48 アウリは酒に弱い
「むにゃむにゃ……プルクラ様、それは二の腕ですよぉ……」
黒竜の森から“黒金の匙亭”の客室へと転移で戻ったプルクラは、酒に酔って寝台に突っ伏したアウリの寝言に迎えられた。
どんな夢を見ているのだろう? 面白そうだと思ったプルクラは、アウリの傍にそっと腰を下ろして耳を傾ける。
「むにゃ……それよりも、こっちの太腿の方がいいですってばぁ……むにゃ」
普段、割と冷静なアウリが、口の端から涎を垂らしながら不穏な台詞を呟いている。その口はニマニマとした笑顔を形作っていた。
「えへへへ……あぁん、もう……プルクラ様ったら、可愛い……」
これは聞かなかったことにした方が良いだろうか? うん、聞かなかったことにしよう。聞いてはいけない気がする。
出会って二年以上だが、アウリが酒に酔っている所は初めて見た。彼女は十七歳、リーデンシア王国含め周辺国では十五歳で成人と扱われる。飲酒は国によって異なるが、下限の年齢が法で定められているのは中央神殿のあるヨルデイル聖国くらいで、それも十二歳と聞いた気がする。だから飲酒自体、何ら法に反するものではない。
……法には反しないが、倫理的にこれは大丈夫なのだろうか? いやいや、聞かなかったことにするのだから問題ない。ないったらない。
プルクラは、アウリの寝台横の卓に水差しと杯をそっと置き、寝室の扉を音がしないように閉めた。自分で紅茶を淹れて居間の長椅子に座り、ほぉっと息をつく。
アウリが一人で酒を飲むとは考え難い。恐らく、ジガンやクリルと一緒に飲んだのだろう。まぁ、本人が無理強いされたのでなければ二人を咎める理由はない。
ないのだが、何故だろう、沸々と怒りが湧いてくるような気がするのは。
「にゃあ」
どこからかルカインが駆けてきて、プルクラの膝に乗った。その触り心地の良い背中の毛を撫でていると心が落ち着く。
「ルカ、ただいま」
「おかえりにゃ」
「アウリ、お酒飲んだ?」
「にゃ。ジガンとクリルの二人と飲んでたにゃ」
「いっぱい飲んだ?」
「うんにゃ。二杯にゃ」
「ぉぅ」
まさか壺で二杯ということはないだろう。普通の杯で二杯、それは飲ませ過ぎとは言うまい。二人も、アウリが二杯でベロベロになってさぞ驚いたに違いない。一応確認に行くか、とプルクラが腰を浮かし掛けた時、コンコン、と軽く扉を叩く音がした。
「誰?」
「ジガンだ。プルクラ、帰ってたか」
「ん」
扉を開けながら会話を交わす。
「アウリがな、その……あいつ、大丈夫か?」
「ん、今寝てる。後で『サナーティオ』を掛ければ、多分だいじょぶ」
「そうか、そりゃ良かった。いや、その、なんかすまん」
「ん?」
「まさかあんなに酒に弱いとは思わなくてよ。悪かった」
「ん、許す」
「ああ。もう少ししたら夕食だから。アウリは行けそうか?」
「どうだろ? 一応行く時呼びに来て?」
「分かった。あ、クリルも『浄化』が効くかもって。心配してた」
「ん、ありがと。じゃ後で」
「おう」
ジガンはアウリを心配して様子を見にきてくれたのだろう。そう思えば、先程感じた怒りは綺麗さっぱり消え去った。
もう一度寝室に入り、寝台の横に膝を突く。
「『サナーティオ』」
アウリに癒しを掛ければ、顔の赤みが徐々に引いていった。元々摂取した酒精の量は少ないはずだから、少し時間が経てば酔いは醒めるだろう。目が覚めるかは分からないけれど。
これで良しと呟いて、プルクラは夕食前に風呂に入ることにした。
「お風呂入るけど、ルカも入る?」
「今日はいいにゃ」
思えば、森を出てから一人で風呂に入るのは初めての気がする。ファルサ村で借りた家にも後付けで風呂を作ってもらったが、いつもアウリと一緒に入っていた。主にお湯が勿体ないことが理由だ。
髪と体を手早く洗い、浴槽に身を沈める。アウリの姿を見て、ジガンやクリルに苛立ちを感じてしまったことについて反省した。二人のことをもっと信じても良い筈だ。現に二人とも、自分と同じようにアウリを心配してくれていた。
プルクラにとって、無条件に信じられる相手は父、レンダル、アウリの三人。家族、と言い換えても良い。
クリルはまだ出会って間もないが、ジガンとはそれなりに過ごしている。ジガンがアウリやプルクラに害意を抱くようなことは想像し難い。それなら、家族とは言わないまでも信じるべきだろう。
ポタッ、と天井から冷たい水滴がプルクラの頬に落ちる。
他に、今考えておくことがあるだろうか? 兄と会えた場合のことを考えておく? アルトレイ・クレイリアと会ってみたいという思いはそれ程強いわけではない。血が繋がっていようが、プルクラにとっては他人同然。向こうは生まれたばかりのプルクラに会ったことがあるかもしれないが、プルクラには一切の記憶がないのだから。
ただ、幸せに暮らしていればいいな、とは思う。悲しみや喪失感を乗り越えて、己の道を進んでいてくれていたら、と。
ジガンによれば、アルトレイがこの国に逃げ延びたのは十歳の時。今は二十五歳だ。結婚して子供もいるかもしれない。
兄は自分の生存を知らない筈だ。妹が生きていると知ったらどんな気分だろう? また、他の家族を喪ったことを思い出してしまうだろうか? それとも、純粋に喜ぶだろうか?
……会わない、というのも一つの選択だ。
全てを忘れ、今を幸せに生きているのなら、それにアルトレイが会うことを望まない場合は、無理に会う必要はない。うん、とプルクラは頷いて浴槽から出る。
脱衣所に用意されている清潔なタオルで髪と体を拭い、自分で用意した洗濯済みの下着を身に着けた。寝間着代わりの短衣を着て脱衣所を出ると、そこには土下座をしたアウリが居た。
「……アウリ?」
「見苦しい姿を晒してしまい、誠に申し訳ございません」
「気にしてない。もうだいじょぶ?」
「は、はい……」
「アウリも軽くお風呂に入ったらいい。もうすぐ夕ご飯だから」
「はいぃぃ!」
プルクラと入れ替わりにいそいそと風呂に入るアウリ。酒とは違う理由で顔を赤く染めている。
「すぐに入って参ります」
キリッとした顔を作り、アウリは脱衣所の扉を閉めた。
アウリが醜態を晒した翌日。それを知っているジガン、クリル、プルクラの三人とルカインは全てをなかったことにした。昨夜の夕食時、アウリがあまりにも恐縮するのが不憫だったからだ。何があったのか知らないファシオたちは色々と訝しんでいたが、アウリの名誉のため三人と一匹は口を噤んだ。
「今日は、オルガの魔法に触りたい」
「ほ、ほんとにいいんですか? 危ないですよ?」
騎士団の演習場でオルガが見せた「雷玉」。ニーグラムにはプルクラが見た印象だけで説明したが、やはりどんな魔法かは実際に身を以て体験すべきだろう。
以前、父が教えてくれたのだが、「竜の聲」には決まった形がないのだそうだ。例えば、ニーグラムの紡ぐ「フリゴレ」は氷系統の魔法だが、白竜アルブム・ドラコニスは「グラチェス」と紡ぐらしい。それで同様の事象が発生するのだと言う。
「竜の聲」はこの世界における命令文であり、想像した事象を発現させるきっかけである。故に、「聲」の法則さえ理解した上で、消費する魔力と発現させたい事象の釣り合いが取れれば、出来ることの幅が非常に広い。
ただ、「竜の聲」でも出来ないことはある。転移や鑑定がその代表だ。これについてはニーグラムも理由が分からないそうだ。
プルクラが、危険を冒しても「雷玉」に触れたいのは、その魔法の機微が分かれば「竜の聲」で再現出来る可能性があるからだった。
「ちょっぴり触るだけだから、だいじょぶ」
「ほ、ほんとかなぁ……」
渋るオルガに、プルクラは何があっても絶対に責めないと約束した。
ここは、王都の北門から北に一ケーメルほど進んだ場所。プルクラが王都へ転移するための目印として、記念碑のような物を作った林の近くである。七人全員でここにやって来た。ルカインはプルクラの肩に乗っている。
「私も触ったことあるけどぉ、死にはしないわよぉ」
オルガ、ダルガと共に幾度となく魔獣を討伐してきたファシオは、オルガの「雷玉」に誤って触れたことが何度かある。鍛え抜かれた体を持つファシオでさえ、僅かに触れただけで昏倒する程の威力だった。“姉御”ならどうなるのか見てみたい、と彼女は興味津々である。
「じゃ、じゃあ、出来るだけ弱く作りますよ?」
「ん、お願い」
「行きます」
次の瞬間、オルガを要とした扇状に数個の光の球が出現した。昼前の現在、目を凝らしても非常に見え難い。プルクラは、意識して魔力を視る。小さな玉に、大きな魔力がぎゅっと詰められている。一番近くにある「雷玉」に近寄り、その玉に向かってそぉっと指を伸ばした。魔力で出来た膜のようなものを突き破った瞬間――。
「あばばばば」
「ぎにゃにゃにゃにゃ」
指先にちくっと痛みが走ったと思えば、全身の筋肉が硬直した。いつものようにプルクラの肩に乗っていたルカインも巻き添えを食らった。余りにも自然に肩に乗っていたので、プルクラも気付かなかったのだ。
プルクラとルカインは、直立した姿勢のまま後ろ向きに地面に倒れた。
「プルクラ様!」
「姉御!」
アウリとファシオが駆け寄る前に、プルクラはむくりと上半身を起こした。「雷玉」に触れた瞬間、反射的に「サナーティオ」を自らに掛けていたのである。
プルクラは、白目を剥いて仰向けに倒れているルカインをそっと抱き上げて癒しを紡いだ。
「ルカ、ごめんね」
「プルクラ様、大丈夫ですか!?」
「ん、だいじょぶ」
「さすが姉御。気を失うこともないなんてぇ」
「んー、一瞬意識がなくなった」
足を投げ出して地面に座っているプルクラの所へ、オルガが駆けて来た。
「プ、プルクラちゃん!? 大丈夫?」
「だいじょぶ。『雷玉』、凄い魔法だった。オルガ、ありがと」
プルクラが真剣に褒めてから感謝を述べると、オルガは照れたように笑った。
「いやぁ、プルクラでもぶっ倒れる魔法なんだな!」
「肝が冷えました」
「……無謀」
ジガン、クリル、ダルガの男性三人組がそれぞれ感想を述べながら近付いてきた。ジガンは巻き添えを食いたくないがためにプルクラから遠く離れていたのだった。
「ジガンも一回触ってみた方がいい」
「なんでっ!?」
「若返る……気がする」
「んなわけねぇだろーが! 心臓止まって永遠の眠りに就く予感しかしねぇわっ!」
「ぎにゃぁぁあああー!!」
プルクラの提言にジガンがツッコミを入れると同時に、ルカインが絶叫と共に覚醒した。全員がビクッと体を強張らせる。
「ハァ、ハァ……川の向こうに眩しい光の扉があって、吸い寄せられるところだったにゃ」
「……ルカ、おかえり」
「ただいまにゃ?」
ジガンが「雷玉」に触れたら、ルカインが吸い寄せられた扉というのが彼にも見えるのだろうか……?
少し興味はあるが、確かめるわけにはいかないだろう。そのまま扉の向こうに行かれては困る。
ルカインは自分に何が起こったのかよく分かっていないようだったので、取り敢えず何も無かったことにした。
まだ座っているプルクラにジガンが歩み寄る。
「プルクラ、体が問題なければ模擬戦しねぇか?」
「ん、する」
「身体強化、二十倍で」
「……いいの?」
「俺も十倍でやるから。頼んでいいか?」
「もちろん」
これまでジガンに剣術を教えてもらう時は、身体強化を禁止されていた。これはロデイア流の基本となる動きを素の力で身に着けさせようというジガンの考えによる。
身体強化を解禁したのは、偏にジガン自身が自分を鍛えたいからだった。プルクラはメディオ・ガッツフォルト近衛騎士団長の攻撃を見事に捌ききった。その戦いを見て、ジガンの闘争心にも火が点ったのである。
プルクラが強いのは認める。だが技術はまだ負けていない。
規格外の身体強化を相手に鍛えれば、自分の技はもっと磨かれる。ジガンはそう確信した。自分を師匠と慕ってくれるのなら、その師匠が強くなるのに弟子も反対はすまい。そして多少の……多少? かは分からないが、協力してもらっても良いのではないか。
そんな風に、ジガンは自分に都合良く考えてプルクラに模擬戦を申し込んだ。一方のプルクラは、ジガンの思いに応え――るわけではなく、単にもっとジガンの技を吸収したいという考えから承諾した。
かくして、刃を潰した模造剣を使った二人の模擬戦が始まったわけだが。
「ちょ、ちょ、タンマ! やっぱ十五倍で!」
「えぇぇ……」
身体強化二十倍は想像以上だったようで、ジガンが早々に音を上げた。プルクラは苦い顔をしながら、要求通り十五倍にする。
そんな二人に触発されて、アウリとファシオ、クリルとダルガがそれぞれ模擬戦を始めた。オルガは草の上にちょこんと座り、膝の上に乗せたルカインを撫でている。ルカインは一つ欠伸をしてオルガの膝で丸くなるのだった。
そして翌日。“黒金の匙亭”にブレント・リーデンシア第三王子の使者が訪れた。
アウリさんが見ていた夢の内容は……秘密です。




