47 苦労性のジガン
バルドス・ロデイアはがらんとした部屋を見回して、次いで玄関扉の傍に置かれた大きな背嚢に目を遣る。支度が調っていることを確認し、残された椅子に腰を下ろした。
十五年だ。大切なものを全て奪われて十五年。
十五年という年月は、悲しみや恨みといった感情が薄れるには十分と言える。逆に、それら負の感情が膨れ上がるのにも。
守るべき家族、友、そして国そのものを全て奪ったツベンデル帝国に対する怨嗟は、年を追うごとに膨張した。バルドスにとって、それは生きる意味そのものになっていた。
周辺国を蹂躙し続ける帝国、その中枢たる皇帝に分からせたい。奪われるというのが、どういう気分なのかを。分からせなければならない。何としても。
帝国は巨大かつ強大。その兵員は小国の人口を上回り、百万人を超えると言う。ただし、膨れ上がったその巨体を守る為、兵力は分散されている。兵力の八割は国境の防衛、一割は黒竜の森から出現する魔獣対策、残りの一割が帝都の守備に充てられている。
一割と言え、十万。現在の版図では帝国の南東部に位置する帝都は、およそ十万の兵によって守られている。いくらバルドスが万夫不当の騎士でも、一人では皇城に辿り着くことさえ困難だろう。それは十二分に理解している。
十五年だ。準備するのに十五年を要した。
リーデンシア王国各地に逃れて来た、帝国から不当に住む場所を奪われた人々。その中でも戦う力と意志を持った者たち。それらを集め、鍛えるのに要した時間。
少人数ずつを帝都に潜入させるのに必要だった時間。帝都のみならず、皇城内に協力者を作る時間。そこから情報を掬い上げ、それに基づいて計画を紡ぎあげる時間。
中でも、この計画の要となる人物、ナーレ・ベイリンガルト。彼女と出会い、味方につけたことは正に僥倖だった。そのせいで計画を練り直す必要こそあったが、そのおかげで確実に帝国へ打撃を与えることが可能となった。
その彼女も、既に帝都近郊で準備に取り掛かっている。もしかしたら、彼女の力だけで帝都は滅ぼせるかもしれない。
現在は、帝都に潜入した仲間や協力者たちを少しずつ脱出させている最中だ。そう考えると少し可笑しな気分になる。苦労して中に入ったと言うのに、今は逃げ出そうとしているのだから。
現皇帝ガイマール・ベネデット・ツベンデルとその妻三人、子供十三人。そして帝都に居を置く帝国の高官たち。それらを鏖殺し、帝国北西部に駐屯する帝国兵を一掃した後、クレイリア王国を取り戻す。アルトレイ・クレイリア第三王子には、クレイリア王族として民を導いてもらう。
その後のことは余り考えていないが、自分たちの国を取り戻したい者の力添えをするつもりだ。
そうして、全てをあるべき姿に戻すことが出来たら……。
いや、死んだ者は還らない。全てをあるべき姿に戻すことなど出来ないのだ。だからこそ、帝国は報いを受けなくてはいけない。受けさせなくてはいけない。
それこそが自分に与えられた使命。バルドス・ロデイアはそう信じて疑わない。十五年前、共に戦禍から脱出した信頼出来る副官、ジガン・シェイカーが隣に居ないことだけが、ほんの少しだけ物足りない気がする。
いや。あいつが居ないことが幸運なのだろう。自分にとっても、あいつにとっても。
フッ、と自嘲するような笑みを浮かべ、もう一度部屋を見回したバルドスは、背嚢を担いで扉を出るのだった。
*****
ブレント・リーデンシア王子によって手配された高級宿“黒金の匙亭”は、その外観に恥じることのない宿だった。接客は丁寧かつ親身、用意された客室は高級感の中に温かみを感じさせ、料理は極上。非の打ち所がないとは正にこのこと。
ジガンだけでなく、旅の経験が豊富なクリルや、プルクラを王侯貴族として扱って然るべきと常々考えているアウリですら認めざるを得ない宿であった。
ただ、最重要の賓客であるプルクラは、比較対象が少な過ぎて「ほぇ~」と感心するに留まっているのだが。
「プルクラ様、お料理はご満足いただけましたか?」
「ん、美味しかった」
「にゃぁー」
客室に供えられた風呂も、備品に至るまで全て一級品。陶器の浴槽は恐ろしく滑らかな手触りで、湯の出る蛇口は金。平民では一生見ることもない人もいる“シャワー”もある。雨のように噴出する湯に、プルクラが「ほぇ~!」とはしゃいだのは言うまでもない。
このような風呂に入ると恒例だが、石鹸を泡立てた洗い布でプルクラの背を優しく擦りながら、アウリが料理について尋ね、プルクラが答えたところだ。
因みに、プルクラは桶に入れたルカインを優しく泡で包んでいた。湯を張った桶にルカインをそっと寝かせ、今はお腹の方を洗っている最中である。ルカインは「にゃ、にゃ、にゃ、にゃ……」と手を動かす度に小さく声を上げていた。どうやら気持ち良いらしい。
「アウリの料理と同じくらい美味しかった」
「まぁ!!」
無自覚にアウリの歓喜のツボを押さえるプルクラである。アウリの手に少し力が入った。
「プルクラ様、少し御髪が伸びましたね。どうしますか?」
黒竜の森で暮らしている間、ほとんどニーグラムが髪を切ってくれていた。アウリと出会ってからは、彼女がプルクラの髪を切っている。
「んー……伸ばしてみたい。アウリみたいに」
「まぁ!!!」
ファシオみたいに髪が長ければ、男の子に間違われることも減るだろう。別に間違われても構わないのだが、これまで見掛けた女性や女の子は、皆髪を伸ばしていた。であれば、それが“人間の常識”なのではないか。
記憶にある限り髪を伸ばしたことのないプルクラだが、一度くらい伸ばしても良い。邪魔なら切ればいいし。
アウリとしては、せっかくの美しい蜂蜜色の髪なのだから、伸ばした所を見てみたいとずっと思っていた。短くても可愛らしいが、伸ばせばそれこそ王女様のようだろう。
「頑張って伸ばしましょうね?」
「? ……ん」
頑張らなくても髪なんて勝手に伸びるだろうに、と思うプルクラだが、気合の入っているアウリには言うのが憚られた。それから、いつもより念入りに髪と地肌に香油を塗り込まれた気がする。
翌朝。朝食を終えた一行は討採組合・王都西支部に向かった。“黒金の匙亭”の客室は居心地が良く、ずっとゴロゴロしていても全く問題ないのだが、プルクラが「飽きた」のである。部屋でゆっくりしたい人はそのまま寛いで欲しい、とプルクラは気を遣った。自分の暇潰しに全員を付き合わせるつもりはない。
本音では部屋でゆっくりしたいジガンだったが、プルクラたちだけで行動させるわけにはいかない、と不承不承付いて行くことにした。
プルクラ本人が自覚していなくても、彼女はいつ噴火してもおかしくない活火山である。もちろん外部から刺激を与えなければ噴火はしないのだが、不思議なことに、本当に不思議なことなのだが、刺激を与えようと考える阿呆が多い気がするのだ。
これまでは、幸いなことに魔獣以外で死んだものはいない。プルクラも『殺すのは、殺さないと駄目な時だけ』と言っていた。ただ『アウリが怪我してたら殺した』とも。これはジガンの推測だが、プルクラは相手が騎士だろうが貴族だろうが王族だろうが、大切な者を傷付けられたら躊躇なく相手を殺すだろう。
そしてそうなった後にどうなるか。プルクラに報復しようとした者は、最終的に父親によって滅ぼされるのではないか。その滅ぼされる中には無辜の民も多分に含まれるのではないか。
考え過ぎかもしれない。そんな酷いことは起こらないかもしれない。
でも、起こるかもしれない。
自分が目を離したせいでそんな惨事に繋がったら寝覚めが悪い。だから彼女たちだけで行動させるわけにはいかない。例えこの先一生泊まることのない高級宿で、ゆっくりと寛ぐ絶好の機会だとしても。
ジガンは、一見豪胆に見えて、実は小心者であった。苦労性とも言う。
クリル・サーペントは、プルクラの実力をもっと見てみたいという探求心から。ファシオは「何か面白そう」という好奇心からプルクラに付いて行く。ダルガとオルガはファシオが行けば彼女と一緒に行くという主体性の無さ故。アウリが付いて行くのは言わずもがなだ。そしてルカインは流されてプルクラの肩に乗っかっている。
王都ではどんな依頼があるのだろうという興味本位だったが、プルクラが集団の先頭に立つことはない。戦闘なら話は別だが、街中の移動はまだ少しびくびくしている。
ジガンとクリル、そして物怖じしないファシオが先頭になり、討採組合にずかずかと入っていく。
ジガンは祈った。絡むなら、プルクラとアウリじゃなくてファシオにしてくれ、と。喧嘩を売るなら、この幼くも見える桃色髪にしろ、と。彼女なら嬉々として売られた喧嘩を買うだろうし。プルクラにとって、まだ相手を殺すほど大切というわけでもない筈だ、と。
ジガンやクリル、ダルガが傍に居るのに絡んでくる者など、普通は居ないと思うだろう。そう、普通は居ないのだ、普通は。
「おい、ここはガキの来る所じゃむぐっ」
ジガンの警戒網をいつの間にか突破した猛者が、ダルガによって拘束され外に連れ出される。
“黒金の匙亭”を出る直前、ジガンはクリルとダルガに頼み事をした。道中や討採組合でプルクラに絡む猛者が居たら可能な限り速やかに排除してくれ、と。それがこの国の平和に繋がるから、と。クリルは微笑みを湛えて、ダルガは良く分からないままそれを了承した。
絡まれそうになったことを知ってか知らずか、プルクラはアウリに促されて依頼を貼りだした掲示板の前に立つ。彼女は真剣な目で、一つ一つ依頼書を確認していく。
「おいチビ、邪――」
二人目が、クリルの手によって意識を刈り取られた。彼よりも頭一つ背が高く、横幅も広いその男は、軽々とクリルの肩に担がれて外に運び出されて行った。
「アウリアウリ。強い魔獣の討伐依頼、ある?」
「うーん、弱い魔獣ばかりですね」
王都の周辺は騎士団が頻繁に巡回しているため、強い魔獣はそれらによって発見次第討伐されるのが常だし、そうでなければ困る。だから王都の討採組合に出される依頼は、商人の護衛や地竜車で往復二日程度の範囲における討伐・採集などが多い。数日がかりの依頼を受けるのは暇潰しとは言えない。
「ガキは大人しきゅぅ」
三人目はジガンが優しく昏倒させた。全く、この短時間で三人も猛者が湧くってどういうこった? 呪われてない? いや寧ろ、呪われているのは俺か? ジガンは胃の辺りがしくしくと痛んだ。
「……どうしよ」
「外壁の外に出て模擬戦でもしますか?」
模擬戦と聞いてファシオが目をキラキラと輝かせた。
「んー、それもいいけど……あ」
「何かありましたか?」
「ん。私、お父さんと会ってくる」
「おぉ。それは良いですね! ニーグラム様がお喜びになられます」
転移の腕輪は父から受け取ったのに、一度も黒竜の森へ帰っていない。最後に会ってからまだ二週間ほどだが、色々と報告しても良いだろう。
「宿に直接転移で帰るから。みんなに伝えてて?」
「お一人で行くのですか?」
「アウリも行く?」
「いえ。偶には親子水入らずで」
「ん」
「ウチも行かないにゃ?」
「ん。ルカもまた今度」
転移で直接往復するのだ、特に危険もない。ニーグラム様と面識がない者たちが、突然黒竜の森へ行くのも失礼だろう。アウリはプルクラの肩からルカインを掬い上げ、そのまま床に放り出した。
「雑にゃ!?」
シュタッ、と四つ足で着地したルカインの抗議は軽く流され、アウリはプルクラに頭を下げる。
「お気を付けて」
「ん!」
踵を返したプルクラが颯爽と討採組合から出て行った。
「あらぁ? 姉御はどこに行くのぉ?」
突然走り出したプルクラの背を見送りながら、ファシオがアウリに問う。
「お父様に会いに行かれました」
「へぇ。王都に住んでるのぉ?」
「いえ。少々遠い所ですが、直ぐにお戻りになると思います」
それからアウリがジガンとクリルに事情を話すと、ジガンは遠い目になった。
「……だったらここに来る意味あった?」
「ジガン様の気苦労以外、特にありません」
ジガンがプルクラに煩わしい思いをさせないようにしていたことは、アウリにはお見通しだった。ジガンはがっくりと項垂れる。
「私たちぃ、適当に依頼をこなしてくるわぁ」
「あぁ」
ファシオがひらひらと手を振り、ダルガとオルガが軽く会釈をする。ダルガの手には数枚の依頼書が握られていた。
「ジガンさん」
「ん?」
「お酒でも飲みましょう、昼間から」
「お、それいいねぇ! 宿で飲めば殿下持ちだしな」
「ジガン様、器が小さいです」
「うぐっ!? 別にいいだろうがよぉ。アウリ、お前も付き合え」
「え、嫌ですけど」
「まぁまぁアウリさん、そう言わずに。プルクラさんのこと、色々と教えてくれませんか? 彼女のことを一番良く知っているのがアウリさんですから」
「フッ。仕方ありません、プルクラ様が如何に素晴らしいか、じっくりと教えて差し上げましょう」
ジガンは、足元をウロチョロしていたルカインをさっと抱き上げた。
「そうと決まれば早速戻るぞ!」
「「はい!」」
来るときの気鬱な顔はどこへやら。ジガンは鼻歌でも歌いそうな軽い足取りで“黒金の匙亭”へ戻るのだった。
「お父さん、ただいま!」
討採組合を出て人目のない路地を見付け、すぐに黒竜の森にある小屋へと転移したプルクラは、普段より張った声で父に呼び掛ける。
「プルクラ! おかえり」
「ただいま!」
ニーグラムは軽い驚きと大きな喜びを顔に貼りつけ、腕を広げて娘を迎えた。プルクラが勢いよく抱き着く。
「何か困ったことがあったか?」
「んーん、会いに来ただけ」
「そうか」
直近ではリーデンシア王国近衛騎士団に喧嘩を売られたが、特に困った覚えのないプルクラはそう答える。居間に誘われて長椅子に座り、ニーグラムが二人分のお茶を用意してくれた。適温のお湯を準備するくらい、黒竜には造作もないことである。
前回オーデンセンのすぐ傍で別れてからあった出来事を、プルクラはかいつまんで父に聞かせた。妖精のルカイン、元巡礼神官のクリルが仲間に加わり、ファシオたち三人も今は一緒に行動していること。降霊術を使う者の存在と、それを止めさせるべく各地の遺跡を巡るつもりであることなど。
「レンダルにも会った」
「そうか、それは良かった」
「ん。魔力覆いの魔導具と、新しい拡張袋をもらった」
転移の腕輪を改造してもらったことは、レンダルから口止めされている。ニーグラムが知れば絶対に欲しいと言い出すからだ。しかも娘の居る場所に転移出来るようにしろ、などと無理難題を言い出すに決まっている。そもそも自重せずに最高速度で飛べば、大陸の端から端まで一日も掛からない黒竜に転移など必要だろうか?
「それと、兄さんの居場所が分かるかも」
「そうか。会うつもりなのだな?」
「ん」
ブレント王子に頼んだのはもののついで、というか単なる思い付きだった。だが、それが口をついたのは、心のどこかで兄に会いたいと思っていたからだろう。
会って何かが変わるとは考えていない。ただ、兄の存在を知り、会う手段があるのなら、どんな人なのか見てみたいとは思う。
「楽しみか?」
「んー、ちょっと怖い」
「怖い?」
「会ったことを後悔するほど嫌な人だったら、と思って」
「フフッ。会わずに後悔するより、会って後悔した方が良いだろう」
「ん、それもそう。あ、それとお父さん」
「うむ?」
「ビリビリする『竜の聲』ってある?」
「ビリビリ? 雷系統か」
「ん」
プルクラはオルガが使っていた「雷の赤ちゃん」について語った。
「ヌォルの分体を通して、本体までビリビリ出来ない?」
プルクラはオルガの魔法を見て、それがどんな魔法か教えてもらった時からこれについて考えていた。ヌォルの分体は、何らかの形で本体と繋がっている筈。それなら、分体のビリビリが本体まで届かないだろうか、と。
「ふむ、面白い。考えてみよう」
「出来たら教えて?」
「もちろん」
それからプルクラは、ここへ来たもう一つの用事を先に済ませ、父と心ゆくまで語り合うのだった。




