-10- 噂の終着点
怪物は倒れた。僕は奴に打ち勝ったのだ。
そう思い緊張が緩んだところで、怪物の体がぴくりと動く。奴はふらつきながらも立ち上がり、暗黒の眼差しを僕に向ける。
そんなばかな。いや――「ひとつめの方法は絶望的だろうね」という榊さんの言葉を思い出す。
僕に武力はない。
自衛隊や特殊部隊のように銃火器を装備しているわけでもない。
武術や護身術の心得があるわけでもない。
工具片手にいきり勇んだ、ただの一般市民だ。
僕のような一般市民風情が、得体の知れぬ化け物を斃そうというのがおこがましかったのだ。
もうダメだ、と諦めが勝ろうとしたそのとき、
「――、――!」
ずっと続いていた東雲さんの詠唱が止んだ。
それとほぼ同時に、怪物の動きが固まったように止まる。僕に向けていた暗黒の眼も、より邪悪な何かに怯えるように震えていた。
そして魔法陣の方から一陣の風が吹いたかと思うと、怪物は断末魔の如く絶叫を上げて消えていった。
今度こそ終わったのだと、安堵の息をついた。もう異界の錆の匂いはしなくなっていた。
一、二秒置いて部屋の照明が復活する。明かりが消えたのは怪物の力だったのだろうか。
「やったか……?」
絞り出すように声を発したのは秋山教授だ。その声は僅かに上擦っていて、額に脂汗も浮かんでいる。
「終わりましたね。さ、片付けますよ」
東雲さんはまるで、つまらないゲームをクリアした後のように、落ち着いていた。
――――
それから、僕らは魔法陣の布を丸め、部屋の荷物を引き揚げる秋山教授を手伝った。
「……もうここの鍵も借りなくて良さそうだ」
秋山教授が目を細める。
どことなく寂しそうな、それでいて清々するような面持ちだ。この地下室自体に思い入れができたような感じなのだろうか。
「そのダンボールは荻山くんが持ってくださいね。あと、今日はもう遅いので榊さんへの報告は明日にしましょう」
東雲さんが珍しく僕を気にかけてくれている。どちらにせよ細かい報告は東雲さんがしてくれるつもりなのだろう。
荷物を抱えた僕が最後に401号室を出ると、秋山教授が鍵を締めた。
これにて僕らは解散した。
外に出た瞬間に冷たい風がびゅうと頬を撫でた。
満天の星が清々しい。白銀の月明かりに照らされながら、僕は非日常からの帰路についた。
――――
後日。
榊さんへの報告を形式上、行った。といっても詳細はほとんど東雲さんが済ませてくれていたため、僕の方は経費精算と、バイト代がわりの報酬を受領したくらいだった。むしろ、超自然的な事象について補足をもらったくらいだ。
怪物は儀式によって地下室への結びつきがなくなったためこの次元からは追い出せたものの、消滅したわけではないらしい。
「稀にホンモノがいる」――榊さんの言葉を信じるのであれば、あの怪物以外にも、超自然の生命体はきっと実在するのだ。
僕はこの事件に関わったことで、この世界に隠された邪悪にも似た真理を、少しだけ垣間見てしまったようだ。
東雲さんは僕についてまわることはなくなった。とはいえ大学構内で会えば挨拶くらいはする、お知り合い程度の仲には進展した。女性に対し奥手を極める僕にとっては充分な成果だった。
秋山教授はこの件以降、音楽棟の裏をよく訪ねるようになった。傷のついた白木蓮の傍に仏花を供えている姿が目撃されている。
怪物の噂がもう広まらないであろうことは、この件に関わった四人だけが知っている。
多少の常識と正気を失いつつも、僕はこうして日常へと帰ってくることができた。
だが、唯ひとりの犠牲者である鈴原さんだけは、帰ってくることはなかった。
怪物の影は、いつも僕らの隣にいる。