75 ファーヴニル
広い屋敷だが、プルクラが過ごす場所は定まりつつあった。三階の自室(寝室付き)か一階にある一番小さいリビング(リビングは全部で三つある)、または屋敷裏手の竜舎だ。
屋敷に住み始めてもうすぐひと月になる。使用人は十二人、アウリとジガンが面接して決めてくれた。既に全員が通いで働いている。
屋敷にはこのひと月の間だけでレンダルとニーグラムが四度訪れた。最初に来た時にレンダルは使っていない客室に転移陣を設置した。遊びに来る気満々である。
またアルトレイ一家も一度遊びに来てくれた。甥のルース、姪のリリスにはチー助が大人気であった。
来客の予定がない日は討採組合に顔を出す。ファシオたちが現在王国西端のメスティフという街を拠点にするつもりであることも、組合を通して連絡を貰った。地竜車で行く最初の旅はそこを目指すのも良いと考えている。
「プルクラ様、王城から使者がいらっしゃいました」
小さいリビングで寛いでいたプルクラにアウリが声を掛ける。このような仕事は本来屋敷にいるメイドの仕事だが、アウリはプルクラの世話だけは頑として譲ろうとしない。
「誰かな? 予定あった?」
「予定はございません。いらっしゃったのはキースラン・レイランド近衛騎士団長様です」
「…………?」
「あの、赤い髪の。プルクラ様が『フールメン』で遠くに飛ばした」
名前を聞いてきょとんとするプルクラにアウリが補足すると、掌をポンと拳で叩いた。プルクラはキースランのことを本気で覚えていないようだ。
ダボダボの部屋着のままで玄関ホールに行くと、騎士の制服を着たキースランが二人の部下を伴って所在無さげに立っていた。
「キースラン様、お待たせいたしました」
「どーも」
丁寧な物腰のアウリは別として、部屋着でぞんざい態度のプルクラを見たキースランは苦虫を嚙み潰したような顔になる。そんな嫌なら来なきゃいいのに。
「第三王子殿下から預かった信書を届けに来た」
部下のひとりがプルクラに手紙を渡す。王家の紋章が封蠟に使われている。
「お茶でも――」
「確かに渡したからな! では失礼する!」
プルクラが気を遣ってお茶に誘おうと一歩近付けば、キースランは逃げるように玄関から出て行った。
…………手紙渡すだけならキースランじゃなくてもいいのに。
「殿下からお手紙……何でしょうね?」
「何だろう?」
小リビングに戻ってペーパーナイフで封蝋を切り、折り畳まれた手紙を広げる。
『親愛なるプルクラ殿
王国の西端、ビアレスタ山脈にて“竜”が目撃された。
特徴は濃い紫色の鱗で、血管のように赤黒い罅が無数に走っているとのこと。
大きさについては定かではないが、体長五メトルの鉄蜥蜴を片足で軽々掴んで飛び去ったらしい。
これらの情報は貴殿の知己であるファシオ殿、オルガ殿、ダルガ殿から齎された。
今のところ人が住む領域では目撃されておらず被害も出ていないものの、我が国としては調査を行う必要がある。その調査に協力願えないだろうか。
もちろんこれは強制ではないので断ってくれても構わない。
二日後に使者を送るので返事を聞かせて欲しい。
ブレント・メイザーム・リーデンシア』
読み終えたプルクラはその手紙をアウリに渡した。
「私が読んでもよろしいのですか?」
「もちろん」
長い手紙ではないのでアウリもすぐに読み終わる。
「竜……本当に竜でしょうか?」
「この世界には、白竜と黒竜しかいないはず。紫色の竜は聞いたことない」
「ニーグラム様が何かご存知では?」
「私もそう思う。お父さんに聞いてくるから、みんなにその手紙を見せておいて」
「かしこまりました」
自室に上がって着替え、そのまま黒竜の森の小屋へ転移した。
「お父さーん、来たー」
父の気配が居間の方にあったのでそちらへ行く。
「プルクラか! 何かあったか?」
「ん。お父さんに聞きたいことがある」
父にギュッと抱き着いてから本題に入った。ブレント王子から手紙が来たこと、ファシオたちが西のビアレスタ山脈で“竜”らしい生き物を見たこと、そしてその特徴。
「お父さん、そんな“竜”がいる?」
「紫の鱗……封印が解けたか」
ニーグラムには心当たりがあるらしい。
「奴の名はファーヴニル。この世界を守る三体目の竜として生まれながら、己の力に溺れて使命を蔑ろにした不届き者だ。奴が暴れた時、丁度大陸の東端に巨獣どもが現れてな。俺はそっちを優先したんだが、その間に人間が奴を地中深くに封印したのだ」
ファーヴニル――竜として生まれながら竜になりきれなかった存在。
「それっていつ頃の話?」
「確か……四百年ほど前か」
薄々そうではないかと思っていた。ルカインの前の主が、その命と引き換えに封印した“邪竜”。四百年ぶりに、それが現れたということか。
「俺が引導を渡してやろう」
「待って、お父さん」
早速ファーヴニルを倒しに行こうとする父を、プルクラは押し止めた。
「私が倒したい。ルカのために」
「ルカ? ああ、妖精か。何故だ?」
「そのファーヴニルって奴を封印した人、ルカの前の主なの。ルカはその人を失ってとても悲しい思いをした。だから、ファーヴニルは私が倒すべきだと思う」
ファーヴニルが竜の本懐を果たしていれば、ルカインは主を失わず、心が引き裂かれるような悲しい思いをしなかった筈だ。
「仇を取る、ということか?」
「ん」
「ふむ……。今のお前なら勝てるだろう。だが俺も行く」
「え?」
「黒竜として、ファーヴニルの最後を見届けねばならん。そしてお前の父として、危ないと判断したら手を貸したい」
プルクラとしては、父が見守ってくれるならこの上なく安心である。父として娘が心配だというのも理解できる。
「出来る限り私が倒したい。やらせてくれる?」
「うむ、手を出すのは本当に危険な時だけにしよう」
「ありがと、お父さん!」
ニーグラムはビアレスタ山脈ごとファーヴニルを消し飛ばすつもりだったので、プルクラのおかげで大規模な環境破壊が未然に防がれた瞬間であった。
「二日後に出発するのか?」
手紙には二日後に送る使者に返事を聞かせて欲しいとあった。
「んー、行くなら早く行った方がいいよね?」
「律儀に二日待つ必要もなかろう」
「そうだね!」
善は急げと言わんばかりに、プルクラは父を伴って王都の屋敷へ転移で戻った。
「アウリ。お父さんと出掛けてくる」
「え? あ、ニーグラム様と? どちらへ?」
ニーグラムが屋敷に突然現れるのはレンダルと一緒が多い。プルクラが森へ行ったので来るかもしれないと心の準備はしていたアウリである。だが帰った途端に出掛けるとは思っていなかった。
「ちょっと西の方だ」
「まさか、お二人だけで“竜”のところへ……ってお二人なら危険はないでしょうが」
「うむ。プルクラが全力を出すかもしれんから二人の方が都合良いのだ」
ニーグラムなりに気を遣っているのだが、「お前たちが居ると全力を出せない」と言っているようなものである。アウリは悔しさに唇を噛んだ。反論したくても反論できない。
このひと月で、“至竜石”がプルクラに十分馴染んだことをアウリは知っている。プルクラの戦いに、これまで以上について行けないことも。
今、プルクラがルカインにあるお願いをしている。それが奏功したら、アウリに辛い思いをさせずに済むかもしれない。アウリの顔を見ながら、プルクラはそんな風に考えた。
「プルクラ様……どうかご無事で」
「だいじょぶ。出来るだけ早く帰ってくる」
「はい」
ジガンたちにはアウリから説明しておいて欲しいと頼み、プルクラとニーグラムは屋敷から王都北の平原へと転移した。拡張袋から小さな銀色の棒を取り出して息を吹き込む。火翼竜を呼ぶ笛だ。
父は人化したまま飛んで行くと言う。地上を走っても良いのだが、今のプルクラが走ると全力でなくても様々な支障が出る。走った跡が耕したばかりの畑のようになり、付近にある樹木が吹き飛ぶ。近くに人や人家があれば大惨事になり兼ねないのだ。だからヴァイちゃんに乗せてもらうのである。
しばらく待っていると上から強い風が吹き付けて、大きな生き物の気配がすぐ近くに降り立ったのを感じた。
「ヴァイちゃん!」
「ぐるるるぅ」
優しく押される感覚があり後ろを振り返る。ヴァイちゃんの特異能力、隠蔽を使ってプルクラの後ろに降り立ったのだ。
「隠蔽は解かないでね?」
「ぐるぅ」
この辺りは人の目はないが念の為だ。プルクラは手探りでヴァイちゃんの背に跨り、父に付いて行くようにお願いした。
「では行くぞ?」
「ん!」
「ぐるるぅ!」
プルクラたちは飛び立ち、あっという間に見えなくなった。
二刻半ほどでビアレスタ山に到着した一行は、飛行高度を下げて速度を落とした。
上空から探索すれば、ファーヴニルを見つけるのはそれ程難しくないと思っていた。こういう時、プルクラの魔力を視る能力はあまり役に立たない。森や山にいる魔獣たちの魔力まで視えてしまうため、目と頭が非常に疲れるのだ。
ニーグラムは魔力の揺らぎを感知できるので、プルクラは探索を父に任せた。父はまるでファーヴニルの居場所が分かっているかのようにビアレスタ山の尾根を越える。
少し進むと、火翼竜がそれ以上進もうとせず、その場で滞空し始めるた。
「ヴァイちゃん?」
「ぐるっ」
「ファーヴニルが近い。ヴァイペールはここまでだな」
ファーヴニルの強大な気配に、火翼竜が恐れをなしたのだ。木の少ない場所を目掛けて地上に降りていく。
「ごめんねヴァイちゃん、怖い思いさせて」
「ぐるるぅ」
「森に戻って。気を付けてね」
火翼竜が東に向かって飛び去るのを確認し、歩き始めた。
「お父さん、こっちでいいの?」
「うむ。二、三ケーメル先だ」
「わかった」
このままビアレスタ山を下って行けば良いらしい。
木は多く生えているものの、黒竜の森とは違って随分と歩きやすい。木の根が地表を這っていないからだと気付いた。足場が悪くないのは良いことだ。戦いやすい。
しばらく歩くと、プルクラにも強大な気配が分かるようになってきた。父のように魔力や気配を抑えていないようだ。こんなに強い気配を撒き散らしていたら、他の魔獣は逃げてしまうだろう。山で餌が獲れなくなれば人里へ降りていく可能性が高まる。そうなれば甚大な被害が出てしまう。
思った通り、山を下る間は魔獣や動物の気配を感じなかった。鳥や虫の鳴き声すら聞こえない。
不気味に静まる木々の隙間から、小山のような大きさの紫色をした何かが見えた。隣にいる父を見上げて目で問うと、彼は頷きを返した。ファーヴニルだ。
プルクラは大きな木の陰に入り、拡張袋から黒鎧と黒刀を出した。父に手伝ってもらって手早く鎧を身に着ける。
遠距離から「竜の聲」で倒すのが最も安全なのだが、ファーヴニルの“格”がプルクラより上なら攻撃力が著しく低下する。それに、“至竜石”によって向上した素の身体能力に対し、どこまで身体強化を発動しても問題ないか検証したい。
だからプルクラは、初撃に近接戦闘を選んだ。父が近くに控えている状態で身体強化を使える機会はあまりないのだ。もし体の限界を超えても、父が居てくれれば「サナーティオ」で治してもらえる。
『行ってくる』
「無理するな」
『ん』
兜越しのくぐもった声でプルクラが宣言し、次の瞬間には彼女が居た場所の土が大きく爆ぜた。身体強化二十倍を発動して駆け出したのだ。
黒鎧と黒刀にはかなりの魔力を流している。さながら稲妻のように青い閃光が奔る。
プルクラの素の身体能力は、“至竜石”によって「二十倍」程度まで上がった。それを二十倍強化したので、以前の基準で言うと「四百倍」である。
五百メトルほどの距離を瞬く間に走り抜けたプルクラは、腹這いになっているファーヴニルの右前足に向かって黒刀を一閃した。
「ギィィィン!」
驚くべきことに、黒刀はファーヴニルの爪で受け止められていた。この巨体で常人の四百倍の速さに反応出来るとは。いつの間にか上体を起こしたファーヴニルが、左前足をプルクラに振り下ろす。
隕石が落ちてきたかのような衝撃と轟音。前足を振り下ろしただけなのに、周囲の木々がただの葉のように吹っ飛んでいく。
プルクラは、敢えて避けずにその足を受け止めていた。クレーターの中心で、左腕一本でファーヴニルの前足を支えている。身体強化三十倍。以前なら「六百倍」。まだ体は問題ない。もちろん、前足を受け止めたダメージもない。
プルクラは黒刀を腰の鞘に納め、両手でファーヴニルの足を握った。身体強化を四十倍に引き上げて力いっぱい足を引っ張る。
『ぬぅりゃぁぁあああっ!』
ファーヴニルの巨体が引きずられ横倒しになった。ファーヴニルにとって、人間など取るに足らない存在だ。脆弱で矮小、食っても腹の足しにならない。腹を満たそうと思えば数百を一度に食わねばならない、そんなちっぽけな存在。
その人間が、今まで見たことのない速さで迫って来て武器を振るった。鬱陶しいから叩き潰そうとすれば、何とその人間はそれを受け止めたばかりか、自分を転がした。
四百年前に自分を封印した人間よりも確実に強い。
「グォオオオオオオン!!!」
ファーヴニルは森が震えるような咆哮を上げた。
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