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終末のメリッサ  作者: 咲洲ルカ
第1話 怪物の影
5/10

-5- 痕跡


 鍵を返却するため1階の窓口へ戻った時、知っている人とすれ違った。


 男性にしては背が低めで、茶色のツイード生地の背広を着て厚めの眼鏡をかけている。白髪まじりの頭髪が薄くなっており、だいぶ老けているように見える。

 考古学の秋山教授だ。音楽棟に用があるのだろうか。


 鍵を窓口に返却しながら、僕は予約表を改めて確認した。


 ほどんどの部屋が30分~2時間単位で利用されている中、地下の401号室が2週間後まで連続して予約されている。利用者は"秋山"となっている。


「この401号室ってずって予約されてますね。何で使われてるんですか?」


「ん? ああ、秋山教授のことか。研究室に入りきらない資料を置くために物置代わりに使ってるって聞いたな。あんなに大きい部屋使わなくてもなあ」


 401号室は中教室ほどのサイズがあるらしい。物置として使うには贅沢だ。


「あからさまに怪しいですね」


 東雲さんが顎に手を当てて考える仕草をする。


「いきなり怪しいとは、失礼じゃないですか?」


 僕は小声でたしなめたが、彼女は納得しそうにない。


「いえ、怪物の影の目撃、行方不明者の最後の足取り。この音楽棟に何かがあることは間違いないでしょう。」


 言われてみれば確かに怪しいかもしれない。


「あとを追ってみましょう」


 そう言うと階段フロアに戻り、今度は地下に下りていく。尾行なんて悪趣味だ、と思いつつも他人のことを言えない僕は黙って彼女についていった。


 地下に下りていくと階段はそこまでで、目の前には地上階と同様に廊下が伸びていた。基本的には同じつくりだが、扉の間隔が広くなっており、部屋の大きさが違うであろうことが読み取れる。


 東雲さんは静かに歩いて進んでいく。僕も極力足音を立てないように気をつけて歩を進める。


 401号室は地下階の一番奥にあった。最も人の往来が少ないところ。

 扉の覗き窓には内側からカーテンが掛けられており、中を伺うことはかなわない。息を殺して聞き耳を立ててみたが、防音室である以上、物音はほとんど聞こえなかった。


 僕が東雲さんの方をちらりと見やったとき、ちょうど彼女と目が合った。

 どうする?とお互いに確認する動きだ。


 さすがの東雲さんもこれ以上はと判断したのだろう。引き返しますよ、とハンドサインを出して来た道を戻っていく。


 彼女が強攻策に出なかったことに安堵して、僕もその場をあとにした。


 ――――


 音楽棟内の探索に一段落を入れた僕らは、音楽棟横の喫煙スペースを訪れた。水谷さんが怪物の影を目撃した場所だ。


 まずは水谷さんが目撃した視点から見てみた。今はまだ陽が出ているから音楽棟裏の方向は明るい。裏手に回ってみても一見したところ不審な点は無いように思えた。

 音楽棟裏を少し歩いてみる。建物の周囲は車一台が通れそうな幅だけ舗装されているが、それより建物から離れると土になっていて、木も生えている。季節柄、葉はほとんど落ちているものの、林のようになっており視界は悪い。


 ふと一本の木が目に留まった。腰ほどの高さに傷がついている白木蓮だ。そこには鈍い刃物で抉ってできたような、横方向に20cmほどの傷痕があった。


「東雲さん、これ、なんでしょうか」


「傷……ですね」


 彼女は一思案したのち、こう切り出す。


「荻山くん。道具か何かを使ったとして、このサイズの傷をつけることができますか?」


 僕はかぶりを振った。少し考えてみたが、だいぶ難しいだろう。これだけの傷をつけるには相当な筋力が必要だ。もしくは機械を利用するかだ。


 傷ができた理由を探して辺りを見回すと、もう一つ妙なものを見つけた。


 それは地面に残された跡だ。足跡のようだが、靴跡ではない。体重が均等にかけられていないのか、足裏全体の跡にはなっていないようだ。それだけでも長さ20cm、幅10cmほどあり、人間の足よりもだいぶ大きい。指のように分かれている箇所があるため、つま先側なのだと思われた。また、先端には尖ったものが食い込んだような跡ができており、肉食動物の爪を思わせた。


 次の瞬間、乾いた冷たい風が吹き抜けた。枯葉と砂埃が舞う。


 この足跡と傷痕の主はどうやら実在するのだ。


 巨体を支える屈強な脚。長く伸びた腕の先に鈍く光る鉤爪。

 その腕を軽く振るえば、かすった木があっけなく抉られる。

 その眼孔に感情はなく、ただ残忍な暴力を湛えている。


 背筋にぞわりと悪寒が走った。


「荻山くん、大丈夫ですか」


 声をかけられて僕ははっとする。少し気が遠くなっていたようだ。気づけば寒さにもかかわらず額に脂汗が浮かんでいた。


 僕の様子を見た東雲さんは同じように跡を認めると、腕を組んで嘆息した。


「やはり、人間の仕業ではないようですね」


 信じたくなかった予想を肯定される。


「この時間は冷えます。今日は終わりにしましょうか」


 僕を心配してくれたのか、東雲さんが言う。

 断る理由はない。僕は頷く。


 僕らは白木蓮の傷痕と、足跡と思われる土の凹凸を写真に収めてからその場を後にした。


 ――――


 太陽傾く夕の刻、その老人は音楽棟を訪れていた。

 いつものように守衛に鍵を借りる。もう慣れたものだ。


 地下に下りる前、階段からやってきた一組の男女とすれ違う。どちらも見覚えがある気はしたが、できるだけ目を合わさないようにした。


 階段を下り、地下階の最奥の部屋の鍵を開ける。扉をくぐってすぐに内鍵をかけた。覗き窓のカーテンもぴんと閉め直す。


 彼が扉横のスイッチを切り替えると、広いと言って差し支えないその部屋を照明が照らした。物置代わりと理由をつけて借りている部屋だが、置いてある物の量は多くはない。ただ、部屋の中央に大きな布地が包まれて置いてあった。


 老人がその布地を広げる。6畳ほどの大きさとなったそれには、大きな六芒星といくつかの文字列が描かれていた。赤黒い液体で描かれたそれは、蛍光灯の明かりの下、怪しく輝いて見える。


 この場所を選んでよかった。人通りもなく、多少の音は外に聞こえない。

 彼がこの場でしてきたことも、これからすることも、誰も知ることはないと感じていた。


 鞄から一冊の本――というには粗末なものであるが――を取り出し、それを開く。目当ての頁を開き、目を通す。


 大丈夫。きっとうまくいく。

 そう自分に言い聞かせ、深呼吸をする。少し黴くさい空気が肺を満たす。


 そのとき、誰かが部屋のすぐ傍に来ている気配がした。

 彼はここでしていることを誰かに知られないようにしていたので、そういった気配に敏感になっていた。


 鍵はかけてある。カーテンがあるから中を覗くこともできない。

 こちらからアクションしなければ何も起こりはしないのだ。


 息を殺すと、窓のない部屋に静寂が訪れる。

 耳を澄ませば自身の鼓動の音すら聞こえてきそうだ。


 しばらくすると気配は消え失せた。そもそも気のせいだったかもしれないが。


 彼は一人きりの世界に戻ると、また大きく呼吸をした。


 ――願わくば、悲しき運命が再び訪れざらんことを。



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