私の婚約者の悪役令嬢、断罪イベントを目前になぜか完璧超人に。まさか彼女、転生者ですか?
ヘッセン王国公爵家の嫡男、ヴェルナー・フォン・ヘッセン。それが、私の名前だ。
輝くような金髪に、理知的な青い瞳。誰もが羨む眉目秀麗な容姿と、次期公爵という揺るぎない地位。傍から見れば、私はこの世の幸運を一身に受けた存在に映るだろう。だが、私の内側には、誰にも語れぬ秘密と、一つの大きな使命があった。
私は、転生者だ。
前世の記憶――、現代日本の平凡な学生だった頃の記憶を持って、この世界に生を受けた。そして、この世界が『紡ぐ恋と祝福のプレリュード』、通称『ツムプレ』という乙女ゲームの世界そのものであることに、幼い頃に気づいてしまったのだ。
私はそのゲームで、ヒロインが最初に攻略対象とする王子様系のキャラクターだった。そして、そんな私には婚約者がいる。バーデン侯爵家の令嬢、ヘルミーナ・フォン・バーデン。彼女こそ、ゲームにおいてヒロインを執拗にいじめ抜き、最後には私から婚約を破棄され、家門もろとも没落する運命にある悪役令嬢であった。
「ヴェルナー様、またあのような平民と……。公爵家嫡男としての自覚をお持ちなさい!」
学園の中庭で、平民出身の友人たちと談笑していただけで、ヘルミーナは扇子で口元を隠しながら、鋭い声でそう言い放った。艶やかな銀髪を揺らし、強い意志を宿した紫の瞳が私を射抜く。彼女の美しさは、まるで精巧に作られた氷の彫像のようだった。だが、その唇から紡がれるのは、常に他者を見下し、自らの家柄を誇示する傲慢な言葉ばかり。
ゲームのシナリオ通り、彼女はこの物語のヒロインである男爵家の令嬢リリー・シュタウテに対しても、事あるごとに辛く当たっていた。教科書を隠す、ドレスに飲み物をこぼすなど、その手口は陰湿かつ幼稚で、悪役令嬢としての役割を忠実に演じているとしか思えなかった。
私は、そんな彼女を心の底から疎ましく思っていた。いや、思うようにしていた。それが、定められた物語の筋書きなのだから。
私の使命は、この物語をハッピーエンドに導くこと。それはつまり、悪役令嬢ヘルミーナを断罪し、ヒロインであるリリーと結ばれる未来を掴むことだ。そうしなければ、やがてこの国は大きな動乱に巻き込まれ、私も含めた多くのキャラクターが不幸な結末を迎えることを、ゲームの知識として知っていた。破滅を回避するためには、非情にならなければならない。それが、この世界で生きていくための私の覚悟だった。
「リリーさん、大丈夫かい? 怪我はなかったかな」
「ヴェルナー様……。ありがとうございますぅ。私、またヘルミーナ様に何かしてしまったのでしょうか……」
私の腕の中で、蜂蜜色の髪を震わせ、リリーが翠の大きな瞳を潤ませる。庇護欲をそそるその姿は、まさしくゲームのヒロインそのものだった。彼女の純粋さに触れるたび、私は自分の選択が正しいのだと、そう信じ込ませていた。このか弱く心優しい少女こそ、私が守るべき存在なのだと。
卒業記念パーティーまで、あと一月。
その日、私は多くの貴族たちの前で、ヘルミーナの罪を断罪し、婚約破棄を宣言する手筈になっていた。リリーの取り巻きたちが集めた証拠も、すでに揃っている。あとは、運命の日を待つだけだ。
そう、待つだけだったのだ。あの事故が起きるまでは。
それは、学園の講義棟と図書館を繋ぐ大理石の階段でのことだった。
その日、私は次の講義の資料を探しに図書館へ向かっていた。踊り場に差し掛かった時、階上から甲高い声が聞こえてきた。ヘルミーナとリリーの声だ。また何か揉めているのか、と私は眉をひそめ、足を速めた。
「あなたのような卑しい身分の者が、ヴェルナー様の隣に立とうなど、百年早いですわ!」
「そ、そんな……。私はただ、ヴェルナー様とお話がしたいだけで……」
「お黙りなさい! その甘えた声を聞くだけで虫唾が走るわ!」
階段を駆け上がると、ヘルミーナがリリーの肩を突き飛ばそうとしている瞬間が目に入った。ゲームにもあったイベントだ。ここで私がリリーを庇い、ヘルミーナを非難する。それが正しき物語の流れ。
「やめるんだ、ヘルミーナ!」
私は叫び、二人の間に割って入ろうとした。リリーは私の声に気づき、驚いたように目を見開く。そして、ヘルミーナも。彼女の紫の瞳が、一瞬、私とリリーを捉え、その動きが僅かに止まった。
その、ほんの僅かな硬直が、運命の歯車を狂わせた。
リリーの足元に、なぜか水溜まりができていた。おそらく、誰かが運んでいた花瓶の水をこぼしたのだろう。突き飛ばされそうになったリリーは、その水溜まりに足を取られ、バランスを崩した。
「きゃっ!」
悲鳴を上げ、リリーが私の方へ倒れ込んでくる。私は咄嗟に彼女の体を受け止めた。
だが、そのリリーを避けようとしたヘルミーナが、逆に自らの体勢を崩したのだ。
「え……?」
呆然とした声が、彼女の唇から漏れた。完璧に着こなされたドレスの裾が、宙を舞う。彼女の紫の瞳が、信じられないものを見るように大きく見開かれていた。スローモーションのように、彼女の体が大理石の階段を転がり落ちていく。
ゴン、と鈍い音が響き、踊り場の壁に頭を強く打ち付けたヘルミーナは、そのまま動かなくなった。艶やかな銀髪が、血のにじむ額に張り付いている。
静寂が、辺りを支配した。私の腕の中ではリリーが小さく震えており、階段の下には、悪役令嬢がぴくりとも動かずに倒れている。
ゲームのシナリオに、こんな展開はなかった。
ヘルミーナが自ら階段から落ちるなど、あり得ない。彼女は断罪される側であり、このような同情を誘う形で舞台から退場するキャラクターではなかったはずだ。
何かが、おかしい。
私の心臓が、嫌な音を立てて脈打っていた。静かに、しかし確実に狂い始めた物語の歯車を前に、私はただ立ち尽くすことしかできなかった。
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ヘルミーナ・フォン・バーデンが意識を取り戻したのは、事故から三日後のことだった。
バーデン侯爵家の屋敷は、王都でも一、二を争う壮麗な建築物だが、この三日間は重苦しい沈黙に包まれていた。
私は公爵家の嫡男として、そして何よりも彼女の婚約者として、毎日見舞いに訪れていた。無論、その心の内は複雑だった。彼女の身を案じる気持ちが皆無だったわけではない。だがそれ以上に、予定外の出来事に対する混乱と、今後の計画への影響に対する懸念が渦巻いていた。
「ヘルミーナ様が、お目覚めになりました」
侍女の言葉に、私は息を呑んだ。案内された寝室の扉を開けると、豪奢な天蓋付きベッドの上で、ヘルミーナが上半身を起こしていた。額には痛々しい包帯が巻かれているが、その顔色は思ったよりも悪くない。
「ヘルミーナ、気がついたのか。気分はどうだ?」
私は努めて穏やかな声で語りかけた。いつもなら、彼女は私を見ると、得意げに微笑むか、あるいは不機嫌そうに眉をひそめるか、どちらかだった。だが、ベッドの上の彼女は違った。
艶やかな銀髪は枕に広がり、強い意志を宿していたはずの紫の瞳は、静かな湖面のように何の感情も映していなかった。彼女はゆっくりと私に視線を向けると、小さく、そして平坦な声で言った。
「……ええ。ご心配をおかけしました、ヴェルナー様」
その声を聞いた瞬間、私は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「~ですわ」という、芝居がかった高慢な語尾がない。感情の起伏が全く感じられない、まるで機械が言葉を発しているかのような無機質な響き。私が知っているヘルミーナ・フォン・バーデンの声ではなかった。
「記憶に、何か混乱は?」
医者の言葉を思い出し、私は尋ねた。頭を強く打ったのだ。記憶喪失くらいは覚悟していた。
すると彼女は、その静かな紫の瞳で私をじっと見つめたまま、こう答えた。
「いいえ、問題ありません。私の名前はヘルミーナ・フォン・バーデン。バーデン侯爵家の長女。そして、あなたの婚約者。ヘッセン王国公爵家嫡男、ヴェルナー・フォン・ヘッセン様……」
淀みなく紡がれる言葉に、間違いはない。だが、その口調は、やはり別人のものだった。以前の彼女ならば、「私のことを忘れるなど、あり得ませんわ」とでも言い放っただろう。
「そうか、それなら良かった」
安堵すべき場面なのだろう。だが、私の胸には言いようのない違和感だけが広がっていく。まるで、美しい人形の体に見知らぬ魂が宿ってしまったかのような、不気味ささえ感じた。
彼女の変化は、それだけではなかった。
見舞いを終えて私が部屋を辞去しようとすると、彼女は私を呼び止めた。
「ヴェルナー様」
「なんだい?」
「今回の事故の件、リリー・シュタウテ様には、どうかお咎めなきよう、よしなにお取り計らいください」
「……何?」
私は思わず聞き返した。リリーを目の敵にし、事あるごとに貶めようとしていたあのヘルミーナが、彼女を庇うようなことを言うなど、天地がひっくり返ってもあり得ないはずだった。
「事故の原因は、彼女にあるのではありません。床が濡れていたことによる、不慮の出来事。そう認識しております」
淡々と、事実を報告するかのように彼女は言う。その紫の瞳に、リリーへの憎悪や嫉妬の色は微塵も浮かんでいなかった。
「……わかった。君がそう言うのなら」
私はそう答えるのが精一杯だった。寝室の扉を閉め、長い廊下を歩きながら、私の頭の中は混乱の極みにあった。
別人だ。間違いなく、別人だ。
事故で頭を打った影響で性格が変わってしまった、と説明するには、あまりにも変化が劇的すぎる。まるで、これまでの傲慢で自己中心的な令嬢の人格が、綺麗さっぱり消え去ってしまったかのようだ。
その日から、ヘルミーナの異常さはさらに際立っていく。
療養中でありながら、彼女は自室に大量の書物を取り寄せ始めた。内容は、歴史、法律、経済学、そして領地経営に関する専門書ばかり。これまで彼女が手に取るのは、流行のドレスのカタログか、恋愛小説くらいだったというのに。
バーデン侯爵が見舞いに訪れた際には、こう言ったという。
「お父様、当家の領地経営について、いくつか改善すべき点があると考えます。まずは、北部の農地における水路の非効率性についてですが……」
侯爵は娘の突然の変貌に度肝を抜かれ、言葉もなかったと、後日人づてに聞いた。
学園に復帰してからの彼女は、さらに周囲を驚かせた。
これまでは取り巻きを侍らせ、常に輪の中心で高笑いしていた彼女が、一切の無駄口を叩かなくなった。休み時間も一人、窓辺の席で静かに書物を読んでいる。
以前の彼女を慕っていた……、というより、権力に媚びていた、令嬢たちが話しかけても短い返事しか返さず、感情を排した論理的な口調で会話を打ち切ってしまうため、誰もが気味悪がって離れていった。
そして、彼女は私に対しても、まるで関心がないかのような態度を取り続けた。
廊下ですれ違っても、軽く会釈をするだけ。以前のように婚約者であることを笠に着て馴れ馴れしく言い寄ってくることも、リリーと話している私に嫉妬の視線を向けることも、一切なくなった。
それは、私が望んでいた状況のはずだった。彼女が私に執着しなくなること。リリーに手出しをしなくなること。計画を進める上で、これほど好都合なことはない。
だというのに、私の心は晴れなかった。むしろ、日に日に不可解な謎が大きくなっていく。
「ヴェルナー様、ヘルミーナ様、なんだか少し怖いですね……」
中庭のベンチで、リリーが不安そうに呟いた。
「以前のように意地悪をされることはなくなったんですけど、何を考えているのか全然わからなくて……。あの瞳で見られると、まるで心の中を見透かされているみたいで……」
「気にする必要はないさ。彼女も事故のことで、少し気が動転してしまっているだけだろう」
私はリリーを慰めながらも、彼女の言葉に同意せざるを得なかった。今のヘルミーナのあの静かな紫の瞳は、確かに人の内側を射抜くような深さを持っている。以前の、感情に任せて喚き散らしていた彼女の方が、よほど御しやすかった。
断罪イベントの日は、刻一刻と近づいている。
しかし、肝心の悪役令嬢が、悪役らしい行動を一切取らなくなってしまった。これでは、リリーの取り巻きたちが用意した糾弾のシナリオも、根幹から揺らいでしまう。
計画に生じた最初の、そして致命的な疑念。
私は、この変貌してしまった婚約者を前に、どう動くべきなのか、全く見当がつかなくなっていた。彼女の冷淡な態度は、私から興味を失った証なのか、それとも、何か別の、私の知らない巨大な計画の一部なのか。
謎に包まれた婚約者の横顔を遠くから眺めながら、私はこれから訪れるであろう運命の激変を、まだ予感することしかできなかった。
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ヘルミーナの変貌は、その内面や学園での振る舞いだけに留まるものではなかった。それはやがて、ヘッセン王国そのものの在り方さえも揺るがす、巨大な奔流となって顕在化し始める。その始まりは、彼女の実家であるバーデン侯爵家の領地からもたらされた。
「公爵様、バーデン侯爵領が、にわかに活気づいているとの報告が上がっております」
父であるヘッセン公爵の執務室。私は父への定期報告のために訪れていたが、話題はいつしかバーデン家のことになっていた。
「活気づいている、とは?」
「は。長年赤字続きであった鉱山の経営が黒字に転換し、さらには痩せた土地であった北部の農地から、見たこともない品種の小麦が驚くほど収穫された、と。にわかには信じがたい話ですが、報告は複数から上がっており、事実と見て間違いございません」
執事の報告に、私は耳を疑った。バーデン領は、王都に近いという立地こそ良いものの、産業に乏しく、その財政は常に侯爵家の権威と体面を保つために火の車であったはずだ。それが、にわかに?
「誰がやったのだ。侯爵本人に、そのような才覚があったとは到底思えんが」
父の冷徹な問いに、執事は一瞬ためらうように間を置いた後、信じられないという口調で答えた。
「それが……、発案者は、ご令嬢のヘルミーナ様、であると」
ヘルミーナ。その名を聞いた瞬間、私の思考は停止した。あの、ヘルミーナが? 流行のドレスと宝石にしか興味のなかった彼女が、領地経営に?
報告によれば、療養中であったはずのヘルミーナは、自室から矢継ぎ早に指示書を領地の代官に送っていたらしい。
鉱山の排水路の構造的欠陥を的確に指摘し、新たな採掘工法を指示。農地に対しては、連作障害を回避するための輪作の導入と、寒冷な気候に強い新種の小麦の種子を提供したという。その知識が、一体どこから来たというのか。
この一件は、瞬く間に貴族社会の噂となった。これまでの傲慢で愚かな令嬢という評価は鳴りを潜め、代わりに類い稀なる才女という囁きが聞かれるようになる。
学園内でも、彼女を見る目は明らかに変わっていた。以前は彼女を遠巻きに気味悪がっていた者たちが、今や畏敬の念を込めてその動向を窺っている。
私は、その変化を最も間近で感じながら、ただただ混乱するばかりだった。彼女の行動は、私の理解の範疇をあまりにも超えすぎていた。これはもう、事故で性格が変わったというレベルの話ではない。まるで、何十年も国政に携わってきた老練な政治家か、あるいは未来を知る預言者のような所業だった。
そして、王国を震撼させる決定的な事件が起こる。
王国の西部に広がるシュヴァルツヴァルトの森。そこは古来より魔物が生息する危険地帯であり、近年、その活動が活発化していることが懸念されていた。
王国騎士団が定期的に討伐隊を派遣していたが、森の奥深くに潜む魔物の群れの規模は拡大する一方で、ついに近隣の村々を襲う事態にまで発展していた。
騎士団は大規模な討伐遠征を計画したが、問題は群れの統率者であるエンシェント・ゴーレムの存在だった。古代魔法によって生み出されたとされるその魔物は、物理的な攻撃をほとんど受け付けず、騎士団も手をこまねいていたのだ。
その報せが王宮を駆け巡り、誰もが有効な手立てを見出せずにいた、まさにその時。
バーデン侯爵を通じて、王家に一つの進言がなされた。
「エンシェント・ゴーレムの討伐、我が娘ヘルミーナが引き受けたく存じます」
その言葉は、王宮会議を嘲笑の渦に巻き込んだ。一人の令嬢が、王国騎士団ですら手を焼く古代の魔物を討伐するなど、狂気の沙汰としか思えなかった。だが、ヘルミーナ本人は、討伐の具体的な作戦計画書を添えて、王の裁可を求めた。
その計画書は、あまりにも緻密で、あまりにも論理的だった。ゴーレムの動力源であるコアの魔法的性質を分析し、それを無力化するための古代魔術の理論が、詳細に記されていたという。
結果として、彼女の進言は特例として認められた。もちろん、万が一に備え、騎士団の一部隊が後方に控えるという条件付きで。
私は、いてもたってもいられず、父に願い出て、その討伐作戦にオブザーバーとして同行する許可を得た。自分の目で確かめなければならなかった。私の婚約者が、一体何者なのかを。
シュヴァルツヴァルトの森の入り口に設けられた前線基地。そこに現れたヘルミーナは、優雅なドレスではなく、動きやすい乗馬服に身を包んでいた。しかし、その凛とした佇まいは、戦場という殺伐とした雰囲気の中にあって、なお際立っていた。
彼女は、集まった騎士たちを前にしても臆することなく、冷静沈着に作戦を説明する。
「エンシェント・ゴーレムのコアは、物理的衝撃ではなく、特定の周波数を持つ魔力振動にのみ感応します。私が詠唱する古代語の呪文は、その魔力振動を発生させるためのもの。私が詠唱を開始したら、皆さんはゴーレムの注意を引きつけてください。ただし、深追いは不要です。目的は時間稼ぎにあります」
その言葉に、騎士たちの間から疑念の声が上がる。
「お嬢様、失礼ながら、それはあまりに机上の空論では?」
「我々が命を張っている間に、呪文とやらが失敗したらどうなさるおつもりか」
無理もない。彼らにとっては、侯爵令嬢の道楽に付き合わされているようなものだろう。だが、ヘルミーナは動じなかった。彼女は静かな紫の瞳で騎士たちを見据え、ただ一言、告げた。
「私の責務は、この国と民を守ること。そのために、この命を使うことに躊躇はありません。皆さんも、自らの責務を果たしてください」
その声には、有無を言わせぬ凄みがあった。もはや誰も、反論の言葉を発することはできなかった。
作戦が開始されると、すべては彼女の計画通りに進んだ。
騎士たちが陽動としてゴーレムの注意を引く中、小高い丘の上に立ったヘルミーナは、静かに目を閉じ、詠唱を始めた。それは、私が今まで一度も聞いたことのない、複雑で美しい響きを持つ言語だった。失われたはずの、古代魔法。
彼女の体から淡い紫色の光が発せられ、空気がビリビリと震えるのを感じる。地響きを立てて暴れていたエンシェント・ゴーレムの動きが、明らかに鈍くなった。その巨大な岩の体のあちこちにある魔法陣のような紋様が、明滅を繰り返している。
そして、詠唱が山場に達した瞬間。
「――今です!」
ヘルミーナの鋭い声が戦場に響き渡った。騎士団長が、その声に応えて渾身の一撃をゴーレムの胸部に叩き込む。
以前はびくともしなかったはずの一撃が、今度はガラスを砕くような甲高い音を立てて、ゴーレムの胸部装甲を貫いた。動力源であるコアが破壊され、巨体は動きを止め、やがて瓦礫の山となって崩れ落ちた。
歓声が、戦場に響き渡った。信じられない光景を目の当たりにした騎士たちは、呆然としながらも、やがてその賞賛の視線を一人の少女へと向けた。
丘の上に立つヘルミーナは、ただ静かに、崩れ落ちたゴーレムの骸を見つめていた。その横顔はあまりに美しく、そしてどこか儚げで、まるで伝説に語られる聖女のようだった。
この功績により、ヘルミーナ・フォン・バーデンの名は、王国中に轟いた。バーデンの才女は、いつしか救国の聖女とまで呼ばれるようになっていた。
私は、遠くからその姿を眺めることしかできなかった。
彼女は本当に悪役なのだろうか? 私が断罪しようとしていた令嬢は、本当にこの国を破滅に導く存在なのだろうか?
答えの出ない問いが、私の頭の中を支配していた。私の知る物語は、もはや跡形もなく崩れ去ろうとしている。そして、その中心には、常にあの冷静沈着な紫の瞳の少女がいた。私の、婚約者であるヘルミーナが。
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ヘルミーナの功績が日の光の下で輝きを増すにつれて、皮肉なことに、私の心の中には影が差し始めていた。その影の源は、他でもない。私が守るべき存在であり、この物語の正しきヒロインであるはずの、リリー・シュタウテだった。
これまで、私は彼女の純粋さを信じて疑わなかった。か弱く、心優しく、誰にでも愛される少女。それが、ゲーム『ツムプレ』における彼女のキャラクター設定であり、私自身が認識していたリリーの姿だった。
だが、ヘルミーナという規格外の存在が登場したことで、まるで舞台照明の角度が変わったかのように、リリーの言動の端々に、これまで見えなかった奇妙な凹凸が浮かび上がってきたのだ。
「ヘルミーナ様、すごいですね! まるで伝説の聖女様みたいですぅ」
学園のテラスで、リリーはいつものように甘えたような口調でそう言った。翠の大きな瞳をキラキラと輝かせ、両手を胸の前で組む姿は、傍から見ればヘルミーナの活躍を心から喜んでいるように見えるだろう。だが、その後に続く言葉が、私の心に小さな棘を刺した。
「でも、少し心配ですぅ。だって、今まで何もできなかった方が、急にあんなことができるようになるなんて……。何か、悪い魔法でも使っているんじゃないかって、みんな噂していますよぉ」
悪気のない、純粋な心配を装った言葉。しかし、その実態は巧みな印象操作だった。「みんなが噂している」ということで自らの責任を回避しつつ、ヘルミーナの功績に何か裏があるのではないかという疑念を巧妙に植え付けている。
以前の私なら、きっとそんなことはないと彼女を慰め、同時にヘルミーナへの不信感を募らせていただろう。だが、今の私には、その言葉が白々しいものに聞こえてならなかった。
「……リリー。他人の功績を、根拠もなく貶めるようなことを言うべきではない」
私が静かにそう言うと、リリーは驚いたように目を丸くした。
「え……? ご、ごめんなさい、ヴェルナー様……。私、そんなつもりじゃ……。ただ、ヴェルナー様がヘルミーナ様に騙されているんじゃないかって、心配で……」
潤んだ瞳で私を見上げる彼女の姿は、完璧な被害者であり健気なヒロインだった。だが、私の心は揺らがなかった。むしろ、彼女のその完璧さが、計算された演技のように見えてしまい、背筋に冷たいものを感じた。
違和感は、それだけではなかった。
ヘルミーナの領地経営の手腕が評価され、王宮内でバーデン侯爵の発言力が増してきた頃のことだ。
リリーは、私の側近である騎士団長の息子や、財務大臣の三男といった、有力な貴族の子息たちと頻繁にお茶会を開くようになっていた。
表向きは、平民出身の彼女が貴族社会に馴染むための、微笑ましい交流に見える。しかし、その会話の内容を伝え聞いた時、私は愕然とした。
「バーデン侯爵家が力を持ちすぎるのは、王家の安寧にとって危険なのではないか」
「ヘルミーナ様のなさっていることは、確かに素晴らしいけれど、既存の秩序を乱す過激な思想にも繋がるのではないか」
彼女は、自らの無邪気さと庇護欲をそそる容姿を武器に、有力な貴族の子弟たちの不安を巧みに煽っていたのだ。彼女自身が直接批判するのではない。心配というオブラートに包み、もしこうなったら大変という仮定の話を繰り返すことで、彼らの心の中にバーデン家への警戒心と敵意を植え付けていた。そのやり口は、あまりにも狡猾で、計算され尽くしていた。
かつてヘルミーナがリリーに対して行っていた嫌がらせは、幼稚で直線的だった。誰の目にも、それが悪だとわかった。しかし、リリーのやり方は違う。善意の仮面を被り、相手の心に直接毒を流し込むような、陰湿で巧妙なやり方だった。
私の価値観が、音を立てて崩れていくのを感じていた。
――どちらがヒロインで、どちらが悪役なのか?
国と民のためにその身を賭して魔物と戦い、驚異的な手腕で領地を豊かにするヘルミーナ。
その功績の裏で、嫉妬と不安を煽り、政争の火種を撒き散らすリリー。
私が今まで信じてきた正義とは、一体何だったのか。ゲームのシナリオという、ただ一方的な視点から描かれた物語を鵜呑みにし、自らの目で真実を見ようとしてこなかったのではないか。
そう思い至った時、私は深い自己嫌悪に陥った。
そんなある日、私は学園の図書館の古文書保管室で、偶然ヘルミーナと二人きりになった。
彼女は、失われた古代文明に関する難解な文献を、静かに読み解いていた。その真剣な横顔を見ていると、私はたまらず声をかけてしまった。
「……なぜ、ここまでするんだ」
私の問いに、ヘルミーナはゆっくりと顔を上げた。感情の読めない紫の瞳が、私をまっすぐに見つめる。
「何のことでしょうか」
「領地経営も、魔物の討伐もだ。君はバーデン侯爵家の令嬢として、何不自由なく生きることもできたはずだ。なぜ、自ら矢面に立つような真似をする?」
それは、ずっと私が抱いていた疑問だった。彼女の行動原理が、私には全く理解できなかった。
しばらくの沈黙の後、彼女は静かに口を開いた。
「……私には、やらねばならないことがある。それだけです」
「やらねばならないこと?」
「ええ。この国が、そしてこの国に生きる人々が、理不尽な破滅を迎える未来を回避すること。それが、私の責務だと考えています」
破滅の未来。その言葉に、私は心臓を掴まれたような衝撃を受けた。彼女もまた、この世界に待ち受ける暗い未来を知っているというのか? まさか、彼女も私と同じ――
「君は……、転生者なのか?」
私は、ほとんど無意識にそう口走っていた。誰にも言ってはならない、最大の秘密。だが、もう抑えることができなかった。
私の言葉に、ヘルミーナの紫の瞳が、ほんのわずかに見開かれた。だが、すぐに元の静かな湖面のような表情に戻ると、彼女は肯定も否定もせず、ただこう言った。
「その問いに、今は答えることができません。ですが、ヴェルナー様。あなたに一つだけ、お伝えしておきたいことがあります」
「……なんだ?」
「あなたが信じているものは、必ずしも真実の全てを映しているとは限りません。自らの目で見、自らの頭で考え、そして自らの心で感じたことだけを信じなさい」
そう言うと、彼女は静かに立ち上がり、私の横を通り過ぎて部屋を出て行った。残されたのは、古いインクの匂いと、私の心に深く突き刺さった彼女の言葉だけだった。
自らの目で見る。自らの頭で考える。
その言葉は、まるで呪いのように私の頭の中で繰り返された。
私は今まで、転生者であるというアドバンテージに胡坐をかき、思考停止に陥っていたのかもしれない。与えられたシナリオをなぞることだけを考え、登場人物たちの人間としての心を、真剣に見ようとしてこなかった。
ヘルミーナの活躍の裏で、リリーが巧妙に張り巡らせる見えざる悪意の網。そのコントラストは、もはや私の目をごまかすことを許さなかった。
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ヘルミーナの言葉は、私の中にあった最後の砦を打ち砕いた。『ツムプレ』という絶対的な指針を失った私は、まるで羅針盤のない船で大海に投げ出されたかのような心境だった。だが、同時に、初めて自分の意志で航路を決められるのだという、奇妙な解放感も感じていた。
「自らの目で見る」
その言葉を実践するために、私は一つの決意をした。バーデン侯爵領へ、公式な視察という名目で赴くことにしたのだ。父である公爵も、にわかに力をつけてきたバーデン家の内情を探る良い機会だと、これを許可した。無論、私の真の目的は、ヘルミーナ・フォン・バーデンという人間の本質を、この目で確かめることにあった。
バーデン領の変貌は、報告で聞いていた以上だった。かつては活気がなく、どこか寂れた印象さえあった領都は、多くの人々で賑わい、新しい建物が次々と建てられていた。特に、彼女が経営を立て直したという鉱山から産出されるようになった新しい鉱石は、武具や農具の素材として非常に優れており、他国からも商人が押し寄せるほどだった。
領主の館で私を出迎えたバーデン侯爵は、まるで別人のように自信に満ちた表情をしていた。
「ヴェルナー殿下。よくぞお越しくださいました。これも全て、娘のヘルミーナのおかげです」
手放しで娘を賞賛する侯爵に案内され、私は領内を視察して回った。そこで私が見たのは、領民たちの生き生きとした笑顔だった。
「ヘルミーナお嬢様のおかげで、今年の冬は腹いっぱい飯が食えそうだ!」
「新しい水路ができて、日照りが続いても水に困らなくなったんだ。本当に、あの方は聖女様だよ」
彼らの言葉に、嘘や追従は感じられない。心からの感謝と尊敬が込められていた。これが、リリーが悪い魔法と囁いた女の功績の真実の姿だった。
視察の最終日、私はヘルミーナ本人から直接、領地の未来に関する計画の説明を受けることになった。彼女の執務室に招き入れられると、そこには膨大な資料と地図が所狭しと並べられていた。
「こちらが、今後五年間の都市開発計画です」
ヘルミーナは、巨大な地図を指し示しながら、淡々と、しかし淀みなく説明を始めた。商業区画の整備、職人ギルドの誘致、治水事業による防災強化、そして領民のための医療院の設立。その計画はどこまでも具体的で、何より、そこに暮らす民衆への深い配慮に満ちていた。
「なぜだ……」
私は、思わず呟いていた。
「なぜ、そこまで民のことを考えられる? 君は貴族だろう。有り体だが、我々貴族の務めは、家名を高め、権力を維持することで十分なはずだ」
それが、私がこの世界で学んできた貴族の在り方だった。民は、あくまで統治し、搾取する対象。そう考えている貴族が大多数だ。
私の問いに、ヘルミーナは初めて、その冷静な仮面の下にある何かを覗かせた。それは、深い哀しみの色を湛えた、憂いのようなものだった。
「貴族の務めは、民の上に立つことではありません。民の前に立ち、その生活と未来を守ることです。その責務を忘れた時、国は内側から腐り落ち、やがては滅びる。私は、そんな未来を見たくないだけです」
その言葉は、私の胸に重く響いた。彼女が見据えているのは、家門の栄誉や個人的な欲望ではない。もっと大きく、もっと尊いもの――、この国そのものの未来だった。
その夜、私は眠れずに館の庭を散策していた。すると、遠くのバルコニーに、一人佇む人影を見つけた。ヘルミーナだった。
月明かりに照らされた彼女の横顔は、昼間の凛とした姿とは違い、どこか脆く、儚げに見えた。その肩が、小さく震えていることに気づき、私は息を呑んだ。彼女は、泣いているのか?
そっと近づくと、彼女の押し殺したような声が聞こえてきた。
「……時間がない。このままでは、間に合わない……」
何に、間に合わないというのか。彼女は何と戦っているのだ。
「誰にも理解されなくてもいい。たとえ、悪意に晒されようとも……。私が、やるしかないのだから……」
その孤独な呟きを聞いた時、私は全てを理解した。
彼女は、たった一人で戦っているのだ。破滅の未来という、見えざる敵と。そのために、自らの感情を押し殺し、冷静沈着な賢女という仮面を被り、誰にも理解されない孤独の中で、必死にもがいている。彼女の冷たい態度は、弱さを見せないための鎧だったのだ。
私が彼女に感じていた違和感や不信感は、完全に氷解していた。代わりに胸を満たしたのは、一人の人間としての彼女に対する、どうしようもないほどの尊敬の念だった。国を想い、民を想い、たった一人で巨大な運命に立ち向かうその姿は、あまりにも気高く、そして美しい。
その時、バルコニーの彼女が、ふとこちらを振り返った。月明かりの下、驚いたように見開かれた紫の瞳と、私の視線が交差する。
私の心臓が、大きく跳ねた。
それは、ゲームのヒロインであるリリーに向けた、庇護欲や義務感とは全く違う感情だった。彼女の強さと、その裏にある脆さ、その全てを守りたい。彼女の隣に立ち、その孤独な戦いを支えたい。
それは紛れもなく、恋心だった。
私が今まで悪役令嬢と断じてきた婚約者、ヘルミーナ・フォン・バーデンに対して、抗いがたいほど強く、そして確かな恋に落ちた瞬間だった。
この気持ちに気づいてしまった以上、もう後戻りはできない。卒業記念パーティーで、私が演じるべき役割は、もはや一つしか残されていなかった。
~~~
運命の日、王立学園の卒業記念パーティーは、その幕を開けた。
シャンデリアの光が降り注ぐ大広間は、着飾った貴族たちで埋め尽くされている。軽やかなワルツの旋律、グラスの触れ合う音、楽しげな談笑。それは、ヘッセン王国の栄華を象徴するような、華やかで平和な光景だった。
だが、その水面下では、ある一つの筋書きが、着々とクライマックスへと向かって進行していた。
私の隣には、蜂蜜色の髪を優雅に結い上げたリリー・シュタウテが、不安と期待の入り混じった表情で寄り添っていた。彼女の取り巻きである有力貴族の子息たちも、少し離れた場所から、合図を待つかのようにこちらを窺っている。彼らの視線の先にあるのは、ただ一点。
壁際に一人、静かに佇む銀髪の令嬢。ヘルミーナ・フォン・バーデン。
彼女は、今日も完璧なまでに美しいドレスを着こなしていたが、その周りには誰もいなかった。
かつての取り巻きたちは、彼女の変貌についていけず離れていき、新たに彼女を救国の聖女と讃える者たちも、その近寄りがたい雰囲気から遠巻きに眺めているだけだ。彼女は、まるで喧騒から切り離されたかのように、孤高の城に籠る姫君のようだった。
私の心は、不思議なほどに静かだった。かつて抱いていた計画への焦りも、シナリオからの逸脱への混乱もない。あるのはただ、これから自分が成すべきことへの、揺るぎない決意だけだ。
視線をヘルミーナに向けると、彼女もまた、私の方を見ていた。感情の読めない紫の瞳。だが、今の私には、その奥に隠された孤独と覚悟が、痛いほどに伝わってきた。大丈夫だ、と心の中で呟く。君は一人じゃない。
やがて、ワルツの演奏が終わり、会場が静寂に包まれた瞬間を狙って、リリーの取り巻きの一人、騎士団長の息子であるエトガーが、一歩前に進み出た。
「皆様、ご静聴ください! この輝かしい卒業の日に、このようなことを申し上げるのは誠に心苦しいのですが、我々の仲間であるリリー・シュタウテ嬢に対し、長きにわたり陰湿な嫌がらせを行ってきた人物がおります!」
その声に、会場中の視線が一斉に集まる。ざわめきが波のように広がっていく。エトガーは、芝居がかった仕草で腕を掲げ、その指先をまっすぐに向けた。
「その人物とは、バーデン侯爵家ご令嬢、ヘルミーナ様! あなただ!」
ついに、始まった。運命の断罪劇が。
会場の全ての目が、ヘルミーナに突き刺さる。彼女は、突然の告発にも全く動じることなく、静かにエトガーを見返していた。
続いて、財務大臣の三男であるスヴェンが、数枚の羊皮紙を手に前に進み出る。
「我々は、ヘルミーナ様がリリー様に対して行ってきた数々の悪行の証拠を、ここに掴んでおります! リリー様の教科書を破り捨てたという証言、彼女のドレスに毒草の汁を塗り付けたという侍女の告白、さらには、先日の階段での事故も、実はヘルミーナ様がリリー様を突き落とそうとしたのが真相なのでございます!」
次々と挙げられる罪状。それは、私がゲームの知識として知っていたシナリオそのものだった。スヴェンは、集まった貴族たちに聞こえるように、大げさに証拠とやらを読み上げていく。
そして、主役の登場だ。
リリーが、私の腕からそっと離れ、前に進み出た。その翠の大きな瞳には涙が溢れ、か細い声で、しかし会場中によく通る声で訴え始めた。
「やめてください……! 皆様、私は大丈夫ですぅ……。ヘルミーナ様も、きっと何かお考えがあってのこと……。私が、私が我慢すれば、それで……」
健気にも加害者を庇おうとする、心優しきヒロイン。嗚咽を漏らしながら崩れ落ちそうになる彼女の姿に、会場の同情は完全にリリーへと集まった。貴族たちの間から、ヘルミーナに対する非難の声が上がり始める。
「なんということだ。あの聖女とまで呼ばれた方が……」
「やはり、急に力をつけた裏には何かがあったのだ」
「公爵家の嫡男たるヴェルナー様を、このような悪女の婚約者にしておくわけにはいかない!」
リリーが巧妙に撒き続けてきた種が、今、一斉に芽吹いた瞬間だった。彼女は涙に濡れた顔で私を見上げ、その瞳は決断を訴えかけていた。
誰もが、私の口から発せられる言葉を待っている。
ヘッセン王国公爵家嫡男、ヴェルナー・フォン・ヘッセンによる、悪役令嬢ヘルミーナ・フォン・バーデンへの、婚約破棄宣言を。
エトガーとスヴェンが、勝ち誇ったような笑みを浮かべている。リリーの肩は、悲劇のヒロインさながらに震えている。会場の全ての人間が、この断罪劇の結末を確信していた。
私はゆっくりと一歩、前に進み出た。会場のざわめきが、ぴたりと止む。
物語は、クライマックスの舞台へと進む。
だが、その脚本を書くのは、もはやゲームのシナリオでも、リリーでもない。
この私だ。
大広間の全ての視線が、私、ヴェルナー・フォン・ヘッセンに注がれていた。
リリーが勝利を確信したかのように、涙の奥で微かに口元を緩めているのが見えた。滑稽なほどに、愚かな光景だった。
私は、涙するリリーの前を通り過ぎた。驚きに目を見開く彼女を意にも介さず、まっすぐに歩みを進める。そして、会場中の非難の視線を一身に浴びながら、ただ一人静かに佇む銀髪の令嬢――、ヘルミーナ・フォン・バーデンの前に、立った。
彼女の紫の瞳が、ほんのわずかに揺らぐ。そこに戸惑いの色が見えた気がして、私は心の中で強く念じた。信じてくれ、と。
「皆様、静粛に」
私の声は、自分でも驚くほど冷静で、そして力強かった。ざわついていた会場は、水を打ったように静まり返る。私は、糾弾者であるエトガーとスヴェン、そして涙するリリーを順番に見据えると、はっきりと宣言した。
「今宵、この場において、私が宣言することはただ一つ。私、ヴェルナー・フォン・ヘッセンは、ヘルミーナ・フォン・バーデンとの婚約を、破棄しない!」
その言葉は、静寂を切り裂く雷鳴のように響き渡った。
「な……」
「何を……」
「正気か?」
貴族たちの間から、信じられないといった声が漏れる。リリーの顔からは涙が消え、呆然とした表情が浮かんでいた。エトガーたちが狼狽えるのを尻目に、私は言葉を続けた。
「それどころか、このような卑劣な罠を仕掛け、私の婚約者であり、この国の功労者でもある彼女の名誉を傷つけようとした者たちを、断じて許すことはできない!」
私は、スヴェンが手にしていた証拠の羊皮紙を奪い取るように受け取ると、それを高く掲げた。
「まず、この証言とやらは、あまりにも杜撰だ。ヘルミーナがリリーの教科書を破ったとされる日、彼女は王家の書庫にて、私と共に古代文献の研究をしていた。私がその証人だ」
実際に、あの日、私は図書館で彼女に会っていた。その事実を突きつけると、スヴェンの顔が青ざめる。
「次に、ドレスに毒草の汁を塗ったとされる侍女。その侍女は、一週間前にリリーから多額の金銭を受け取っていることを、我が公爵家の調査で突き止めている。これは買収による偽証に他ならない!」
次々と矛盾点を論破していく私に、会場の空気は明らかに変わり始めていた。同情は疑念へ、非難は当惑へと。
「そして、決定的なのは階段での事故だ。あの日、あの場にいたのは私とリリー、そしてヘルミーナの三人だけ。私はこの目で見た。足を滑らせたのはリリーの方であり、ヘルミーナはそれを避けようとして、逆にバランスを崩し階段から転落したのだ! 被害者は、いったいどちらだ!」
私の力強い声が、大広間に響き渡る。
「彼女の罪状とされるものは、全てが捏造か、あるいは悪意に満ちた解釈によって歪められたものばかりだ! それに対し、彼女の功績こそが、何より揺るぎない真実ではないか!」
私は、ヘルミーナに向き直った。
「バーデン領を立て直し、民の生活を豊かにしたその手腕。王国騎士団ですら退けられなかった古代の魔物を、その知識と勇気で討伐した功績。一体、この中の誰が、彼女以上にこの国へ貢献したというのだ! 彼女は悪役令嬢などではない! この国を破滅から救おうと戦う、気高き賢女だ!」
私の訴えに、会場は完全に沈黙した。誰もが、言葉を失って私とヘルミーナを見つめている。
その時だった。これまで沈黙を守っていたヘルミーナが、静かに一歩、前に出た。守られるだけの存在ではない。彼女もまた、戦う者だった。
彼女は、涙目のリリーを冷徹な紫の瞳で見据えると、静かに、しかし凛とした声で言った。
「リリー・シュタウテ様。あなたが、私を陥れるためにこのような茶番を仕組んだ理由は、理解しています」
「な、何を言って……、私にはさっぱり……」
「あなたは、ヴェルナー様の隣という地位が欲しかった。そして、私が成した功績と、それに伴う名声が、妬ましかった。違いますか?」
図星を突かれたリリーの顔が、怒りと屈辱に歪む。
「あなたのやり方は、実に巧妙でした。自らの手を汚さず、善意の仮面を被り、他者の不安と嫉妬を煽る。ですが、そのやり方では、国を導くことはできません。真のリーダーシップとは、人気取りではなく、たとえ非難を浴びようとも、国益のために正しい決断を下す覚悟のことです」
ヘルミーナの言葉は、一つ一つが真理の刃となって、リリーの化けの皮を剥ぎ取っていく。
「私は、あなたを断罪しません。あなたのような方に、それだけの価値はない。ですが、覚えておきなさい。この国を、私利私欲のために利用しようとする者は、誰であろうと私が許さない」
その圧倒的な存在感と、揺るぎない言葉の力。もはや、誰も彼女を悪役令嬢と呼ぶ者はいなかった。
断罪の舞台は、彼女の評価を決定的に覆す、見事なまでの逆転劇の舞台へと変わったのだ。エトガーとスヴェンは顔面蒼白のまま立ち尽くし、リリーはついに言葉を失い、その場にへたり込んだ。
私は、誇らしい気持ちで胸を張り、ヘルミーナの隣に立った。そして、会場中の貴族たちに向かって、もう一度、高らかに宣言した。
「繰り返す! 私、ヴェルナー・フォン・ヘッセンは、ヘルミーナ・フォン・バーデン嬢を、生涯の伴侶とすることを、ここに誓う!」
その言葉を合図にしたかのように、会場の片隅から、一つ、また一つと拍手が起こり始めた。それはやがて、大広間全体を包む大きな喝采の渦となっていった。
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卒業記念パーティーでの逆転劇は、ヘッセン王国の貴族社会に大きな衝撃を与えた。
リリー・シュタウテに加担し、偽りの断罪劇を主導したエトガーとスヴェンの家は、公爵家嫡男の婚約者を陥れようとした罪を問われ、厳格な処分が下された。
そして、この事件の背後で糸を引いていた黒幕が、バーデン家の台頭を快く思わない、反公爵派の重鎮であったことも白日の下に晒され、彼の失脚をもって長年の政争は一つの決着を見た。
リリーは、全ての化けの皮が剥がされ、貴族社会での居場所を失った。彼女は実家である男爵家からも籍を抜かれ、王都からひっそりと姿を消したと聞く。ゲームのヒロインが迎えた、あまりにもあっけない結末だった。
そして、ヘルミーナ・フォン・バーデン。
彼女は、もはや悪役令嬢でも救国の聖女でもなく、ただ一人の類い稀なる才能を持つ女性として、王宮で確固たる地位を築いていた。
その冷静な分析力と未来を見通すかのような先見性は、国王からも厚い信頼を寄せられ、彼女は若くして国政の中枢に関わるようになっていく。国を導く賢女という新たな称号は、もはや誰もが認める彼女の代名詞となっていた。
あの日以来、私とヘルミーナの間には、以前とは全く違う、穏やかで心地よい空気が流れるようになっていた。私たちは、婚約者として、そして国政におけるパートナーとして、多くの時間を共に過ごすようになった。
ある月夜の晩、私は彼女を公爵家の庭園にある、白いガゼボへと誘った。
「ヘルミーナ」
私は、彼女と向かい合い、その手を取った。夜風に彼女の艶やかな銀髪が揺れ、月明かりを浴びた紫の瞳が、宝石のようにきらめいている。
「君に、ずっと聞きたかったことがある。君は、やはり転生者なのか? あの日、君が言っていた破滅の未来とは、私が知っているものと同じなのか?」
私の問いに、彼女はしばらくの間、黙って夜空を見上げていた。やがて、彼女はゆっくりと私に視線を戻すと、静かに、しかしはっきりと頷いた。
「……ヴェルナー様がおっしゃる破滅の未来が、私が経験したものと同じであるならば……、ええ、存じています」
やはり、そうだったのか。だが、彼女の言葉には続きがあった。
「ですが、ヴェルナー様。私は、あなたのように前世の記憶を持つ転生者ではありません」
「え……? では、どういうことだ?」
「私は、このヘルミーナ・フォン・バーデンとして生まれ、そして一度、死んだのです」
衝撃的な告白に、私は息を呑んだ。
「あなたが知る筋書き通り、私はあなたに断罪され、没落し……、そして、その先にある動乱の中で、無様に命を落としました。その絶望の淵で、なぜか、時間が巻き戻ったのです。あの階段の事故で意識を失った、あの瞬間に」
彼女は、所謂タイムリープを経験した存在だったのだ。一度、破滅の結末を経験し、その全ての記憶を持ったまま、やり直しの機会を得た。
「一度目の人生の私は、本当に愚かでした。傲慢で、嫉妬深く、自分のことしか考えていなかった。その結果が、私自身の、そしてこの国の破滅に繋がったことを、死んで初めて理解したのです。だから、二度目の人生では、全てを変えようと決めた。感情に流されず、ただ国と民のために、私の持つ知識と能力の全てを捧げようと」
彼女の冷静すぎる態度の理由が、やっとわかった。それは、一度失敗した人生の、痛みを伴う反省から生まれた、悲しいまでの覚悟の表れだったのだ。
「だから、あなたにも冷たく接しました。二度目は、あなたに恋い焦がれることで道を誤らぬように、と」
その言葉に、私は彼女の手を強く握りしめた。
「馬鹿なことを言うな。君は道を誤ったりなどしていない。君は、誰よりも気高く、誰よりも強く、この国を救ってくれたじゃないか」
私は彼女の体をそっと引き寄せ、腕の中に抱きしめた。驚きに硬直する彼女の耳元で、私は全ての想いを込めて告げた。
「私は、そんな君を、心の底から尊敬している。そして、何よりも深く、愛している。一度目の人生の君も、今の君も、全てを含めて、君という人間を愛しているんだ。だから、もう一人で戦わないでくれ。これからは、私が君の隣にいる。君のパートナーとして、夫として、君の全てを支えさせてほしい」
私の腕の中で、彼女の肩が小さく震え始めた。それは、あの夜バルコニーで見た、孤独な震えではなかった。やがて、私の胸に顔をうずめた彼女から、嗚咽のような声が漏れた。
「……私も……、私も、ずっとあなたが好きでした。一度目の人生でも、そして、今も……」
初めて聞く、彼女の偽らざる想い。その言葉だけで、私の心は満たされた。
私たちは、真のパートナーとなった。
輝くような金髪の公爵嫡男と、艶やかな銀髪の賢女。二人が共に手を取り合い、ヘッセン王国をさらなる繁栄へと導いていく未来が、今、静かに始まった。
読んでくれた皆様、本当にありがとうございます!
他にもいくつか短編を掲載しています。私のユーザページから見れるので、読んでもらえればとても嬉しいです! リアクションもお待ちしています。よろしくお願いします!