、である。
ミケはあたしの枕元までやってくると、なにを思ったのかとつぜん嘔吐をぶちまけてきたのである。
ミケの嘔吐物はあたしの顔にモロにかかり、何が起こったか即座に理解できてないあたしを残したまま、彼女はやはりツカツカとどこかへ歩いていった。
汚く臭い匂いのついた顔を洗面所で洗いながら、あたしはミケを呪った。猫を呪うというのもなんだか情けない話ではあるが、とにもかくにもこの事件(?)をきっかけに、あたしはこの生意気猫を好きになることは一生ないと思った。
そんなあたしとミケだったから、今日、あたし、いやあたし達に起こったこの事態、一体どう説明したらいいのかー・・
聞いてくれますか?あたしとミケの信じられない、とても不思議な一日の話をー・・・・・・
チュン、チュン、チチチチ・・
雀の声で目を覚まし、その長い1日は幕を開けた。
(もう朝か〜・・学校行くのめんどくさいな〜・・でも起きなきゃ・・)大抵の人間がそうであるように、学校や仕事のある日の朝ほど辛いものはない。特にあたしは寝起きが悪く、その日もまだ残っている強烈な眠気と闘いながら、重い瞼を開いた。
「異変」に気付いたのは、その時だった。
(・・・ここ、あたしの部屋じゃない。)それになんか目線の高さが違う。なんで?なに?これ?
昨日、寝るまでの行動をゆっくり、正確に思い出してみる。
えっと昨日は8時にお風呂に入って、その後友達と電話して、マンガ読んで、ベッドに入ったのは11時ごろだったはずだ。特に変なところはない。
そこまで考えて、冷静に周りを見渡してやっと分かった。
「・・ここ、ミケの寝てる場所だ。」
風通しのいい縁側、猫の好きな狭い空間。なんとなくだけど、嫌な予感が頭をよぎった。そしておそらくそれは当たっている。つまり、あたしとミケが・・
いてもたってもいられなくなって、2階の自分の部屋へと走った。ついさっきまでの眠気は、もうどこにも残っていなかった。
2階への階段を上る途中で気付いた。そういえば、あたし、4つ足で歩いている。それに階段を見上げるような高さで歩いている。信じたくないけど、やっぱり・・
部屋のドアは開いていた。息を切らせながら中を覗く。
そこにいたのは、あたし。お気に入りのチェックのパジャマ着て、髪なんかボサボサで。そしてさっきのあたしみたいに不思議そうな顔で周りを見渡してて。
予感が現実に変わった。とても信じられないけど。ファンタジーは嫌いじゃないけど。
あたしとミケは、入れ替わってしまったんだ。
猫になったあたしと、あたしになったミケは、部屋の扉ごしにしばらく見つめあった。あたしは大体の状況を理解できたけど、いくら人間になったとはいえ思考回路は猫のままのミケにそれができているかはわからなかった。
とにかく何か話しかけてみる。
「ニャ〜オ」
(はっ?)一瞬、思考がショートした。ミケ、と言いたかったのにあたしの口から出てきたのはそんな猫なで声で。そして気付いた。
あたしは猫。猫が人間の言葉を喋れるわけがない。それは同時に自分の考えを誰にも伝えられないことを意味している。
体がぞくっときた。何で入れ替わったのかもよく分からないのに、もしずっとこのままだったらー・・
「さつきー、遅刻するわよー!早く降りてきなさい!」
その時、あたしの名前を呼ぶお母さんの声が聞こえてきて、あたしはなんとか現実に戻された。遅刻、という言葉であたしには学校があったことを思い出す。
学校・・?入れ替わってしまったのに?つまり、あたしの姿をしたミケが学校に・・?
急いで部屋の中に目をやる。そしてあたしは絶句した。
なんと4つばいになりながら、ミケはあたしの姿のままクッションをボロボロに引き裂いているではないか。あれは、すごくお気に入りで、何ヶ月もお小遣いをためて買ったクッションだ。
それなのにミケは別段悪い風にも見せていない。
「さつき、遅刻するって・・きゃっ!何してるの!!」なかなかあたしが降りてこないので、様子を身に来たお母さんが、部屋の入り口に来るなり悲鳴をあげた。
あたしの姿のミケはそれでもクッションを裂き続けていて、辺りには綿くずが所狭しと散らばっていた。
お母さんは青ざめながら、ただそんなミケを呆然と見ている。
あたしは何か伝えたくて、「お母さん」と言ってみたけど、さっきよりもかすれた「ニャ〜ゴ」と言う声が、喉を通って出てくるだけだった。
結局その日、お母さんは学校に欠席の電話を入れた。あたしとしても、学校でミケがこれ以上変なことをするのが怖かったので、その選択はとても正しい気がした。
あたしの姿になったミケは、まだ一言も喋っていなかった。それにさっきの行動も加わって、お母さんはあたしの気が変になったと思ったらしい。
「また何かしたら、すぐ病院に連れていきますからね!」目を三角にしてそう言うお母さんにはお構いなしに、ミケは疲れたのか眠りにつこうとしていた。もちろんあたしのベッドで。
眠ってる間は何も起こらないにしろ、あたしはミケが次に目を覚ました時、どうなるか不安でたまらなかった。だいたい科学が発達した21世紀の現代で、こんな理解不能なことが起こっていいんだろうか。ドラマや映画じゃあるまいし。
いや待てよ、ドラマや映画でこんな事が起きる時って、絶対最後はもとに戻ってた気がする。いや、戻ってくれないと困る。
あたしとミケだってそうなるはずだ。そう考えると、あたしの気持ちは少しずつ落ち着いてきた。
よし、こうなったら猫のミケとしての一日、思う存分楽しんでやろうじゃないか。こんな体験できる人間なんて、そうそういないんだし。
こうしてあたしの「猫になった日」はスタートしたのだった・・
3歳の時の嘔吐事件(口に出すのも嫌だけど)以来、あたしは必要以上にミケに関わるのをやめていたので、彼女が一日をどう過ごしているかんて、全く考えたこともなかった。そういえば、猫って一日何をして過ごしているんだろう。
その疑問は、ぐるぐると頭の中を駆け巡り、人間より幾分脳みその小さくなったあたしを悩ませた。
考えても考えても答えは出ず、そのうちあたしは自分のお腹がすいていることに気が付いた。
(何か食べたい)足が自然と台所に向かう。中に入ると、お母さんが朝食に使った食器を洗っていた。水の流れるザーザーという音がやけに大きく響く。それに、最近やっとお母さんの身長を追い越したはずなのに、猫になった今はお母さんが、人間が、とても大きく見える。
ミケは毎日、どんな思いであたし達を見ていたんだろう?
またぼんやりしかけた時、あたしに気付いたお母さんが、発砲スチロールのトレーにのせた餌を持ってきた。「ミケ、お腹すいたでしょ。ほらご飯だよ。」
(げげっ、これは・・)当たり前のことだけど、そこにはスナック状のキャットフードが乗っていた。このキャットフードは、ミケのお気に入りで、絶対にこのメーカーのしか食べないのだ。
でも入れ替わったって、あたしは本当の猫じゃない。あたしが食べたいのはトーストとかハムエッグとか普通の人間の食事だ。
トレーを置いたお母さんはあたしをじっと見ている。あたしが餌を食べるのを待っているのだ。
ーーーーーー絶体絶命。えーい、もうどうにでもなれ!
必死の思いで、スナックを掻きこむ。味が分からないように、噛まないで飲み込もうと思っていたのに、勢いよく口に入れたせいで、何粒かのスナックが舌の上に残った。
(ん・・?)これ、なんていうんだろう。思っていたよりマシだ。っていうか・・
・・・おいしい。
ミケの体になったあたしは、どうやら味覚まで猫と同じになったらしくて、それから数分もたたないうちに、あたしはトレーの餌を完食した。
他のメーカーの餌は食べないミケの気持ちが、少し分かった気がした。
朝食を終えたあたしが次に選んだ行動は散歩、だった。猫の散歩。
2階で眠っているミケのことが気にならないでもなかったけど、猫になって数時間、あたしはなんだかいつもよりポジティブになっていた。
あるいは、開き直ったとでもいうべきかもしれない。
さて、散歩をするといってもどこに行ったらいいのか。例によって、あたしはミケに関心がなかったので、そのルートも分からない。分かってることと言えば、学校帰り、うちの庭をうろうろしているミケを見たことがある程度だ。
そうだ、とりあえず庭に出てみよう。
すっかり古くなった網戸の破れたところから外に出る。庭に一歩踏み出して、あたしは思わず驚いた。
カーネーション、ハーブ、バラにフキノトウ。全部お母さんが大事に育てている植物達。あたしはそれを見上げるかっこうになっていた。
見慣れているはずの景色なのに、なんだか圧倒される。猫の目線。圧倒されるのは、おそらくそのせいだ。
あたしはその時初めて、猫と人間では見えている世界が根本からまるっきり違うことに気がついた。
なんか今のあたしには、この庭がジャングルみたいに見える。
足元がくらみそうになって、あたしは慌てて体勢を立て直した。
その時。
(!)視、線。
背中に強い視線を感じる。
反射的に振り向くと、どこから入ったのか一匹のシャム猫がものすごい瞳であたしを睨んでいた。
(な、何・・?)それは相手が猫だということも忘れるくらい冷たい瞳で、あたしは震えながら1歩後ずさりした。
「・・返してよ」シャム猫の口がそう動いた。瞳はあたしを捕らえたまま離さない。
猫が喋った・・?いや違う、今はあたしも猫だから、猫の言葉が分かるんだ。なんとなくそう解釈した。ならば。
「返すって何を・・?」シャム猫の言葉に、今度はあたしなりの「猫語」でそう答える。返すものがゲームとか漫画とかそんなものじゃないことぐらいあたしにも分かるけど。なんて呑気にいってられる状況ではない。
「とぼけないでよ・・」シャム猫は言いながらじりじりあたしの方に近づいてきた。なんか火に油を注いでしまったっぽい。
あたしの心の中で危険信号が点滅する。猫が一歩一歩近づいてくるたびに、あたしの心臓は時限爆弾のようにドクドク波を打った。
(逃げなきゃ)そう思ったと同時に、あたしは家の外に通じる道に走り出していた。
走りながらおそるおそる後ろを振り返ると、やはりシャム猫はあたしを追いかけてきていた。
いったいあの猫はミケとどういう関係なんだろう。そしてなんで恨まれなくちゃいけないんだろう。
道順なんて分からないまま、あたしはめちゃくちゃに走った。必死だった。
走りながら駆け抜けていく景色の中で、ときどき木々や立ち並ぶ家が目に入るのが、唯一「自分」を確認する方法だった。
どれくらいの時が過ぎただろうか。あたしの体力はそろそろ限界に差し掛かっていた。もう一度振りかえってみると、シャム猫の方は特に疲れた様子もない。
これも本物の猫と、「作られた」猫の差だろうか。そんな考えが頭の中をよぎった時だった。
逃げるために走っていたのに、気がつくとあたしは路地裏の行き止まりに差し掛かっていた。ちゃんと考えないで走ったせいだ。
行き止まりの壁の前であたしの足が止まる。止めたくて止めたんじゃない。そうするしかないのだ。
シャム猫はさっき以上に冷たい瞳で、あたしに一歩一歩近づいてくる。
ーーーーヤバイ、すごくヤバい。恐ろしさで目をキュッとつむったーその時。
「やめろ、シリィ!」
(え・・?)シャム猫の後ろからまた一匹別の猫が現れた。シリィというのはどうやらシャム猫の名前らしい。いや、今はそんなことよりも。
「なんで?なんでこの子をかばうのよ!?アシュカ!」今度はシャム猫ーシリィが喋った。
「あたしが誰よりもあなたを好きなことー・・ちゃんと知ってるでしょ?それなのに・・」シリィはそこまで言って一度口をつぐんだ。アシュカという名前の猫がそれに答える。
「シリィ、君の気持ちはとても嬉しい。決して君のことは嫌いじゃない。でも、僕が一番好きなのはミケなんだ。分かって欲しい。」・・・なんか、猫の会話というより安っぽい昼のメルドラマって感じだ。アシュカは更に続ける。
「ミケにはなんの罪もない、全部僕が勝手に選んだことだ。・・・分かって欲しい。」アシュカが一言ずつ喋るたびに、シリィの表情は少しずつ普通の猫らしい顔に戻っていった。そしていつしかさっきとは間逆の切ない泣きそうな表情を浮かべる。
「どうしても・・その子が好きなのね。」シリィは確認するような声色でアシュカに問いかけた。少し間を含んで・・アシュカが言った。
「ああ。」
シリィはその言葉を聞いて、少しの間じっとあたしとアシュカを見つめていたけど、やがて諦めたようにきびすを返してゆっくりと立ち去っていった。アシュカの言葉に対する返答はなかった。
(助かった・・)シリィの姿が見えなくなったのが分かると、あたしの体の力が一気に抜けた。なんか人間の自分として学校行ってる時より、すごく疲れた気がする。
「大丈夫かい?ミケ」アシュカの声がしてあたしは我に返る。
「シリィも本当は悪い子じゃないんだ、許してやってほしい。」「はあ・・」
いまいち今の状況が分からないあたしは、そんな間の抜けた返事しかできなかった。落ち着けあたし。つまりさっきのやりとりをもとに推測すると。
シリィはこのアシュカって猫のことが好きで。でもアシュカはあたし、いやミケのことが好きなんだ。つまりこれは、人間でいうところの三角関係ってやつじゃないか。
どうしてなかなかミケも結構やるじゃん。なんて思っていると、アシュカが急に真顔になってあたしの顔のすぐ前まで近づいてきた。
「今日は君の気持ちが聞きたい。」「え?」思わず声が裏返る。ちょっと待ってください。あたしはミケじゃないってば。
「僕のこと・・どう思ってる?」どう思うもこうもない。それに自慢じゃないけど14年間生きてきて、こんなシチュエーション・・つまり誰かに告白されるなんて初めてのことだ。
なんかドキドキしてきた。どうしたあたし。相手は猫だぞ。
こんな時、どう言えばいいんだろう。アシュカはあたしの顔から目線をはずさない。えーとえーとえーと・・
「・・ごめんなさい!」
気がつくとあたしは逃げるようにしてそこから走り出していた。
途中で、「ミケ!」というアシュカの声が聞こえるのが分かったけど、あたしはそれを振り切って走った。
(ごめんなさい)だって・・・だって分からないから。ミケにとってアシュカという猫はどんな存在なのか。友達?恋人?それともただの知り合い?
今、ここであたしが無責任な返事をしたらミケに失礼な気がする。元に戻れた時、無責任な返事をしたらミケに迷惑だから。
アシュカは追いかけてこなかった。ホッとした反面、少し悲しい気持ちの自分がいるのに気付いて、あたしは走らせていた4つ足の速度を少しずつ緩めた。時刻はもう昼になっていた。
昼になったと分かったのは、いつの間にか公園にたどり着いていて、そこの時計台が12時30分をさしていたからだ。
来たことのない公園だった。辺りにはそれなりにブランコとかジャングルジムとかがあって、保育園の子達だろうか。何人かの子供が遊んでいた。
学校に行っていれば、あたしもそろそろお弁当の時間だ。でも不思議なことに、あたしは今、特に空腹を覚えなかった。そういえば昔、なにかの本で、猫の食事は一日2回が普通だと書いてあるのを見た気がする。
こんな時にそんな知識が役立つ(?)のもなんかちょっと面白いけど。なんて。
「あーっ、猫ちゃんだあ!」
突然そんな声がして、考え事をしていたあたしは思わずひっくり返りそうになった。
あたしの周りには、さっきまで遊んでいた子供達が集まってきていて、猫ちゃんだ、猫ちゃんだ、と繰り返す声が360度から聞こえた。
あたしは子供が苦手とかそういうんじゃないけど、取り囲まれているせいだろうか、なんかこの状況に恐怖を感じた。
子供達は最終的に15人くらい集まってきて、あたしの体を触ったり、しゃがみこんで顔をじっと覗いたりしていた。
そんなふうなのがしばらく続いていたけど、5分ぐらい経ったころ、遠くから保育園の先生の「そろそろ帰りますよー」の声がして、子供達はぽつぽつ離れていった。
子供が誰もいなくなって、1人になって、そしてあたしは体中にとてつもない疲労感を覚えた。
午前中のシリィとアシュカの件もあったし、でもそれにしたって猫がこんなにも大変な生活をしているなんてあたしは思ってもみなかった。
とにかくちょっと休もう、と思った。いつ元に戻れるかとか問題は山積みだけど、考えるのは休んでからにしよう。
あたしは重くなった腰を動かすと、体を休める場所を探すために歩き出した。ここは結構広い公園みたいで、歩きながらも一つとして同じ景色はなかった。
10分ほど歩いて、あたしは大きなブナの木があるのを見つけた。根元のあたりが休憩するのにちょうど良さそうだ。
すぐに近寄って、体を横にする。新緑と風の匂いが心地よい。
サワサワという木々の音を聞きながら、あたしはゆっくり目を閉じた。睡魔はふんわりとやってきて、あたしを優しく確実に眠りの世界へと運んでいった。
(・・うるさい・・うるさい!)止まっていた意識が最初に叫んだのは、そんな言葉だった。
さっきと変わらないブナの木の下。目を覚ましてから、自分の状況を思い出すのに、あたしは少し時間がかかった。
今日、あたしはミケと入れ変わって。猫に告白されて。子供に囲まれて。そしてやっと眠ることができて。ーーーあれからどれくらいの時間がたったんだろう?
ちょっとだけそれが気になったけど、ふと顔をあげて目に飛び込んできた光景に、そんな考えはあっけなく吹き飛んだ。
「フーッ!フーッ!」
あたしの休んでいたブナの木から何歩ぶんかの距離ーつまりすぐ目の前で2匹の猫が取っ組み合いをしていた。うるさいと思ったのは、この猫達の声だったのだ。
2匹はお互いに一歩も容赦することなく、周りにはときおり砂埃が舞っていた。これってー・・
「喧嘩ね」
あたしの頭の中をコピーした声が後ろから聞こえて、振り向くと白い猫が1匹たたずんでいた。猫だらけだ。白猫は歩み寄りながら喋った。
「あの子達、前から何かとつっかかってたでしょ。でも今日の件で、やっぱりやると思っていたわ。」
「今日の件って?」あたしはすごく自然に尋ねていた。猫との会話にも、ようやく慣れてきたんだろうか。
「あら、知らないの?会議よ。あなた出席しなかったのね。いいわ、教えてあげる。今日、会議があって決まったの。この地区の次のリーダーは、力量の差を見せ付けたものにその称号が与えられるって。」
「力量の差?」
「そう、それであの子達は喧嘩を選んだわけね。他にもリーダーになりたいって子はたくさんいたけど、この地区であの子達にかなう猫はいないものね。」
リーダー・・「それってそんなにいいものなの?リーダーになることが。」白猫はあたしの質問を受け取ると、少し間を含んで言った。
「そうね、わたしにはよく分からないけど、そう思ってる猫達は多いんじゃないかしら。その証拠に、ほら周りをよく見てごらんなさい。」
(え・・?)
そう言われてよくよく目をこらすと、喧嘩している2匹を囲むようにして、大勢の猫達がその様子を見守って(?)いるのが分かった。ただ2匹との距離はとても離れていて、茂みや木の陰でコソコソとしているのがほとんどだった。まるで猫屋敷だ。
「あなた、この辺じゃ見かけない顔ね。新入り?」白猫があたしに尋ねる。「えーと・・まあそんな感じです・・」「ふうん」
この白猫、喋り方といい立ち振る舞いといい、かなりお嬢様猫なんじゃないだろうか。少なくともシリィやアシュカとはだいぶタイプが違う。
「じゃ、私はもう行くわ。あなたもあまり長居すると家の人が心配するわよ。」白猫はそれだけ言うと、やはりどこか気品を漂わせながらサッサッとどこかへ歩いていった。リーダーを決める喧嘩には本当に興味がないようだ。
あたしはしばらく2匹の喧嘩を見ていたけど、まるで決着がつきそうになかった。空にはそろそろ半月が顔を覗かせている。
(あたしも帰るか。)白猫の言った通り、このままここにいてもいい事なんてないかもしれない。
家路への一歩を踏み出そうとして、あたしは大変なことに気がついた。
ーーー分からない。どこを通れば家にたどり着くのかが分からない。そういえば、この公園に着いたのだって、なりゆきのようなものだったじゃないか。
(どうしよう。)あたしは進むことも戻ることもできず、その場に立ち尽くした。木々の葉をゆらす風の音がやけに大きく聞こえる。まさに絶望感という言葉がぴったりのこの状況にー・・救いは意外なところから現れた。
「あれ?ミケ何してるんだこんなところで。」(え?)聞き覚えのある声。ひょっとしてー・・
「お父さん!(ニャーゴ!)」
そこには。仕事帰りだろうか。毎日見ている顔。うちのお父さんが立っていた。すがるような思いで近づく。
「珍しいなあ、こんなところまで散歩に来るなんて。よし、一緒に帰るか。」言われなくてもそうするよ。
あたしとお父さんは、それからどこをどう通ったかは覚えていないけど、とにかく一緒に肩を並べて歩いた。歩いているうちに、だんだんとあたしも知っているいつもの景色が増えてきて、あたしはもうほとんど安心した気持ちだった。
「今日なあ、さつきが大変だったみたいなんだ。」川沿いの道に差し掛かったころ、お父さんがぽつりと呟いた。あたしは思わずぎくっとした。
「クッションをぼろぼろにして、暴れて・・お母さん、参っていたよ。」「・・・・・・」
「でもなあ、お父さん思うんだ。さつきはちょっと疲れてるだけなんじゃないかって。」(・・え?)
「なにか悩み事でもあるのかなあ。お父さんに相談してくれればいいのになあ。」
てっきり怒られると思っていたのに、お父さんの反応は予想外で、そしてそれよりも何よりも・・
「・・ありがとうお父さん・・」涙が出そうだった。
あたしのその言葉は、お父さんにはただの猫の鳴き声にしか聞こえなかったみたいで、「ん、なんだいミケ?」とだけ言った。
今のは、あたしの独り言。ーーーお父さんと二人で一緒に歩くのなんていつ以来だろう。中学に入ってからは、あたしももちろんお父さんも忙しくて、一言も言葉を交わさない日もあった気がする。
でも、それでも。お父さんはちゃんとあたしのこと、気にかけてくれてたんだ・・
大切なもの、大切な人。当たり前すぎて、さりげなすぎて。きっと気付いてなかったんだ。
あたしはその時初めて、猫になって良かったって・・この不思議なからくりに、感謝していた。
家に帰ると、お母さんがすき焼きを作っていた。あたしの大好物だ。
食卓のテーブルに置かれた鍋と、並べられた食器が目に入ると、あたしは急激にお腹がすいてきた。猫なんかじゃなかったら、今すぐにでも食べ始めてるところだ。
「ほお、今夜はすき焼きかー。さつきが食べたいって言ったのか?」椅子に腰掛けながら、お父さんが尋ねた。
「それが、あの子今日なんにも喋らないのよ。だから、すき焼き作ったんだけど・・このままじゃ心配だわ。」
そうだ、ミケ!あれからどうしたんだろう。すき焼きのことなんて気にしてる場合じゃなかった。
急いで2階へと向かう。一日過ごしてきて、この四つ足のスタイルにもいい加減慣れてきた。どうか、変なことしてませんようにと祈って、部屋を覗いた。
あたしの姿をしたミケはベッドで横になっていた。驚いたことに、ずっと眠っていたらしい。引き裂かれたクッションはお母さんが掃除したらしく、床には綿くずひとつ落ちていなかった。
一気に体の力が抜けた。あたしの心配したことは何一つとして起こっていなかった。むしろ、全てが上手く行き過ぎているくらいだ。
眠っているミケのそばに近づく。あたしっていつもこんな顔して寝てるんだ。いや、これはあたしじゃない。姿形はあたしだけど、ミケなんだ。今日一日のあたしのことなんて何も知らない無防備な寝顔。
(ねえ、ミケ。あたし今日すっごく大変だったんだから。)口には出さないで心で語りかける。
(ねえ、ミケ。あんたも毎日いろいろあるんだね。)
ミケのこと。いつもすましてて生意気で。ただそれだけだと思ってた。嫌いだった。
(ねえ、ミケ。あたし思うよ。)もしこのままでも。元に戻っても。あたし今ならきっと前よりあんたのこと好きになれるよ。
神様のいたずらか。ただの間違いだっていい。ミケを好きになれたから。
ミケの寝顔を見ているうちに、あたしはなんだか安らいできて、いつの間にかものすごく自然に眠りについていた。
遠くからはすき焼きの匂い。お母さん、ありがとう。
こうしてあたしの「猫になった日」は終わりを告げたのだった・・
チュン、チュン、チチチチ・・
いつもと同じ雀の声。それから・・
ジリリリリリ!一日ぶりに聞く目覚まし時計の音。手が自然に伸びて、スィッチを止める。
(ん・・・?)瞳をあけて気付く。ここはあたしの部屋だ。ひょっとして。ひょっとしなくても。
勉強机の向かい側の鏡に全身を映す。
「・・・戻った。」一日ぶりのー・・自分の体。
「・・戻ったーっ!」嬉しいのと、ホッとしたのと。気がつくとあたしはそう叫んでいた。
「さつき?どうしたの?」あまりにも大きな声だったみたいで、いつの間にかお母さんが部屋の入り口に立っていた。顔がぽかんとしている。
なんかそれが可笑しくて、あたしは笑った。お母さんはそんなあたしを見て、ますます不思議そうな顔になる。
「まあ、元気になったみたいだから良かったわ。早く着替えて降りてらっしゃい。朝ごはん出来てるわよ。」
お母さんはそう言って、一階へ降りていった。遠ざかる背中に向かって、あたしは「はーい!」と元気よく返事をした。
部屋にいたのはあたしだけではなかった。「ニャ〜ゴ」足元からそんな声がして。ふと覗くとミケが毛づくろいをしていた。
「そっか、昨日はここで寝たんだったね。」
猫になった日。昨日のことなのに夢みたいだ。でも、夢じゃない。あたしとミケに起こったー・・不思議な事態。
全部もとどおり。
「元に戻れて良かったねえ、ミケ。」
あたしがそう言うと、ミケは「やってられないよ」という表情で、大きく一つ、あくびをした。