水底に沈む庭3
「これが、ディーンの見つけた石? 思ってたより普通なのね」
「何か……地味だな」
ディーンが大切に手の中に握りこんでいた石を見たシャルとジェイの最初の感想はそれだった。
「余計な御世話だ」
「あはは、でも、ディーンはそれ気に入ったんでしょ?」
そういってアーシャはディーンの手の上の石を覗き込んだ。それは確かに見た目はあまり華やかとは言い難い石に見える。不透明な地は黒なのだが、何かほかの鉱物が混じっているらしく、金属のような光沢や緑のような色がちらほらと混じっているのだ。表面がざらついていることもあって、確かにあまり価値のありそうな石には見えない。
けれどディーンがそれに何かを感じたのなら、アーシャには否やはない。彼女の考えていた石とはまた違うが、別に悪い感じはしないし、これはこれで磨けばきっと綺麗になるだろうと思えた。
「ちょっと借りていい?」
「ああ。ほら」
ディーンから石を受け取ったアーシャはそれを両手で包み、目を瞑った。アーシャには石自身の声が聞こえる訳ではないが、彼女の足元にいる地の精霊の声なら聞くことが出来る。
地の精霊に問いかけると、彼らは少女の手の中の仲間についてそっと教えてくれた。
「これは……夜の石だってさ」
「夜の石? そういう名前なのか?」
「よくわかんないけど……地の精霊達は、これはそうだって言うだけ」
「石の声とかが聞こえるわけじゃないのよね?」
「うん。石とか鉱物って、地の精霊が宿りやすいみたいなんだけど、固い殻の中で眠ってる感じで、声も小さくて、私にもよくわかんないんだよね。だから今のは足元にいた地の精霊に聞いたの。彼らはこれをそう呼んでるんだって」
石の声を聞くという老人との出会いから、アーシャはその声が自分にも聞けるようにならないか、色々な鉱物に触っては確かめてきた。そうして得た結論がそれなのだ。いつかはわかるようになるかもしれないが、まだそれは遠そうだった。
アーシャはよくわからなかったことに、ごめんと小さく謝ったが、ディーンはそれに首を横に振った。
「この石が悪いものじゃないと分かっただけで十分だ。しかし……夜の石、か」
「お前にぴったりじゃねぇ?」
「そうだね。私もディーンには合ってると思うよ。持って帰って磨いたらきっと綺麗になるよ。よかったらやらせて欲しいな」
「それは私の方からも頼みたい。よろしく頼む」
「うん。じゃあ、帰りに預かるね」
ディーンは返してもらった石をまた握りこみ、さっきアーシャがしていたように目を瞑る。
彼にも石の声は聞こえないが、けれどそこにはやはり長年慣れ親しんだ気配の欠片が宿っているような気がした。
夜半。
早めの夕食を終え、それぞれがテントへと入り、その中から寝息が聞こえ始めた頃。
テントの外でアーシャはぼんやりと空を見上げていた。
辺りにはこの季節の夜に現れる小さな虫が無数に飛び交い、それぞれに淡い光を瞬かせて細やかな意思を交し合っている。水面にも光が映ってその数を増やし、辺りはまるで天の星が降りてきたかのようだった。
ジャリ、と小さな音が響き、光の乱舞を見上げていたアーシャは背後を見やった。
後ろにいたのはアーシャと同じく明りの一つも持たずにこの闇の中を歩く、ディーンの姿だった。
「眠らないのか?」
「ん。せっかくきれいだから、見物。ディーンは?」
「似たようなものだ」
そう言って彼はアーシャの隣に腰を下ろす。
夜の彼は昼間歩いていた時とは別人のように機嫌が良いように見え、何だか可笑しくなったアーシャは、笑っては悪いと思いつつもくすりと笑いをこぼす。
ディーンはそんな少女の内心を知ってか知らずか、一つため息を吐いて握っていた手を開いた。
その手の上には、昼間拾ったあの石が乗っていた。持って歩いているところを見ると、どうやらディーンは周りが思っていたよりも大分その石が気に入っているらしい、とアーシャは嬉しく思う。
相性の良い石が見つかったのなら、連れて来たかいがあったというものだ。
そんなことをアーシャが考えていると、ディーンは徐に顔を上げてアーシャに向けて微笑んだ。
「……君が言ったことを、考えていた」
「へ? 何?」
「朝、出かける前に……私の周りに、精霊が増えたと言っていたろう」
「ああ、うん。そういえば、言ったっけ」
忘れかけていたことを思い出し、アーシャは頷く。ディーンはそんな少女の様子に気分を害した風もなく、言葉を続けた。
「なぜ増えたんだと思う?」
「え……うーん、理由までは良くわかんないかな。ひょっとしたら精霊親和学の授業のせいかなって思ったりしたけど、それより前に増え始めてたような気もするし。ひょっとして、ディーン何かしたりしてた?」
ジェイのような訓練を密かにしていたのか、とアーシャが問うと、ディーンは何がおかしいのかくすくすと笑って首を横に振った。
「私は何も。何もしていない。したのは……多分、君だ、アルシェレイア」
「私? え、私、何もしてないよ?」
心当たりがなくて首を傾げるアーシャに、ディーンは何かを瞼の裏で思い出すかのように目を伏せ、それからまた優しく笑った。
「君は、私を……私に加護を与える闇の精霊を、肯定してくれた。私と同じように夜の闇の中を昼間と変わらぬ風に歩きまわり、光の神と闇の神は仲の良い夫婦神だと語ってくれた。それが、多分理由だ」
「あの森でのことが?」
「ああ。きっと、私は……シャルと同じように、あるいは彼女よりもずっと深い無意識の領域で、ほんの少しだけ、闇の精霊を疎んでいたんだ。それを、君が消してくれたように思う。だから、闇の精霊との絆が深まったのかもしれない、と」
長い年月、闇の精霊を友として生きてきたディーンにはこの国は心地よい場所とは決して言えない。闇の精霊の加護が彼から様々なものを遠ざけ、失わせてきたのは確かだ。
けれど、その喪失の傷から彼を守ってくれたのも闇の精霊に他ならない。その矛盾の中で、無意識のうちに闇の精霊を疎む気持ちが生まれたとしても不思議ではない、とアーシャにも理解できる。
理解できるが故に、言う言葉を見つけられず、アーシャはしばらく悩んだ末、一言だけ告げて微笑んだ。
「……良かったね」
「ああ……ありがとう」
群れ飛ぶ光の中に佇むディーンの横顔はどことなく嬉しそうで、それを眺めるアーシャもまた何となく嬉しかった。
帰ったらディーンの石を磨こう、とアーシャは強く思う。
石が一番綺麗に見えるように、心をこめて磨こう。
闇の精霊に愛されるように、魔法をこめよう。
闇の精霊のように静かで優しいこの大事な仲間が、強すぎる光に負けてしまわないように。
冷たいけれど美しい、あの水底の箱庭のような場所で静かに眠っていた石が、彼の助けになるように。
夜はいつもと変わらず二人にとても優しく、静かだった。
いつかの夜のような静けさの中、二人はしばらくの間他愛もない話をぽつぽつと交わし楽しんだ。
やがて乱舞の時間が終わったのか、光が一つ、また一つと姿を消し始める。虫たちは森の中で、また次の夜が来るまで一眠りするつもりなのだろう。
アーシャとディーンもふわ、とあくびを交互にこぼし、そして顔を見合わせる。
二人はどちらからともなくおやすみと告げ、それぞれのテントへと潜り込んだ。
アーシャがテントに入ると、固い地面に薄いマットを敷いただけでもすっかり眠れるようになったシャルが目に入る。彼女の隣に体を横たえ、アーシャもまた目を閉じた。
目を閉じたアーシャの瞼の裏に、昼間見た滝壺の水底からの景色が蘇る。
丸い形にしよう、とふとアーシャは思った。
あの石を磨くなら、丸い形に。
暗い夜空を光で丸く切り取ったようだった、あの水底から見た水面を思い出しながらアーシャはそう思った。
今なら、耳を澄ませばあの石の小さな声が聞こえるような、そんな気がした。
「あっつーい!」
「叫ぶなよ。余計暑くなるだろ……」
街の中にシャルの嘆く声が響く。自分の周りの温度を少々操っているはずの少女でも、さすがに最近の気温は耐え難いらしい。
夏もいよいよ近くなり、さすがのアウレスーラも暑い日々が続いている。
今年は結局雨も少なめで、気温が上がるのも早いようだった。それでも山からの水は滔々と川に流れ続けているので、作物が不作とまではいかないだろう。
アーシャは前を歩くシャルとジェイの天気への文句を聞きながら、隣を歩く少年をそっと見上げた。
彼は最近の晴天続きの日々の中にあっても、以前が嘘のように機嫌がいい。もっとも、機嫌が良くても相変わらず見た目にはあまり変化がないのだが。
その機嫌の良さが、彼が腰の剣帯に着けた石にあることを知っているアーシャもまた、密かに上機嫌だった。
ディーンが選び、アーシャが磨いて加工した石は、ディーンの剣帯の上でゆらゆらと光を弾きながら揺れている。
磨いて出てきた黒い表面は艶やかで、その黒の地の中にはあの日飛んでいた光のような金色がちらちらと散っている。
ただ黒いだけではなくその黒の中に淡い光を散りばめ、いくつもの色をうっすらと滲ませたその石は、確かに夜の石、と呼ぶのに相応しい風情だった。
綺麗に丸く磨かれた石はアーシャの意図したとおり、あの日覗いた滝壺のようでもあり、あの夜見た風景のようでもある。
この石の出来栄えにアーシャが改めて満足を覚えていると、それに気づいたディーンも少女を見下ろして笑みを見せた。
アーシャが加工してくれたこの飾りを身に着けるようになってから、自分の周りにまた闇の精霊の気配が多くなったことにディーンは気が付いていた。
そしてそれを、とても嬉しいと思っている自分にも。
ディーンが石に指でそっと触れるとひんやりとした冷たさが伝わってくる。この石はどういう訳かあの滝の水の中のようにいつも一定の冷たさを保ったままなのだ。
そのおかげもあってこの高まる暑さの中でもディーンの機嫌は下降しなかったが、それでもこうして冷たさに触れているとあの森に囲まれた滝の冷たい空気が恋しく思える。
「……夏季休暇に入ったら、今年はあの滝壺の方でも何泊かするか」
「あ、それいいなぁ。あの水の底で拾った石ね、結構色んな材料使えそうなんだよね」
「また潜るなら、ぜひ誘ってくれ」
「うん、いいよ。じゃあ、次はシャルも潜れるようになる方法を考えようかな」
また新しい課題を思いついたことに、アーシャは嬉しそうに笑う。
二人の記憶の中を光がちらほらと舞飛び、絶え間ない水の音が流れた。
「早く休暇にならないかな」
「早く休暇が来るといいな」
休暇だろうが平日だろうがいつもとほとんど生活を変えない主義の二人が珍しくこぼした子供らしい言葉は、残念ながら前を歩く二人の耳には届かなかった。
空気は歩くごとに少しずつ温度を上げ、その分だけ夏の休暇が楽しみになる気さえする。
暑さの中、歩く二人はいつもよりもどこか楽しそうだった。
終
あまりの暑さに嫌になって、涼しそうな話を書いてみました。
暑中お見舞い代わりに閑話として投稿しておきます。
少しでも気分だけでも涼しくなって頂ければ良いのですが。
閑話が増えてきたので本編と分離して、シリーズにしました。
閑話の方はたまにしか更新しないと思います。