冬の贈り物
秋晴れの朝の空気は冷たい。
アーシャはハァ、と深く息を吐き出した。
吐いた息は白く濁りながら周囲にふわりと広がって、その空気の冷たさを彼女に教える。
もうそろそろ朝も終わり、昼も近い時間だと言うのに日が照っていても気温は余り上がっていないようだった。
賑やかだった大会も終わり、季節は少女が見ていない間にすっかり移り変わっていたらしい。もう今は冬の入り口だ。
紅葉もほとんど終わった森の中はシンと静かで、聞こえるのは少女が落ち葉を踏みしめる音と、高い音で歌う風の音、そして時折カサリと葉が木から落ちる音くらいだった。
冬の眠りに落ちる前の森は生き物の気配も密やかで、木々も布団をかぶって欠伸をしているような雰囲気だ。
アーシャはすっかり見通しが良くなった空を見上げてもう一度深呼吸した。冷たい空気が長く歩いた体に心地いい。冬が来る度、自分が冬眠できない生き物だという事を少女は少し残念に思う。
不意にその足元を何かが素早く通り過ぎ、アーシャは立ち止まった。
それが消えた方向へ目を向けると、葉を落とした木の上に頬をパンパンに膨らませたリスが一匹しがみついていた。
リスは己を見上げる少女をつぶらな瞳で一瞥し、そしてあっという間に少し上にあった木の洞に隠れてしまう。
冬の備えに忙しいその様に微笑みを浮かべ、邪魔にならないうちにアーシャはそっとそこを離れた。
(あんな暖かそうな洞で一冬寝てられたら幸せだろうなぁ……)
その暖かさを想像して何となく温もりが恋しくなったのか、アーシャは両手を持ち上げてはぁ、と息を吹きかけた。
手袋もしていない少女の小さな手は寒さに晒されてすっかり赤くなっていた。
彼女がいつも着ている白いマントには暑さや寒さをある程度防ぐ効果があるので、そこに隠れている部分はさほど寒くない。
その代わり、マントからはみ出がちな部分はやはり時間を置くとこうして冷たくなってしまうのだ。
(……そろそろ、新しいの仕立てないとかなぁ)
このマントを貰った頃、それは少女の全身をすっぽり覆うほどの大きさだった。
けれど今ではそれも、少し長くなっている後ろ側の裾が膝裏に届くかどうかというところ。
普通にしていればそれでも構わないが、こうして起伏のあるところを木々につかまって歩いたりしているとどうしても手足が大きくはみ出し、その分冷たい風に晒されてしまう。
それはつまり、彼女がそのくらいには育ったと言う事に他ならない。それ自体は確かに喜ばしい。
自分がちゃんと成長している証のようなそのマントの丈をアーシャは複雑な気持ちで眺めた。
これは彼女が育ての親から貰ったものの一つだ。
厚く織られた生地は丈夫で、意外なほど柔らかい。
その素材のせいなのか、いつまで経っても真っ白で、何度洗っても使い心地も変わらなかった。
これを着ていると、いつも彼が傍にいてくれるような気持ちになる。
だから手放せないのだ。
手足がはみ出しても、フードが小さくなっても。
そんな事を考えながらさらに進むと、上り坂が続いていた風景が少しずつなだらかな地形へと変わる。
アーシャは目的地が近づいた事を知り足を速めた。
枯れ草を掻き分けてなだらかな丘を行く。
やがてその視界に飛び込んできたのは、日当たりのいい緩やかな斜面に、ぽっかりと開けた小さな草地とその中心に立つ一本の木だった。
その木に目を留めた少女は思わずにっこりと微笑んだ。
それは、冬枯れた森に不似合いなほどの鮮やかな色を灯す、大きなりんごの木だった。
「ふぅ、やっと着いた」
森に入って二時間あまり歩き通しだった少女は笑顔のままその木へと駆け寄った。二時間くらいで疲れたというつもりはなかったが、それでも目的地に着いたことでほっと息を吐く。
近寄って見上げれば、その木にはまだ葉が多く残っており、葉陰からはちらほらと真っ赤な実が見え隠れしている。
「こんにちは。今年も、冬りんごを貰いに来たよ」
アーシャは木を見上げたまま、挨拶をした。
すると、その声に答えるように木の幹がほんのりと緑に光った。
本来なら人に見えないはずのその光も、アーシャの目にははっきりと映る。
木の幹からゆらりと姿を現したのは、このりんごの木に宿る一体の精霊だった。
見かけは緑色の丸い光のようで、大きさはアーシャの両手を合わせたくらいだ。
『いらっしゃい。待っていた』
精霊の声は涼やかな葉ずれの音のような印象を伴って、アーシャの胸に届いた。
周囲には少女に惹かれて集まってきた他の精霊達もいるが、この精霊はそれらよりも少しばかり大きく、向けてくる声もはっきりしている。
それだけ彼女が守るこのりんごの木が、年経た立派なものだと言う事だ。
『今年の実は甘くて美味しい。沢山なって重たくて、もう大変』
他の精霊達もちらちらと少女の周りを回りながら、口々に歓迎の言葉と、今年のりんごの出来の良さについて意見を述べる。
アーシャはその意見に首を傾げて、艶やかな赤い実を見上げた。
「今年は美味しいの? でも去年も美味しかったよ」
精霊達は楽しそうに、今年は一味違うとその耳元で囁く。
『去年くれたお礼と、夏に草むしりに来てくれたのがとても良かった』
学園の裏に広がる森の奥深くにひっそりと佇むこのりんごの木をアーシャが見つけたのは一昨年の晩秋の事だ。
森を歩いていて奥地に入り込んだ時、ここにぽつんと一本だけ立っていたこの木と出会ったのだ。
アーシャは当てもなく散策していての偶然に感謝しながら少しばかり残った赤い実を分けてもらい、木の精霊と仲良くなった。
そして去年は意図してりんごを貰いに来た。
今回でもう三度目となる遅い秋の実りだが、今年は確かに実の数が多いようだ。
街に近い果樹園の収穫はもうとっくに終わっているが、ここはそちらより寒いためこの木の実が熟すのは随分遅い。
その分時間をかけて熟した木の実は小ぶりだが甘さと酸味があってとても美味しい。
少女にとっては冬の楽しみの一つだ。
「それなら良かった。できれば今年は少し多めに貰いたかったんだ」
アーシャはそう呟きながら見上げた木の実の一つに手を伸ばした。うんと背伸びをして、手を精一杯上に伸ばす。
「……届かない」
まだ駄目か、と思わずため息が口から零れた。
「去年より背が伸びたのになぁ」
少女が残念そうに呟いた途端、木の上の方からぷち、と音がした。
「わっ、と!」
音のした方へ手を伸ばすと、その手の中に赤い木の実がぽとんと落ちてくる。
小さな精霊達がそれを見てきゃらきゃらと楽しそうに笑った。
「ありがと」
『どういたしまして』
アーシャは実を落としてくれた彼女にお礼を言うと、手にしたりんごを服の腹で軽く擦って齧り付いた。
シャク、と良い音が小さく響く。
「ん、甘い。ほんとに美味しいや」
口の中に広がった爽やかな甘みにアーシャは思わず微笑んだ。
確かにその味は去年よりもさらに良い。歩いてきた体には丁度良いお昼だ。
『自信作だよ』
精霊はそう言ってどこか誇らしげな雰囲気を滲ませた。
もしはっきりした体があるのなら、腰に手を当てて胸を張っているに違いなかった。
地に属する精霊達はこんな風にどことなく人間くさいとも言えるような個性を持っていて、アーシャには馴染み深い友だ。
彼女の家の小さな庭にも沢山の精霊達が宿っている。
彼らは他の属性の精霊と違って一つのところに長く留まる性質がある。
だからなのか、地の精霊はその宿った土地柄や対象によって性格に差があるようだった。
頑固だったり寡黙だったり、おっとりだったり気難しかったり、そうかと思えば花の周りに良くいる小さな者達のように賑やかでお喋りだったりと色々だ。
りんごの木を守る彼女(?)が一体いつからここにいるのかは知らないが、これほどはっきりした意志を示す所を見ると樹齢はかなり長いのだろう。
アーシャは前にいつからここにいるのか精霊に訪ねた事があったが、年と言う概念の薄い精霊からは答えを引き出せなかった。
少女はそんな事を考えながら、残りのりんごもしゃりしゃりと勢い良く食べてしまい、残った芯を日当たりの良さそうな少し離れた場所へ持っていってその場に埋めた。
「ごちそうさま」
礼儀正しい挨拶に精霊は小さな笑いで応える。
アーシャは口を拭うと、背負っていた荷物を下ろしてごそごそと中身を取り出した。
今日の彼女の荷物は少々いつもとは違う。
背負ってきたオレンジの鞄の上には何と、縄でまとめた藁の大きな束が二つくくられていた。
技巧学部の農業科から分けてもらったその藁は乾いていて軽いが、嵩張って背中から横に大きくはみ出しているので森の中の藪を抜けるのは大変だった。
それともう一つ、同じように鞄に入れずに上に乗せて背負ってきた大きな皮袋がある。中身が詰まったそちらは藁と違ってかなり重たかった。
アーシャは袋と藁を脇に避けると鞄を開けて中から空の皮袋を何枚か取り出す。これはりんごを入れるつもりで持ってきた袋だ。
精霊達は準備をする少女の周りを面白そうにくるくると回る。
「鋏も一応持ってきたけど……木に登らないと使えないね」
『やだやだ、鋏だなんて。怖い怖い』
精霊がちゃかすように笑う。
このりんごの木は枝も太いししっかりしているが、何せ年をとっている。
あまり負担をかけたくはない、と思いながらアーシャは少し離れた所から木を見渡した。
「下の方にはもう実は少ないね。今年は来るのちょっと遅かったかな」
人の手が入っていないためこの木は背が高い。
少女の手が届きそうな所はもう実がほとんどついていなかった。恐らく、森に住む鹿などが首を伸ばして食べたのだろう。
木々の天辺の方は鳥達の取り分で、幾つか突付かれているのが見える。
精霊はアーシャの言葉に少しむくれたような雰囲気で答えた。
『そう。来るのが遅いから、下の方のは重たくて動物にやってしまった。これ以上実を落とさないようにするの、大変だった』
「ごめん……今年は大会があって、忙しかったんだ」
それでもその中間くらいの場所には、アーシャが採っても十分すぎるくらいの実が残っていた。
この森は学園の所有する土地なので荒らされていない。
実りが豊かな森では、そこに住む生き物達も分け前には寛大だ。
加えてこんな奥地には学園の生徒も教師も、街の住人もほとんど来たりしないので少女の取り分はかなり多いと言えた。
「あの……今年も手伝って貰えるかな?」
アーシャは少し考えて、素直に精霊に協力をお願いする事にした。
周りの精霊達もそれがいいと少女に囁く。
『もちろん。君は相変わらず軽そうだけど、枝の上から手を伸ばしても、届かない実の方が多そうだもの』
言外に小さいと言われてアーシャは少し頬を膨らませた。
だが悲しいかな事実は事実なので、素直に従って腰のベルトを解き、ヒップバッグを地面に置いてだぶっとした厚手のチュニックの裾を持ち上げる。
その端を出来るだけ大きく広げて、アーシャは木の下に近づいた。
「じゃあお願い。えーと、少しずつね」
精霊はくすくすと笑い、ふわりと少女の頭上の赤い実に近づいた。
途端、ぷちりと軽い音がして赤い実が一つ、木から転がり落ちる。
「わわ、っと」
すぐに続いて一つ、二つと落ちてくるりんごを慌てて服の裾で受け止め、アーシャはそれをそっと地面に置いてまた服を広げる。
落としてもらっては受け止め、置いては落としてもらいを幾度も繰り返し、やがて地面には真っ赤な小山が幾つも出来上がった。
「もういいかな……今年はほんとに豊作だね。こんなに貰ったのに、まだいっぱい実が残ってる」
採って貰った実の数を数え、必要なだけ集まった所でアーシャは精霊にお礼を告げた。
持ってきた空の皮袋に実を小分けにして入れていく。
小山になった赤い実はつやつやと美しく、アーシャは時々それに鼻を近づけ、甘い香りを楽しみながら袋に詰めた。
最後にその袋を鞄にぎゅっと収めれば完了だ。
「自分の分は……半分砂糖漬けにしようかな。それとも薄切りにして干すか、ジャムもいいかな。冬の間は持つだろうけど……うーん」
考え込んで小さく唸る少女に、木の上の精霊達はくすくすと笑いかけた。
しゃがみこむその頭上で木の葉がまたガサガサと音を立てる。
「えっ、あ! ちょっ、もういいってば! いたっ!?」
突然木から転がり落ちてきた幾つものりんごは、慌てて伸ばした少女の手をすり抜けて転がり落ち、ついでにその頭の天辺にごつんと一つぶつかって、背中のフードにボスン、と入り込んだ。
「いててて……」
『悩むくらいならもっと持っていったらいい。実が重いままだと風で揺れるたびに枝が傷むんじゃないかって気になってゆっくり眠れない』
友人のお節介にアーシャは頭を擦りながら呆れたように笑った。
「じゃあ、いま落ちてきたのはジャムにするよ。ありがとね」
落ちたリンゴを拾い集め、フードの中に入った一つと一緒にバッグに詰めると、アーシャは傍らに置いた皮袋を手にして立ち上がった。
今度はアーシャが木にお礼をする番だ。
アーシャは皮袋を引きずりながら木の根元に入り込み、そこに茂った枯れ草を丁寧に引き抜き始めた。
身を低くして枝を避けながら、木の周りをぐるりと回り、時間をかけて丁寧に草をむしって行く。抜いた草は幾つかの山にしておいた。
あらかた草を抜き終えると、今度は木の根元から少しだけ離れた場所に、皮袋の中身を撒く。
皮袋に入れて運んできたのは藁と同じく農業科の教授に頼んで分けてもらった堆肥だった。
良く熟成してあるので匂いはほとんどないが、さすがにバッグに入れるのは躊躇われて背負ってきたのだ。
黒い土のような堆肥を木の周りにぐるりと撒くと、今度はその上から木の根元にかけて、さっき引き抜いた草を被せていく。
木の根元が暖かいように、と丁寧に草を被せ、それから持ってきた藁をその上に敷き詰めた。
最後に、その端に重石となる石をいくつか並べる。
「ふぅ。こんなもんかな」
一昨年りんごの木を見つけた時はアーシャは何も出来なかったが、去年りんごを貰いに来た時はやはり同じようにお礼となる肥料を持ってきて、草むしりをしておいた。
今年はそこに藁を足したので、これでこの木は暖かく冬を過ごせるはずだ。
木の下から這い出し、周りを回って点検すると、アーシャは満足そうに頷いた。
『ありがとう。今年は藁もあるんだね。暖かく過ごせそう』
木の周りにいる精霊達も嬉しそうに辺りを跳ね回って少女にお礼を言ったがアーシャはそれに首を横に振って笑った。
「私の方こそ、沢山ありがとう。これで皆に、新年の贈り物が出来るよ」
『新年の贈り物?』
「うん。この前誘われたんだ」
この地方の新年の祝いの日には、一緒に過ごす親しい人達とささやかな贈り物を交わす。
それは食べ物であったり着る物であったりといった、実用的なごくささやかな贈り物が良いとされている。
今年一年食べ物に困らぬように、暖かく過ごせるように、と言った願いが込められている風習だかららしい。
アーシャがシャルにそう教わったのはほんの数日前の事だった。
寮に遊びに来て一緒に新年の祝いをしようと言われ、贈り物の話を聞いた時に少女が思いついたのはこの冬りんごの事だった。
ちゃんと保存しておけばりんごは長くもつし、砂糖漬けやジャムにも出来るし、風邪にも良い。
冬になる前に少女が毎年会いに来る、この森の友人からの贈り物を、仲間達にも届けたかった。
『それでいつもより沢山欲しかったの』
「うん。このりんご、すごく美味しいもの。皆にも食べてもらいたくて」
『ふふふ、嬉しい』
「んしょ、と……さすがにこのバッグでも、ちょっと重いね」
物が沢山詰められて、重さを軽減してくれるバッグと言えど、さすがに瑞々しいりんごが何十個も入ればそれなりに重たい。
去年までは自分の食べる分だけだったので大した量はなかった。
それでも、アーシャには背負ったその重さが嬉しかった。
「どうもありがとう。おやすみなさい。また、来年ね」
『おやすみなさい。また来年。良かったら今度は友達も連れてどうぞ』
アーシャはその言葉に笑顔で頷き、手を振ってゆっくりと歩き出した。
背中は重いけれど、足取りは軽い。
森の恵みを受け取り、ささやかなお礼をし、そしてそれにまた森が応える。
その優しい循環をアーシャはとても大切に思う。
森からの贈り物を仲間達に届けたら、きっと彼らは笑顔を見せてくれるだろう。
それを思うとアーシャの頬も自然と緩まるようだった。
そこにも、優しいものがゆっくりと、けれど確かに巡っている。
アーシャはすっかり冷たくなった手にハァ、と息を吹きかけて擦り合わせた。
冷えた手も、北風に撫でられて赤く染まった頬も、その胸の中の灯る温かさを消す事は出来ない。
(早く帰って、今日は皆と一緒にご飯を食べよう)
アーシャは足を速め、午後の日差しが落ちる森の中を身軽に下っていった。
背中の重みはもう気にならなかった。