-8- 作戦会議
僕は気づけば仰向けに寝ていた。
見覚えのあるような、ないような、白い天井が見える。
まだ少し頭がくらくらするが、体を起こしてあたりを見渡す。
大きなデスクの向こう側に秋山教授がうなだれた状態で座っている。僕がいるのは変わらず秋山教授の研究室のようだ。
背中の感触が固くないのは、誰かがソファに寝かせてくれたからだった。
「目が覚めましたか」
声のする方を見ると、東雲さんがいた。
「安心してください。あなたが気を失っていたのは三十分ほどです」
そういう彼女の手には例の書物が収められていた。
「その本は――」
「大丈夫です、慣れてますので。とはいえあなたは触らない方がいいでしょう」
わかっている、と言わんばかりに食い気味に回答が返ってくる。
慣れているとはどういう意味だろうか。説明されているようで謎は深まるばかりだ。
彼女はその書物――怪物の書とでも呼ぼうか――を小脇に抱えたまま、どこかに電話をかけた。
僕は改めて秋山教授の方に目をやると、ちょうど彼と目が合った。
すぐに目を逸らされたのは、僕に対しての罪悪感が気まずさを生んだからだろうと思われた。
「荻山くん、ちょっと」
東雲さんは僕に呼びかけると、電話を代わってくれという様子でこちらにスマートフォンを差し出してくる。怪訝な表情で困っていると、「榊さんです」と電話の相手を教えてくれた。
僕は飾り気のないシリコンカバーがついたスマートフォンを受け取って電話に出た。
「荻山くんかい? 今回は災難だったね」
災難だったのだろうか。僕自身はよくわかっていない。
とりあえず、状況は向こうに伝わっているようだ。
「魔道書の危険性を事前に伝えないままにしてしまって申し訳ない。ひとまず無事なようでよかった。それから怪物騒動の原因を突き止めてくれてありがとう」
彼の口ぶりからすると、怪物騒動の元凶が秋山教授と怪物の書であることは伝わっているようだ。
僕の電話中、東雲さんは怪物の書をぱらぱらとめくって中を確認している。
「しかし事件はまだ終わっていない。リサと一緒に古書店に戻ってきてくれ。魔道書も忘れずにね」
そう言って電話は終えられた。袖で画面を拭ってから彼女にスマートフォンを返す。
彼女からの、歩けそうですか、との問いに、大丈夫です、と返す。
「では戻りましょう。――教授、失礼します。また来ると思いますので」
彼女はそう言って研究室を出て行く。僕も慌てて「失礼します」と言って退室する。
ローヒールパンプスの足音が研究室棟の廊下に響く。僕は聞きたいことが山ほどあったが、「詳しいことはまた後で」と受け流され、彼女に聞くことはかなわなかった。
――――
「おかえりリサ」
古書店に着いた僕らを榊氏が出迎える。
研究室を出てからここまでの間、東雲さんはずっと早足だった。彼女のスラリと伸びた脚は中々に健脚らしい。
「榊さん、どうも」
「荻山君もいらっしゃい。込み入った話になるだろうから奥に上がっちゃって」
促されるままに古書店の奥へと進む。売り場の向こうは居間に続いていた。居間は6畳の和室になっており、中央にテーブルの周りに座布団がいくつか並べられている。左隣は台所に、右隣は廊下に続いているようだ。正面には窓があるが、裏のすぐそこにビルがあり陽当たりは非常に悪い。
僕は上がり框で靴を脱ぎ、下座に腰掛けた。
東雲さんは台所へお茶を用意しに行ったようだ。
「さて、何から話そうか」
僕の正面に座った榊氏が切り出す。
「ああ、秋山教授の話と地下室の写真についてはリサから聞いてるから大丈夫だよ」
僕からの報告は無くても大丈夫という意味で言ったのだろうが、内容としては全く大丈夫ではない。
「まず、これの話からにしようかな」
いつの間に渡されていたのだろうか、例の怪物の書は彼の手に握られていた。
「榊さん、その本をめくっても大丈夫なんですか」
「魔道書の力のことだね。僕は慣れてるから大丈夫。リサも似たようなもんだ」
彼はけろっとした顔で頁を開く。
「手書きで別の紙に写すように翻訳していたみたいだね。この様子だとこっちにも魔力が宿っていそうだ」
榊氏が書から一枚の紙切れを引き抜くと、ひらひらと僕に見せびらかせた。
東雲さんも榊氏も、この一連の超自然的な物事に驚いた様子はなく、手慣れているような印象を見せた。僕だけ置いてけぼりになっている気がする。
「その様子だとリサはまともな説明をしていないんだろうね」
「あなたがいるときに説明した方がよいと判断したまでです」
東雲さんがお茶を淹れて戻ってきた。今回は緑茶だ。彼女も台所から近い座布団に座る。
「役者も揃ったことだし話を始めよう。と言いたいところだが、荻山君にひとつだけ」
榊さんが僕の目を見て言う。
「これからする話は、超自然的な事象が実在する、という前提で進める。構わないね?」
ああ、そういうことか。
「構いません」
おそらくこれから、
「オーケー、それじゃ始めよう」
僕の常識が崩れ去るのだ。
――――
「まずこの本……と呼ぶのもいちいち面倒だな。"次元の超越者"という題のようだが、ここでは"怪物の書"と呼ぼう。怪物の書はおそらく、いわゆる魔道書だ。魔道書は超自然的な事象について書いてあるし、触れただけで人の心に入り込んできたりもする」
僕が頁を開いたときに怪物の姿が脳裏に現れたのも、魔道書の力によるものなのだろうか。
「魔道書は外国語で書かれたものが多いし、筆者の手書き文字だから解読が困難だ。怪物の書は例によって英語で書かれたものみたいだが、幸いにも秋山教授が翻訳してくれたおかげで日本語のメモがついてる。ざっくり斜め読みする分には一晩かからないだろう。目下の問題は、怪物がまだ大学に住み着いているであろうことだ」
僕は疑問をぶつける。
「秋山教授の儀式で追い払えた、もしくは自主的にもとの居場所に帰った可能性は?」
「この手の件について希望的観測はよろしくない。退散の儀式が正しく行われていない以上は怪物の出没は止まらないはずだ。秋山教授も失敗していることになんとなく気づいているんだろうな」
「怪物の召喚には成功しちゃったみたいですけど……」
「完全な成功とは言い難いね。何しろ従属がうまくいっていないみたいだから」
「その、従属っていうのは何ですか」
「一般的な意味とさほど変わらないけど、付き従うってことだ。命令に従うって言った方がわかりやすいかな。今回の場合は召喚した側に召喚された側が従う。魔術的な力で主従関係を作るんだ」
「怪物は秋山教授の命令に従うはずってことですか」
「そういうこと。失敗の理由はなんとなく想像がついてるけど、確信が持てたら話すよ」
榊氏が一区切りつけるように緑茶を口に運んだところで東雲さんが口を挟む。
「榊さん、"目下の問題"をどうするのかまだ話してませんよ」
「おっと、いけないいけない」
榊氏――いやこの呼び方は今となっては他人行儀すぎるか――榊さんがいたずらっぽく笑う。
「超自然的な生物を退散させる方法は大きく分けてふたつある。ひとつは単純明快、物理的に破壊すること。もうひとつは魔術的な力でお帰りいただくことだ」
「怪物を斃すってことですか」
「そうだね。ただ残念なことに、我々には武力がない。ひとつめの方法は絶望的だろうね」
「ってことは魔術的な力――退散の儀式――を使うってことですか」
「その通り。飲み込みが早くて助かるよ。そしてそのための方法はここに書いてある」
彼は怪物の書を示しながら言った。
「秋山教授は儀式に失敗しているようだからどこかに翻訳ミスがあったのかな。原本と翻訳メモを照らし合わせてどうすればいいか考えてみるよ。リサ、魔法陣の写真はPCに移したかい?」
「いまやります」
「ついでに拡大印刷しておいて。多分それが鍵だ」
緑茶を飲み干した榊さんが急須からおかわりを注ぐ。
「荻山君はいったん帰るといい。ここからは僕の仕事だ。といっても儀式の実行は君に手伝ってもらうと思うけどね。方法がわかったら連絡するよ」
そう言われた僕は言葉に甘えて帰宅することにした。
今日は僕の常識を超えた話が続いて、頭が痛くなってきた。
古書店を出るとあたりはすっかり暗くなっていた。この街の夜は寒い。明かりの少なくなった通りをオリオン座が睨んでいる。ギリシャ神話の寓話を思い出しながら、吐息で手を温めた。
僕はまだ、かろうじて、正気の世界にいる。




