ある日の夏の日
サミュエル・ロウズは森の中を歩いていた。
夏の森は濃い緑に彩られ、どこまでも美しい。
彼が今いるこの辺りの土地は山に近く、高原といっても良い場所だ。
そのお陰で森の中の空気は夏でもひんやりと心地良かった。
日差しが高くなるまでの涼しい時間にこうしてのんびりと森を散歩するのが彼の夏の日課だった。
だがそろそろ夏は終わりに近づき、森の中にも少しずつ秋の気配が漂い始めている。夏を謳う蝉達の声も少しばかり勢いを落としてきていた。
そう遠くないうちに緑の勢いはゆっくりと衰え、その代わりにあちこちで豊かな実りが見えるようになるだろう。そしてそれを受け取り冬へと備える生き物達の忙しい姿も。
サミュエルはゆるい坂の途中で一度立ち止まり、深く息を吐いた。長く伸びた彼の白い髭がゆらゆらと揺れる。
頭に被った麦藁帽子をひょいと持ち上げ、昔に比べると大分広くなった額に浮かんだ汗をハンカチで拭う。
身に着けたローブにかかった魔法のお陰で体は外の暑さをほとんど感じなかったが、それでも長く歩けば息も上がってしまう。
本人はまだ若いつもりでいるのだが、彼はどう客観的に見ても相当な老人だ。ゆっくり歩いてはいるが、近年めっきり衰えてきたその足腰に森の道は少々辛い。
それでもこうして歩き続けるからこそ、髪も髭もすっかり白くなった今でもそれなりの体力を維持できているのだ。
自分を散歩に誘ってくれる美しい森に感謝しつつ、サミュエル老はまたゆっくりと足を進めた。
サミュエルは今日はいつもと歩く道を変えて、森の中に設えられた幾つかの畑や施設を見回る予定だった。
常なら専門の管理者達が定期的に見回りをするのだが、今は皆夏休みなので居残りの人間が交代でその役割を請け負っている。
今日は老人がその代理をかって出たのだ。
たまにはそんな目的を持って森を歩くのも悪くない、と彼は思っていた。
いつもと違うところに目が行けば、また新しい発見があるものだ。
そんな事を考えながら尚もしばらく歩くと、やがて目の前の景色が少しばかり変化を見せた。斜面は少し平坦になり、小さな小川がちょろちょろと足元を走っている。それに沿って上流へと歩くと徐々に木々が開け、やがてその小川の源である泉に辿りついた。
この辺りは薬となる野草の栽培地だ。湧き水を中心とした少しばかりの土地を人の手で整地し、清い水辺でしか育たない薬草を植えている。
サミュエルはその湧き水が作り出した小さな泉で喉を潤し、傍らに整えられた薬草の群生地を見回る。
今年は冬が厳しかったせいか薬草を食べる虫が少なく、植えつけられた草達の出来は良かった。
その事に気をよくしながら辺りを見回っていると、サミュエルの視界に不意に奇妙なものが飛び込んだ。
「うん?」
彼は立ち止まって木々の間に目を凝らした。
彼のいる場所から少し先に生える棘のある木苺の木の茂み、その更に向こうにそびえる一際大きな木の根元に何か奇妙なものがある。
森に溶け込むようになっていてわかり辛いが、それは確かに彼の目を引きつけた。
サミュエルは慎重に棘の茂みを迂回すると大木に近づいた。
その奇妙なものも近づくにつれてよく見えるようになる。
大木の根元にあったもの、それは草で出来た半円のドームのようなものだった。
地面から生えた蔦や草が絡み合って一つの造形を成しているそれは、注意深く見なければ遠目からではただの潅木に見えるだろう。
大きさは老人の腰くらいの高さで、あまり大きくはない。
数種類の草が絡み合ったそれは、こうして近づくとどう見ても自然に出来たものではないことが良くわかる。
魔法の産物かと考えながら、老人はその周りをぐるりと一周した。
幼い子供なら屈めば入れる程度の大きさのそのドームには見えにくい位置に小さな穴が開いており、老人はしゃがみこんでその穴を覗き込んだ。
「……野営の道具、かの?」
ドームの中は空洞で、中に何かがいると言う訳ではないようだった。
地面に穴が開いていて、そこで焚き火をした痕跡が見える。
その周りには果物でも入っているらしい袋や小さな手鍋が置いてあった。
「隠しておるのか。ふむ」
サミュエルは頷き、立ち上がると目を閉じた。
辺りに危険な動物の気配はない。
呼吸を整え、澄ませた意識を優しく吹く風に乗せて森の中に拡散させるようにして辺りの気配を探る。
近くには鳥や小さく無害な獣の気配が幾つもある。
その中に一つだけ、ほんの少し異質なものを老人は感じ取った。
彼の斜め後ろの方向、少し離れた位置に立つ木の上にごく微かだがこちらを伺う気配がする。
サミュエルはそちらの方向へ向き直り、上を見上げた。
「……出ておいで。危害は加えぬよ」
返事はなかった。
けれど木の上の誰かがそれに驚き、小さく息を呑んだことにサミュエルは気がついていた。
その誰かの迷いを示すようなしばしの沈黙の後、不意にガサリと木の枝が揺れた。
背の高い木の上から、人影が飛び降りる。
着地する靴音をほとんど立てず、その人影はふわりと地面に降り立った。
サミュエルは皺に埋もれそうになっている目を軽く見開き、ついで面白そうに微笑んだ。
木の上から降り立った人物は立ち上がってサミュエルを見上げた。
それは小柄な少年のようにも見える、一人の少女だった。
痩せた体に飾り気のない動きやすい服を身につけ、その上に白いマントを羽織っただけの格好で、よく見なければ少年と間違える人間は多そうだ。
ふわふわと跳ねた短いオレンジの髪に幾つもの木の葉が絡みついている。
森の緑の瞳は何かを探るようにじっと老人を見つめていた。
「ふむ。こんにちは」
「……どうも」
サミュエルは少女の姿に小さく頷き挨拶をした。
少女も軽く頭を動かしかろうじてそれに応える。
けれどまだ警戒しているのか、少女は老人から十分に距離をとったままそれ以上近づく様子はない。
老人はそんな事は気にせず、笑みの形に彫られた深い皺をよりいっそう深くして優しく顔をほころばせた。
「こんな場所でピクニックかね?」
「……ピクニック?」
老人の言葉に少女は首を傾げた。
サミュエルはその反応に少し考え、もう一度問いかけた。
「つまり、この森に遊びにきたのかね?」
この問いに少女はまた首を傾げる。今度は少女の方が少し考え込み、それから首を横に振った。
「ここに最近住んでる。もしかして禁止されている?」
「ふむ、なるほど。いや、この辺の森なら禁止はされておらんよ。森を荒らさない限り咎められはせん。しかし、まさかここでずっと野宿しとるのかね?」
老人の問いに少女は今度は頷いた。
「この森は綺麗だから。落ち着く」
「まぁ確かに落ち着く森ではあるがの。しかし野宿とは、食料はどうしておるのかの? テントも見当たらんようじゃったが……」
心配から出た老人の言葉をよそに、少女は小さな小川の流れる先を指差した。
「もう少し向こうに行くと魚が捕れる。あとは街で買ってきた保存食と、森の物を食べてる。でも畑っぽい所には触ってない」
この森で人が育てたものには手をつけていない、と少女は主張したいらしかった。
「道具が雨に当たらないようあれを作った。雨を避ける場所も見つけてあるから平気」
そう言う事ではないのだが、とサミュエルは内心でため息を吐いた。
森のこの周辺はまだ学園の管理区域内なので、危険な動物などはほとんどいない。簡単な魔法で幾らかは追い払っているというのもあるが、森の奥の方が人の手が入らない分豊かなので、動物たちもあえて人の匂いのするところまでは下りてこないのだ。
だが全く危険がないという訳ではない。何かの拍子に迷い込んだ獣と遭遇しないとは限らない。
「普段は寮暮らしかの? 外出の許可はどうなっておるのかね?」
サミュエルは更に質問を重ねた。
アウレスーラ学園の夏の休暇は長い。生徒や教職員の大半はこの休暇の間に故郷や避暑地で夏を過ごすべく学園を出て行く。
だが帰郷組にも居残り組にもそれぞれに必要な届けや手続きがあり、学園の生徒なら当然それを知っているはずだった。少女は見たところ基礎学部生の年頃だったが、それでもそれは常識だ。
だが少女は老人のこの問いに困惑した顔を浮かべ、首を横に振った。
「寮っていうところでは暮らしていない。許可って、何の許可?」
「なら、親御さんもこの街にいるのかね?」
「いないよ」
さらりと返されたその答えに、サミュエルは首を傾げた。
この学園では基礎学部生は親と一緒に住むか、あるいは寮に入るかのどちらかが義務づけられているのだ。少女の年でそのどちらでもないということを学園は許可したりしないはずだった。
「君は……もしかしてアウレスーラの生徒ではないのかね?」
こくり、と少女は確かに頷いた。
それから少女はまた少し考え、慎重に口を開いた。
「ここに入るつもりで来たけど……夏の休暇で人がいないから、手続きは出来ないんだって」
それから少女は腰につけたバッグの中を漁り、一通の封書を取り出した。
少女はその封書を手に持って、それが老人に届くぎりぎりの距離までゆっくりと近づいた。
「泊めてもらった教会で、これを持ってここに来ると良いって言われた。けど、まだ入れないって言われたからここで待ってる」
わかり辛い言い回しではあったが、少女が言いたいことを老人は理解した。それから少女が差し出した封筒を受け取り、中を確かめる。
中身はやはり紹介状だった。
東の地大陸にあるオルストという町の地教会で書かれた物らしい。
地の教会の印が押された厚手の紙には男性の名と、この紹介状を持つ子供が孤児であり、身元は地の教会が引き受ける事、本人の学ぶ意欲と入学の意思を認めここに紹介すること、などが記されていた。
「そうか、彼らの教会に寄ったのじゃな。ふむ……」
手紙には学園の事を良く知らないと思うので説明してやって欲しいと書いてあった。
老人はしばし考え、それから少女に眼をやった。
少女は相変わらず一定の距離を保ったまま、彼のほうをじっと伺っている。
「これのようにきちんとした紹介状があれば入学まで街に留まる事は許されておる。街には宿屋や泊めてくれる教会もあるし、申請すれば編入試験を受けるまで寮の予備の空き部屋に入る事もできるのじゃが……誰かに聞かなかったかね?」
「聞いたよ。街の門に近い校舎に行った時に教えてもらった」
街の門に近い校舎と言えば基礎学部の事になる。
基礎学部の職員は夏休みだからといって編入を望んできた孤児をを無碍に放り出すような真似はしなかったらしい。
「ならば何故こんなところに? 金銭的な事情なら学園の寮に行けば問題はないはずじゃが」
「ううん。お金はある。けど、街は住み慣れていないから気持ち悪い。人が多くて嫌だ」
サミュエルは長い髭を指で梳きながら小さく唸った。
困ったときに彼が良くする癖だ。
「人が多いと言うたが……今は休暇の最中だから、何時もより遥かに少ないのじゃよ?」
「あれで?」
「そうじゃ。おそらくいつもの何十分の一くらいの人間しかおらんはずじゃよ。もっと少ないかもしれん。今からそんな事では、寮に入った時大変じゃろう」
何十分の一、と言う言葉を聞いて少女は心底嫌そうに顔を歪めた。
それから慌ててブルブルと首を横に振った。
「寮になんて入らない。そのくらいなら森に住むほうがいい」
「しかしのう……親と一緒に暮らさぬ基礎学部生は寮に入る決まりなんじゃよ」
そんな、と少女は小さく呟いた。
その様子をみてサミュエルは思わず苦笑いを浮かべた。
おそらく少女はよほどの田舎から出てきたのだろう、と予想がつく。
学園には色々な地域や大陸から生徒が来るため、たまに少女のように人の多さになかなか慣れることの出来ない子供もいるのだ。
人の数より動物の方が多いような場所から来た子供は、最初はどうしても学園とその周りを囲む街の様子に戸惑うらしい。
自分もそうだった気がする、とサミュエルは何十年も昔を思い返したが、その頃はまだこの街も今ほど大きくはなかったようにも記憶している。
ともあれ目の前の少女をどうしたものかと考えていると、俯いて小さく唸っていた当の本人が困ったような顔を老人に向けた。
「それ、絶対、どうしてもだめなの?」
「ううむ……君はどう見ても九歳か十歳ほどじゃろう? 基礎学部生のうちはのう」
「基礎学部生のうちはって事は、上になれば変わるの?」
「うむ、上級学部生になればその限りではないよ。街には下宿や貸家も多いからのう。寮は安いし便利じゃが、勉学の為の静かな環境を求める者もおる。そういうものは寮の外に住んでおるよ」
その言葉に少女は少し顔を明るくした。
「なら上級学部に入るつもりだからちょうどいいや。貸家って家を丸ごと貸してくれるってことだよね? それはどこで借りれるのか教えて欲しい」
少女の言葉に今度は老人が首を捻る。
「上級学部に、とは……君は幾つかの?」
「んと、正確な年は知らないけど、数え始めてからは十歳……もう夏を過ぎたから、十一歳かな。そのくらいって言う事にしてる」
その言葉に老人はふむ、と頷いた。
少女の年齢が、彼が想定したよりはもう少し上だったらしい事にも少しばかり安堵する。けれど全ての疑問が解消した訳ではなかった。
「それならば大分飛び級することになるんじゃが、アウレスーラで飛び級するのは楽ではないよ? 編入ならまだしも、飛び級と編入を同時にとなると、随分沢山の試験を受けてもらう事になるのじゃよ」
学園の規則を全く知らないだろう少女にどう説明したら良いものか、老人は悩みながらもそう諭した。
少女は老人の言葉に頷きを返し、腰につけた鞄から今度は本を一冊取り出した。
それは上級学部生用の算術の参考書だった。
古書店で買ったらしいそれは随分とくたびれており、その表紙には表題の下に四、という数字が書かれていた。
「ここまでなら勉強したよ。他の基礎教科も、本が手に入った分は一通り。まだ足りないかな?」
少女の言葉に老人は目を見開いた。
「それを全て、理解したというのかね?」
「うん。独学だから絶対とは言えないけど、大体は。基礎学部の最後の方の教科書には一通り目を通したけど、基礎学部を卒業するくらいは問題ないと思うよ」
「ふぅむ……それならまぁ、上級学部を受ける分には構わんじゃろうとは思うが。学科はどこを受けるつもりなのかね?」
少女はその質問にしばらく考え込んだ。
その様子からサミュエルは、少女は上級学部の仕組みを知らないのかもしれないと思い至った。
「基礎学部の説明しか受けておらんのならまだわからぬかな? 上級学部は四つに大きく分かれているのじゃよ。医療、技巧、魔法、武術、とな」
「大きくその四つって言う事は、その中ではまた分かれてるの?」
「うむ。様々な学科に分かれておるよ。上級学部に進む生徒は、まず基礎学部での基本的な学習を一通り終えているかを試験される。次に大きな学科を選んで、その素質ややる気の試験じゃな。それから、その結果と、更に本人の希望を踏まえて、主として学ぶ学科を選択するのじゃよ」
「選択したらもう他のには変えられないの?」
「変えたい時はきちんとした理由と、別の学科へ移るための試験や面接が必要になるのう」
「……試験だらけなんだね」
いかにも面倒くさそうなため息とともに少女は小さく呟く。
老人は苦笑いを浮かべながら少女に頷いた。
「それが学校というものじゃよ。まぁ、何事も段階があるということじゃな」
「うん……仕方ないね。じゃあ学部は、多分魔法学部にする。何となくそこが一番確実に入れそうだし」
少女はそう言って頷くと本や書類を受け取って鞄にしまい、それから再び老人を見上げた。
「色々教えてくれてありがとう。秋になったら上級学部を訪ねることにする。じゃあ」
「あっ、これ!」
礼を告げるやあっさりと踵を返して歩き出そうとした少女に、サミュエルは慌てて手を伸ばした。
だがその手はするりとかわされ少女には届かなかった。
少女は素早い動きで老人の手を避け、その手の届かない位置に立ってから彼を振り返った。
警戒心の強い野の生き物のような動きにサミュエルは思わず感心を覚えた。
確かにこの少女ならどこででも生活できそうだと思うが、しかし教師としてはこのまま行かせる訳にもいかない。
サミュエルは武器を持っていないことを示すかのようにかわされた手を大きく広げ、そしてにこりと微笑んだ。
「そう急ぐ事はない。貸家を探したいのじゃろう? お前さんが望むなら、幾つか心当たりを案内するがの?」
日が高くなり始めた森の中を老人と少女がてくてくと歩いてゆく。
少女は相変わらず老人から少し距離をとっているが、彼を気遣ってか歩みを合わせていた。
学園の決まりごとや仕組みなどを話し合いながら二人はゆっくりと麓に向かっていた。
「じゃあお爺さんは見回りの途中だったんだ。いいの?」
「あと幾つか薬草の栽培場所を見回る予定じゃったがの、まぁ一日くらいかまわんじゃろう」
「……ありがとう」
おずおずとお礼を述べた少女に、サミュエルは優しく微笑んだ。
「なに、これも大事な仕事の一つじゃ。君はいずれここの生徒になるのじゃからな」
その言葉に少女は頷くと、森の方を振り返って指差した。
「森の中に小屋が幾つかあったのを見たけど、あそこは貸家じゃないの?」
「ん? ああ、管理小屋のことかね。あれは学園に所属する人間なら借りることはできるが、学園から随分離れているからのう。実習にも使う事があるから、普段は住むことはできんのじゃよ」
「あそこでいいのに……」
残念そうな少女の声にサミュエルは苦笑を浮かべた。
「あれらの小屋は学園の長期休暇には貸し出ししとるから、その時に借りたらどうかね? この森は避暑には丁度いいからのう」
老人の提案に少女は素直に頷き、それから彼をちらりと見た。
先ほどから少女は並んで歩くサミュエルにちらちらと横目で視線を送ってきている。
まだ警戒しているのかと最初は彼も考えていたが、その視線からは逆に段々と警戒する気配が消え、むしろ何か好意に近いものを感じさせるようになってきている。
その視線の意図するところが読めず、サミュエルは内心で首を傾げていた。
警戒心の強い少女に不安を抱かせないようにとあえて何も聞かずにいたがやはり気になる。
ここは一つ聞いておくべきかとサミュエルが考えていると、少女が不意に足を止めた。
「どうかしたかね?」
「あの……頼みがあるんだけど」
少女は自分の足元に目線を落とし、ためらうような小さな声でそう切り出した。
もじもじと自分の服のすそを両手で掴んでいる仕草が可愛らしい。
「何かね?」
「その、お爺さんの髭……」
「うん? これが何か?」
サミュエルは己の胸元に届くくらい長く伸びた白い髭を右手でそっと撫でた。
少女はおずおずと視線を上げると、その髭に熱心に見入った。
「髭に、少しだけ触らせて欲しいんだけど……だめ?」
「髭に? いや、別にかまわんよ」
老人が頷くと少女はパタパタと近寄ってきた。
その足取りからもいつの間にか警戒した様子がほとんど消えている。
「どうぞ」
腕を広げて白い髭を見せると、少女はそっと小さな右手を伸ばした。
けれどその白さに触れる寸前、少女はハッと思い直したように手を引っ込め、慌ててその小さな手を服の裾で何度も拭った。
別に汚れているようにも思えないのだが、彼女にとっては大事な事らしい。
サミュエルが黙って見守っていると、少女は自分の両手の汚れを念入りに点検し、それからまた彼の方にそっと手を伸ばした。
ふぁさ、とその手が髭に触れる。おっかなびっくりと言った様子のその触り方がくすぐったくて、サミュエルはくすくすと笑った。
けれど反対に少女の顔は恐ろしく真剣だった。
何か大切で仕方ないものに触るかのような仕草で髭を撫で、それから急に寂しそうな顔を浮かべた。
(ああ、これは……)
なんとなく、彼女がそんな顔をした理由を察してサミュエルは笑いを収めた。
少女の目はどこか遠くを見つめていた。ここではない、そして彼ではない誰かを。
老人は何も言わず、ただそれを静かに見守っていた。
「あの……ありがとう」
少女はしばらく髭を撫でてからゆっくりと手を離し、静かに礼を述べた。
サミュエルは何も聞かず、ただ微笑んだ。
二人は黙ったまま、また静かに歩き出した。
「ねぇ、お爺さんは……あとどのくらい生きるの?」
「さてのう……もうわしはそれなりに長生きの方じゃと思うがの。まぁ、健康には自信があるから、まだしばらくは頑張れるかのう」
少女の投げた奇妙な質問に老人は苦笑を浮かべ、けれどきちんと考えて真面目に答えを返した。
「そう……」
二人が歩いている間に森の木々の間が少しずつ広くなり、差し込む光も強くなりつつあった。
街が近くなってきた証拠に少女は小さくため息を吐き、老人はその様子にくすりと笑う。
サミュエルはその頭の中で、学園の端にある幾つかの古い空き家を思い浮かべた。
アウレスーラの街の貸家の大半は、学園に認可された不動産屋の管理になっている。
しかし古くからある居住区の家屋は学園の直接の管理になっているものが多い。
古い居住区にあるのだから当然古い家が多いのだが、定期的な手入れは業者に任せてあるので使用に耐えないほどではない。
多少の不便さに目を瞑れば静かな環境が手に入るので、それらは年寄りの教授などに人気がある。
加えて、学園の直接の所有物件なら夏季休暇中でもどうにか貸してやる事が出来るだろう。
少女に合うような人の少ない街外れの家を探してやらねば、とサミュエルが考えを巡らせていると、横からまた声が掛けられた。
「ねぇ、お爺さん、名前なに?」
そういえばお互いにまだ名も名乗りあっていなかったか、とその言葉で気づかされる。
少女の問いに老人はにこりと笑い、いたずらっぽく片目を瞑って見せた。
「これは名乗りもせずに失礼したのう。わしの名はサミュエル・ロウズじゃよ。サミュエル・ロウズ・アウレスーラ。それが正式な名じゃ」
「……アウレスーラ?」
「そう。わしはこの揺りかごの守り手。アウレスーラの名を継ぐ七代目……まぁ、学園長という名の、半隠居老人じゃな」
老人の言葉に少女は目を見開いてぽかんと口を開けた。
サミュエルは――学園長はそれを見ていたずらが上手くいった子供のような笑顔を見せた。
「わしが守る事になる、新しい生徒の名前を聞いても?」
その言葉に少女は驚いた顔のままどうにか頷くと小さく口を開いた。
「……アルシェレイア。アルシェレイア・グラウル」
「ほう、古代語の流れを汲む名じゃな。アルシェレイアか……美しい、良い名じゃの」
「ありがとう」
名を褒められて小さく笑顔を見せた少女に老人は優しく微笑み、節くれだった大きな手の平を差し出した。
「さて、アルシェレイア嬢。お前さんに合うお勧めの物件を見に行く前に、わしと昼食でもどうかの? こんな老人が相手で申し訳ないがの」
わざとかしこまった老人の言葉に、少女はくすくすと笑って首を縦に振った。
「喜んで」
アルシェレイアは老人の大きな手に自分の手をそっと乗せた。
サミュエルの皺だらけの木のような手は、少女の小さな手を優しく包み込む。
少しひんやりとしたその手の平の温度に微笑を浮かべ、少女は老人を見上げてそっと呟いた。
「あのね、老人の方がいいよ」
「おや、これは嬉しい事を言ってくれる。本当かね?」
「うん、好き。だから、ずっとお爺さんでいて、長生きしてね」
「ふ、ほっほっほ! いやいや、今から爺以外のものになるのは大層難しかろうて」
サミュエルは皺だらけの顔に更に皺を寄せ、優しく笑う。
アルシェレイアも、そんな彼に笑顔で答えた。
祖父と孫のように見える二人の明るい笑い声が、夏の森に優しく広がっていく。
繋いだ手のひらは、ゆっくりと同じ温度になってゆく。
老人と少女のこの奇妙な出会いを、森だけが静かに見守っていた。