第五章 囁く影
王都の石畳に秋の風が降りてきた。
祭の幕は下り、人々の声は静かになり、代わりに小さな不満や噂があちこちで芽を出した。
市場では塩の値が上がったと主婦が眉をひそめ、酒場では北方の兵に支給が滞っていると兵士が声を潜めていた。
笑いの裏に、影が混ざりはじめていた。
私は施療院に通い続けていた。
癒すたび、光は確かに人を支えたが、列の最後尾にはいつも疲れた顔が並んでいた。
尽きぬ痛みを前に、掌の温もりがどこまで届くのか、時折胸に小さな疑念が芽生えた。
けれど、笑ってくれる人が一人でもいる限り、歩みを止めるわけにはいかなかった。
ある日、院を出ると、裏路地に小柄な少年が立っていた。
髪は埃にまみれ、着ている布は擦り切れていた。
少年は私を見ると一歩踏み出した。
「……助けて」
声はかすれていた。
「弟が、連れていかれた」
私は膝を折り、目の高さを合わせた。
「誰に?」
「徴兵だって……でも弟は、まだ十歳なんだ」
喉が痛むほどの言葉に、私は息を詰めた。
夜、寝台の上でその声を思い出した。
徴兵令は年齢を定めている。十歳の子が対象になるはずはない。
それでも「連れていかれた」という現実があった。
数字の帳簿に不審があったことを、思い返した。
歪んだ収支と、曖昧な名目。
叔父の領地と繋がる影が、そこに潜んでいるのかもしれなかった。
翌日、私はレオンに告げた。
「子どもが徴兵されたと聞きました」
レオンは短く頷き、声を潜めた。
「噂は他でもある。兵の補充を急ぐあまり、規律が崩れている」
「本当に急ぐ必要があるのですか」
「……分からない」
彼の眼差しは真っ直ぐだった。
「ただ、兵を増やす理由が正しいかどうか、確かめる必要がある」
私の胸に、薄い冷気が落ちた。
戦は終わったはずなのに、影は形を変えて続いていた。
数日後、宰相邸での茶会に呼ばれた。
卓上には菓子が並び、香り高い茶が注がれた。
貴婦人たちが笑い交わす中、宰相は私に低く言った。
「英雄の名には力がある。あなたが声を上げれば、人は従う。だが、その声は使い所を誤れば、国を乱す」
眼差しは静かだが、言葉は鋭かった。
「慎みを忘れるな。英雄は国のものだ」
私は茶器を握りしめた。
温かさは皮膚を通したが、心には届かなかった。
その夜、私は塔の屋上に立った。
風が頬を撫で、街の灯が遠くに揺れていた。
英雄という鎖の下で、私の声はどこに向けるべきなのか。
囁く影は確かに広がっていた。
私は胸に手を当て、目を閉じた。
鼓動が答えるように響いた。
その音だけは、私自身のものだった。




