君の特別好きなもの
アーシャは高い木の上で、空を染める夕焼けを眺めていた。
薄くたなびく雲を朱金に染めて、太陽はそろそろ山の上を通り過ぎようかという頃だ。
昼下がりに降った少しばかりの雨のおかげか、今日の空気はどことなくいつもより澄んでいるように感じる。
そのせいなのか見上げる夕日もいつもより色鮮やかに見える気がした。
森の中のひときわ高い木の上で見る夕日はいつだって美しい。アウレスーラの山の麓に広がる森はきちんと手入れがされているため木々がこみ過ぎる事もなく、高い木を選べば沈む夕日も美しい空も、茜色に染まる街並みも良く見えた。
木の上で鮮やかな空と街を順番に眺めながら、アーシャが思い出すのは育ての親の事だった。
夕焼けに限らず、時刻や天気、季節によって様々な顔を見せる空を眺めるたび、アーシャはいつも『じいちゃん』と呼んだ彼の事を思い出す。
彼と一緒に暮らしていた頃、アーシャは夕焼けというものをあまり良く見たことはなかった。住んでいた場所がとても深い森の中だったからだ。
人の手が入らない森は鬱蒼として、地に届く光はそう多くない。遠出をして小高い場所の高い木の上に行けば見えたのかもしれないが、あの頃のアーシャは幼いこともあり、さほど遠くへ行くことは出来なかったし今ほど高い木にも登れなかった。
そんな、まだ幼くいくらも物を知らない少女に、彼はいつも様々な事を語って聞かせてくれた。
その中には空の話もたくさんあった。
空が赤く染まる夕焼け、金色の朝日、色々な形の雲の名前や木々の間に見える星々にまつわる話。この森では見られない遠く離れた地の空模様や天気についても彼は良く知っていた。
幼いアーシャは見たこともない空の話を楽しく聞きながらも時折首を傾げて、彼に問いかけた。
『ねぇ、じいちゃん。どうして、そらのことばっかりいう?』
『おや、そういえばまた空の話をしてしまったな。すまんすまん、退屈だったかの?』
『ううん、おもしろい。でも、ここからはみえないから、ざんねん』
アーシャはそう言って空を見上げた。けれどそこには分厚い層のように茂った無数の枝葉しか見えない。
この辺りの森には自ら発光する木々や苔、草花が多く生えているので周囲はそう暗くないのだが、それでも空は遠かった。
『確かにのう……わしがもう少し若くて遠出が可能じゃったら、もっと色々な場所へ連れて行ってやれたんじゃが。すまんのう』
『じいちゃんのそばがいいから、いい。そらは、きにのぼればきっとみえる』
『アーシャは木登りが得意じゃからのう。けれど、大きな木に登るのはもう少し大きくなってからにするんじゃよ』
『うん』
素直に頷いたアーシャの頭を愛しげに撫で、彼は見えない空を見上げるように天を仰いだ。
『わしの話に空の事が多いのは、きっとわしが空を好きだからじゃろう』
『すき?』
『うむ、わしはきっと、この世にある沢山のものの中で、空というものが特別好きなのだよ。こうして体の自由が利かなくなってからようやくそれに気がついたのは、少々遅かったかもしれぬがの』
『とくべつ、すき……』
育ての親である彼がしみじみと零した言葉を小さく繰り返し、アーシャは彼を見上げて首を傾げていた。
『そう。それを他の色々なものよりも特に大事に思う、という事かの。無論、今一番特別に好きなのはお前さんじゃよ、アーシャ』
そう言って彼は手を伸ばす。
小さな体を腕にすくいあげ、不思議そうな表情を浮かべるその顔を覗き込んで彼は微笑んだ。
『じいちゃんのすき、もっとききたい』
『おや、そうかね。こんな年寄りの好きなものについて気にしてくれるとは。ならアーシャの好きなものについてもわしに教えて欲しいのう』
『なんで?』
『ふむ……それは多分アーシャがわしの言葉を聞いてくれるのと同じ理由ではないかのう。大切な人の好きなものの話を聞かせて貰ったら楽しくて嬉しくなる気がするし、共に分かち合えばもっと喜びが増える。それ以外でも、どんなことでも聞かせて貰えれば距離が近くなった気がするじゃろう? わしはアーシャの事なら、どんな些細なことでも、聞かせてほしいと思うておるよ』
アーシャは小さな手を伸ばして彼の長いひげをするすると撫でつけながら、その言葉についてじっと考える。
彼は決してアーシャを子ども扱いはしなかった。こうして抱き上げたり、抱きしめたり、頭を撫でたりという事は幾度となくしてくれたけれど、語りかける言葉はいつもきちんとしたものだった。
アーシャにわかりやすいように言葉を選び、けれど子供だからとごまかしたりはせず、考えを促すように時に真剣に問いかける。それでいて決して答えをせかすようなことはしない。
アーシャがその小さな頭と胸をいっぱいに使って沢山の事を考えている事を、ちゃんと知っているかのように。
『……じいちゃんの、これ、すき。ふわふわ』
『おや、わしの髭が好きとな。そりゃあ嬉しいのう』
『わしも、これほしいの』
『アーシャ、そこはわしじゃなくて、わたしと言うのじゃよ。それと、髭はちょっとお前さんにはやれんかのう……』
『だめ? なんで?』
『何故と来たか。むぅ、そうじゃのう……アーシャや、あそこにいる青い羽根の鳥と、向こうにいるリスが見えるかの』
そういって順番に指で示された先にアーシャは目を凝らし、うん、と頷いた。
『あれらが同じもののように見えるかね?』
『おなじ……ちがう。りす、はねないからとばない。とりも、りすじゃない』
『そうじゃな。同じように小さくとも、あれらは違う生き物じゃ』
そう言いながら彼は今度は少し離れた場所の地面を歩く同じくらい小さな生き物を指さした。
『なら、あのネズミと、さっきのリスはどうじゃね?』
問われた言葉にアーシャは小さく唸って首をひねった。木の上を走るリスと地面を走るネズミの姿を交互に見詰め、そして首を横に振った。
『にてる……でも、おなじ、ちがうとおもう。ネズミとリス、きっとちがう』
アーシャが懸命に考えて出した答えに、彼は穏やかに笑って頷いた。
『うむ、良くわかっておるね。確かにあれらは姿は似ているし親戚と言っても良いかもしれぬが、違う生き物じゃ。それと同じに、わしとアーシャも、似ていても違うところが沢山ある』
『じいちゃんと、わし、おなじじゃない?』
『わたし、じゃよ。そう、違うんじゃよ。アーシャは女の子じゃから、わしと違って髭の生えない生き物なのじゃよ。そして女の子という生き物は、自分の事をわしと言わずわたしと言った方が良いのではないかと思うのう』
『わし……わたし? わたし、ひげはえないの?』
しょんぼりとしたアーシャの頭を何度もなだめるように撫で、彼は微笑んだ。
『それは神様がそうお決めになったことだから、仕方ないのじゃよ。我らは皆、かくあるべしと作られたのだから。けれど、神々はアーシャにそれ以外の沢山の素敵なものを下さった』
『……すてきなものって?』
アーシャが首を傾げると、彼は指で少女の小さな鼻をつんと突いた。
『例えば、これ……花や果物の香りをかぎ分ける、可愛い鼻。それから、森の声をよく聞く形のいい耳も、遠くのものをよく見分けるキラキラした綺麗な目も』
柔らかな耳たぶを、ぱちぱちと瞬きする目の脇をそっと指が撫でてゆく。アーシャはくすぐったそうに目を細め、小さな手でそのいたずらな指を捕まえた。
『器用に動く二本の手も、小さいのに素早く走れる足も、優しくやわらかな心も……その体と心の全て。アーシャの持つ素敵なものは、みんな神様からの贈り物じゃ。髭がなくても、なにも困ることはない。そうじゃろう?』
『……うん』
『大事におし。それは皆、アーシャを助けてくれる良き友なのだから』
『うん。だいじにする』
そう言って頷くと、彼は優しくアーシャの頭を撫でてくれた。そしてそのままゆっくりと森の中を歩き出す。その腕の中から見る森の景色はいつもより高く、そしていつもよりも優しくアーシャの目に映る気がした。
『あ、じいちゃん、あのあかいのみて。あのみ、わたしすき。とくべつ、すき』
『おや、そうか。さっそく教えてくれてありがとう。じゃあ、少し取っていこうか』
『うん!』
抱き上げられたままで見ると、上の方には下から見るよりも沢山の実がなっていることにアーシャは気が付いた。
傍に寄ってもらって手の届く中で一際大きく甘そうなものを一つ二つと選ぶ。アーシャはその一つを自分の口に入れ、もう一つを彼に差し出して開けられた口に放り込んだ。髭に覆われた口がもごもごと動き、その甘味に笑みをかたどる。二人で食べる木の実は、いつもよりもさらに甘い気がする。
アーシャはこの日、また一つ新しい事を覚えた。
好きな人と、好きなものを教えあい、それを分かち合うという喜びを。
「アーシャー、おーい」
下から名を呼ばれて、アーシャはハッと我に返った。
気が付けばいつの間にか太陽は山の向こうへと姿を消し、空は茜色の時間を通り過ぎて紫へと色を変えている。
呼ばれた方を見下ろせば、ジェイが手を振る姿が見えた。
「暗くなったんだからそろそろ下りてこいよ、もう飯できるってさ!」
「うん、今行くー!」
そう返事をするとアーシャは近くの枝に引っかけてあった布袋を手に取り、太い枝の間をすり抜けて滑り落ちるように下へと向かった。
「お待たせ」
そう言って目の前にトンと軽やかに降り立った姿に、ジェイは感心したような溜息を洩らした。
「相変わらず身軽だなぁ」
「ジェイもできると思うよ?」
アーシャがそう言うとジェイは木を見上げ、それから首を横に振った。
「木には登れても天辺は無理だって。俺だと絶対折れる気がする」
「ジェイは大きいもんね」
「まぁ、アーシャよりは大分な。大きくなかったら逆に困るし」
その背の高さをちょっとうらやましく思いながら、アーシャは森の中を歩き出した。日が落ちた森の中はあっという間に暗くなっていたが、目指す先に明かりが見えるのでまだ歩けないというほどではない。暗闇でも気にしないアーシャは、ちょっと足元が覚束ないジェイを先導しながら明かりを目指して歩いてゆく。
やがて木々の向こうに現れたのは小さめの二階建てくらいの高さの丸太造りの家だった。これは学園が所有する実習などに使われる建物のうちの一つで、少人数向けの宿舎としてよく使われる場所だ。
アーシャ達は学園の休みに合わせて良くこうした施設を借りており、今日もここで泊る予定だった。
四人は一緒に来てはいるがここではほとんどの場合昼間は皆別行動で、アーシャは周辺の森で魔道具作りの材料になる素材を集め、ジェイは建物の周りの広場で鍛錬、シャルは危なくない魔法の練習や野外活動の訓練をし、ディーンは薬学の授業で使う素材を集めたり考案した野外料理の試作をしたりと、それぞれが好きに過ごしている。
そうして夜にはこうやって集まって、食事(大抵はディーンの新作料理だ)を共にする。
「あ、いい匂いする」
「あー、腹減ったなぁ。肉あるかなぁ」
「ジェイは肉好きだね。私は魚がいいな」
「俺は肉が一番だけど、魚も悪くないよな。この匂いからするとどっちもありそうだけど」
どっちがいいかを語り合いながら建物のドアを開けると、漂っていた匂いがさらに強くなった。途端にジェイのお腹からぐぅ、と低い音が聞こえてくる。
「あ、きたきた。おかえりなさい、アーシャ」
「おかえり」
入ってきたアーシャを迎えてくれたのは、シャルとディーンだ。部屋の中に設えられた小さな食卓用の机に皿を並べていたシャルと、奥から鍋を持ってやってきたディーンに、アーシャはただいま、と返した。
「待たせてごめんね」
「大丈夫、別に待ってないわよ」
「ああ。ちょうど用意が終わったところだ」
食事にしよう、というディーンの言葉で四人はそれぞれ席に着いた。
皆で囲んだ小さな机の上は、大き目の鍋が一つと焼かれた肉が乗った皿、赤い野菜を中心としたサラダの器、パンの入った籠、それぞれの取り皿などでもういっぱいだ。ディーンが鍋の蓋を取ると、ふわりといい香りが広がった。
「んん、いい匂い……魚?」
「ああ、干物を戻したものだが。香草をたっぷり入れて柔らかく煮てある」
魚が好きなアーシャは嬉しそうにその鍋を覗き込んだ。香辛料や香りの強い野草と共に煮られた魚はアーシャが特に好きな種類のもので、思わずその顔に笑みが浮かぶ。
「美味しそう……私、この魚好き」
「知っている。多めに煮てあるから沢山食べるといい」
そう言ってディーンはアーシャの前に置かれた皿を手に取ると鍋の中身を取り分けてくれた。
ディーンがアーシャの世話を焼いている横で、ジェイは山盛りにされた肉をせっせと自分の皿に移している。
シャルは赤くて甘酸っぱい野菜がたっぷりと入ったサラダがお気に入りで、真っ先に自分の分を確保してすでに嬉しそうに口に運んでいた。
「このくらいでいいか」
「うん、ありがと、ディーン」
一緒に煮ていた野菜などもバランスよくたっぷりと盛られた皿を受け取り、アーシャはお礼を言ってさっそくスプーンで大きめに掬ってパクリと頬張った。途端に口の中にすっきりとした香草の匂いがふわりと広がる。
アーシャはほう、と思わず大きく息を吐いた。干物だというのが信じられないくらいに柔らかく煮られた魚はほろりと口の中で崩れ、その旨味がたっぷりと染み出た煮汁がじゅわ、と口いっぱいに広がる。
アーシャは幸せそうに微笑み、けれど口がふさがっているのでディーンの方を向いてこくこくと何度も頷いた。
それを見たディーンは満足そうに一つ頷くと自分の分を取って食事を始めた。
「ディーンって、料理が好きだよね?」
食後のお茶で一息つきながら、アーシャはディーンに向かって問いかけた。ディーンはその問いに少し考えた後頷く。
「多分そうだろうな。最初はただ将来役に立つかと思って習い始めたことだが、今は楽しんでいるとは思う」
きっと向いていたんだろう、とどこか他人事のように呟く彼を見ながら、アーシャは首を傾げた。
「じゃあ、食べ物で好きなのは? 何が特別好き?」
「好きな食べ物、か……」
「ジェイは肉料理が好きで、シャルは甘酸っぱい野菜とか果物が好きだよね?」
「そうね。あんまり嫌いな物はないけど、それは特に好きかも」
「俺は肉なら大体何でもいい。甘いもんは得意じゃないけどな」
「私は海の魚が好きかなぁ。ね、ディーンは?」
「好き嫌いは少ないとは思うが……特別好きなものか」
アーシャがそれとなく観察したところでは、ディーンは何でも同じくらいの量を取ってどれも同じように黙々と食べているようだった。アーシャを含めた他の三人はそれぞれ好きな物を先に多めに食べてから他へ移るので、好物がどれかすぐ分かる。今日の料理の中に好きな物がないのか、どれもそれなりに好きなのか。その辺が良くわからないアーシャは直接ディーンに聞いてみたのだ。
「ディーンは昔からなんでも無表情で食べるからわかりづらいわよね」
「まぁ、子供の頃から目の前に出された食べ物を黙って摂取してきただけだったからな。好き嫌いなど考える余地がない事が多かったからかもしれない」
「ふぅん……」
あまり食に恵まれていなさそうな過去をさらりと語りながら、ディーンは首を横に振った。特別好きな食べ物が思いつかなかったらしい。
「自分が作った料理は、当然ながら知った味がするしな」
そんなものか、とアーシャは納得しかけたが、それを聞いていたジェイが突然ビシ、と手を上げた。
「ハイハイハーイ、俺知ってるぜ! ディーンが特別好きな食い物!」
「ジェイ、知ってるの?」
「そりゃまぁ付き合い長いしな。あのな、ディーンが一番好きなのは、二番通りの、上級学部に面した出口の近くにある『ルイスの焼きたてパン工房』ってパン屋の菓子パン! それも、べったべたに砂糖がかかってカリカリしたあっまい奴!」
「え、あの店? あの店のパンってほとんど甘いパンよね? 意外……でもないわね」
「……そうだったか?」
その店を知らなかったアーシャは首を傾げたが、横を見るとディーンも何故か首を傾げていた。本人に自覚はあまりないらしい。
「いやどう考えてもそうだろ、お前しょっちゅうあそこに買いに行ってるじゃん! 三日に一回は絶対行ってるだろ? しかも相当朝早く! あの店甘いパンばっかだから、行った日の朝は絶対なんか甘ったるい匂いさせてるんだよお前」
「……まぁ、確かに朝、散歩がてらに行っている。近いしな」
「いやいや近いって言うなら寮の食堂が一番近いし、購買だって寮の近くにも中央棟にも技工学部にもあるし! わざわざ朝っぱらから門の外に出て行って買うほど近くないから!」
アウレスーラの上級学部は相当広く、寮は学部内のあちこちに点在している。ディーンとジェイの住む寮は敷地の中ではわりと街に近い方にあるが、確かに忙しいはずの学生が気軽に通うほど近いとは言い難い。
「お前が寮の部屋の中にあそこのパンとか焼き菓子備蓄してんの知ってるから!」
「課題をやっていたりすると、糖分が欲しくなるからな」
「だったら他にも甘い菓子を売る店なんていくらでもあるだろ? 三日に一回は通って、毎日鞄にも必ず一個は入ってるようなのは、どう考えても特別好きっつーの!」
びし、とディーンを指さし、ジェイはきっぱりと言い切った。当の本人はまだ自覚が薄いようで、そうか、と呟きつつもどこか不思議そうな顔をしていた。
「そんなに美味しいの?」
「まぁ、悪くはないんじゃないかしら。ちょっと甘いパンに偏ってるのが私は気になるけどね」
「ふぅん、今度行ってみたいな」
「ならディーンに連れて行ってもらったらいいわよ。それで、どれが美味しいか教えて貰ったらいいじゃない」
「あ、それいい。ディーン、いい?」
アーシャがそう言ってディーンの顔を覗き込むと、まだどこか困惑したような表情ながら、ディーンはこくりと頷いた。
「かまわない。だが、あそこのパンで一番の物を買うとなると早朝開店直後に行った方がいいだろう。すぐなくなるから」
「え、嘘だろ、あそこそんな人気あんのか……」
「ジェイは行ったことある?」
「いや、俺はあそこのパンは匂いだけでもう腹いっぱいって気分になるから……俺はパンは塩気が強くて肉がたっぷり挟んであるようなのが良いな。中央広場の屋台で美味いとこがあるんだよ」
「私は結構好きだけど、たまに一つか二つ食べるくらいで充分ね」
女の子らしく甘いお菓子を普通に好むシャルがたまにでいいというのだから、だいぶ偏った品ぞろえのパン屋であることは間違いなさそうだ。そんな店に三日に一度は通っているというのだから、それはもう大好物と言って差し支えないのでは、と思いながらアーシャはディーンの方を見た。
「じゃあ、今度連れてって欲しいな。そんで、ディーンのおすすめのを買ってみるね」
「わかった。なら次の休みにでも行くか。休日にはまた別のパンが並ぶことがあるから、その中でどれが良いか考えておく」
「んなことまで知ってて好物って言う自覚がないとか……」
生真面目に語るディーンに、ジェイが深いため息を吐いた。
「ね、じゃあ私の好きな店も今度一緒に行きましょ! 基礎学部の頃から大好きなお菓子屋さんがあるのよ。街の反対側にあるから最近ちっとも行けてないんだけど、アーシャにも教えたいわ!」
シャルのその言葉にアーシャも嬉しそうに頷いた。
「じゃあ、次の休みに行く? 朝はディーンのおすすめのパン屋さんに行って、ぶらぶらして、お昼にジェイのおすすめの屋台に行って、それからお菓子を買いに行くの」
アーシャの提案に三人は顔を見合わせ、それから笑顔でそれぞれが頷いた。
アーシャは、こうして皆とおしゃべりしながら、彼に教わったことをまた思い出す。
誰かの好きな事を聞くのは楽しいこと。
色んなことを教えてもらう度、少しずつ距離が近くなる気がすること。
教えてもらった好きな物を一緒に見たり食べたりするのは、もっと楽しい事。
生き物としては同じように見えるけど、アーシャも、シャルも、ジェイも、ディーンも、それぞれが全然違うという事。
違うから、きっと面白くて、楽しいという事も。
「私も、皆に教えられるような特別好きなもの、また探しておくね!」
その言葉にも皆は笑顔で頷いた。
皆と過ごすこうしたいつもの夜も、アーシャの今の『特別な好き』の一つなのだ。
執筆ついでに古いファイルを整理してたら短編が出てきたので、もったいないので載せておきます。
だいぶ前に折本にして何冊か差し上げた話だった気がするんですが。
暑中お見舞いと思って楽しんで頂ければ幸いです。