例えばこんな日々も
ディーンは目の前に並べられた物を眺めて深く考え込んでいた。
別に目の前に並んでいるのは珍しい物という訳ではない。
それはいわゆる一つの料理、と言う物のはずだった。
だが問題はその料理の形態だ。
ディーンは持ち前の冷静さで目の前の料理の属するところについて考える。
視界に入る情報を懸命に好意的に解釈してみようと試みた。
だが目の前に並べられた物を表現する言葉はどうしても一つしか思いつかない。
「……生野菜の、串刺し?」
ディーンが呟いた言葉を聞いたシャルとジェイも黙ってそれに頷いた。
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「教えて欲しい事があるんだけど」
アーシャは野外実習の結果が出た後の食事の席で、そうディーンに切り出した。
「あのね、良かったら私に料理を教えて欲しいんだけど……だめかな?」
「料理を?」
「うん、ディーン料理上手でしょ。最近ちょっと興味が出てきたから、自分でも色々作ってみたくて」
ディーンは彼女の願いを聞いて少し安心した。
やっと彼女も人並みの食生活に興味を持ち始めたのかと思う。
何しろ普段からちゃんと食べているのか、何を食べているのかも怪しいアーシャのことだ。
最近はそれでも四人で一緒に食事をする回数も増えているのでアーシャも少し健康的な顔になってきた気がするのだが、まだ小柄なのも痩せているのも相変わらずだ。
その彼女が自分でちゃんとした料理を作って食べるというならそれに協力するのに全く問題はない。
「なるほど、そういうことならお安い御用だ。いつでも引き受けよう」
そういう訳でディーンはアーシャの願いを二つ返事で引き受け、二人は前期試験が近づく前に第一回のお料理教室を行う事を約束した。
そして、今日。
ディーンはアーシャに、
『どの程度料理ができるのか見たいので普段食べている物を見せて欲しい』
と伝え、約束の時間に面白そうだと付いてきた二人のおまけを連れて初めて彼女の家を訪ねた。
アーシャの家は上級学部の門から西の住宅街に向かって歩いて約十分ほど行った所にあった。
西地区は住宅街の中でも古い部類に入る場所で、当然建物自体も随分古いものが多い。
学園都市は設立当初地盤のしっかりした北西の山裾から開発され、徐々に東と南に向かって広がっていったので西地区と北地区には古い建物が多い傾向にあるのだ。
最近では再開発の声も上がっているが、新しい地区と違って静かで趣のある町並みは年寄りの教授や、仕事に没頭したい研究生などに密かな人気があり今の所はまだそのままにされている。
整然と区画整理された東や南方面と違って細く曲がりくねった趣のある路地や、庭が広く取ってある暖かな印象の一軒屋が多く、ここに来たついでに観光をしていく人達にも人気があるらしい。
アーシャの家はそんな古い住宅街の中の一際年代物の住宅が立ち並ぶ街外れにあった。
アーシャから詳しい地図をもらったものの随分歩いても辿りつかないことを少々不安に思いながら、一同は昼過ぎにようやくその場所を探し当てた。
三人が辿りついて目にしたのは、こじんまりとした二階建ての石造りの家だった。
丁寧に補修した跡もあり見るからに年代物だ。
平たい石を積み重ねた古風な門と塀をくぐるとすぐに玄関で、その分家の裏にある庭が、随分と広くとってあるようだった。
ちらりと見える裏庭に目をやれば、石塀で区切られたそこは様々な植物が植えられ、半分裏山の林と一体化しているようにも見える。
いかにもアーシャが好みそうな雰囲気だ。
三人は彼女が寮生活ではなく一人暮らしだということは知っていたが、家の古さはともかくこんなにきちんとした一軒家に住んでいるとは知らなかった。
少女が一人で住むにはどう考えても広すぎる家にも思える。
「うわぁ、すげ……」
「うちより大分古いわね……」
「……家自体が既に骨董品だな」
それぞれに感想を抱きながら、三人は玄関の前に立ち、年代物の木の扉に付いている年代物のノッカーで来訪を知らせた。
「はーい」
扉の向こうから足音とともに声がし、年代物の扉がギギィ、と疲れた声を上げて開いた。
「いらっしゃい」
「どうも」
「こんにちは、アーシャ」
「よ! 暇だから付いてきちまった!」
中から顔を覗かせた少女は喜んで三人を家の中に迎え入れた。
アーシャは実にいつも通りの、シンプルな短いワンピースとスパッツ姿だった。休日とはいえ彼女は普段着も余り代わり映えがしないようだ。
学園には制服はあるが着用の義務や規制はない。アーシャはいつも制服を着ていないのでその姿も見慣れている。
その代わり他の三人の休日の私服と言うのがアーシャの興味を引いた。
いつもきちんと制服を着ているディーンは今日はゆったりとした生成りのシャツに黒のパンツというシンプルな格好で、ジェイは動きやすい形の上下の揃いの服だ。拳法着に少し形が似ている。
中でも、少し大人っぽい細いラインのワンピースとニットのカーディガンを合わせたシャルの姿がアーシャには珍しかったらしい。
彼女はいつもローブと制服で、野外実習の時はローブの下は動きやすい丈夫なシャツとズボンという格好だった。
それとは全く雰囲気の違う臙脂色のワンピースは裾や襟に控えめなフリルがあしらわれ、複雑な編みこみのコーラルピンクのカーディガンととても良く似合っていた。
玄関先で立ったままアーシャはまじまじとシャルを眺めた。
「どうかした?」
「あ……ごめん。なんか、ちょっと珍しかったから。良く似合うね」
少女の素直な感想にシャルはにっこりと笑う。
「あら、ありがとう! 流石に私だって休日までは制服じゃないわよ」
アーシャはシャルの繊細な編みのカーディガンに特に興味を持ったらしく、見せて、と断るとシャルの背中側に回って面白そうにそれを眺めた。
「アーシャもやっぱり女の子なのねぇ! アーシャはこういう服着ないの? 一番街の少し南よりに可愛いお店いっぱいあるのよ」
「ん、私は服は大体自分で作ってるんだ……あんまり難しいの作れないけど、前からそうしてきたから。それに、既製服って合う大きさのがあんまりないんだよね」
その言葉に三人は激しく納得した。
確かにアーシャの体格なら上級学部に近い洋品店の服はほとんどサイズが合わないに違いない。
だがサイズの合いそうな店といっても、街の反対側の基礎学部の近くの店は結構遠いし、何よりそちらになるとデザインも色もまだ相当に子供っぽい物がほとんどだ。
手先の器用な少女は必然的に布を買っての自作となるのだろう。
「そっかぁ、それは大きな問題ね。でもそれなら何か作って欲しい物があれば技巧学部の服飾科の生徒に頼むって言う手もあるわよ。向こうも練習になるからしっかりサイズも測って作ってくれるし、実費と手間賃を少しくらいで、結構安いのよ?」
「あ、それ良さそう。今度頼める人探してみようかな……ね、シャル、そのカーディガン見せてもらってもいい?」
「いいわよ、はい。何なら今度誰か知り合いを紹介するわね。私も頼んだ事あるの」
シャルはカーディガンを脱いでアーシャに手渡した。アーシャはそれをそっと広げるとその編みこみの形を熱心に観察する。
「面白い……背中の真ん中が編み始めなんだね。そこからぐるっと円状に回ってるのかぁ。糸は何本で始めてるんだろ」
「気に入った?」
「うん、こんな模様の魔法陣組んだら力の収束率がまた変わるんじゃないかなぁ」
「……魔法陣?」
「文字の配置場所はちょっと考えないとだけど、中心に石を置いて、ラインは銀……ううん、金線を埋め込みにするのが安定するかも。
そうすると魔力が円を描くように魔法陣に回るから、施した効果の発動に時間差をつけることが出来るかもしれない。面白そうだな……土台は石がいいかなぁ」
「……」
服の話をしていたんじゃなかったのか、と三人は内心で頭を抱えた。
どうやら彼女が少女らしくなるにはまだまだ時間が必要らしい。
「こっちが居間だから、適当に座ってて」
三人がそう言われて促されるまま中に入ってみると石造りの家はひんやりとして心地よかった。
現在主流の窓の大きな木の家と違って少し薄暗い印象はあるが、不思議な安心感がある。
玄関、リビング、キッチンなどの区切りは一応あるが扉はなく、周りを見渡せばどの部屋も少しずつ目に入る。その開放的な広さが薄暗さを補っていた。
「へぇ、見た目より広い印象なのね。扉がないからかしら?」
シャルは呟きながら珍しそうに辺りを見回した。
今通ってきた玄関は実に簡素で飾り気がなかった。脇に靴を置く小さな棚が置いてあるだけだ。
居間に入ってみるとそこも特別飾り立ててあるわけでもなく、必要最小限の木のテーブルと椅子が置いてあるだけだった。
なんと石の床はむき出しで板張りや敷物すら敷かれていない。
「なんか……殺風景?」
「らしいと言えば大変にらしいが……」
入って左手に作られた暖炉とその脇の年代物の飾り棚(恐らくは元からあるものなのだろう)と、正面の壁にある裏庭が見える窓が部屋の簡素すぎる雰囲気を救おうと無駄な努力をしているように見えた。
ディーンは暖炉の脇の飾り棚に近づいた。
一応使う気はあるのか、そこには沢山の本が積み重ねて入れてある。
並べているのではなく重ねられているのは本棚ではないためにサイズが合わないのだろう。
古い物から新しい物まで適当に重ねてある本のタイトルをディーンはいくつか眺めて読み上げた。
「……『古代建築学』、『大陸における人類分類学』、『最新魔具大全』、『楽しい遺跡探訪』、『庭を極める――春夏編』……『大陸食い倒れ』?」
「……随分ジャンルがばらばらね」
「けどこれ図書館のじゃないんだな。自分で買ってんのかなぁ」
並んだ本にはどこにも学園図書館の所蔵であると言う印は見受けられなかった。それはつまりアーシャがこれらの本の持ち主である事を示している。
本は決して安いものではない。むしろ学生の懐を圧迫する度合いで言ったら一番高い買い物であるといえるだろう。
よほど余裕のある生徒以外は本は買わずに借りる物で、教科書すらもそのほとんどが学校からの貸し出し品だ。
後は先輩や教師から古本を譲り受けたりするのが本の入手先としては主流だった。
街には本屋は存在するが使用するのは教師ばかりだ。
アーシャはその高価な本を買い込んでいる割には住んでいる家は実に古めかしい。
家の中も簡素の一言に尽きるし、恐らく彼女は興味のある事にしか金を使わない性質なのだろう。ひょっとすると本や道具が沢山おけるから広い家を借りたのかもしれない。
アーシャの生活ぶりはますます謎だった。
「お待たせー」
三人が本棚の本を眺めているとその背中に声がかけられた。
振り返るとアーシャがコップを乗せたお盆を危なっかしい手つきで運んでくるところだった。
シャルは急いでお盆を受け取ってテーブルに乗せた。
冷たいお茶が入ったそのコップは、見ればどれも同じデザインのものがない。
「ごめんね、同じコップないんだ。誰か来るなんて初めてだから」
「あら、いいわよ。デザインが違ってた方が間違えなくていいわ」
三人は礼を言ってそれぞれお茶を受け取った。
暑い季節が段々と近づいているので冷たいお茶が嬉しい。
アーシャの入れたお茶はすっきりとした飲み口でなかなか美味しかった。かすかに甘い花のような香りがした。
「良い香りだな。これはどこで?」
「街で売ってるのを何種類か自分で混ぜたのの水出しだよ。香りは庭で取った花を乾燥させたのを入れてあるんだよ。美味しい?」
「ああ、なかなか美味しい」
「渋くなくていいなぁ」
「とっても美味しいわ。今度私にもこのブレンド教えてくれない?」
「いいよ。じゃあ後で書いておくね。とりあえず、今はえっと、料理……持ってくるけど」
「あ、そうだったわね。アーシャの料理を見にきたんだったわ!」
他の事で盛り上がっていつの間にか目的を忘れかけていた。
押しかけて来て料理を食べさせろと言う気はないシャルとジェイはここに来る前に昼食を済ませて来ている。
アーシャの未知数な料理に危険を覚えたディーンも軽くではあるが食事を摂ってから来ていた。
三人は、ちょっと待っててというアーシャの言葉に従いお茶を飲みながら大人しく料理が運ばれてくるのを待った。
「お待たせ」
そしてディーンはこの声に振り向いたこの時、気安く引き受けた事をほんの少しだけ後悔したのだった。
アーシャが運んできてテーブルに置いた大きな皿には、何か想像を超えたものがどん、と乗っていた。
見た目は皆良く知った物ばかりだ。いうなれば野菜と魚。
だがそれはどう見ても、料理と言うよりはそのままの素材だった。
これが料理だと言うなら余りにも野趣に溢れすぎだ。
種類としては芋などの根菜を中心にした焼いても美味しい野菜が中心だが、それらが全て皮がついたままでしかも丸ごと金属の串にさしてあるのだ。
しかも表面に焦げ目があるならばまだ焼き野菜だと思えるが、それすらも見当たらない。
つまり見かけ上は全くの生だった。
恐ろしい事に同じように串に刺してある魚も生に見える。
生というよりも、焼いていない干物といった方が正しいかもしれない。
キラキラと光る塩の粒を全身に纏った魚は楕円系の皿の上で恨めしそうにこちらを見上げていた。
どこからどう見ても、これから野外料理を始めますといった具合だ。
ハァ、とディーンは海より深いため息を吐いた。
「……アルシェレイア」
「うん?」
「君はいつもこんな物を食べているのか」
「うん。大体いつもこんなかなぁ。この辺の野菜って美味しいよね」
そう、確かにアウレスーラがあるハルバラード王国は豊かな平地が広がり、農作物の生産が盛んでその味にも定評がある。
だが問題はそこではないだろう、と考え込むディーンの眉間の皺が深くなった。
「アーシャ、ほんとに毎日こんな感じなの?」
「これ、生じゃないのか?」
先ほどから黙って料理を眺めていたシャルとジェイがそれぞれに呆れた声を上げる。
だが非難を浴びた本人は何がいけないのかわかっていないらしくきょとんとした顔をしていた。
「生じゃないよ。ちゃんと火を通してあるよ」
そういうとアーシャは皿に添えてあった食卓用のナイフで芋をざっくりと刺した。
ナイフは芋にスっと入り込み、パカリとそれを二つに割る。
すると中からふわりと湯気が立ち上った。
どうやら火が通っていると言ったのは嘘ではなかったらしい。
だが火が通っているのに焦げ目の一つも付いていないのは一体どういう訳なのか。
アーシャは三人が見守る前で次々と野菜を半分にすると塩と胡椒を簡単に振りかけた。
どうやらこれで食べられる、と言いたいらしい。
「……アルシェレイア」
「ん?何?」
「聞かせてもらいたいのだが、この野菜はどうやって火を通してあるんだ?」
ディーンの投げた当然の疑問に、ああ、とアーシャは頷くと隣のキッチンに歩いていった。
少しして戻ってきた時には同じような金串に生の芋を一つ刺して持ってきた。
さっきはアーシャが持ってきた皿の上の野菜に気をとられていて気づかなかったが、その金串は良く見れば端っこに丸い持ち手のようなものがついている。
そこにはくすんだ色の赤い石が一つ嵌っていた。
「これ、見てて」
そう言ってアーシャは串を皿に置くとその赤い石にそっと指で触れた。
三人がじっと見詰めているとやがて芋から薄っすらと湯気が立ち始めた。
金串と芋の境目からぷくぷくと小さな泡が出て、辺りにふわりと茹でた芋のような匂いが漂う。
驚いたディーンがアーシャの手元を良く見ると、金串の石がほんのりと輝き、その周囲の金属がうっすらと赤くなっている。
「まさかこの串が直接熱を与えているのか?」
「ええ? まさかこれ、魔具なの!?」
アーシャはうん、頷いて指を離した。
必要なだけの魔力を込めた石は手を放しても熱を発し続けている。
数分後、石はゆっくりと輝きを失い、それと同時に金串の熱も冷めたようだった。
それを確認したアーシャが再び芋にナイフを刺すと、中からは湯気が立ち上り、他の野菜と同じように火が通っているのが見て取れた。
「……つまりこれは、アーシャが作った料理用魔具ってこと?」
「じゃあこの生に見える魚も焼いてあるのか?」
「うん、火通してあるよ。見かけはそんなだけど。これを使うと中から火が通るからすごく早くて済むの。野外とかで道具が無い時とか便利なんだよ。本読みながらでも簡単に作れるし」
ディーンは椅子に座ったままぐったりとうなだれて頭を抱えた。
彼がそんな風に気持ちを動作にまで表すのは実に珍しい。
だがその気持ちは他の二人にも実に良くわかった。
その予想外にショックを受けたディーンの様子にジェイは深く同情した。
これははっきり言って料理どころではない。
「おい、ディーン……元気出せよ、気持ちはわかるけど。なぁ、だからこそお前が教えるんだろ?」
「ああ……そうだ。そう……そうだとも!」
ジェイの言葉にぐっと顔を上げたディーンの表情は、いつになく真剣で気迫に満ちていた。
「うわ……」
まずい、とジェイは思ったがもう遅い。
ディーンのその顔を見たのは彼との長い付き合いの中でもほんの数回だけだが、そのどれもがジェイにとっては思い出したくない記憶に繋がっている。
例えば基礎学部の三年で数学の授業で落第しそうになってディーンにうっかり泣き付いた時。
あるいは五年のグループでやる課題で、筆記が苦手なジェイが大いに足を引っ張った時。
はたまた六年の上級学部への進級試験で一緒に勉強していた時……。
(ああ、やる気にさせちゃったよ……俺知らねぇぞ)
長い付き合いの友人が誰かに何かを教える事に本気になった時の、その恐ろしさを誰よりも良く知っているジェイは心の中でそっと合掌した。
「アルシェレイア!」
「はっ、はい?」
バン! と机を叩いてディーンは立ち上がった。その勢いに座っていた椅子がガタンと後ろへと倒れる。
「君は間違っている! こういうのは料理とは呼ばん! これはただの素材だ!!」
「えっ、え……う、うん」
突然のディーンの剣幕にアーシャはおどおどと頷いた。
「これからは野外以外でこんな物を食べるな! 私が料理を教えるからには全面的に禁止する!」
「え、ええええ!?」
そんなぁ、というアーシャの抗議の声を黙殺し、ディーンはアーシャの手を取るとキッチンの方へと歩いていった。
アーシャは半ば引きずられるように連行されていく。
それをぽかん、と見送ったジェイとシャルは二人の姿が見えなくなってから顔を見合わせてため息を吐いた。
「……あんたの馬鹿さ加減以外でディーンに火がついたの、初めて見たわ」
「……俺も」
キッチンからはディーンがアーシャを問いただす声が良く聞こえてくる。
「調理道具はどれだ? フライパンに鍋……数が少なすぎる! 包丁は?」
「え、えと、いつもこのナイフ使ってるから」
「……薬草だの毒草だの刻むようなナイフを料理に使うな!」
どうやらディーンは道具から始めて徹底的にやるつもりらしい。
いつになく大きなディーンの声を聞きながら二人はぬるくなってきたお茶を黙って飲んだ。
「……なぁ、いいのか、あれ」
「そうねぇ……まぁ、いいんじゃないかしら。アーシャもこんなものばかり食べてたら駄目よ。道具の件だって、間違った事は言ってないみたいだし」
「けど、ディーンのアレ、疲れるぞ……」
ジェイの脳裏に、特訓の最後には何時も半泣きになっていた苦い経験が蘇る。
だがシャルはそれを聞いて楽しそうに笑った。
「あら、いいわよ。アーシャが落ち込んでたら私が買い物にでも連れ出すから。二人で甘い物でも食べてくるわ。
あ、そうだ! アーシャに似合いそうな服を売ってる店、探しとかなきゃね!」
どんなのがいいかしらねぇ、とシャルはすこぶる楽しそうだった。
シャルはアーシャを妹のように思っているらしく、最近は彼女に女の子らしい事を教えるのに随分と熱心だ。なかなか成果が上がらないのが逆に燃えるらしい。
どうやらここにアーシャの味方は自分だけらしい、とジェイは諦めた。
だが自分ではとてもじゃないがあのディーンを止めることは出来そうにない。むしろトラウマを刺激して近寄るのも恐ろしい。
それにこんな食生活を続けてはいけないという彼らの言い分も最もでもあるのだ。
せめて、女の子なんだし時々休憩を挟むようにディーンに進言だけはしてやろう、とジェイはそっとアーシャにエールを送った。
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次の日の放課後
上級学部の外にある喫茶店のオープンテラスでシャルとアーシャはお茶を飲んでいた。
学部の門を出てすぐの所にあるこの店は見た目も可愛くて味も良いケーキを出すと評判で、女の子に人気の場所だ。
放課後のこの時間は流石に店内は賑わい、アーシャとシャルも名物のケーキの味を堪能していた。
ケーキは美味しいがアーシャはちょっとお疲れ気味だ。
「……それで、昨日はアレからどうなったの?」
「うん……」
あの後、一時間ほどたってもディーンによる調理の大切さと道具の必要性、材料の栄養などについての講義は終わりを見せる気配がなかった。
退屈したシャルとジェイは仕方なく途中で二人に断って帰ってきたのだ。
一人残されるアーシャを可哀想に思わなくもなかったが、訥々と正論を述べるディーンに口を挟める訳もなく、途中で休憩を挟むようにとだけ言い置いて二人は帰路に着いた。
アーシャは思い出すのも恐ろしいとばかりにぷるぷると首を振ると重い口を開いた。
「あの後、一時間半くらいせっきょ……指導されて、それから私が一応買っておいた材料の中に卵があったから、とりあえず卵料理でもって事になったんだけどね……」
「うんうん」
ディーンは卵料理は何が好きか、とアーシャに問うた。
アーシャはそこで深く考えず、実に素直に答えてしまった。
思えばそれがまたまずかった。
『んと……生?』
「で、そしたら生とはどういう事だ何時もそんな食べ方をしているのか腹を壊したらどうするってまたディーンが沸騰しちゃって……」
うう、とアーシャは思い出して呻いた。
「そりゃ、生はねぇ……」
これにはシャルも呆れるしかない。
女の子が料理もせずに生卵を飲むなんて。
確か武術学部の脳筋で有名な教師がもう十年間、毎朝生卵を飲んでいると声高に自慢していたのを伝え聞いた事がある。あの時はなんて気色悪い、と思ったものだが。
「で、でも美味しいんだよ、新鮮だと! 森で暮らしてた頃はそんなの普通だったし! こう、卵の上にこれくらいの穴を開けて、ちょっと塩とか入れて……」
「でも今は本当は料理するのが面倒なのよね、アーシャは? で、ディーンはやっぱりそれを良しとしなかったのね?」
「う……うぅ」
そう、そしてそれからまた三十分以上ディーンによる講義が行われたのだ。
アーシャはそれを聞きながらディーンに料理を教えてくれといった事を結構後悔していた。
「ディーンの気持ちもわかるけど、アイツも一度火が着くと限度ってものを知らないのよねぇ。どうする? もしアーシャがもう嫌になったっていうなら私から断ってあげるわよ?」
目の前の少女はいくら打たれても壊れないジェイとは違う、と一応思っているシャルはアーシャに問いかけた。
ジェイなら自業自得だからどうでもいいが、アーシャは心配だ。
なんなら手は遅いけど自分が料理を教えてあげてもいいとシャルは思っているのだ。
「あ、ううん、でもその後はちょっと楽しかったよ」
「あら、そうなの?」
「うん、結局ね、私が卵料理をあんまり食べないから調理の仕方で比べた事ないって言ったらディーンがヤケになったみたいで、何かすごい勢いで卵料理のフルコース作ってくれたの。美味しかったよ」
「あら、いいわね。役得ね!」
「うん、お腹いっぱいになっちゃった。毎回ディーンが作ってくれればいいのにな」
それでは本末転倒というものだろうが、ディーンの作る料理が美味しかったのは事実だった。
食堂と違って作っている手元を見ていられるのもとても面白かったのだ。
シャルはそんなアーシャの気持ちがわかったらしくクスクスと笑った。
「いいんじゃない? ディーンに作ってもらいながら手伝って覚えるって言うのも。美味しい味を覚えるのも大事だしね。
それにもともと本人が料理好きなんだからやらせて置いたっていいのよ。今どき男が料理を作ったって悪い事はないわ」
「ふーん、そういうもん?」
「そんなもんよ。だから来週は料理教室お休みにして私と洋服とか見にいかない?」
「んー……、じゃあ来週はそうしようかな」
「やった、決まりね! 今度服飾科の女の子も紹介するわね!」
シャルはにっこりと笑って半分ほど食べたケーキの皿を差し出し、アーシャのものと交換した。
アーシャはこうして友達とシェアすると味の違うケーキを楽しめるのだとシャルに教えてもらった。
「今度一緒にお菓子も作りましょうね。お祖母ちゃんから教わった簡単で美味しいのがあるのよ」
「うん」
アーシャは頷いて真っ赤な木苺を口に運んだ。
シャルが頼んだ季節のフルーツの乗ったケーキもとても美味しかった。
さっきまで食べていたチョコレート味の物とは全然違っていて、少し酸っぱい後味がさっぱりしていてとても好みの味だ。
ディーンはスパルタだけど料理を一生懸命教えてくれ、シャルはこうして女の子らしい事を少しずつアーシャに教えてくれる。
ジェイは今日お昼に会った時、こっそりとディーンの逆鱗に触れない方法を教えてくれた。
学校では教えてくれない日常の事を少しずつ、友人達が教えてくれる。
なんとなく、自分がちょっとだけ子供らしくなったような気がしてアーシャは嬉しかった。
「そういえば今朝はね、自分で目玉焼き作ってみたよ」
「偉いわアーシャ。そうよ、もう夏になるんだから生ものにはちゃんと火を通さないとね」
「うん、そうする。そんで今度ディーンが調理器具とか調味料とか食器とか買うの付き合ってくれるって言ってた。……昨日金串没収されちゃったし」
「あら、いいわね。じゃあどうせだから来週はジェイもつき合わせて皆で買い物に行こうかしらね? 荷物持ちが多いと楽でいいわ」
「荷物持ち……悪くない?」
自分の荷物を人に持たせるなんて気が引ける、というアーシャに、シャルはにこにこと笑って首を振った。
「男なんて普段そのくらいしか役に立たないんだからいいのよ。
あ、そうだ、料理するんだからアーシャに似合う可愛いエプロンも探さないとね!」
「エプロン……うん、欲しいなぁ」
ディーンとジェイがもしこの場に居たなら少女がシャルの持論に染められていくのをきっと止めた事だろう。
アーシャはそんなことは知らずに、エプロンに釣られて素直に頷いた。
初夏の学園はとりあえず今日もすこぶる平和だった。
シャルに女性としての在り方を教えさせたことを男二人が後悔したかどうかは定かではない。
了