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季節を彩る時代物短編集

紅葉 ひとひら 

作者: kagonosuke

その昔、時代小説にはまった時期がありまして、衝動のままに書いたものです。

秋になると、どうしても少し切ないお話が思い浮かびます。短編とするには、少し長めですが、少しでも興味をもたれた方はどうぞ。



 案内された部屋は、南側の庭に面した明るい場所であった。

 開け放たれた障子からは、柔らかな日差しが部屋の端の方まで差し込み、すっかり色づいた楓が目にも鮮やかだった。

 真飛斗(まひと)は、静かにその部屋の中程に臥している病人の枕元へ膝を進めた。

 目を閉じ、暫しの眠りに落ちたその頬は、肉が落ち、透き通るような白さで、かつての面差しを殆ど残してはいなかった。血の気のない青白い皮膚は、舞踊に付ける面のようで、微かな息の震えが虫の羽音の如く規則的に響いていた。

 なんという変わりようだろうか。

 真飛斗(まひと)は無意識に喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。

 人の気配に気が付いてか、床の中の病人は、閉じていた目をうっすらと開け、その首を僅かに動かした。

真飛斗(まひと)……ですか。よう、来てくれました」

 乾いた舌から草笛のような息が漏れ、病人の顔に微笑みとも諦めとも判じ難いような表情が浮かんだ。 そして、静かにその手を真飛斗の方へ差し出すとしっかりと目を合わせて囁いた。

「見ての通り、もう長くはありません。そこで……そなたに、願いを……一つ……聞き届けて……もらいたいのです。これが……最後になるでしょうから」

「何なりと仰せください」

 真飛斗(まひと)は差し出された手を己が両の手で包んだ。

 痩せて細くなったその手は、飴屋の細工物のように、そのまま、ややもすれば溶けてなくなってしまうのではないかと思える程だった。

「そなたの………本来の姿……を、せめてもの冥土の土産に……したいのです。こなたに」

 目で示された方を見やれば、立てかけられた屏風の前に一抱えほどの黒塗りの平箱が置かれていた。

「承知つかまつりました」

 真飛斗は立ちあがると、その平箱を両手に取り、隣部屋の襖の奥へ消えた。




 平箱の中には、一揃いの女物の小振り袖が畳まれてあった。落ち着いた紅色の楓をあしらった艶やかなものだった。

 真飛斗は、身に着けていた袴と小紋の青い小袖を脱ぎ、用意されていた着物に袖を通した。高く結い上げていた髪を解き、下の方に緩く束ねると同じ箱の中、着物の脇にひっそりと置かれていた小振りの貝を手に取り、その紅を少しばかり薬指の先に付けて唇に馴染ませた。

 支度が整うと静々と再び、元の場所へ戻った。

「お母様」

 その呼びかけに応えるように、病床の女の目には泪が浮かび、その一筋が頬を伝って流れていった。

「真飛斗………どうか、このかかさまを堪忍しておくれ。そなたには………ほんに……辛い思いをさせました」

 声にならぬ声を下に、真飛斗は懐紙でそっと母親の涙を拭ってやると、わざと明るい声を作るようにして微笑んだ。

「そのようにお気を弱くしてはなりませぬ。御医師の方の仰る通り、あと二三日もすれば、じきに良くなるのですから。精の付くものを明日にでも持ってこさせましょう」

 その言葉に母は力なく微笑んだ。

 その表情は、もうこの世の人のものではなく、驚くほどに澄んでいた。

「いいえ。旦那様が御迎えにいらしているのです。ほら、こなたに。私を呼んでおります。もう行かなくては」

 そして、再び、真飛斗と目を合わせると凛とした口調で言った。

真飛斗(まひと)、そなたは、紛れもない木津(きつ)の娘ですぞ」


 水が土に染み込み行くように、母の魂は地へと吸い寄せられていった。

 永遠の眠りに落ちた母の顔は、とても穏やかに見えた。口の端に微笑のようなものを浮かべ、まるで空を駆け回る夢を見る幼子のようだった。

 真飛斗(まひと)は、握っていた細い腕を布団の中に入れ、辺りを整えてやると、最後にもう一度、母に向かって呼びかけた。

「御父上が来てくださったのですね。これでやっと母上も肩の荷が下りたということですか。私の事は心配ご無用です。谷村の方々は本当に良くしてくださいます。この私を、まるで実の子を可愛がるように色々と目を掛けてくだすって。怨むどころか、逆に勿体ないほど。有り難く思っているのですよ。ええ。本当に。そう言っていいと思います」


 過ぎ去ってしまった時に対しては、もうとやかく口出しすることは出来ないのだ。昔の事をいつまでも根に持つのは、益のないことだった。それが、例え、人の生い立ちを狂わせるような過ちであったとしても。

 今ではそれが真飛斗(まひと)には分かっていた。

 父が亡くなり、自分が母方の親戚である谷村の家へ預けられるようになったことも、木津家筋での騒動を考えれば、その時の母にはそうするほか無かったのだろう。相談する相手もなく、全てを独り背に負って、母はどんなにか寂しかったことだろう。

 幼いころの真飛斗(まひと)は、母を許すことが出来なかった。己が境遇の惨めさが如何に口惜しく、母をその原因とみなして、その立場を慮ることが出来ずに、無理を言ったり、反抗をしたり、棘のある言葉で母を傷つけた。

 その記憶が、未だに胸の奥に苦いものを残し続けている。本当の心は、当人にしか分からない。人が後になって色々なことを口にしたとしても、それは決して的に当たらぬ弓矢に変わりはないのだ。そのことを理解するまでに、真飛斗(まひと)には時間が必要だったのだ。

 だが、その時が訪れるのを母は待つことが出来なかった。

 庭の楓が、風にそよぎ舞っていた。

 霜月も終わりになったというのに、稀に見るほどに麗らかな昼下がりであった。

 この穏やかな光の中をお母様は昇って行ったのだろうか。

 真飛斗(まひと)は人を呼び、後始末の事を二三伝えると、その日、尼寺を後にした。


 来るときに身に着けていた小袖と袴を入れた風呂敷包みを手に、そのままの姿で谷村の家へ向かった。

 真飛斗(まひと)はそれから自分が何処をどうやって歩いてきたのか、はっきりとは覚えていなかった。

 ただ、青々とした夕日を背に、河岸の堤の脇に生えた大きな柳の木が枝葉を揺らしていたこと、細い小路を一目散に掛けて行く子供等の声がこだましていたことが記憶の片隅に何故かはっきりと刻まれていた。


 どの位そのようにして町中をうろついていたのか、真飛斗(まひと)は少しも気に留めていなかったのだが、谷村へ戻った時分にはすっかり日が暮れていた。

 脇にある小さな潜り戸を開けて中に入ると、玄関先には灯りが灯り、谷村家用人の蔵方庄次郎(くらかたしょうじろう)が控えていた。

 真飛斗はその陶磁器の置物のようなのっぺりとした顔に浮かぶ眦の皺に、自分が家に帰って来たのだと感じた。庄次郎は真飛斗を見ても表情を変えなかったが、流れるような所作がほんの一瞬だけ止まったことを見逃さなかった。

 真飛斗はそれに小さく首を縦に振ることで答え、微かに微笑んでから戻った旨を伝えた。

 型どおりの挨拶を交わす。


 決して大きな声を出していた訳ではなかったのだが、ひっそりと静まり返った邸内に穏やかな低い声は思いの外、響いたようだった。

 人の声を聞きつけてか、真っ先に玄関先に顔を出したのは、谷村の娘で来春十九になる小春(こはる)だった。

 行儀悪くも、やや小走りで出てきた小春は、玄関先でつと足を止めた。

「もし、この時分にどちらさまでございますか」

 小春は目の前に居る小振り袖姿の年若い娘を見て、不思議そうに尋ねた。

 真飛斗は合点がゆかぬと言う風に微笑んだ。

「一体、どうなすったのです。私をお忘れですか。それともおからかいになっているんですか」

 その声を聞いて、小春はあっと息を飲み、目を瞠った後、挨拶もなしにすぐさま奥へ踵を返していった。

 そんなとんだじゃじゃ馬な娘の様子を真飛斗は用人と目配せをしてから、可笑しそうに見送った。


「お母様、お兄様、真飛斗さんがお戻りに」

 廊下を小春の甲高い声が響いた。

 真飛斗は用人と二言三言言葉を交わした後、そのまま玄関から上がり、声の方を辿って行った。

 廊下伝いに歩いて行くと遠くからこちらに向かう複数の足音が聞こえる。そして、直ぐに谷村家の主婦である波江(なみえ)と小春の兄である久之進(きゅうのしん)が、妹と共に姿を現した。

 真飛斗を目にした二人は、廊下の途中で足を止めると、一瞬、目を見張り、とりわけ、久之進は、真飛斗を見ながらも何度も目を瞬かせた。

「まぁ、真飛斗さん、無事でよかったわ。あちらから知らせが届いてから、余りにも帰りが遅いので、皆、気を揉んでおりましたのよ」

 育ちの良さを窺わせるおっとりとした物言いで波江が安堵の息を漏らした。

 それを聞いて、漸く真飛斗は、自分が谷村の人々を心配させてしまっていたことに思い至った。

「申し訳ありませんでした。直ぐにこちらに戻る積りだったのですが、どこをどう歩いていたのやら。よく思い出せないのです……」

 廊下に膝を着いて、やっとのことでそう答える。

 そして、心配を掛けたことを詫びるよう頭を下げてから上体を起こし、小さく微笑もうとした矢先に、真飛斗は崩れるように気を失った。




 人の気配に不意に気を取り戻した真飛斗の目に最初に留まったのは、ぼんやりとした行燈(あんどん)の明かりだった。

 ゆっくりと辺り見渡すと、目に馴染んだ襖や障子、簡素な文机が暗闇の濃くなった影の中、視界に入る。うっすらと闇に滲むようにして見える天井の板の間にある染みも記憶にあるものと寸分違わぬ位置にあった。

 それらをぼんやりと目にして、漸く自室に寝かされていることを悟った。

 真飛斗はもう一度ゆっくりと息を吐いた。

 先程、感じていた人の気配を窺うように。

 だが、部屋の中には、誰もいなかった。

 夢の中で、誰かがずっと寄り添うように傍に居て、右手を握っていたような感覚が、やけに生々しく残っていた。

 手首をそっと撫でてみる。

 が、別段、跡が残っている訳でもなく、そのまま、また、まどろみの中に引きずり込まれていった。


 盥を手に、屏風の後ろでじっと様子を窺っていた久之進は、真飛斗が再び眠りに落ちたのを見届けると、そっとその場を離れた。


 そのころ、別室では、主婦の波江と娘の小春が膝を突き合わせていた。

「お母様がお亡くなりになられたことが、余程、身に堪えたのでしょうね」

 憂いを湛えた眼差しで、波江はしみじみと口にすると徐にお茶の入った茶碗を手に取った。

「それにしても驚きました。一目には真飛斗さんだと分かりませんでしたもの」

「ええ、本当に。私も声を聞くまでは見知らぬどこぞのお嬢さんがいらしった位にしか思えませんでしたもの。真飛斗さんが女人だと言うことは聞かされておりましたけれど、実際に娘の姿をしたのを見たのは今日が初めてですものね」

 なにやら感極まったように小春が口にした。

「こちらの方も余りに突然の事で動転してしまいましたわね」

 恥入るように波江は微笑んだ。

「それにしても、真飛斗さん、人が違ったほどお綺麗でしたね。普段は軽やかで人好きのする方でしたけれど、どこか男らしさを感じさせるような立ち振る舞いをなさっていらしったのに」

 と小春は、うっとりと先程目にした真飛斗の様子を思い返しているようだった。

「でも、お辛かったでしょうね。あれ程の器量よしの方が、理由は分かりませんけれども、長い間本当の事を隠していなさった訳ですもの。それに、何に対しても不平不満一つ零さずに、いつもにこやかに笑っておりましたから。いつも一緒に居た久さんはいい話相手になっていたかしら」

 母の述懐を聞いて、不意に小春は、さも可笑しいと言う風に笑い声を堪えて続けた。

「お母様、真飛斗さんを見たときのお兄様の御顔をご覧になって。本当に何といったらいいのかしら」

 思い出したのか、小春は、もう我慢がならないと言うように肩を震わせた。

「こら、小春さん。はしたないですよ。久さんは久さんで大層心配をしていたのですから、私共だって、本当に驚いたには違いがありませんよ」

 娘を窘めるように見遣った後、波江は、ふと遠くを見るように顔を上げた。

「そうねぇ……………」

 波江は、小春の言葉に何か考えを巡らしているようだった。

 その顔には、何かよい考えが浮かんだときにのみ表れる満面の笑みが浮かんでいた。

 娘の小春は、その母の思案顔を同じような微笑みを口元に浮かべて眺めやった。




 初七日も無事に過ぎ、四十九日も迎えようとするころには、真飛斗はすっかり女らしくなっていた。

 着物は木津の家から持ってきたものや、母の形見のものがいくつか手元に残っていたし、谷村の波江も年頃の娘が一人増えたことが嬉しいのか、色々と世話を焼いてくれた。娘の小春も急に姉ができたような心持で嬉しくて仕方がないのか、しきりに真飛斗の所へ遊びに来たり、お茶に誘ったりと、中々真飛斗を離さなかった。

 女物の着物に袖を通すようになってからの真飛斗は見違えるほどに美しかった。元々、色が白く、細くすんなりとした線の細い性質だったが、立ち振る舞いから、髪を結い上げ、ほんのりと紅を挿すことで、またとない女としての艶めかしさが加わり、見る者は目を瞠らずには居られなかった。

 言葉遣いや声の調子も以前のように無理に作った所がなく、ごく自然に落ち着いて行った。時折見せていた、どこか思いつめたような表情の硬さもその間に溶け、娘特有の柔らかさが面に滲むようになっていた。その変化が余りにも自然で、この屋敷に居るものは主の谷村主殿を始めとして、皆、真飛斗に惹きつけられるのを感じていた。


 谷村家の長男である久之進も真飛斗の変わりように息を飲むものの一人だった。

 以前は、穏やかな気性ながらも微笑みの絶えない、年の割には線の細すぎる弟分のような目でしか真飛斗を見ていなかったが、実の母亡くなって以来、唐突に、年頃の娘としての艶めかしさというか初々しさをもって久之進の意識の中に入ってきたのだ。

 久之進は、始め、事実を知らされても、俄かには信じ難かった。

 常々、男の割には優しい面立ちをしているとは思ってはいたが、真飛斗はそういうものだと思っていた。同じように稽古を積んでいた道場では、剣術の腕もなかなかのもので、居並ぶ門下生達とも控え目ながらもにこやかに言葉を交わしていた筈だ。

 暫くは狐に抓まれたような心持だったが、よくよく思い返してみれば、思い当たる節がないことは無かった。


 谷村家主の主殿(とのも)は、実の姉である真飛斗の母親、鈴与から事の真相を聞かされていたが、それを家のものには伝えていなかった。

 木津家の内情を谷村の家に持ち込むことをよしとしなかったということもあるが、それが姉である鈴与のたっての願いでもあった。武家とはいえ、幼子が受け入れるのには、余りにも過酷な現実に思えたのだ。

 谷村の家に来た時、真飛斗は十になるかならないかで、母の鈴与は病床に着き縁の尼寺に居た。家族と離れ離れになり、さぞかし寂しい思いをしているだろう幼子を口さがない噂話で傷つけたくは無いという主殿(とのも)の配慮でもあった。それから真飛斗は、離れに一室を貰い、ごく少数の信の置ける口の堅い側近だけが、男として育てられてき女児の存在を知り、内々に世話を焼くことでひっそりと暮らしてきたのだ。

 そんなこんなで、久之進が真飛斗を取り巻く真実を知ったのはごく最近の事であった。それまでは、離れに居候する親戚の預かり子、そんな認識だったのだ。小さい頃から同じ屋敷内に居るとは言え、母屋と離れの行き来は然程なく、周囲の者たちの配慮もあったのだろうが、久之進は真飛斗が女であるなどとは露も思ってもみなかったのだ。


 日が経つにつれて、匂い立つような女らしさを纏ってゆく真飛斗の変化に久之進は酷く胸が騒いだ。

 久之進は、もう二十五にもなるが、このような気持ちを女人に対して抱いたのは初めてだった。仲間内でも縁談や料理茶屋の芸子のことが話題に登ったりはするが、どれも他人事のような遊びとしての感覚で、こんなにも心の奥を鷲掴みにされるような気持ちになったことは無かった。

 だが、そんな己の心の変化を久之進は表に出すことはしなかった。久之進の中では、まだ、自分を慕うあどけなさの残る弟分の姿と蛹が孵化した蝶の如く伸びやかに振る舞う娘の姿が重なるようで重ならなかった。

 久之進は、真飛斗を取り巻く周囲の変化に戸惑いながらも、遠目にその様子を見守っていた。

 姿を変えて以来、お互い、忙しさにかまけて、以前のように親しく言葉を交わす機会が無かった。これまでは、実の弟のようにそれなりに目を掛けていただけに、なんだか、絶えず身に着けていたものを急に剥ぎ取られるようで寂しくも感じていた。

 だが、それは久之進にとってはよいことでもあった。冷静に、客観的に気持ちの整理をする時間を与えられたに等しかった。

 それから暫くは、同じ屋敷内に居ながらも、殆ど言葉を交わさぬ日々が続いていた。別に互いを避けている訳ではなかったのであるが、年の瀬も近づき、そのような機会が無かったのだ。久之進の勤める勘定方でも、処理を必要とする仕事が多くなり、忙しい日々が続いていた。




 寒さが少し弱まり、久し振りに暖かな日差しが差した師走の初め、予定より仕事が早く切り上がった久之進は、下城後、市中を覗いていた。

 表通りは、物を売り歩く行商の呼び声も高く、冬場特有の澄んだ空気の中に、往来の賑やかさがきらきらと反射して、目を差すようだった。

 その途中、とある小間物屋の見世先で、一つの櫛が目に留まった。黒い漆塗りの地に花の細工が施されたもので、その形が珍しく、ちょっと目を引いた。

 それをみて、久之進は、久しく顔を合わせていない真飛斗の顔を思い出した。

「真飛斗に似合いそうだ」

 小さく独りごちる。

「髪を飾るものなど、余り持っていないだろうに。どれ、一つ、買ってやるか」

 久之進は、妹の小春よりも真っ先に真飛斗のことを思い浮かべた自分を面映ゆく思いながらも、小間物屋の主を呼んだ。

「この御櫛でございますか。こちらはまだ入ったばかりの、ほんに新しいもので御座います。お武家さまもお目が高い。これはうちの職人が工夫を凝らしたものでして、この形が変わっておりますでしょう」

 とにこやかに久之進の方を見遣りながら、饒舌に語り始める。

「贈り物でございますか。年若い方にはいっそお似合いのことでしょう。こちらに合わせる簪も色々と用意してございますが。如何いたしますか」

 次から次へと此方が碌に返事もしない内に矢継ぎ早に言葉が出て来る。

 まるで年若い男客の反応を楽しんでいるかのようだった。

 久之進は、妙な意地から、慣れぬことながらも出来るだけ対面を保とうとして態とぶっきら棒に『まぁ、そのようなところだ』と言葉少なに話を切り上げ、包みを受け取るとそこを後にした。


 見世を出た所で、運がいいのか悪いのか、納戸方(なんどがた)に勤める道場仲間の杉田半之助に出くわした。

「久之進ではないか。今日はもう上がったのか」

 半之助は立ち止まると、しきりに小間物屋の見世先と久之進の顔を見比べながら、思わせ振りな笑みを浮かべた。

「こんな見世先でお主に会うのも珍しい」

「要らぬ詮索は無用だ」

 険もほろろに切り捨てた久之進を半之助は豪快に笑い飛ばした。

「まだ何もきいてはおらぬぞ。ははは。なに、お主にもようやっとそのような女子が現れたということか。こいつは祝わねばなるまい。これから中野と『湖上亭』へ出かけるのだが、お主もどうだ。美味い酒が入ったと言っていたぞ」

 久之進は相変わらず酒に目がない半之助に笑いながら答えた。

「生憎だが、今宵はちと用事があってな」

「そうか、そいつは残念だ」


 二人して暫く往来を歩きながら話をしていると右手の道から声を掛けるものがあった。

「お二人お揃いでどちらへ」

 声のした方に振り返ると、そこに髪を結い上げ、藤色の小袖を身に付けた真飛斗が微笑んで立っていた。

 突然のことに久之進自身も酷く驚いたのだが、それを敢えて悟られぬように慌てて取り繕った。

「これから戻る所だ。途中、この半之助に出くわしてな」

 真飛斗は半之助に軽く目礼をした。

「お久しゅうございます。杉田様もお変わりございませぬか」

 声を掛けられた一方の半之助は、はて誰であったかとしきりに首を捻りながら久之進と真飛斗を見比べている。

「はて、それがしは、そたなのような美しい女子と知り合いかな。そなたほどの人ならば忘れはせぬのだが………」

 真顔で首を傾げる様子の半之助に真飛斗は可笑しそうに小さく笑った。

「まだお分かりになりませぬか」

 真飛斗は、不意に真面目な顔つきになって、空いている片方の手で銚子を傾ける真似をしてみた。

「『半之助殿、今宵もどこぞで一杯ですか』」

 とかつての声音を作ってみると、

「なんと。まさか、真飛斗か」

 真飛斗は穏やかに微笑んだ。

 杉田半之助は狐にでも化かされたように目を見開き、暫くは、開いた口も塞がらぬという驚きようであった。

 つい二月ばかりも前には、互いに酒を飲み交わしたという程の仲であったのだから、尚更、無理もなかった。其れほどまでに真飛斗は変わっていたのだ。

「暫く見ないと思ってはいたが、…………なんと…………これでは分かるまい」

 その驚きを横目に久之進は、真飛斗の取った些か大胆過ぎる振る舞いに、ある種の戸惑いを感じずには居られなかったが、半之助の余りの驚愕ぶりが可笑しくもあって、口を挿んだ。

「まぁ、仔細はこの次にでもということで。お主は『湖上亭』への途中であったのだろう。大方、あそこの藤野でも待たせているのではないか」

 久之進が隣を見遣れば、半之助はつるりと顔を一撫でした。

「ああ、そうであった。なんだかすっかり酔いが醒めたような心持だ」

「なんだ。もう一杯ひっかけていたのか」

「いや、あくまでも、喩えだ。喩え」

 それから半之助は、旧知の道場仲間である二人を順繰りに見比べて、一人頷きながら、『それではここで失礼するとしよう』と言い残し、そこの道を左に折れて姿を消したのだった。




 半之助が去ってから、久之進と真飛斗の二人は互いに目を見交わしながら、笑いが止まらなかった。

 このまま表通りにいるのもなんだか気が引けて、裏の横道に自然と足が向いて行ったのだった。

 一通り笑いの発作が鎮まった所で、真飛斗は久之進の傍らに立つと、ほつれかけた(びん)が風にそよぐのをなんとはなしに眺めていた。

「杉田殿も相変わらずですね」

「『こればかりは止められぬ』といった所だろ。ああ、冥加なるかな」

 久之進は半之助の声音を真似すると少しおどけた様に口にしてから、真飛斗の方を振り返った。

「ところで、真飛斗もこのような時分にどうした」

「谷村のお母様の御遣いで、お届けものと買い物を少しばかし」

 真飛斗は、胸に抱いた風呂敷包みをそっと持ち上げて見せた。

「どれ、持とうか」

 その申し出に真飛斗は首を横に振った。

「一人で出かけたのか」

「はい。別に供の者を付ける必要もありませんし、道も分かっておりますから」

 淡々と帰ってくる真飛斗の言葉に久之進は俄かに気色ばんだ。

「だが、このように暮れかけたら、一人では危ないだろうに」

 如何にも案じているというように出された声音を真飛斗は擽ったそうに笑った。

「どうしたんですか。急に。何かあったとしても、そう易々とはやられません。久さんだって御存じでしょう」

 つい二月ほど前は、往来を独りで出歩いていても何も言われなかった。

 真飛斗自身は変わらぬ積りであるのに、姿形を変えただけで、急に心配をされる。その周囲の反応が可笑しくもあり、心苦しくもあった。

「そうであったな。いつぞやの突きにはこの俺も冷や汗をかいたからな」

 久之進は思い出すように笑った。

「冗談ばっかり。久さんには敵うわけはないですよ。それに………久さんだって、もう立ち合ってはくださらぬでしょう?」

 ちらりと久之進を流し見て、そう微笑んだ真飛斗の横顔は、何かを隠しているようで、どこか寂しげでもあった。

 結い上げた髪の項が、澄んだ夕空に一層青白く見えた。

 これは、着ているものの所為だろうか。それとも髪の結い方の所為だろうか。

 そのようなことは、以前なら少しも気にならなかったというのに。

 久之進は、そのようなことを不思議に思った。


 二人はそのまま、河岸の堤にやってきた。遠くに対岸の旅籠や料理茶屋が立ち並び、店先に灯りが燈されて行くのが見えた。堤の脇に植えられた柳が、冷たくなった風に身を任せて、ゆらゆらと舞を舞っていた。

 この時分の川岸は、表通りの賑やかさとは裏腹に酷く寂しげだった。枯れて白茶けた叢が広がり、寒々としている。まるで、ありとあらゆる場所の冬が、一遍に訪れて吹きだまりになったみたいに。

 真飛斗は、不意に感じた言い知れぬ孤独感に身が竦む思いだった。

 久之進もいつかは自分から離れて行く。谷村の家も。

 自分はこの河岸と同じで、人が気に留めぬままに時の移ろいに色褪せて行く。どうしようもないほどの寂寥感と切なさに身が粉々に砕けそうだった。

 このまま消えてしまえたら、いっそ、どれだけ楽かも知れない。それが出来ない現実が妙にもどかしく感じられたのだった。


「どうだ。もう落ち着いたか」

 不意に落ちた声に顔を上げると、久之進が幼子を労わるような穏やかな目をして真飛斗を見つめていた。その声には、いつになく深い優しさがありありと滲みでていた。

 真飛斗は胸が締め付けられるような心持だった。そのように優しくされることが、却って、今の自分には辛かったのだ。

 なんと罰当たりなことだろう。

「ええ。もうすっかり」

 そう言って、真飛斗は吐き出した言葉の中に、己が胸の蟠りを隠した。

 そして、ゆっくりと足を進めながら、ぽつりぽつりと語り始めた。

「本当に早いものですね。もう四十九日が待っているのですもの。お母様が亡くなってから、色々と考える余裕ができたんです。こうして育ってきたことや諸々の事柄。今までは自ら進んで考えようとしなかったことが、最近は一遍に湧いて出て来るようで。一時は母を恨めしく思ったこともありましたが、もう、いいんです。私はこうして、ここに命永らえている訳ですし、昔のことを今更掘り返してみたとて、何の役にも立たないですからね。母上も父上も、あのときは、そうするしかなかったのでしょう。今では、素直に、仕方がなかったと思えるのです。綺麗事だけではこの世の中は動いてはいかない。人は、其々に、程度の差こそあれ、様々な汚濁を抱えて生きている。それを何とかして取り繕うと思ってみても、やはり、何処かで覆いは破れてしまうものなのでしょうね。でも、その醜さこそが、本来の人の姿なのだろうと最近になって漸く分かった気がするんです」

 細々とした述懐に久之進は穏やかに合槌を打った。

「そうかもしれないな。そなたはそなたで、前を見て歩いてゆけばいい。そのうち色々な人に出会い、喩え、困難なことがその身に降りかかったとしても、己を見失わなければ、そなたはそなたでいられる。この世に真飛斗は一人しかおらぬ。誰にとってもだ。それをしかと心に留めておかなくては」

 真飛斗は久之進を仰ぎ見ると、そっと微笑んだ。

「本当に。久さんを始め、谷村の方々にはご迷惑をお掛けしてばかりですね」

 真飛斗は、頭上を雁が列を成して遠くへ飛びゆく様を目で追っていった。

 そんな真飛斗の口振りを久之進は窘めるように見つめた。

「どうしたのだ。他人行儀になることは無いぞ。真飛斗は谷村の娘も同然なのだから、何一つ気兼ねなどすることはない」

「でも、本当に、谷村のお母様や小春さんには気を使ってもらってばかりで申し訳なくて……」

「なに、母上も小春も嬉しくて仕方がないのだろう。お主を片時も離さぬのはあやまるがな」

 眉を顰めて見せた久之進に真飛斗は小さく声を立てて笑った。

「久さんとも、このようにお話しするのは本当に久し振りですね。あれ以来、久さんもお忙しそうでしたし、同じ屋敷内とは言え、なかなかゆっくりとする機会がありませんでしたもの」

 でも、安堵いたしました。久さんとは、元のままでいたかったから………。

 最後の言葉尻を飲み込んで、隣を見上げた真飛斗の目はとても澄んでいた。

 かつてと少しも変わらぬ黒目がちの美しく輝いた双眸が、久之進の心を捕らえていた。

 真飛斗は少しも変わっていない。変わったのは周りにいる者の方で、真飛斗は以前のままだ。そう思うと、久之進は嬉しかった。

 そして、周囲の反応に振り回された形となった嘗ての自分に赤くなる思いだった。


「そうだ。そなたに渡したいものがある」

 不意に思い出したように顔を上げると、久之進は袂から小さな紙包みを取り出し、真飛斗の手に握らせた。

 問い掛ける眼差しに一つ頷いて見せた。

「もうすっかり暗くなってしまったから、戻ってから開けるといい。大したものではないがな」

「私にですか」

 吃驚して顔を上げた真飛斗に、

「ああ。言っておくが、大したものではないぞ」

 柄にもないことをして照れが勝るのか、久之進は同じことを二度繰り返して、つと視線を外した。

「ありがとうございます」

 真飛斗は受け渡された包みを大事そうに懐に収めると、心の中で、ありったけの謝意の言葉を述べた。

「さて、そろそろ、戻るとするか」

 暮れかかった堤の上にあった二つの歪な影は、そっと寄り添うようにして、少しずつ小さくなっていった。


 その夜、自室に戻った真飛斗は、行燈の明かりを引き寄せると、懐から久之進から貰った小さな紙包みを取り出した。

 震える指を無理に動かして恐る恐る開けてみると、ちょうど、掌の半分ほどの大きさの櫛が入っていた。黒塗りの漆地に金や銀で紅葉の細工がなされた、実にきらびやかなものだった。中でもその両端が神社の屋根を思わせるように反りが入っていて、その形が珍しく目を引いた。

 真飛斗はそっと櫛を手に取ると、鏡の前にかざして髪に挿してみた。

 そのまま鏡にぼんやりと映ったもう一人の娘の姿に、自分を重ね合わせようと試みた。

 鏡の中の娘の口元が自然に緩んでゆく。その様を見詰めながら、真飛斗は、明日、久之進になんとお礼を言おうかと言うことで頭が一杯になっていた。

 谷村の家に来た当初から、久之進は真飛斗にとって兄のような存在だった。

 年の離れた実の兄と父親を相次いで亡くした真飛斗にとって久之進の背中は、懐かしくもほろ苦い遠い記憶を蘇らせる温かさと切なさを併せ持っていた。久之進は、いつも陰から真飛斗を気遣い、何くれと相談に乗ってくれた。真飛斗にとって、久之進は自分でも気が付かぬうちに大きな、掛け替えのない存在になっていたのだ。

 だが、その気持ちは、真飛斗の中にだけ、そっと錠をしてしまってあった。真飛斗は、それに自分で戒めを掛けていた。




 真飛斗が久之進の縁談のことを耳にしたのは、年が明けて如月の初めに入ろうかというころだった。

 その日は、朝から小雪がちらつき、辺りは一面、白一色の世界が広がっていた。屋根も木々も、目の届くところ全てに雪が薄らと降り積もっていた。

 真飛斗は、障子を開け放し、縁側に腰掛けて、雪が落ちて来るのを眺めていた。

 天の途中から、どこからともなく湧きでて来る白く冷たい小さな塊を飽かずに見つめていた。

 額、頬、前に差し出した掌に落ちては溶けて行く小さな雪の一片。

 寒さは感じなかった。

 ただ、永遠に止む事のない時が、この雪と共に真飛斗を粉々に吹き去ってしまうように思えた。


 真飛斗は髪に挿した櫛をそっと撫でてみた。

 真飛斗の気持ちは揺れていた。久之進は、真飛斗にとっては、兄であり、父であり、その縁談を素直に喜ぶべきなのだ。久之進もそう願っている筈だった。

 それなのに…………。

 真飛斗はこれまで余り意識をしたことのなかった、疼くような胸の奥の痛みに驚き、当惑していた。

 これは、嫉妬なのだろうか。

 久之進との距離は決して縮まないことは分かっていた。それはここに来た当初から、分かり切っていたことだ。木津家での騒動は、御城下では表沙汰にはならなかったものの、交わりの合った人々の中に、後味の悪い負の印象を与えていた。十年という月日が経ったとしても、一度植えつけられた印象というのは、それが負のものであるがゆえに、中々、人々の記憶からは消えなかいが為に、そのしこりはまだ存在した。

 真飛斗自身、その出自を恥じ、追い目に思うことは無かったが、木津を名乗ることによる相手への影響を分かってはいた。それが谷村の家、即ち、その後継ぎである久之進に迷惑を掛ける形になってしまうのを非常に恐れていた。また、谷村の恩に仇を売るようなことは絶対にしてはならないと肝に銘じていた。

 …………だというのに。

 それを素直に受け入れられない自分がいる。その己が気持ちの醜さに嫌気を催さずには居られなかった。

 この雪に自分の心はどんなにか黒く映るだろうか。

 真飛斗はそっと溜息を吐いた。




「おめでとうございます」

 茶を勧めると、真飛斗は出来るだけの笑顔を作って、久之進に話しかけた。

 仮にも谷村の家に居候する身として、長男である久之進の縁談は、家の将来にとっても喜ぶべきものである。

 真飛斗は遅ればせながら気付く羽目になってしまった心の内をこのような時になって久之進に知られてはならなかった。

「なにがだ?」

 久之進は読みかけの書物を閉じ、真飛斗を振り返ると怪訝な顔をして見せた。

「そのようにお惚けになっても無駄ですよ。みんな、御存じなんですから」

「妙な謎かけだな」

 ふと、久之進は真飛斗の髪飾りに気が付いた。この間、久之進が小間物屋で買い求めた櫛が豊かな黒髪を飾っている。

「うむ。よく似合っているぞ。俺の見立ても満更ではなかったということか」

 なにやら甚く満足げに頷いた久之進に、真飛斗はすぐさま髪に手を当て、少し頬を染めると、ふいと横を向いた。

「そうやって。お話を御逸らしになるなんて」

 その横顔に笑みを漏らすと久之進はずいと膝を進めて、胡坐を掻くと真飛斗の手を取り、己が方に引き寄せた。

「どれ、それでは聞くとしようか」

 真飛斗は久之進に手を預けたまま、その目を見つめていた。

 久之進の目には、いつもと変わらない穏やかで慈しみの深い色が浮かんでいる。

 それを見つめていると、何故か、涙が溢れて来た。

 真飛斗は自分でも吃驚して、慌てて袂で滲みゆく視界を隠そうとした。それを制するように久之進は真飛斗を身体ごと傍らに引き寄せた。

 久之進は、真飛斗の涙をそっと指で拭い、濡れた頬や瞼に、幾度も優しく唇を寄せた。

 目のふちから、頬に優しく当てられていた大きな骨ばった手が、ふいに襟元に割って入り、露わになった白い胸元に熱い吐息が掛かった時、真飛斗は急に我に帰り、身を引いた。

「いかがした?」

 乱れた襟元を繕いながら、真飛斗は久之進の居室の床の間に飾られた香炉を眺め、それから何事もなかったかのように笑みを浮かべて言った。

「これからお嫁さんを御貰いになる方が、戯れにも斯様なことをなさってはいけませぬ」

 それから徐に姿勢を正すと、前に両手を付いた。

「ご縁談がお決まりになりましたそうで、おめでとうございます」

 急に改まった形で、深々と頭を下げた真飛斗に驚いたのは久之進の方だった。

「真飛斗、その話は誰から聞いた?」

「小春さんですよ」

 その答えに苦笑をして見せてから、久之進は言葉を継いだ。

「では、相手は誰か聞いておらなんだな?」

「はい、そこまでは」

 久之進が嫁を貰う。その事実が真飛斗に衝撃をもたらした。その時点で、相手が誰であるかなどとは気にも留めなかった。真飛斗にとって、久之進が酷く遠い存在になってしまう。そう言う意味では、相手が誰であろうとも同じであったからだ。それを掘り下げてまでして聞こうという心の余裕は、まだ真飛斗には無かったのだ。


「それでは、改めて聞かせるとしよう」

 今度は、久之進が姿勢を正して、徐に真飛斗に向かいあった。

 突然の申し出に、真飛斗は、身体が竦む思いがした。

 出来れば、その話は、久之進の口からは聞きたくはなかった。

 だが、ここでうろたえてはならない。

 再び溢れそうになる涙を、真飛斗は寸での所で堪える。

 顔を上げた真飛斗をひたと見て、久之進は柔らかく微笑んだ。

「真飛斗。そなたが、谷村の新しい嫁だ。この久之進のな」

 真飛斗の目が驚きに見開かれた。

 それから、再び、先程とは反対の意味で、じわりじわりと黒目がちの双眸が揺らぎ始めた。

「いやか?」

 少しおどけた様に口にした久之進に、真飛斗はくしゃりと顔を歪ませて、首を何度も横に振った。

 言葉にはならなかった。

 余りのことに、天と地が引っくり返るような心持だった。

 そのような真飛斗の様子に久之進は膝を進めると、先程と同じように震える背中を引き寄せた。

 真飛斗はされるがまま、久之進の胸に顔を埋めた。ぎこちなく背に回した手にほんの少しだけ力を込めて、これが夢でないことを祈るのだった。


拙い作品ですが、ここまで読んでくださってありがとうございました。

過酷な運命に翻弄されながらも、逞しく生きてゆく女性を描けたらと思いました。そして、秋から冬、春へと移り変わる季節感に、主人公を取り巻く状況の変化が乗せられたらと。個人的には、思い入れのある作品です。

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― 新着の感想 ―
[一言] はじめまして 九之進と真飛斗がお互いをすごく思いやっていることが、さりげない仕草や会話を通して伝わってきました。 もう一度読み返したいな、と思う良い作品でした。
[一言] 主人公のキャラクターがいいなと思いました。 難しい漢字にルビをふってあって読みやすかったです
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