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第四章 英雄の鎖

 凱旋の行列は、王都の石畳を花で覆った。

 窓から身を乗り出した子どもが手を伸ばし、花びらが鎧の上に落ちた。

 歓声が波のように押し寄せ、私は手を上げた。

 笑顔は作れたが、胸の奥の音は沈んでいた。

 私の名が呼ばれ、光の名が続き、女神という言葉が混ざった。

 そのたびに、土の匂いと焼けた声が蘇った。


 王宮の大広間は、昼の光で満ちていた。

 王が玉座から立ち上がり、祝辞が読み上げられ、金糸の肩章が私の肩にかけられた。

 布は柔らかいのに、重さは鎖のようだった。

「エリシアよ、汝はこの戦を終わらせた」

 王の声が穏やかで、場の空気が温かかった。

 私は膝をついて頭を垂れた。

 視界の隅で、叔父ディラードの口元が上がり、叔母マリーナの指が扇を鳴らした。


 夜の宴で音楽が流れ、杯が回り、果実の香りが甘かった。

 私は何度も祝意を受け、何度も礼を返した。

 貴族が次々に話しかけ、領地の話や婚姻の噂が卓の上で踊った。

 銀の皿に肉が切り分けられ、蜂蜜で煮た根菜が輝き、パンは焼き立てで湯気を上げていた。

 一口ごとに味は確かだったが、喉を通る喜びが薄かった。

 ふかふかの寝台が用意され、薄絹の天蓋に灯が揺れた。

 私は横になったが、目蓋の裏が冴えた。

 寝台は柔らかいのに、眠りは固く閉じていた。


 翌朝、叔父夫婦が私室に現れた。

 執事を下がらせると、ディラードは笑みを整えた。

「誇らしい日だ、エリシア」

「あなたは家の光よ」

 マリーナの声は甘く、手は私の肩にそっと置かれた。

 爪が小さく皮膚に触れ、そこだけ冷たかった。

「王宮には恩がある。礼を形にせねばならぬ」

 ディラードは言葉を一つずつ並べた。

「宰相殿との会食がある。お前の席を用意した。声を掛ける順も決めてある」

 私はうなずいた。

「うまく立ち回って、場を温めるの」

 マリーナの瞳は笑っていたが、私の返事を待っていなかった。

 扉が閉まると、室内の空気が少し軽くなった。


 王都の生活は、予定という文字で埋まった。

 朝は祈りの広場での挨拶、昼は負傷者のための施療、夕は貴族との会談、夜は宴席。

 衣装係が色と布を選び、侍女が髪を結い、言葉が口元で整えられた。

 私は指示に従い、用意された道を歩いた。

 人は私に手を伸ばし、癒しを求め、涙を零して礼を言った。

 掌に光を集めるたび、胸の重さは少しだけ薄れた。

 光が戻る道筋は、昨日より早く、今日より静かだった。


 礼拝堂の石床に膝をついた日、少女が抱かれて運ばれてきた。

 痩せた肩に包帯が巻かれ、瞳は怯えていた。

 私は掌を置き、光を通した。

 傷は細く閉じ、少女は不意に笑った。

 私は笑い返した。

 その笑顔は、宴の讃美よりも重かった。

 生きてくれてありがとうという言葉は、小さな声で十分だった。


 しかし、夜になると別の声が集まった。

 「英雄はどの家に縁を結ぶのか」

 「王家の側近に相応しい」

 「明日の演説で、税の正当性に触れてほしい」

 文官が丁寧に依頼を持ち込み、言葉は礼で包まれていた。

 断れば恩知らずになり、受ければ誰かの重荷になる。

 私は一つずつうなずき、可能な範囲で言葉を薄めた。

 光は人を癒すのに、口から出る音は人を縛った。


 レオンとは、廊下の曲がり角でよく会った。

 彼は礼を失しない距離を保ち、短い声で安否を問うた。

「眠れているか」

「少し」

「食べているか」

「少し」

 彼は眉を寄せ、歩調を合わせて数歩進んだ。

「任務で一緒だった時より、顔色が悪い」

「鎧より衣装の方が重いのかもしれません」

 私がそう言うと、レオンは苦笑した。

「重さの形が違うだけだ」

 彼は言葉を継がなかった。

 沈黙は廊下の灯より柔らかかった。


 王宮の庭園で行われた祝祭の日、私は噴水の前で挨拶をした。

 言葉は用意され、拍手は予定通りに重なった。

 若い貴族が笑顔で近づき、杯を差し出した。

「あなたの光は王国の誇りです」

 私は礼を述べ、杯に口をつけた。

 ぶどう酒は甘く、喉の奥に温かさを残した。

 視界の端に、ディラードの影が見えた。

 彼は人脈を渡り歩くように立ち位置を変え、私の近くに停まった。

「次に紹介するのは金融官僚のゴルダ。資金の流れを握る者だ。笑顔を忘れるな」

 声は平坦で、言葉は命令だった。

 私は笑顔を作った。

 握手の間に、指先だけが冷えた。


 夜の宴で、私は王家の親族と席を並べた。

 彼らは美しい衣をまとい、談笑に長けていた。

 私に向けられる視線は敬意と好奇心で、時に計算で光った。

「身の上はよく知られているのかしら」

 誰かが軽く問うた。

 叔母が優雅に答えた。

「孤児だったけれど、今はわたくしたちの誇りです」

 その言い方は、私の生と彼らの功績を一緒に包んだ。

 私は杯を置き、痛みを飲み込んだ。

 拍手と笑いの中で、自分の名前が遠くにあった。


 ある夕刻、施療の帰りに市場の外れを歩くと、話し声が耳に入った。

「北の道、通行税が倍になったらしい」

「あの家の領地だろ」

「英雄が出た家は強気だな」

 言葉は小さく、笑いは乾いていた。

 私は足を止め、背筋を伸ばし、歩みを戻した。

 石畳の隙間に小さな草が生えていた。

 草は踏まれても立っていた。

 私はその強さの意味をまだ持っていなかった。


 数日後、王宮の書庫で式典の台本を写していると、書記官が封筒を机に置いた。

「領地の収支報告です。閲覧の許可が出ています」

 許可の理由は明記されておらず、封蝋には叔父の印が押されていた。

 私は封を切り、数字を追った。

 収入の列が不自然に膨らみ、支出の欄外に注記が重なっていた。

 孤児収容の費用が別の項に移動し、名目が曖昧に書き換えられていた。

 胸が冷え、指が止まった。

 書記官は何も言わなかった。

 紙の端が少し擦れていた。

 誰かの手が既にこの痛みに触れていたのかもしれない。


 レオンに会った。

 廊下の端で、彼は立ち止まった。

「顔色が、また悪い」

「数字が、喉に引っかかって」

 私の言葉は不器用だった。

 彼は目を細め、声を落とした。

「話せる場所が要る」

 私たちは塔の踊り場に向かった。

 窓が開き、風が入った。

 王都の屋根が重なり、夕焼けが薄く広がっていた。

 私は封筒を差し出した。

 レオンは一枚ずつ目を通し、短く息を吐いた。

「これは、誰のための数字だ」

「分かりません」

「分からないままで、終われないな」

 彼は封筒を戻した。

「確かめたい」

 私の声は、思っていたより小さかった。

「なら、確かめよう」

 レオンの返事は、それ以上でも以下でもなかった。

 その簡潔さが、私の足場になった。


 夜、寝台に沈むと、布団は身体を包んだ。

 柔らかさは変わらず、眠りは浅かった。

 遠くで時計が鳴り、廊下の灯が消え、静けさが伸びた。

 私は掌を見た。

 光の痕は見えなかったが、施療の感触が皮膚に残っていた。

 癒せることは救いで、救えなかったことが鎖だった。

 英雄という言葉は、誰かの期待という重さを帯びていた。

 それを肩に載せて立つことはできたが、膝は時々揺れた。

 私は深く息を吸い、吐いた。

 息は肺を満たし、夜気が入れ替わった。

 それだけで少し軽くなった。


 翌朝の広場で、私は短い挨拶をした。

 言葉は簡潔で、祈りは短かった。

 施療の列は長く、私は順番に手を置いた。

 少年の擦り傷が薄くなり、老兵の咳が和らぎ、産婦の不安が静まった。

 人の体は、触れれば反応を返した。

 光の道筋が確かであるほど、私は自分の居場所を見つけられた。

 この場所だけは、命令では動かなかった。


 昼、宰相の執務室で再び会食があり、叔父は私の隣に座った。

「領地の回復が急務だ。お前の名で寄進を募りたい」

 言葉は整っていた。

 私は頷き、条件をいくつか求めた。

 寄進の用途を明確にすること、孤児院の管理に第三者を入れること、税の増徴を凍結すること。

 ディラードの笑みが薄く歪んだ。

「細かい」

「光は細かく照らします」

 私の返事は自分でも驚くほど滑らかだった。

 叔母は扇を閉じ、膝の上で静かに指を組んだ。

「あなたは変わったわね」

「覚えることが多いだけです」

 私は器にスープを流し込んだ。

 温度は適切で、味は丁寧だった。

 温かいものが体を通り、指先まで届いた。

 この温かさを、現実に運びたいと思った。


 夕暮れ、塔の屋上に出た。

 風が髪を揺らし、街の匂いが混ざって上がってきた。

 屋根瓦に猫が歩き、鐘の音が遠くで重なった。

 私は胸の奥の小さな場所に集中した。

 戦場の翌朝に見つけた、風の入る場所。

 そこは狭く、しかし消えなかった。

 私は目を閉じた。

 夜が少し早く降りてきた。

 星はまだ少なく、空は明るかった。

 それでも、最初のひとつが灯る瞬間は、いつも分かった。


 下から足音が上がってきた。

 レオンだった。

 彼は柵の向こうを見てから、私の隣に立った。

「今日の風は機嫌がいい」

「はい」

 私たちは並んで立ち、何もしなかった。

 沈黙は、誰かの声を待っていなかった。

 胸の中の場所に、風が出入りした。

 私は小さく息を吸い、吐いた。

「確かめます」

 言葉は短かった。

 レオンはうなずいた。

「俺もいる」

 それだけで足りた。


 夜になり、灯が一つずつ消え、王都が眠りに入った。

 私は寝台に戻った。

 布団は相変わらず柔らかく、羽毛は静かに戻った。

 今夜は、目蓋の裏に薄い闇が広がった。

 眠りは浅いかもしれないが、最初の一歩は近かった。

 私は掌を胸の上に置いた。

 そこにある鼓動は、明日のためだけに打っていた。

 英雄という名が上からかぶさっても、内側の音は私のものだった。

 小さな光が胸の底で瞬き、消えずに残った。

 それは約束ではなく、合図に近かった。

 私はその合図を忘れないと決めた。

 明日、数字の向こうへ進むために。

 明日、光の行き先を自分で選ぶために。

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