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第三章 血と炎の海で

 出征の号令は朝の空気を割った。

 詰所の鐘が震え、兵舎の扉が次々に開く。

 私は鎧の紐を締め、杖を抱え、列に入った。

 足は冷え、指先は乾いていた。

 胸の奥で小さな火が揺れたが、それは温かさではなかった。


 城門を出ると、街の色が後ろへ流れた。

 土の道の先に、雲が低く垂れ込めている。

 騎兵の息が白く、車輪が泥を跳ねた。

 レオンが隣で歩幅を合わせる。

「怖いか」

「はい」

「俺もだ」

 それだけでよかった。

 言葉は短いほど、心に残った。


 国境の丘に、旗が並んでいた。

 敵国の紋章が風を切る。

 陣幕の向こうで太鼓が鳴る。

 私は喉を鳴らした。

 水は飲めたが、味はしなかった。


 初めの矢は音だけで来た。

 空が低く唸り、前列の兵士が一歩沈む。

 次の矢は見えた。

 黒い線が頭上を走り、土に突き刺さる。

 私は肩をすくめ、杖を握り直す。


「魔術師、前へ」

 団長グラウスの声が背を押す。

 私は列から出た。

 土の匂いが強く、金属の匂いが混ざった。

 足もとの草は泥に沈み、踏むたびに音を立てた。


「炎、三連。距離三十」

 命令は刃のように切れた。

 私は腕を上げ、胸の奥に熱を集めた。

 火は来た。

 私は撃った。

 光が走り、敵の盾に当たり、爆ぜた。

 声が上がり、煙が立った。

 もう一度。

 また一度。

 体はよく動いた。

 心は固まったままだった。


 敵が近づく。

 槍の先が光る。

 私は風を呼び、刃に変えた。

 人影が崩れる。

 崩れた影に顔がある。

 目がある。

 私は目を見た。

 世界が揺れた。


「止まるな」

 背中で怒号が弾ける。

 私は踏み出し、また撃った。

 炎はよく伸びた。

 風はよく切れた。

 斜めの雷が土を裂き、土の中の石が跳ねた。

 耳が熱く、足が軽いのに重かった。


 戦いは形を変えた。

 騎兵が丘の肩から降り、土煙が波のように広がる。

 私は風を広げ、蹄の前に壁を立てた。

 馬が息を吐き、兵が宙を舞う。

 落ちた兵が私を見た。

 驚きが混じった目だった。

 その目が閉じる。

 胸が冷えた。


「いいぞ、押せ」

 声が遠くで響く。

 私は押した。

 押すほど、後ろへ下がりたくなった。

 杖を振るたび、体が前へ出る。

 心だけが後ろへ引かれる。

 足と心の綱が軋む。


 やがて、呼び名が変わった。

「鬼がいるぞ」

 どこかの兵がそう言った。

 誰を指しているのかは分かった。

 私のことだった。

 胸の内側に小さな亀裂が入る。

 そこから音が漏れた。

 自分の音だった。


 私の炎が人を包み、私の風が皮膚を裂いた。

 それは事実で、言い訳はなかった。

 私は剣を持っていないが、同じことをしていた。

 守ろうとするほど、壊す数が増えた。

 守ろうとしなければ、壊れるのは仲間だった。

 選べる日は、初めから来ていなかった。


 時間は引き伸ばされ、同時に縮んだ。

 瞬きの間に十人が動き、十歩の間に空の色が変わる。

 土煙の向こうで旗が倒れ、泥の上で足が滑る。

 叫びは同じ言葉を繰り返す。

 私は意味を拾えなかった。

 音だけを拾って、撃った。


 ふいに、誰かが私の腕を掴んだ。

 レオンだった。

 顔に泥が走り、目だけが真っ直ぐだった。

「戻れ。深く行きすぎだ」

 私はうなずき、半歩引いた。

 引いた場所にも血があった。

 足の裏で温度が変わる。

 温かさは現実だった。


 丘の向こうで太鼓が止んだ。

 敵の列が沈み、別の列が前に出た。

 新しい盾が光り、新しい槍が伸びる。

 同じ形が続き、違う顔が倒れた。

 私は撃ち続けた。

 止める理由が見つからなかった。

 止めない理由は命令だった。


 次の瞬間、私は膝をついた。

 空気が薄く、胸が入らない。

 吐き気が波のように押し寄せる。

 火の匂いが喉を擦り、鉄の味が舌に残る。

 杖が滑り、土に落ちた。

 指が震え、爪が土に沈む。


 目の前に、焦げた手が見えた。

 その手は私の方へ伸びかけて止まっていた。

 私はその先の顔を見なかった。

 見たら、次が撃てなくなる。

 それが分かっていた。

 私は目を閉じ、しかし耳を塞げなかった。


「エリシア!」

 名前が呼ばれ、私は顔を上げた。

 レオンの声だった。

 彼の肩が赤く濡れていた。

 彼の向こうで、若い兵が胸を押さえて倒れた。

 血が指の隙間から溢れ、土に吸い込まれた。

 兵の目が私を見ていた。

 助けてという形に近い目だった。


 体が動いた。

 私は四つん這いで近づき、手を伸ばした。

 兵の胸に触れた。

 皮膚は熱く、血は滑り、鼓動は浅かった。

 遠くで誰かが叫んだ。

 私は聞かなかった。

 手の中で何かが変わった。


 熱の流れが反転した。

 火ではない。

 光が、掌の下で静かに膨らんだ。

 まぶしさは刃ではなく、ひだのように柔らかかった。

 傷口がゆっくり閉じ、血が引き、呼吸が深くなった。

 兵の胸が上下し、目が開いた。

 彼は言葉を探し、それを見つけられない顔になった。


 私は次の兵に手を伸ばした。

 光は私を選んだ人のように、ためらわず出た。

 切り裂かれた腕が繋がり、折れた骨が収まり、肺の泡が静まった。

 泣き声が笑いに変わり、呻きが息に戻った。

 敵の列が滲み、槍が下がった。

 彼らの目が光を追った。

 誰も近づかなかった。

 近づく必要がなかった。


 私は立ち上がった。

 足の震えは消えていないが、倒れなかった。

 光は掌に留まり、私の脈と一緒に薄く脈打った。

 私は歩いた。

 倒れている者の間を渡り、手を当て、次へ進んだ。

 指先が覚えた手順のように、光は流れた。


 時間がゆっくりになった。

 太鼓は戻らず、矢は止まり、風の音だけが伸びた。

 誰かが祈る声を上げ、誰かが「女神」と叫んだ。

 私は女神ではなかった。

 そう思うより先に、ひとりの名を覚えた。

 レオン。

 彼の肩にも手を置いた。

 血が温かく、肉が固く、痛みが彼の顔に皺を作っていた。

 光はそこにも入った。

 彼は息を吐き、目を閉じ、また開いた。

「……生きてるな」

 それが彼の言葉だった。

 私はうなずいた。

 うなずくことしか出来なかった。


 やがら、戦場は静かになった。

 敵は退いた。

 退くというより、止まった。

 止まって、武器を下ろし、互いを見た。

 私たちも武器を下ろした。

 誰も勝利を叫ばなかった。

 叫ぶ声は場違いに思えた。


 私は空を見た。

 雲は薄く、色は鈍く、風は冷たかった。

 その冷たさは体を刺したが、刺し傷は浅かった。

 深い傷は別のところにあった。

 午前に撃った炎が、午後の光の中で黒く立っていた。

 そこに人がいたことを、地面が覚えていた。


 ひと息ついた時、膝が緩んだ。

 土が近づき、視界が低くなった。

 私は両手をつき、呼吸を数えた。

 光は消えていなかったが、弱くなっていた。

 手の中の温度が下がる。

 私は掌を握りしめた。

 熱を逃したくなかった。


 背に影が落ち、団長の靴音が近づいた。

 グラウスは短く言った。

「お前の働きで、今日の地獄は短くなった」

 私は答えなかった。

 褒め言葉に形はあったが、重さは測れなかった。

 団長は続けた。

「この力は王国のものだ」

 私は顔を上げた。

 言葉は喉の奥で止まった。

 それは後のことだった。

 今は誰のものでもなかった。

 今は、ここにいる者のためにだけ使われた。


 夕方、負傷者の列が短くなり、担架が空になった。

 私は座り、手を眺めた。

 同じ手で、人を焼き、人を繋いだ。

 どちらも消せなかった。

 指の節が白く、爪に土が入り、皮膚に光の痕が薄く残った。

 ふかふかの寝台の感触が、遠い場所の記憶になった。

 温かいスープの匂いが、遠い季節の匂いになった。

 戻れば、またそこにあるのだろう。

 今は、ここにしかない。


 夜、焚き火が点いた。

 火は小さく、炎は低く、静かに揺れた。

 私は火を見た。

 同じ火なのに、目が違えば意味が違った。

 今日は、暖を取るための火だけが残ればいいと思った。

 誰も焼かない火だけが残ればいいと思った。


 レオンが隣に座った。

 彼は無言で水を渡した。

 私は受け取り、少し飲んだ。

 冷たい水が喉を通り、肺の奥に落ちる感覚がした。

「ありがとう」

 彼はうなずいた。

 火の光が彼の頬に揺れた。

「お前の手は、まだ震えている」

「止まりません」

「止まらなくていい」

 彼は火を見た。

「震えがあるうちは、人でいられる」

 私は火を見た。

 火は揺れた。

 揺れる火は、まだ火だった。


 夜風が乾いていた。

 遠くの陣から歌がひと節だけ流れ、すぐ途切れた。

 星は少なかった。

 少ない星は、かえって数えやすかった。

 私はひとつ数え、息を吸い、ひとつ数え、息を吐いた。

 掌の光は完全には消えなかった。

 微かな脈が、皮膚の下で続いていた。


 明日になれば、勝利の報せが街へ届くのだろう。

 人々は歓声を上げ、花を投げ、私の名を呼ぶのだろう。

 その声に、私は笑えるだろうか。

 分からなかった。

 ただ、ひとつだけ分かった。

 この光は、私の中で眠っていた。

 誰かに教えられたものではなかった。

 誰かの命令で出るものでもなかった。

 それを知ったことだけは、今日の地獄の中で確かなことだった。


 私は手を膝に置き、目を閉じた。

 焼けた匂いはまだ漂い、土の冷たさはまだ残っていた。

 それでも、胸の奥に小さな場所が空いた。

 そこに風が入った。

 風は弱く、音は細く、長くは続かない。

 けれど、たしかに入った。


 眠りは浅く、夢は短かった。

 夢の中で私は、寝台に背を預けていた。

 羽毛の感触が背中に広がり、毛布の縁が頬に触れた。

 スープの湯気が目の前に立ち上り、パンの香りが指に残った。

 私はそこから起き上がらずにいた。

 起き上がれば、また土に戻ると知っていたからだ。

 夢の中の自分は、動かないことで、何かを守っていた。


 朝が来る。

 私は目を開ける。

 空は薄く、風は冷たい。

 光はもう掌にはない。

 それでも胸の奥の小さな場所には、まだ風があった。

 私は立ち上がる。

 足は震えたが、前に出た。

 今日も命令は来る。

 私は選べない。

 選べないことの中で、選べるものがひとつある。

 どこへ手を伸ばすかは、私が決める。


 焚き火の灰が白く、朝の光で薄く光った。

 私は杖を拾い、握り直した。

 手のひらの線に、昨夜の光がかすかに残っている気がした。

 気のせいかもしれない。

 それでも、そう感じることは許される。

 許されるだけで、少し息がしやすくなった。


 丘の向こうに旗が揺れ、号令が重なった。

 私は列に入り、レオンの影の隣に立った。

 彼は短くうなずき、前を向いた。

 私も前を向いた。

 土の匂いは続き、空の色は変わらなかった。

 それでも胸の奥の場所には、風があった。

 それが今日のすべてではなかったが、今日を歩くには足りた。


 歩きながら、私はひとつだけ願った。

 火が暖を取り、光が命に触れ、風が肺に入る日が、必ずあるように。

 それは祈りというより、仕事の続きに近かった。

 私は仕事を続ける。

 壊す手の隣に、繋ぐ手を置いて。

 その二つが同じ手であることを、忘れないまま。


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