-1- ミステリアスな麗人
「音楽棟の裏で、怪物の影を見た」――大学一年生の冬頃、学内でこんな奇妙な噂が流れた。
怪物なんて存在するわけがない。きっと何かと見間違えたのだろう。僕は興味を引かれながらも、そう自分に言い聞かせていた。あの事件に巻き込まれるまでは……
――――
僕――荻山恵典が通う淵宮大学は淵宮市に位置する総合大学だ。地名がつけられてはいるが、私立の学校法人である。
時は11月も下旬、寒風吹き荒ぶ小雪の頃だ。学内に2限終了のチャイムが響く。
講義の合間に同じ学科の友人、佐藤が話しかけてくる。
「なんか怪物が出るって噂になってるみたいだけど、知ってる?」
怪物?
「"音楽棟の裏で、怪物の影を見た"って噂が、学内で広まってるらしいよ」
僕は初めて聞いたのだが、鈴木と高橋も知っているようだった。
僕らは人間の文化を扱う人文科学部に籍を置く一年生だ。年度初めのオリエンテーションで知り合って以来、講義のときはこの四人でよくつるんでいる。
そんなことを話していると、隣の長机からプリントが一枚、はらりと落ちた。僕がなんとなしにそれを拾い上げると、かわいらしい声がかけられた。
「ごめん、それ私の。拾ってくれてありがと」
見上げると一人の女子学生が僕のそばに立っていた。大学生らしく髪を茶色に染めていて、それでいて清純な感じがする。右目の傍の泣き黒子がチャーミングだ。
同じく人文科の鈴原さんだ。直接会話をしたことはほとんどないが、講義がよく一緒になるので顔を覚えている。
鈴原さんにプリントを渡した僕は男子連中の会話に戻る。
「怪物なんて、今のご時世でよく信じられるよなぁ」
鈴木がぼやく。僕も同意見だ。所詮噂は噂だ。
人類が月へ辿り着き、携帯電話回線の基地局が無数に建てられている現代においてオカルト話などナンセンスだ。
怪物なんて存在するわけがない。きっと何かと見間違えたのだろう。
僕は全くと言っていいほど怪物の存在を信じていなかった。にも関わらず、この噂話が耳に残って仕方なかった。
――――
放課後、サークルの類いに属していない僕は駅前の商店街をうろついていた。
商店街には学生が入りそうなファーストフード店の他にも、個人経営の雑貨店だとか、金融会社の事務所が入った雑居ビルだとかが並んでおり、平日でもそれなりの活気を見せている。
趣味の悪いブティックの前を通りがかったとき、見覚えのある女性がふと目に留まった。
肩まで伸ばした栗色の長髪。気怠げな表情をした色白の整った顔立ち。ダークグレーのタートルネックに羽織った臙脂色のストールが彼女の色気をより引き立たせていた。
英文学のグループワークで一緒になったことがある。
確か東雲という名だったはずだ。
グループワークの班分けがランダムだったためにたまたま一緒になったが、お互いに最低限のコミュニケーションしかしなかったため、面識は無いに等しい。
僕はこの美しい女性について、名前の他に知っていることがあった。厳密には学生ではなく、外部の聴講生なのだということだ。学内で一、二を争うほどの美人なので、よく噂になるのだ。
膝下まであるライトベージュのプリーツスカートをなびかせながら歩く彼女はローヒールのパンプスをかつかつと鳴らしながら四つ角を折れて裏通りに入っていく。
ここの裏通りに何かめぼしい店でもあるのだろうか。
また、ミステリアスな彼女は一体どんな余暇を過ごすのだろうか。
興味を引かれた僕は、何の気なしに彼女の後を尾行けていくことにした。
――――
駅前の裏通りを、彼女はすたすたと歩いて行く。僕は見失わない程度に、また不審に思われない程度に距離をとりながら彼女を追って歩く。
しばらくすると彼女は雑居ビルに挟まれてこぢんまりと建っているひとつの建物の扉を開いて入っていった。
近づいてその建物の看板を確認してみる。
榊古書店。それが看板に書いてある名だった。
店の外側には商品展示の類いはなく、看板を見なければ古書店ということすらわからないだろう。
窓ガラスから店内の様子を伺おうとしたが、陽当たりのせいもあり薄暗く、よくは見えなかった。ただ、古書店と聞いて想像していた本棚の数よりもガラクタのようなものが並べられている棚の方が多いように思えた。
僕はこの店に入ることに、一瞬だけためらった。それは女学生を尾行けてきたことの罪悪感からか、この店が放つ独特の雰囲気に気圧されたからか、はたまた別の何かが理由かは判断がつかなかった。
しかしすぐ後にはドアの把手に手をかけていた。好奇心が勝ったのだ。意を決してドアを開くと、来訪者を告げるベルがちりんちりんと鳴る。
僕が足を踏み入れると同時に、生温い空気が纏わりついてきたように感じた。
中は二十畳ほどの空間で、明かりは点いているもののやはり薄暗かった。壁際には本棚が並べられており、そこが書店であることを主張していた。
とはいえ置かれている本は一般的な書店とは異なっているようだった。
背表紙に日本語の文字が書かれているものは少なく、英語や知らない言語で書かれたもの、手記や巻物のようなもの、題名がなく得体の知れないものがほとんどだった。
また、外から見えた様子の通り、店の中央に並んでいるショーテーブルには古時計や壺、モチーフのわからないオブジェやらが雑多に置かれている。値札もついておらず、売り物かどうかも謎だ。
「おや、若いお客さんが来るなんて珍しい。何かお探しかな?」
ベルの音に気づいて奥から出てきた店主であろうその人物は、オーバルの眼鏡をかけた中年男性だった。
白のカジュアルシャツにベージュのチノパンといったラフながらも清潔感のある服装につやのある茶色の革靴が気品を漂わせる。首にかけているループタイがレトロだ。
「いや、えっとその、なんとなく入っただけで…」
かけられた声に僕は言葉が詰まる。店員に話しかけられた時のことを考えていなかった。
そもそもなんでこの店に入ったんだっけ。
ようやく思い出す。そうだ、東雲さんだ。僕は彼女を追ってこの店にたどり着いたのだ。
しかし店内に彼女の姿はない。どこに行ったんだ? この店に入ったように見えたのは見間違いだったのか?
「もしかして淵大の学生?リサのお友達かな」
淵大――淵宮大学の略称――と女性の名前――確か東雲さんの下の名前だ――を出され、視線が泳いでしまった。
それを僕が自覚したが早いか、奥からもうひとつ人影が現れた。
東雲さんその人だった。