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冬の贈り物2


「久しぶり、おばあちゃん」

 秋の名残の白い花を包んだ花束を、シャルは目の前の簡素な石版の前にそっと置いた。

 まだ新しい石は艶やかな光沢を保ち、鈍い日差しを優しく弾く。

 アウレスーラの街の北西の外れにあるこの場所は、文字の刻まれた石版だけがただ整然と並ぶのみで他に人影はなく、しんと静まり帰っていた。

 その静けさこそが今はありがたい。

 石板の前にしゃがみこんで彫られた文字を目で辿りながら、シャルはもうここにはいない人に思いを馳せた。

 まだ少し胸が痛むのはどうしようもない。

 けれど以前のような、この場所に来るのも辛いというような気持ちはもうなかった。

 一年を経て、ようやく足を運ぶ事の出来たこの場所で、シャルは自分の事をぽつりぽつりと報告した。


「あのね……今年は、色々あったわ。なんだか、あっという間ね……もう、一年だなんて」 

 去年の今頃をどうやって過ごしていたのかシャルは今でも良く思い出せない。

 祖母と別れてからしばらくの月日は彼女の中でまるで霞がかかったようにおぼろげで、思い出そうとしても難しいのだ。

 俺んちに来いよ、と言い出したジェイが無理矢理シャルを彼の実家に連れて行ったことはどうにか憶えている。

 ジェイの祖父母が離れにシャルの部屋を用意してくれ、何くれとなく世話を焼いてくれた事もぼんやりと。

 シャルはジェイの家の離れでただずっとソファに座って冬の休暇の日々を過ごした。


『俺んちの新年の祝いなんて、堅苦しくて最悪なんだぜ』

 ジェイは嫌そうにそう言いながら家族と共に新年を祝おうともせず、シャルの傍で昼寝をしたりしていた。

 何一つ慰めを口にせず、ずっと傍にいてくれた幼馴染の事を思う余裕ができたのも随分後の事だ。

 祖母と別れたばかりのシャルは本当に心ここにあらずという風情で、

『砂を噛むみたいにメシ食って、体が疲れ果てて夢も見ずに眠るしかなくなるくらいまで勉強してたぜ』

 と後からジェイに言われたくらいの落ち込みようだった。

 シャルがこの一年ではっきりと憶えているのは、父からの忌々しい手紙を受け取った春のある日のことからだった。


「思えば……まぁ、ある意味役に立ったのかもしれないわね、あれも」

 理不尽な手紙に燃え上がった怒りで我に返ったのだから、ありがたいとは言えないが立ち直るきっかけになったのは間違いではない。 

 それに、あの手紙は新しい出会いも運んでくれた。


「そのおかげって言うのも腹立たしいけど……新しい友達がね、出来たのよ」

『まぁ、どんな子かしら?』

 シャルがそう語ったら、きっと祖母はこう聞き返したことだろう。

 その好奇心と優しさに満ちた口調が、まるで耳に聞こえてくるように思い描ける。

「ちょっと不思議で、可愛いのよ。三つも年下なのに、頭が良くて優しいの。それでいて、なんだか目が離せなくて」

『あらあら、楽しそうねぇ。年下の子なんて珍しいわね』

 自分の胸の奥から聞こえる祖母の声に、シャルは少しだけ微笑を浮かべた。

 

「少し……おばあちゃんに似てるかもしれないわ」

 優しくて穏やかで人と付き合うのがとても好きだった祖母と、ああ見えて人嫌いのアーシャにはあまり共通点らしいものはない。

 けれど一つだけ、何かを決めた時のあの恐れや迷いのない瞳を思い出すと、二人の面影が重なる気がするのだ。

 その瞳こそが、あの風変わりな少女にシャルが惹かれる一番の理由のような気がした。

「一度決めたら動かないとことか、きっと似てるわ。柔軟なのにどこか頑固な所とか。一緒に実習に行かないって言い出した時の目なんて……」

 あの時、真っ直ぐな迷いのない少女の瞳を見てシャルが思い出したのは祖母の姿だった。

 

 

 

「旅にね、出ようと思うのよ」

 今日は気分がいい、と言って病床に身を起こした祖母――メルフィナは、傍らの椅子に座る愛しい孫娘ににこやかにそう語りかけた。

「……旅に?」

「そう。もう少し先だと思うけど……そろそろ、ね」

 顔立ちこそ穏やかでいつもの通りだが、メルフィナの顔色は良くなかった。浅い呼吸を隠すように声も小さい。そんな彼女が旅に出ると言う。

 その言葉の意味するところを悟り、シャルは思わず息を呑んだ。

 彼女は物言いたげな視線を祖母に向けたが、それ以上の言葉を見つけられなかった。

 シャルの戸惑いを含んだ瞳を見つめながら、メルフィナは優しい笑みを深くした。

「新しい旅なんて、一体どれくらいぶりかしらね? 本当に久しぶりだわ」

 ふふ、とメルフィナはまるで少女のように笑ってシャルから視線を外し、遠くを見つめた。

「あの人とね、約束したのよ。待っててくれるから、次の旅は一緒に行こうって。随分待たせたけど、ようやく約束を果たせるわ」

「おばあちゃん……」

 泣きそうに歪んだシャルの声を、メルフィナは迷いのない瞳で受け止めた。

 

「そんな顔をしないで? 貴女を残して旅立つのは気が引けるけれど……こればかりはねぇ。でも、できるだけの物は残しておきましたからね」

 メルフィナの言葉にシャルは激しく首を横に振った。

「そんなのいらないわよ! そんなものなくたっていいの! それよりも私……私、まだおばあちゃんに何も返してないのに……」

 「シャルフィーナ。もう私は、沢山貰ったわ」

 メルフィナはゆっくりと首を横に振った。その声はどこまでも優しかった。

 けれどそこからは以前のような快活さや、満ちていた気力のようなものが削げ落ちているのは隠しようがない。

 シャルはその声を聞いているだけで、思わず涙が滲みそうになる。

「可愛い孫娘が元気に成長する姿をずっと見ていられたのよ? これ以上何を望む事がありますか。こうしてここに居てくれるだけで、貴女は十分過ぎるほど私に返してくれたわ。貰いすぎて悪いくらいよ?」

 

 彼女の孫はシャルの他にも三人もいたが、どの子も祖母とは縁が薄かった。

 メルフィナがこの土地を離れなかったせいもあるが、彼女と娘の夫の折り合いがあまりよくなかったせいもある。

 シャルが生まれるまで、メルフィナは時々娘の元を訪ねていたらしいが、他の孫達との絆はあまり深まらなかったようだった。

 シャルの姉達があまり母方に似ていなかったせいもあるのだろう。

 だから尚更なのか、メルフィナは本当にシャルの事を大切に慈しんで育ててくれた。

 シャルが感謝しても仕切れないくらいに。

 

「悲しまないでシャルフィーナ。私は新しい旅に出るだけ。軽くなった体であの人と世界中を旅して、くたびれたら闇の女神の御許に還って一休みするわ。大きく巡る輪に加わって、いつかまた会いにくるわね」

 そう告げるメルフィナの声は静かだった。

 役目を果たし、精一杯生きたと胸を張れる者だけが持ちえる静けさのようにシャルには思われた。

 きっと祖母は、夜眠りにつくように旅立ってしまうつもりなのだとシャルには漠然と解ってしまった。

 それは止めようのない、来るべくして来た時なのだと。

 

「……いかないで」

 けれど、わかっていてもシャルはそう小さく呟いた。

 理解したくない、とその心が悲鳴を上げる。

 命は巡っていると信じていても、失う事が悲しいのは何故なのだろう。

 いつかまたどこかで出会ったとしても、もうそれは今ここにいる祖母ではないからなのか。

 長い年月をかけて大切に育ててもらい、今また彼女はシャルに様々な物を遺していってくれると言う。

 そんな物は何一ついらないからここにいて欲しいと、泣き喚いて駄々を捏ねたい気持ちをシャルはぐっと堪えた。

 引き止める権利も、その力も持たない事もわかっている。

 けれどそれでも人は、引き止めたいと思ってしまう。

 その恐れも迷いも抱かない真っ直ぐな瞳が、引き止める事は出来ないと告げていたとしても。

 

 小さく呟いた懇願の言葉には応えず、メルフィナは黙ってシャルの頭を優しく撫で、ただ透明な笑顔を浮かべていた。

 彼女が宣言通り旅立ったのは、それから数日後の夜明けの事だった。

 

 

 

 ぽろり、と一粒の雫が頬を転がり落ち、シャルはそっとそれを拭った。

 いつの間にかあの日の事を深く思い出してしまっていた事に気付き、その悲しみを振り払うように軽く頭を振る。

 それに囚われる事を祖母は望んでいなかったから。

 彼女が真っ直ぐに自分を見つめ返してくる、あの瞳が今でも鮮明に思い出せる。

「やっぱり……似てるわ」

 あの瞳に見つめられると何だか自分の中からも迷いが消えていくような気がするのだ。

 止められないと思わせ、諦めに似た、けれど笑顔で送り出してやりたくなるようなどこか清々しい気持ちをにさせるそんな瞳。

「私も……あんな顔、する事があるのかしらね?」

 自分の事は鏡を見てもわからないに違いないけれど、そうなら良いとシャルは少し思う。

 

「おばあちゃんに……アーシャを会わせたかったわ」

 もし祖母が今ここにいたなら、きっと彼女も会いたいと言っただろう。

『今度お友達も連れていらっしゃい。私にも紹介して欲しいわ。』

 きっとそう言って、お菓子を焼こうかしら、夕飯もご馳走しましょうね、と嬉しそうにあれこれと世話を焼いてくれたに違いない。

「今度……家に、連れて行くわ。鍵を開けて、掃除をして……おばあちゃんの残してくれた本とか、そういうのを一緒に見ようと思うのよ」

『嬉しいわ。この年になっても、新しい小さな友人が出来るのは楽しみなものなのよ?』

 幾つになっても少女のようなところを残していた祖母は、きっと喜んでくれる事だろう。

 

 鍵を掛け、鎧戸を下ろしたままのあの家にまた風を入れよう。

 ドアも窓も開けて、家中の掃除をして、暖炉に火を入れよう。

 一年前に、そうだったように。

 シャルが家を出て、まだたったの一年だった。

 もう二度とこの家に帰る勇気を持てないかもしれないと思いながら鍵を掛けたあの日から。

『勉強のしすぎは駄目よ? たまにはうんと遊んでね。でも暗くなる前には帰っていらっしゃい』

 毎日聞いていた優しい声が胸の奥で囁いた。

 シャルはその声に笑顔で応え、強く頷く。

 

「私……帰れるわ。あの家に。もう、帰れるわ」

 もう一人ではない事をシャルは知っている。

 彼女が自分に向けてくれた想いを、遺してくれたものを、真っ直ぐに受け止める事が出来たと今は思える。

 彼女の命は、大切な人達と深く深く繋がっていた。

 祖母と母が巡らせてくれた想いが、確かに自分にも宿っている事を新しい友人が伝えてくれた。

 どんな時でも、憎まれ口をききながら、あるいはただ黙って傍にいてくれた幼馴染もいる。

 普段は全く無関心なくせに、何かあった時は黙って手を差し伸べてくれる仲間もいる。

 シャルがそれを忘れない限り、自分は一人ではないとシャルはもう知っている。

 

 春になったら、家中の戸と窓を全部開けて大掃除をしよう。

 皆に手伝ってもらって、その後は皆で盛大にパーティでもしよう。

 口実は何でもいい。ただ、春を喜ぶだけでも良かった。

 

「でもその前に……今日は新年の買い物に行かなくっちゃね」

 立ち上がって上を見上げれば空は高く晴れ上がり、寒いけれど今日は絶好の買い物日和だった。

「また来るわ、おばあちゃん。行ってきます」

『いってらっしゃい』

 

 胸に響いた優しい声に背中を押されるように、シャルは街中に続く道を走り出した。

 走りながら頭の中で買い物の計画を真剣に練る。

 

 何か暖かいものを買おう。来年まで残るようなものを。

 それは次の一年への、ささやかな約束のように。

 

 微笑を浮かべた瞳には、何の恐れも迷いもない。

 真っ直ぐに、前だけを見つめてシャルは冬の街へと駆けて行った。



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