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波動の腕輪

作者: 小城

 この物語は、フィクションであり、実在の人物、団体、事件等とは、一切、関係ありません。

 嘉永六年。それから、旅が始まった。

「丁半。駒揃いやした。」

 関東の小さな村に旅籠がある。その一部屋にある賭場で、丁半賭博が行われていた。

「五二の半。」

「畜生!」

「また摺った!」

 今、そのサイコロを回してるのが、駒回しの吉蔵と呼ばれる男である。吉蔵の年は、四十近い。それが盆茣蓙の顔ともいうべきツボ振りをしているのには訳があった。

「今日は、やけに半目が多いな。」

 それも、そのはずである。しかし、それは、イカサマではない。

「ついてない日もありますよ。旦那。」

「そうだな。」

 賭場は旅籠の主が開いていた。客は泊まりの旅人たちである。

「吉蔵つぁん。ご苦労さん。」

「ああ。今日は、厄日だな。」

「そんなことはねえよ。」

「いやあ。何か、はっきりしねえんだよ。」

 吉蔵が言っているのは、自分の能力の事である。それは、PKサイコキネシスであった。


 安房の水主の五男として生まれた吉蔵は、若くして神童と呼ばれていた。それと言うのも、彼の観望天気の予測は、怖い程に当たった。

「父っちゃん。早く家に帰らねえと、雨に降られるよ。」

「雨だと?」

 空には、雲ひとつない晴天である。親戚の法事に出た時のことである。

「こいつ。早く帰りてえからって、戯言を言うな。」

 吉蔵の頭には、父親の拳骨が飛んで来た。

「あらあら。これは狐の嫁入りかねえ。」

 吉蔵の叔母に当たる人が仕出し屋に注文を取りに行こうとした時、俄に天は曇を抱え、地面に雨を降らしてきた。

「また、やりやがった。」

 父親の言ったことは、吉蔵の予知能力のことだった。

「お前、良い水主になるかもしんねえな、」

 拳骨を飛ばしたことも忘れて、吉蔵の父親は笑っていた。


 それでも、吉蔵の人生が順風満帆という訳には行かなかった。

「鬼の子。」

 寺子屋に通っていた吉蔵は、奇妙な奴として、他の子たちから忌避された。子どもというのは、摩訶不思議な事に敏感であり、容赦ない。

「石を投げろ。」

 それは、些細な事だった。寺子屋に通っていた児童の内で、鳥を飼っている者がいた。寺子屋の子どもたちは、数人で、その児童の家に鳥を見に行った。

「こいつ、もうすぐ、死んじまう。」

「おい、変なこと言うな。」

「だって、そう言ってる。」

「気味悪い奴だ。」

 それは吉蔵の親切心から出た言葉であった。児童が可愛がっている愛玩動物である。吉蔵は、その死期を予め知らせてあげようとしたのだろう。そして、吉蔵にとって、幸か不幸か、吉蔵の予言通りに、その鳥は死んだ。

「あいつが殺した。」

 瞬く間に、その噂は広がった。目立って、他の子どもたちは吉蔵との交流を避けたし、非道い者では彼を迫害する者もいた。

 そのような子ども時代を過ごしたから、病で両親が死んで、叔母夫婦の家に引き取られるという段になったとき、吉蔵は家を出た。

 それからの境遇は、世間には、ありふれたよくある事であった。江戸に出た吉蔵は、日雇い労働の傍ら、喧嘩と賭博で御用となり、人足寄場の世話になった後、博徒になり下がった。吉蔵本人にとって、その人生は、辛く、悲しいものではあったが、そのような人生は、案外、彼の身の回りに、芋洗いの芋のように、ごろごろと転がっていた。


 博徒となった吉蔵であったが、彼は、そのまま、ただでは終わらなかった。幼い頃は、あれほど、純真であった吉蔵も、家出をして、やさぐれた路を歩むことによって、根は素直ながらも、高貴な仏像が、ささくれ立って行くように、世間擦れした擦れ枯らしの男に成長していた。

「己のこの力を使って身を立ててはいけないか。」

 吉蔵の超能力は、ESP(超感覚的知覚)とPK(念力)に大別される。未来予知も、そのひとつではあった。それは、突如として、吉蔵の脳内にイメージとして去来する。それは絵や言葉ではなく、感覚である。雨降りの例では、雨の感覚、友人の鳥の例では、死の感覚という、単純だが、そのような超感覚的なものが、知覚されることによって、吉蔵は、それを知ることができた。知ったとしても、それを何かしらの手段で、発信しなければ、予知にはならないし、それに、それが実際に起こるかどうかまでは彼には分からない。

 もうひとつ、念力についても、それは、未来予知と結び付いているのかもしれなかった。吉蔵が意図的に、イメージ、先ほどの感覚を念じたり、発信したりすることによって、それが具体的な未来のイメージとなり、うまくいけば、実現される。サイコロの例をとれば、彼が、半の目が出るイメージを念じることによって、純粋な確率分布に誤差が生じ、通常よりも、多くの確率的回数によって、サイコロに半の目が出るということだった。

 吉蔵は、それを磨くことに務めた。

「半。」

 出た目は、丁であった。

「もう一回だ。」

 始めは、笊で水を掬うような努力であった。が、しかし、それは、吉蔵が、今までしたこともないほどの情熱と熱意と希望と根気とを持って、行ったことによって、次第に、現実となっていった。

「ピンぞろの丁。」

 出た目は、まさに思った通りであった。

「百度回して八割ほどか。」

 それは、吉蔵が三十の半ばを過ぎる頃である。彼は、それだけの確率で、半か丁、自分が思った通りのサイコロの目を出すことができるようになった。

「三十にして、立つ。我が千里の道も一歩より始まるなり。」

 それ以来、彼は、博徒として、安い賭場で、壺振りをさせてもらいながら、関東の宿場町を回った。そして、今日では、その技と名声が街道筋の裏の連中たちの間で噂となり、駒回しの吉蔵とまで呼ばれるようになったのである。


「吉蔵さん。ちょいと。」

 賭場が終わり、旅籠の客間で、吉蔵が寝酒を飲んでいた時、旅籠屋の女将が、襖の隙間から、顔を出した。

「これなんだけど……。」

 女将が差し出したのは、自らの尾を食む蛇を象った腕輪であった。

「今日の賭場で、負けた客が賭け金代わりにって、持ってきたんだけどさあ。」

 女将は至極、迷惑そうな顔をしていた。

「それを俺の所に持って来たからって、何だい?」

「目利きを、してもらいたいんだけどさあ……。」

「目利きだあ?」

 旅籠屋の主人や女将たちは、吉蔵のことを、神がかり的な神通力を持った壺振りの名人を見る目で見て、そのことを知らない客たちから金を掠り上げて、自分たちを儲けさせてくれる人としてしか認識していない。その漠然とした認識から派生して、たまに、今回のような、訳の分からない便利屋のような事を頼まれることがある。

「見せてみろい。」

 人の良い吉蔵は、そんなへんてこりんな仕事も、大抵は引き受けてしまうのだが、今回の腕輪の目利きも、その限りではなかった。

「うわっ、、……。」

「どうしたんだい!?」

 吉蔵が腕輪に触れた途端、何か訳の分からないイメージが、彼の脳内を駆け巡っていた。

「こいつは、すげえ珍品だぜい。」

「本当かい。」

 すぐさま女将は階下へと走って行った。残された吉蔵は、目の前にある腕輪を、再び手にした。

「うわわ、、わわ……。」

 思考が流転した。それは、念視であった。別名、サイコメトリー。物体の残留思念を読み取る力である。

「何でえ、これは、、……?」

 自らの尾を食む蛇は、ウロボロスと呼ばれる。古代文明以来、図案化されたその姿は、死と再生、不老不死、陰陽一体、永劫回帰など、いわば、完全、永遠、不滅の象徴であった。しかし、それは、ギリシャローマ、エジプト、中南米、中国などでのイコンであり、この鎖国下の日本にあっては、どうして、このような遺物が、世間に紛れ込んでいるのかという点においては、吉蔵の言った通りの珍品であった。

 そして、常人には感じ得ることのできない、この珍品の内奥にあるそのイメージも、関東から外へ出たことのない吉蔵にとっては、これまた、頓珍漢なものであった。

 さらに、最も、驚くべきことは、この念視という体験自体、吉蔵にとっては、これが初めてのことであった。


 賭場の借金のカタに客が置いて行ったそのウロボロスの腕輪を、旅籠屋の主人と女将に頼み込んで、吉蔵は、客の残していった借金と同じ額の銭を払うことによって、譲って貰った。

「二十両か……。」

 それがウロボロスの腕輪の値段であった。今まで、壺振りをして、コツコツと貯め込んでいた小判が、飛んで行ったのである。

「うおおお……!!!」

 さっそく、吉蔵がその腕輪をはめてみると、その行為をきっかけとして、腕輪の残留思念が念視された。

「母と子か……、?」

 金髪碧眼の少女であった。それがこの腕輪の持ち主だったのかも知れない。吉蔵に流れ込む思念は、テレビに映し出される砂嵐の中で放送されているようなものだった。

 やがて、持ち前の甲斐性によって、彼は、意図的に、その物に宿っている残留思念を、ある程度、コントロールして、読み取ることができるようになった。それは磁気嵐混じりの放送が白黒放送になったようなものだった。しかし、それまでの間には、十年の時が必要だった。


 嘉永六年から、時代は流れ、文久三年。京都では、浪士組、後の新撰組が結成されていた。

「波動の腕輪。」

 ウロボロスの腕輪を、吉蔵はそう呼んでいた。波動という近代用語を、江戸時代人である彼が、どこでどう知ったのかは、定かではない。それが、なぜ、波動などという日本語とも漢語とも知れない造語を作り出したのかと言うと、吉蔵は、彼に宿る超能力の全てを、その波動という言葉で理解していた。

「念力が波動となって伝わり、あるいは、波動が我が身体に伝わり、各々の神通力となって、生じる。」

 仙人のように、山で修業をすることによって、彼に発現した超能力は増えていた。

「我が念じれば、種なくして、火、生ず。」

 発火能力。パイロキネシスである。だが、それは、今は、焚き火に火を点ける程度のものであるが、それに秘めた能力は、大きな可能性を持っていた。

「我は人の死期を知ることができる。また、それを延ばすことも、短くすることも、できうる。」

 ヒーリングである。吉蔵は、触れれば、その人のことが知れる。そして、また、念じることで、未来をも予知し、変えることができる。それは、彼の言うとおり、人の死期寿命を操作することであった。

「御免。」

 奥多摩の山中深く、滝の傍らで、吉蔵が瞑想をしていた時、来客があった。

「近藤勇。」

 吉蔵が言葉を発した時、来客の肩の肉が動くのが分かった。

「隠しても無駄。我に知り得ぬことなどない。」

「然れば、某がここへ来た理由わけもご存知かな。」

「腕輪は渡さぬ。」

 既に、近藤勇は駆け出していた。会話の途中から、じりじりと間合いを詰めていて、己の間合いまで、あと一寸という時に駆けた。

「辛抱なされい。」

 重量のある木刀の組太刀で鍛え上げた勇の豪腕が吉蔵を捕まえていた。

「離せ。」

「神通力は使わぬのか?」

 京都で治安維持に当たる新撰組局長、近藤勇が吉蔵の所へやって来たのは、他でもなかった。もともとの帰郷の目的は、他にあったが、いざ帰って来てみると、近隣の在郷は、山中に住む神通力を持った仙人の噂で持ちきりだった。

「腕輪に秘密があるらしい。」

 もちろん、仙人とは、吉蔵のことである。山中に住しながら、時折、彼は、人里に降りて来ては、病人の治療や雨乞い、祈祷の類をしていた。それらは、人の良い吉蔵の人助けではあったのだが、昔も今も、変わらず、下賤な輩はいるもので、吉蔵の神通力をペテンと捉え、または、どうにか我が物にできないかと考える人々も、中にはいたのである。それらは、下種の勘繰りではあるのだが、純粋無垢な百姓連中にも、その話は、真しやかに信じられていた。

「そのような胡乱な者は、捨ててはおけぬ。」

 その噂を聞いて立ち上がったのが、勇であった。新撰組局長としての義憤か、それとも生来の好奇心からなのか、彼は帰郷の合間を縫って、この奥多摩の山中の渓谷にやって来たのである。とはいえ、彼の胸中には、村の人々と同じように、もし、叶うならば、かの仙人の腕輪を手にし、その神通力を我が物にしようとする企みがあったことは、否めない。

「(やはり、偽り事か……。)」

 勇は手を緩めた。そして、このインチキな仙人を、この後、奉行所に突き出そうか、それとも、捨てておこうか、そのことを思案していた。

「近藤勇。慶応四年。四月。あと四年の命か……。」

 吉蔵の呟きは勇にも聞こえた。それは、吉蔵が勇に触れた途端、読み取った彼の生涯の記録であった。

「なに……?」

 それは怒りよりも驚きであった。武士として、己の生き死にを論じられたことよりも、今まで、確かに、捕まえていた相手の体が消失し、勇の掌は、吉蔵が座っていた大岩を捕まえていた。

「勇。おまえの命、我に預けてみぬか?」

「貴様、なにをした……。」

「我は、おまえを哀れに思った。」

 吉蔵の言葉が、勇の質問の答えになっていたのかは、分からない。しかし、吉蔵が視た勇の生涯を、彼が哀れに思ったことは本当であった。吉蔵は、勇の記録の中に、かつての己に感じていた熱情を覚えていた。

「老人よ。不敬を働いたことに詫びを申す。」

 勇は観念した。そう己に言い聞かせた。そうすることによって、今の今まで、身構え、吉蔵に飛び掛かろうとしていた己を制すると同時に、次に起こるかも知れない如何なることにも即応できるように、体の力を抜き、無心になろうとした。それは、勇の武士としての矜持がそうさせたものだった。

「御老人は、某の天命をも、お知りなのかな。」

「四年後、おまえは罪人として、首を斬られる。」

「ほう……。罪人と……。」

 勇は腹で呼吸をしていた。

「何故、某が罪人となるのでござるかな。」

「幕府は滅び、おまえは、新撰組の局長として殺される。」

「ほう……、幕府が滅びる……。」

 吉蔵との問答は、勇にとっては相手との立ち合いであった。相手の腹を探り、己の利を得る。そうすることで、勇は吉蔵に勝とうとしていた。

「我は、おまえに、かつての己と同じ心を感じた。おまえは、まだ、若い。あと四年で死ぬのには、口惜しかろう。」

 吉蔵の言うことを、全面的に、勇は信じた訳ではない。ただ、その中に、己の利になることがないかを探した。それと、もうひとつは、四年後に罪人として、自分が死ぬという吉蔵の予言が、勇は嬉しくもあった。例え、幕府が滅びようとも、それに殉じて死ぬのは、武士としての勇にとっては名誉のことであると思った。

「御老人は、某の天命を延ばすことができると?」

「……。」

 吉蔵は答えなかった。彼にとって、それは、おそらくできるというものであり、確実にできると断言はできなかった。

「問いを変えまする。御老人は幕府が滅び行く命運は変えられぬと言うのでござるか?」

 尚も、勇は吉蔵の手の内を知り、その力量を測っていた。

「時の流れは、大海のようだ。大きな潮の流れのようだ。その流れに逆らって、舟を漕ぎ出すことはできようとも、潮の流れそのものを変えることはできぬ。」

「成る程。」

 吉蔵の発した比喩を、勇は、上手く理解することができたし、それは、彼にとって、今までの吉蔵の言葉の中で、一番、しっくりと来るものだった。

「我は、かつての己と同じ匂いをおまえに感じる。己の願いを叶えようとする力。己を信じようとする力。」

「御老人と某が同じ……?」

 何を馬鹿なことをと勇は思った。しかし、そう思うと同時に、すぐ、その考えを改めた。それは、勇の心の中にある己の傲慢を制する心の力の故であった。

「そう。それだ。おまえには、心に力がある。その力があれば、大海に漕ぎ出すことも叶う。真実を曲げる力だ。」

「それが、御老人の神通力の正体にござるかな。」

「そうだ。」

 始めは、吉蔵の言葉に対抗していた勇は、いつの間にか、その言葉に信頼を抱き始めていた。今、吉蔵の言う、心の力が真実を曲げるということも、勇の胸を熱くする作用を感じていた。

 勇は、新撰組局長であり、天然理心流道場の主でもある。彼の剣は、そこで培われたのだが、彼の稽古は、日常的に気組みを大事にした。気合をことである。

 吉蔵の発する言論が、彼の心中、真の言葉なのか、それとも、勇を手懐けるおべっかなのかは、事実、客観的には不明である。

 しかし、勇を始めとする世の中の大半の人間にとって、他人の胸中の気持ちを表す言葉の客観的真実性などは、無効であり、意味を成すものではない。そもそも、それを証明する手立てはない。まさにそれは、吉蔵の言う通り、その言葉を信じれば真実であり、信じなければ虚偽である。そして、この時の勇は、吉蔵の吐く言葉を信じた。

「納得してくれたな。」

 吉蔵は勇の心を読んでいた。

「その腕輪を使い、未来を変える……?」

「そうではない。我には、この腕輪はきっかけに過ぎなかった。ひとつの飾り。それと同じように、おまえにとって、今、この時、おまえが我を信じた。そのことがきっかけとなる。未来を変えるのはおまえ自身。我はきっかけを与え、それを、おまえに気付かせたに過ぎない。それこそが波動。」

「はどう?」

「我の力であり、腕輪の名。己の尾を食む蛇のように、物事に終わりはなく、あれとこれとが関わり、列なり、巡り、回ることでこの現世が生まれている。それは、水に浮かぶ波のように伝わり、やがて、消えて行く。消えて行くが、本当は、人の眼に見えないほど薄まっただけで、消えることはない。その波動は、中空、あるいは、水底に、無限に広がって行く。それが、世を創る。今、おまえが我を信じたことで、それは波となり、波動となり、おまえに、周りの人間に、未来に伝わり、真実を創って行くのだ。」

「待たれよ……!?」

 そういうと、吉蔵は俄に光を発して、勇の目の前から消えていった。辺りには、水の羽音と滝の流れる音のみが、静かに聞こえていた。そして、勇の目の前から消えた吉蔵は、波動となり、勇の胎内に浮かんでいた。


「腕が落ちなされたか?」

 勇は京に戻っていた。新たに新撰組の屯所となった西本願寺の道場で、勇は竹刀を握っていた。相手は、一番隊組長の沖田総司である。

「何を言うか。総司。」

 安い挑発と思いながら、勇は、再度、竹刀を握った。

「御面!」

 勇の掛け声より、一瞬、早く、総司の竹刀が、喉元を突いていた。

「ここまでと致しまするか。」

 総司は竹刀を置いた。剣先が鈍ったのは、勇自身も感じている。それ故に、近頃、今日のように剣の稽古を増やしてはいるのだが、それでも、めっきりだった。

「ふう……。」

 勇が防具を脱ぐと、総司は、既にいなかった。

「近藤さん。」

「歳。」

「ちょっといいかい。」

 柱の陰から、二人の稽古を眺めていた男がいた。新撰組副長、土方歳三である。

「何かあったのか?」

「何がだ?」

 歳三も、近頃の勇の異変には気付いていた。江戸より戻って来た辺りから、どこか今までの勇とは、違って見えた。

「分からないのか?」

「いや。分かっている。」

 勇の不調。それは、吉蔵と出会ってからであった。彼との対面以来、胎内にいる吉蔵が、勇という存在を揺さぶりつつあるような感覚を、勇自身も感じていた。それは、己という存在が薄まっていくような感覚であった。

「歳。少し、いいか。」

 局長室の一間に、歳三を連れて行った勇は、思い切って、奥多摩で出会った吉蔵のことと、今の思いを歳三に語った。

「しっかりしてくれ。」

 言わでものことだったが、慰めを期待した勇が馬鹿だった。勇の言葉を聞いた歳三は、彼を慰めるでもなく、叱った。ただ、勇の話す事だけは聞いた。そして、歳三は、それを吟味した。

「すまぬ。」

 歳三の叱言に勇は、黙って平服するしかなかった。

「あんた、今まで、何の為に、ここまで来たんだ?」

「ああ。そうだな。」

 歳三の言う、こことは、今の新撰組であり、彼らの地位であり、今いる京のことでもあった。その言葉には、彼らの歴史の全てを包含する意味があったが、刻苦勉励を共にしてきた二人には、その短い言葉だけで、全てが理解できた。


「ということがあってな。」

 勇は島原遊郭の木津屋にいた。そこには、彼のお抱えの金太夫という芸妓がいた。

「それは災難どしたなあ……。」

 金太夫は、勇に酒を注いでいた。彼女は、どちらかと言えば、豊満な体をしていて、安心感がある。その性で、勇は、愚痴を言いたくなると、彼女の所に来ていた。

「おい。何だそれは?」

「南蛮の葡萄酒どす。」

 金太夫が持ってきた南蛮の酒は、赤い血のような色をしていた。

「葡萄の酒か。」

 勇が育った多摩の近辺でも、甲州の方から商人と共に、葡萄の果実が流れて来ることがある。小さい時に、それを一粒だけ、勇は食べたことがあるが、まさか、それから、酒ができるとは思わなかった。

「お飲みやす。」

 金太夫は銀のグラスに、葡萄酒を注いだ。彼女が差し出したそのグラスも、南蛮の品なのだろうか。日本では見かけない模様で飾られている。

「この紋様は……?」

 勇が葡萄酒を口に含んだ時、グラスの紋様が見えた。それは、ウロボロスの紋様であった。

「酸いな……。」

 果実の酸味が勇の舌を濡らした。その瞬間、彼の意識は流転した。


「近藤局長。」

「山南君。」

 西本願寺の局長室で、勇は目を覚ました。

「木津屋から遣いの者が来まして。」

「君が、ここまで運んでくれたのか?」

「松原さんと。」

「そうか。不覚だったな。」

 勇の頭は、未だくらくらしていた。

「葡萄酒を飲まれたそうで。あれは、合う合わないがございまする。」

「そのようだ。一口、飲んだだけで、かような恥を晒してしまった。」

「一口?」

「何か。」

「いえ。木津屋の話では、一瓶、飲み干されたと……。」

「馬鹿な。」

 勇は立ち上がろうとした。が、膝がうまく回らない。

「今しばらく、お休みなされませ。」

「すまぬな。他の者は?」

「このことは、私と松原さんしか、知りませぬ。」

「そうか。」

 座布団を枕にして、勇は伏せた。

「あと河合君が知ってござる。」

「勘定方のか。」

「はい。木津屋との間でやり取りをしたのが、彼だったので。」

「やり取り?」

「いや。支払いのことで、揉め事がございましてな。」

 山南の言うことはおかしなことであった。そもそも、木津屋との交際費は、掛け売りであるし、今回のように勇の私用で行った場合は、御祝儀代も兼ねて、先立って、相応以上の金子を手代に渡していた。

「総司は?」

「沖田君は、先に帰ってござった。」

 総司は下戸である。それもあり、勇は、私用で遊郭へ行く時は、護衛その他の世話役として、彼を連れていた。当然、総司にとっては、それが苦痛ではあったのだが、それにも懲りずに、今回も、勇は総司を木津屋へ連れていた。

「そうか。山南君も下がって休みなさい。」

「左様にございまするか。それでは失礼。」

 襖を開けようと、背を向けた山南に向かって、勇は、刀を抜き打ちに払い、その背を斬った。

「おのれは何者か。」

 勇は、山南の亡霊に向かって言い放った。それもそのはずで、山南は、これに先立つこと、既に、三ヶ月前に切腹していた。

「何か……?」

 抜き打ちに斬った。確かに斬った。勇はそう思っていたが、実際は、彼の刀は鞘から離れることもなく、それ以前に、勇の手が刀を握ることもなかった。彼の体は、畳に貼り付いたようになり、どうしても動くことはなかった。

「局長。何故、そのような地べたの上にいる蛙のように這いつくばっておられるので……?」

 勇は口が聞けずにいた。彼の口も、また、糊で止めたようになっていた。こちらを振り返った山南は、行灯の明かりも届かぬ暗闇の中にいた。

「局長。まだ、酔いが覚めませぬか。それ。口元から葡萄酒がこぼれ落ちてございまするよ。」

「な……に……?」

 いつの間にか、畳にうつ伏せていた勇の口元を何かが濡らした。それは、彼の口から、滴るほどに溢れ出て来た液体であった。ぬめぬめと畳を濡らす、鉄分を含んだその液体は、勇のよく知っている人間の血液であり、それが、ますますと、彼の口から溢れ出し、顔を埋めた。

「ぐっ…ぱっ……。」

 血液の海に溺れる勇は、呼吸困難と息苦しさで目を覚ました。


「近藤さん。」

「総司か……。」

「よかった。気付かれた。」

 勇は冷たい床の上に仰向けに寝ていた。

「しっかりしてくれ。局長。」

 総司の傍らには、歳三もいた。

「腕が鈍ったんじゃないかい。」

 西本願寺の道場で、防具を着けたまま、勇は倒れていた。総司の突きを受けた彼の口の中は切れて、出血していた。

「それにしても暑いな。総司も局長も、そのくらいにしておけ。」

 境内の松の大木には、蝉が鳴いていた。

「そう致しましょうか。」

 総司は竹刀を置くと、防具を外した。その肌は白く透り、総髪に纏った髪の毛は、一本一本が艶やかであった。

「いつまで続ける気なんだ。」

「何がにございますか?」

 歳三の問い掛けに総司は、妖しい宝石のような瞳を、夏の陽射しに、きらきらとさせながら、答えた。

「その男勝りさえなければ、おれが嫁にもらってやってもいいんだがな。」

「ご冗談を。」

 歳三の言葉に総司は、陽気に口を開けて笑っていた。その脇では、勇が、まだ尚も、悪夢から目覚めないかのようにぼうっと寝ていた。

「どうかしたのか?」

「山南がいた……。」

「……。」

 歳三の質問に答えた勇の言葉に反応したのは、総司であった。山南の名を聞いた瞬間、総司の体が反応したのが、二人には分かった。

「某は、子どもの相手をして来ます。」

 総司の立ち去った後には、残り香が薫っていた。

「ちょいといいかい。局長。」

「なんだ。歳。」

「後で、おれの部屋に来てくれ。」

 それだけ言って、歳三は去って行った。彼が去った後も、勇は、まだ、呆然と辺りを眺めていた。


「近藤さん。あんた近頃、おかしいぜ。」

「何が?」

 勇が歳三の部屋を訪れたのは、夕暮れ間際のことだった。勇が部屋に来た時、歳三は、書付帳に思い付いた俳句を書き留めていた所であり、その帳面と筆が文机の上に置いたままとなっている。

「心当たりがないとは言わせねえよ。」

「心当たりなどはない。」

 歳三を上座に据えながら、勇は、憮然と物を言った。

「ならいいが、山南の事を口に出したの、あれは何だい。」

「口が滑ったのだ。仕方ないだろう。」

「総司と奴のことは、あんただって知ってるだろう?」

「どうした、歳よ。おまえこそ、向きになってないか?」

 二人の会話は一旦、沈黙という名の休息をはさむことになった。

 この間に、話の件を説明するとしたら、まず、沖田総司は女であるということから始まる。彼女は、沖田家の三女で末の娘ではあったが、暗に、父親の意向も本人の希望もあり、幼少期までは、男として育った。そして、彼女が九歳の時、通うことになった天然理心流の近藤道場において、その剣才が開花された。

「よもや、おまえが女であったとはな……。」

 十五を超えて、隠し立てができなくなった時、総司が、そのことを勇の養父で道場主の近藤周斎に打ち明けた時、傍らには勇も同席していた。

「女でも構わぬから、来い。」

 そう言ったのは勇であった。

「と申されましても……。」

 総司自身、己に剣才があるなどとは、思いもよらず、道場通いも、ここまで続くとは思っていなかった。

「いいから来い。もし、おまえが気に入らぬならば、変わらず、男の格好のまま来ればよい。」

 総司の腕前を一番、評価していたのは勇であった。その時、既に天然理心流宗家の跡取りとなることが決まっていた勇は、その持ち前の頑固さと上からの物言いにより、総司の塾頭としての看板の名前をそのままにしておくことに成功した。それを最も、喜んだのも勇であった。

 門人の内、昔馴染みの者の間には、総司が女であるという旨が、次第に知れ渡っていった。そんな総司に目を付けた者がいた。歳三である。もともと、彼は勇の出稽古先の道場主の親戚であった。その縁で、歳三も、天然理心流の門人となるのであるが、そこに総司がいた。歳三も、また、彼が女であるという噂をどこからか聞き付けていた。

「確かめてみる。」

 歳三はそう言うと、たまたま、出稽古先で宿泊滞在をしていた総司の部屋に、夜半に、忍び込んだのである。

「総司殿よ。歳三めが夜這いに来てやりましたぞ。」

 行灯の明かりもない、暗闇の中で、歳三は、布団に寝ている女体の耳元に向かって、囁いた。

「これは異な事を。歳三殿は、衆道がお好みでござったか。然れど、某め、あいにくと衆道は嗜みませぬ故、御勘弁召され。」

 布団の中に差し入れた歳三の右腕が、総司によって、締められていた。慌てた歳三は、取るものも取りあえず、着物の乱れも直さぬままに、外の暗闇へと消えて行った。

「昨夜の御無礼、お許し下され。」

 それでいても、やはり、歳三は男であった。昨夜のことを恥じる様子もなく、次の日の朝、髪と衣装を整えて総司の前に現れると、ひらひらと、己の非礼を詫びた。

「お気になされませぬよう。」

 厚顔無恥とも言えるその所業に、総司の方が恥ずかしくなってしまった。その慌てた所作は、女のそれと分かるようなものだった。


 総司と門人たちとの間柄は、そのようなものであったが、中でも、山南敬介との関係は、総司にとって、特別なものであった。

「一本。それまで。」

 北辰一刀流の免許者であった山南は、勇のいる天然理心流道場に、他流試合に来た末、塾頭の総司に敗れた。

「まだまだ、撃ちが浅くござる。」

 道場破りに来た山南は、そう言って、なかなか負けを認めない。というのも、本当は女である総司の撃ち込みが、実際、山南や北辰一刀流にとっては浅かったのかもしれなかった。

「総司。おれがやる。」

 立ち上がろうとしたのは、近藤の道場に出稽古に来ていた歳三であった。

「おまえは門人ではない。おれが行こう。」

 歳三を制したのは勇であった。この時、勇は、正式に宗家の道統を継いではいなかったが、格式では道場の主である。その道場主が、のこのこと出て行って敗れてしまっては、面子が立たない。

「心配入らぬ。負けぬよ。おれは。」

 近藤との立ち合いに、山南は休息を挟まずに向かった。

「御面!!!」

 結果は、三本勝負の三本とも、近藤の勝ちであった。彼は、全てを面で攻めた。それでも、彼の腹の底から響く雷鳴のような雄叫びは、勇の気組みそのものであった。

「どうか非礼をお許し下され。」

「いえ。始めから、其方の心の内は分かってござった。」

 勇に言わせれば、山南は、わざと非礼を働き、この道場主の資質と器を測っていたのだと言う。

「それで、どうでしたかな。我が道場は。」

「感服、致してござる。」

 負けを怖じることなく、立ち合った勇の度量と、山南の腹の底を汲み取りきったとも言える眼力。それらが、この山南敬介という男を感心させたのだろう。

「それに、良い門人をお持ちにございますな。」

 山南が見たのは、総司であった。

「貴公は、突きの修練をなさると良うございましょう。」

 それから、山南は、度々、近藤の道場に現れては、互いに、錬磨を競い、教え合った。その中には、塾頭たる総司の姿もあった。

「その粋を呑み込められれば、府中広しと雖も、貴公に敵う者はおらなくなりましょうや。」

 かの総司の三段突きも、山南の指導の賜物であった。

「沖田君の剣は、繊細で、美しくござるな。」

 それは、山南の親切心そのものであった。その褒め言葉が総司は、肌痒くもあり、嬉しくもあった。そして、彼の為に、剣の腕を磨こうと思い、それは、やがて、総司自身も気付かぬままに、恋心となっていた。

「山南さん。あなた、天然理心流に北辰一刀流を持ち込むつもりかい。」

 その微笑ましい光景を、妬ましく思っていたのは、歳三であった。元来、歳三は、山南のようなすまし顔の男が嫌いであり、その臭いは、彼が道場破りに来た時から、感じていた。

「申し訳ござらぬ。些か、調子に乗り過ぎましたかな。御無礼をお許し下され。土方殿。」

「ちっ……。」

 歳三の山南嫌いは、生理的な物だったのだろう。それは、本来、歳三と山南自身の性格が似ていることから来ていた。山南の素性は知れないが、仙台の出身だと聞いていたし、生まれた時からの武士の家系であるのだろう。一方の歳三は、豪農とはいえ、身分は多摩の百姓である。幼い頃に、父母を亡くし、義姉によって育てられた。幼少より、彼は武人になることを願い、奉公や行商をしながらも、従兄弟の道場に通い、剣を磨いた。

「あいつを見てると、むかついてくるぜ。」

 歳三のその言葉には、もし、自分が武士の家系に生まれていたら、山南のような男になっていただろうという嫉妬を含んでいた。

「総司も、あんな奴なんかに、教わるな。」

「某はただ……。」

「けっ。何が、某だ。女の癖しやがって。」

 歳三のその言葉には、総司への好意が宿っていたし、それは、もしかしたら、山南に対する総司の胸中と同じように、恋心だったのかもしれない。


「その様子では、真の事にございますな。」

 そんな山南ではあったが、総司が女であるということを知ると、彼の総司に対する態度は、あからさまに冷たい物となった。その席には、勇や歳三もいたが、その変化に一番、敏感だったのは、総司自身であった。

「然れば、無用な馴れ合いは不要にございまするな。」

「何。男女、鬼蛇、何であろうと総司は総司。相変わらず接して下さればようござる。」

 そう言ったのは勇であったが、その場にいた、総司を含めた他の三人ともが、その勇の忠告通りにはいかなかった。勇、歳三、総司、山南、彼らの関係は、どこか、ぎくしゃくとしたままに、勇と門人たちは、幕府の浪士組結成に参加して、京へ上ることとなった。


「御役目には慣れましたかな。」

 京での働きは忙しかった。勇を始めとした天然理心流の仲間たちは、浪士組内部のごたごたや、時の政情の不安定さに巻き込まれながらも、生死を賭けて、忠勤を働き、京都守護職旗下の新撰組として、身を立てるまでになったのである。

「山南さんも、相変わらずにございますな……。」

 そんな山南が、新撰組結成から二年余り後、江戸へ行くという書き置きを残して、組を脱走した時の総司の心は不安定であった。

「総司。いつまで、寝ている気だ。」

 床に伏せっていた総司の部屋にやって来たのは、副長の歳三であった。

「山南敬介の捕縛を、おまえに命じる。」

「わたくしにですか……。」

「おまえにではない。新撰組一番隊組長、沖田総司にだ。」

 そう言うと歳三は、御用金の二十両を、部屋に置いて立ち去った。

「行って参ります。」

「うむ。道中、気を付けよ。」

 出立の時、歳三はいなかった。屯所から出て行く総司を見送ったのは勇であった。

「(何故、脱走なんて……。)」

 総司は東へ向かった。新撰組の法度に従えば、脱走は切腹である。総司が京へ来てからの二年間。それは、山南に自分が女であることを知らせた時からと、ほとんど、同じ年月である。最初は、冷たかった山南も、京で新撰組ができて、彼ら自身の役目が確立し、その役目に邁進する内に、余計な些事を気にする暇もなく、働き、自らの務めを果たすことに名誉と快感を感じていた。そのような中で、総司と山南は、男女という別も、垣根もない、一人の同僚として、接していたし、それに満足していた。

「あ、いた。」

 大津の宿で山南を見つけた時、総司は、呆気ない声を上げてしまった。

「君が来たのか……。」

 それが、総司を見つけた山南の第一声であった。その声を聞いた時、総司は、今の己の役目を後悔した。そして、今まで、自分が感じていた満足心は、偽りであったということにも気が付いた。

「土方さんも、酷なことをする。」

「屯所まで、御同道、願いまする。」

「承知仕った。」

 茶店の代金を払うと、山南は大人しく、総司の手に捕縛された。しかし、彼の姿は、縄を打たれるでも、手枷をはめられるでもなく、ただ、黙って、前を行く、総司の後ろを付いて行くだけだった。

「何故、逃げないのでございますか……。」

 京の山科へ出ようという時、突然、総司は足を止めて振り返った。その瞳には、小さな涙がこぼれ落ちていた。

「何故とは……。何故にござるかな?」

 その理由を山南は知っている。総司も知っている。もし、ここで、総司が、己の恋心を告白し、御用金の二十両を山南に渡して、彼を逃がそうとしたならば、その決定に、当然、山南も従っただろうし、新撰組屯所にいる勇や歳三でさえも、総司のその行いを罪に問うことはしないだろう。ただ、総司は、二人の下に帰った後、山南敬介を見つけることができなかったと報告すれば済む話であった。勿論、その言葉の内に潜む全てを知った上での不問であるし、そうなることを見越して、歳三は、二十両を持たせて、総司を追っ手にしたのだった。

「何でもございませぬ。」

 着物の袖で、総司は目元を拭った。全ては、総司の決定次第であった。そして、それが、丁半いずれにせよ、誰も彼女を恨み、責める者はいない。それでも、なお、彼女は、新撰組一番隊組長の沖田総司として生きることを選んだのである。

「それでこそ。沖田総司にござる。」

「(意地悪……。)」

 お互いに、お互いの呟きが聞こえていたのだろうか。その答えは、永遠に分からぬ内に、総司と山南は屯所に着いた。

「本当にいいのだな。」

「ああ。」

 勇の質問に歳三は答えた。新撰組局長たる勇の眼は、怒りを伴いながら、歳三を見つめていた。

「脱走人、山南敬介。局中法度に違背した罪により切腹。罪人の願いにより、介錯は、一番隊組長沖田総司が勤めることなり。副長土方歳三。」

 元治二年二月。山南敬介は切腹。介錯は沖田総司が勤めた。 

 

 副長室から、己の部屋に帰った勇は、そのまますぐに寝床に就いた。彼の口中の出血は、既に治まっていたが、卒倒している間に、夢で見た血液の臭いと感触が、未だ癒えていなかった。

「(一体、何だったのだろうか……。)」

 天井のしみを見ながら、勇は思いをはせていた。行灯の明かりは、まだ、点いていて、部屋の中は、薄ぼんやりと暗く、そして、明るかった。

「近藤局長。」

 勇が瞼を閉じて、眠ろうとしたその時、戸障子の向こうから女の声がした。

「総司か。」

 勇にとって、このような体験は初めてのことではなかった。暗夜、総司は、己の職と名を伏せて、女に戻ることがある。それは、総司と勇以外、歳三でさえも知らない事実であるが、ただ、それは淫らな行為が纏わり付くようなことではなく、真剣に、己が信頼できる者に対する愛情に基づいた相談をしに、彼女は、勇の寝床を訪れるのである。

「昼間のこと。」

「山南のことか。」

 あの時、あの場で、総司は気にしない素振りをしていた。しかし、それは、新撰組一番隊組長としての総司であり、元の女としての彼女にとっては、勇の口から山南の名が出たことが、文字通り、夜も寝られない程に気に掛かっていたのだろう。

「あれは、夢の話だ。」

「夢……?」

「ああ。」

 障子越しに、勇は、自分が卒倒中に体験した出来事の顛末を語った。その勇の語り口は、重厚で、その声音こそが、彼が沖田総司のことを自分の娘であり、総司は勇のことを、自分の父親とでも思っている証であった。そして、その勇の重厚な口が言葉を紡いでいる間、不思議なことに、今の今まで、誰かが、この暗夜、密かな邂逅を知ることもなく、今まで続いてきた。

「山南様は、松原様と河合様の名を口にされたのでございますか?」

「そうだな。あれは、俺に何かを言いに来たのだろうか?」

「さあ……。」

 一陣の風が過ぎ去ったかと思うと、障子の向こうは静かになった。そして、その夜は、もう、障子の向こうから、総司の声が上がることはなかった。


 まだ、若い時と言っても、今から十年くらい前のことだが、勇と沖田がまだ十代の頃、近藤道場では、師範代の勇と塾頭の総司が、二人揃って、近隣の村へ出稽古に出掛けることがあった。

「先生。」

「どうした?」

 その出稽古先でのこと。日帰りではなく、たまに、宿泊がある時などは、勇と総司、中身は男と女であるが、泊まる部屋は同じであった。

「本日の稽古のことなのでございますが……。」

 畳の上に衝立を挟みながら、布団に寝そべる二人は、よく、そのまま、天井を見て会話をしていた。

「あれは、おまえが良くなかったな。打つ時は、打つ。それが、例え、貧しい百姓であったとしてもだ。」

 昼間、出稽古先の道場で、勇と総司が、天然理心流の稽古を付けていた。相手は村の百姓、農民である。彼等の中には、ぼろぼろの竹具足を己で拵え、それを着て稽古に臨んでいる者もいる。そんな彼らを相手にしていると、総司はつい手加減をしてしまう。未だ少女といえど、防具のない素膚の部分に、総司の剣先が当たれば、当然、相手は痛みを伴うし、当たり所が悪ければ、怪我をしてしまう。それ故、彼女は、剣が触れても、怪我をしない所にしか攻め込まないし、防具の隙間を狙うこともない。つまりは優しいのである。それに引き換え、勇は、例え、相手が素面素膚といえども、容赦はしなかった。彼は、それが礼儀だと思っていた。

「見た目の貧相で、相手を粗略に扱ってはならぬ。彼等も剣を握る身。痛み、怪我は、戦場の当然。それが嫌ならば、そもそも剣を握ってはいまい。」

「申し訳ございませぬ。」

「良い。励めよ。総司。」

「しかと。」

 会話を終えて、いつの間にか、二人は眠りに就く。そのようなことが、彼らの間では、昔からあり、京に上ってからも、そんな二人の関係は続いていた。そして、それは、いつからか、新撰組局長と一番隊組長という間柄ではなく、元の勇と元の総司との間柄としてのやり取りに変わっていた。というのも、前者のようなやり取りは、人目を忍ぶこともなく、屯所の境内で会えば済ませられるからだろう。

「山南か……。」

 勇は、寝ながら独り呟いた。あの男の切腹は仕方なかったのだろうか。京に来てからというもの、日に日に、山南は、勤皇色を強めていった。勇は勿論、新撰組は佐幕の組織である。そうであるから、組内での山南の立場は、日を追って、危ういものになっていき、それに伴って、組内での彼の地位もまた、当初のものよりも、低いものとなっていった。

「(脱走さえ、しなければ……。)」

 勇は思った。山南は、細々と、組内で、か細いながらも命脈を保ち続けることができたであろう。しかし、それは、彼自身が、決して望むことはない選択であった。そのような男ならば、そもそも、浪士組に参加し、京に上るなどということはしなかっただろう。

「(それは、俺も同じなのだが……。)」

 勇も山南も、詰まる所は、同じ穴の狢である。そこまで考えると、勇は、ようやく、思考を落ち着けさせて、眠りに就くことができた。 


 松原忠司は、新撰組の四番隊組長であり、隊の柔術師範である。

「松原。飲みに行くぞ。」

「またか。」

「そう言うな。」

 組内で、彼を慕う者は多い。それは、もとより、彼の人柄に拠るものなのだが、彼が柔術師範であり、多くの隊士と交わるということもある。剣術師範である沖田総司が、どちらかと言えば、隊士の間から恐れられているのに代って、多くの人間は松原の下に寄っていた。

「あれは、耆三郎か?」

 宵の内、祇園からの帰り道に、松原は勘定方の河合耆三郎を見た。

「何をしているんだ?」

 河合の挙動は、明らかに不審である。道を行く彼の風体は、松原が見れば、河合であるのだが、他の者が見たら、それが河合であるとは判断がつかなかっただろう。というのも、何故か、河合は市女笠に、桜色の小袖を着て、女の姿をしていた。その姿を見て、一瞬、松原は密かな探索任務中かと思った。しかし、勘定方である河合が、変装しての探索をする可能性は低かった。

「どこかへ行くのか?」

 松原は後を付けた。それが、もし、河合の色事や情事の類であるならば、そのことを知って、酒の肴にしてやろうと思った。

「どこへ行かれる。」

 河合の後を追って、小路の辻を曲がった時、不意に、松原は、貧しい身形の老人に声を掛けられた。それには構わず、松原は河合の姿を探したが、彼が迷い込んだ小路の辻の先は、袋小路の行き止まりで、そこに河合の姿はおろかこの老人以外、人一人の姿さえなかった。

「今、ここに女、いや、まあ、いい。女が来なかったか?」

 その問答でさえも、松原にとっては、可笑しなものであり、密かに、口内に遊ぶ、笑いを抑えるのが大変だった。

「ふ……。」

「……。おぬし、何者だ?」

 その時、松原の体が凍りついた。彼が、何の気なしに、老人だと思って振り向いた先にいたのは老人ではなかった。その声は、確かに、嗄れた老人の声である。しかし、松原が今、目の前で見ているそれは、彼が、先ほどまで、追い掛けていた着物の女であり、河合の顔をしていた。

「酔ったか。」

 松原は、ここに来て、己の酔いを疑った。今、目の前にいる老人の声をした女姿の河合は、幻であると思った。

「幻ではない。」

 河合は、松原の頬に手を添えた。その手は、確かに温もりを含んでいて、幻のそれではなかった。

「耆三郎なのか?」

「違う。」

 先ほどから、相手の声は変化している。その中には、局長らしきものもあるし、副長らしきものもある。

「我は、今、おまえの波動を探っている。」

「はどう?」

「おまえの見ている景色は、おまえの波動が我を通じて、おまえに見せているもの。」

「何を言っている?」

「言うなれば、おまえの心の内。」

 相手の声が遠くなっていった。松原がいる袋小路の辺りは、にわかに光に包まれた。

「ここは…?」

 光が収まり、松原が気が付いた瞬間、彼は屯所にいた。西本願寺の境内の砂利の上で立っていた。

「松原殿。」

「耆三郎?」

「どうかされたので?」

 通り掛かったのは、本物の河合だった。

「おまえ……?」

 松原の掌が河合の頬に触れた。柔術師範の彼の指は、太くたくましかった。

「某、用向きがございますので……。」

 河合は去った。松原に触れられた彼の頬は、柔和な温もりとともに、少しの赤みを帯びていた。


「松原と河合が衆道の契りを交わしているだと?」

 間もなくして、そのような噂が組内で囁かれ始めた。

「祇園の茶屋に、二人が入る姿を見た者がいる。」

「誠の事なのか?」

「河合は女の格好をしていたらしい。」

「彼等に限って、そのような。」

「今、山崎に探らせている。」

 山崎丞は諸士調役であった。

「衆道などめずらしくもない。捨ててはおけぬのか?」

「彼等には責任がある。」

 これが平隊士であったならば、勇と歳三は不問に付しただろう。しかし、松原と言い、河合と言い、一方は、四番隊組長兼柔術師範であり、もう一方は勘定方なのである。それらは当然、ゴシップになり、組内を乱す要因ともなりかねない。

「松原君。局長室へ来てくれ。」

 後日、歳三は、松原を呼んだ。京の市中は、将軍上洛の噂で騒がしかった。松原が局長室に入ると、そこには、歳三の他に、勇、山崎、河合がいた。

「君は、この河合君と衆道の契りを結んだというが、誠か。」

「衆道にございますか?」

 単刀直入に勇は詰問した。てっきり、松原は将軍警護の談合だと思っていた。それが、急に己の話題が出たので、戸惑ってしまった。

「明らかな返答を聞きたい。」

 傍らには、歳三や山崎、河合が黙して座っている。

「私は……。」

 勇の真っ直ぐな視線の前にして、松原は言葉が出なかった。というのも、祇園の袋小路で遭遇した出来事以来、彼は、何故か、河合の事が気になって堪らなかった。それらは、いつの間にか、松原の視線に現れて、それを河合も敏感に感じていた。

「私は……。」

 言葉が出て来ない。彼の口は、開くのだが、胸の内は奥から支えて出て来ずにいた。

「(河合の告げ口か……。)」

 不思議なことに、この純情な柔術師範は、組内での噂を知らなかった。それは勇も同じだったのだが、陽気者の彼らの前では、平隊士たちも陰口を噤むのだろう。

「御迷惑をお掛け致しまする。」

「それは、首肯したということで宜しいのか。」

「結構にございます。」

 勇と歳三は顔を見合わせた。山崎は遠くを見て、河合は首をうな垂れて、畳の上を見ていた。

「松原忠司。今この時より、四番隊組長の任を解く。」

「承知仕ります。」

 歳三の甲高い声が上がった。

「松原、河合の両名の役目は据え置く。以後、励むように。」

「は。」

 一堂は解散した。松原は平隊士に降格したが、河合も含めて、柔術師範と勘定方の役目はそのままとされた。それには、両名の他に、この役職に相応しい者がいなかったからだった。しかし、それからすぐ、松原は私室となっていた組長室に戻ると、そのまま、自害した。


 松原忠司の死から間もなくして、将軍家茂の上洛があった。そのことも加わり、彼の死は、すぐに隊士たちの記憶から消えて行った。それでも中には、松原の死に、衝撃を受け、なおその傷が癒えぬ者もいた。河合耆三郎である。

「松原さんの心中が分からない。」

 松原の死の直後、仲の良かった平隊士に、河合はそう言っていた。かの柔術師範の自害は、隊内の噂や己の降格を恥じてのことであろうというのは、誰の目にも明らかであった。しかし、その渦中にある当事者の一人である河合からすれば、事態は変わっていた。

 そもそも、何故に、自分と松原の情事などという言われもないことが取り沙汰されたのか。そして、実際の所、松原は何を気に病んで自害したのか。それらの益体もない思考の反芻は、何度となしに、河合の頭を去来しては、彼を混乱させた。

「河合君。この帳簿、間違っているぞ。」

 同じ勘定方の同僚であった。彼らは月に数回、隊士の給与や経費などの清算で帳簿を付ける。

「ふふっ…。」

 その同僚は、近頃、勘定方に就いた者であった。その者が、今、河合を見て、笑った。

「……。」

 河合は黙って、記帳作業に戻った。それから間もなく、彼は遊廓での女遊びに狂い始めた。もとより、裕福な米問屋の息子として生まれた河合は、彼を武士にさせたい身内の意向を汲んで新撰組に入隊した。それでも、荒くれ者や腕自慢の者たちが集う組内では、彼は、やはり、商人であり、そのことを彼自身も、周りとの比較に於いて弁えていた。そのようだから、周りを差し置いて、遊びに耽ることもなく、ただ毎日、政務を執るだけであった。それが、ここに至って、放蕩癖が現れたのである。それは、組内で広がった松原との男色の噂の件が関わっていたとも言えよう。表面的には沈静化したとしても、そのような噂というものは、人々の脳の表面に汚れの如く、こびりつき、何かきっかけがあれば、それがどんな些細なことであったとしても、その瞬間に、鮮明に蘇ってしまう。

 噂の当事者たる河合自身がその汚れを気に止めなければよいのだが、そうではなく、周りに汚れがなくても、彼自身がその汚れを見つめ、洗い流そうとしては、再び、自らを汚していた。それは、ある種の潔癖症のような症状であった。


「河合は、遊里遊ぶに耽っている。」

 将軍も江戸に帰り、年も明けた頃、またしても、組内に、そのような噂が流れた。

「組の金を使い込んでいるらしい。」

 それらは、日夜の如く、隊士の間を広がり巡る噂の中のひとつでしかなかった。それでも、その噂に、新撰組副長の土方歳三は食いついた。

「局長がいない今、騒ぎ立てることはしない。」

 この頃、勇は、幕府の老中に随行して長州にいた。歳三は、そう宣言することで、隊士たちの自覚を促し、噂の沈静化を図ろうとした。が、それは詭弁であった。彼は、山崎丞を通じて、密かに副長の言葉として、先ほどのような情報を流させると同時に、この機に乗じて、諸士調役を総動員して、不貞の隊士の動向を探らせた。綱紀粛正であった。ここで、鬼の居ぬ間にとばかりに、組内の規律に違反する者は、片っ端から、彼らの網の目に引っかかってしまった。そして、その中には、河合耆三郎もいた。

「河合耆三郎。公金横領の罪により死罪。本来ならば斬首に処する所、副長及び副長助勤等の寛大な処置により切腹を申し渡すものなり。」

 こうして、河合は果てた。彼の介錯は歳三が務めた。切腹とは言いながらも、実際、歳三は、河合の手が自らの腹を刺す前に首を斬った。彼の公金横領は、明らかではあったが、実のところは、河合の実家の米問屋からの送金によって、密かに補填がなされていた。それでも、歳三は、彼を断罪することを欲した。それらの差し縺れもあっての切腹であった。 


 長州から勇が帰って来ると、新撰組の屯所は殺伐としていた。

「あらましは分かった。」

 屯所に帰ってすぐに、勇は、歳三に事の次第を聞いた。

「お前の考えることならば確かなのだろう。俺の是が非を尋ねることなどないよ。」

「そんなことは分かっている。これは報告だ。」

「そうか。」

 時と場を置いたからだろうか、どこか歳三と勇の間柄も険しくなっていた。

「それで、あんたの方はどうなんだ。」

「ああ、また戦が始まるな。」

「そうか。」

 幕府は長州を攻める。第二次長州征討である。必要ならば、勇たちも、その戦に参加するつもりであった。

「此度も我等は京の警護になるだろう。」

「以上かい。」

「以上だ。」

 二人は解散した。勇は、自分の寝床である局長室へと戻った。

「何故、気が付かぬ。」

「は……?」

 部屋の障子を開けた時、声が聞こえた。

「何故、気が付かぬ。」

「……。」

 勇は、辺りを見回してみたが、人の気配はない。

「(空耳か……。)」

 それでも、勇は胸中に不信を感じた。

「気が付かぬならば、おまえの命はそれまでだぞ。」

「誰かいるのか……!」

 それは空耳ではなかった。そして、部屋の中に誰かがいる訳でもなかった。その内なる声は、勇自身の体内から響いていた。

「我はウロボロス。現世の全てを司る神。」

「おろぼろすだと?」

 耳にしたことのない名前であった。語感から推測するに、異国の神の名であると思われた。

「我はおまえの内にあり。我に従わぬならば、おまえは、我と共に死ぬ。」

「従うだと……、それはどういうことか?」

「気付くのだ。我に。そして、身を委ねるのだ。」

「近藤局長。」

「総司。」

「声が聞かれたので。」

「おろぼろすという神を知っているか?」

「おろぼろす?それは、どのような形なのでございまするか。」

「形は知らぬ。」

「そのおろぼろすが、なにか?」

「いや。知らぬならば良い。すまなかったな。俺は疲れたようだ、もう寝ることにする。」

「承知仕ってござる。」

 勇は、寝床に就いた。しかし、すぐには眠れなかった。また、先ほどのような声が聞こえてくるのではないかと思い、身構えていたが、気付いた時には、いつの間にか、朝を迎えていた。


 第二次長州征討は難航していた。その内、将軍の薨去により、征討は停戦された。その間、勇は、京中の警備に奔走した。そして、この頃から、新撰組内部に於いても、佐幕と勤王という両思想のせめぎ合いが起こり始めていた。

「伊東先生のお考えは、十分に承知してございます。」

「それならば、後はお互いの取り決め沙汰次第ということにございますな。」

 勤王派である新撰組参謀、伊東甲子太郎と佐幕派の勇の相互理解は成らず、今後、お互いの派閥は分離独立して、活動することになった。新たに伊東らの結成した御陵衛士は勤王の立場から、幕府、朝廷の政治に関与をしていくことになる。しかし、勇たち新撰組は、それを許すことはなかった。

「組内の対立は組内で収める。」

 それが勇と歳三の意向だった。お互いの協議により、分離独立し、干渉を排除した当事者たちであったが、その一方は、あくまで、もう片方を、裏切り行為をした謀反人として、征伐するつもりであった。

「やってくれるな大石。」

「は。」

 大石と呼ばれた隊士は、他の数名の隊士を引き連れて、暗夜、密かに、伊東を殺害した。

「大石に任せておけば確かだろう。」

「そうだな。」

 勇の妾宅で、国事を論ずる振りをして酒に酔わせた伊東を送り出した後、勇と歳三は、改めて、酒を注いでいた。

「おい。」

「何……?」

 酒に酔った勇の喉元を槍の穂先が貫いた。

「奸賊ばらめ!!」

 突然の出来事に、勇は刀を抜いて、穂先を払った。しかし、時、既に遅く、銀色の刃は、彼の喉元を血で濡らしていた。間もなく、勇は、その場に絶命してしまった。

「おい。どうした?」

「歳。」

「飲み過ぎるなよ。」

「俺は死んだのか?」

「……。」

 あまりの出来事に、その場に沈黙が走った。しかし、その一人は突然の白昼夢にであり、もう一人は勇の奇異な言動にであった。

「酔っているのか?」

「いや。少し、飲み過ぎたかもしれん。」

「おい。水をくれ。」

 妾の孝は、既に、勇の猪口に水を注いでいた。

「局長。仕留め申した。」

 気が付くと、障子を開けて、大石が立っていた。

「今、横倉らが見張ってござる。」

「そうか。」

「では。」

 大石は消えた。再び、現場に舞い戻ったのだろう。勇が後から聞いた話では、伊東は、大石の槍に喉元を突かれて絶命したという。


 それからのことは早かった。御陵衛士は、新撰組により壊滅させられた。しかし、世の中は、そのような些末な事は知らぬとばかりに、佐幕から勤王の世へと趨勢を変えていった。そして、大岩が転がり、眼前の虫を潰すかの如く、時代は御陵衛士の残党に勇を狙撃し負傷させた。

「ここはどこだ?」

「目が覚めましたか。」

「総司。」

 勇が目覚めると、傍らには、沖田総司がいた。

「病はよくなったのか?」

「おかげさまで、このようにございます。」

 総司は、奥医師であり、新撰組の嘱託医でもあった松本良順に、結核と診断されて、大坂城にいるはずである。今、勇の目の前に総司がいるとしたら、ここは大坂なのだろう。

「それにしても、お前、その格好は……。」

「似合いますか?」

 総司は女物の小袖を羽織り、女髷を結っていた。

「可笑しなことはありませぬ。これが、わたくしの本当の姿なのでございますから。」

「それはそうだが……。」

 幼い頃から男装をしてきた総司にとって、今の格好は、勇には、おかしく見えた。しかし、それは、勇の胸中に、不確かな異変と違和感を催させたということであり、腹をよじって笑い転げるというようなことではなかった。

「似合いまするか?」

 再度、総司は勇を見つめた。

「ああ。似合う。」

「よかった。」

 総司が見せたのは、少女の笑みであった。

「そうだ。それより、隊士たちは、歳三はどうした?」

「幕府は滅びたそうにございますよ。」

「王制復古のことか。それならば、まだだ、まだ幕府は巻き返せられる。」

「そうではございませぬ。」

 総司は首を小さく振った。

「違う?では戦か。一体、俺はどのくらい眠っていた。」

「もう、良いではありませぬか。」

「何がだ?」

「新撰組などは。」

「組か。組よりも、今は幕府だ。歳はどこにいる。呼んでくれ。」

 勇は体を起こせずにいた。

「皆様のことは放っておいて。これからは、二人で暮らしませぬか。」

「何を言っている。総司。」

 己の体が動かないことが、もどかしかった。勇の記憶では、確か、伏見から二条城へ向かう途中、発砲音が聞こえ、肩口を撃たれた。勇は、馬上から落馬し、気を失ったのだろうと思った。

「当たり所が悪ければ、命を落とされていたことと存じまする。どうか、拾われたその命。後生、大事にしていただきたく、わたくしめは思うのでございまする。」

「おぬし、おろぼろすか。」

 ウロボロス。自らの尾を食らう蛇。それは、勇の体内に棲み、人々の生き死にをも司る神。

「勇様。どうかお気付き下さいませ。己の本当のお気持ちに。そして、素直におなり下され。」

「お前は、俺を生かしたいのか?それは、お前自らが生きる為に。」

「思い出し下されませ。あの滝の畔での出来事を。わたくしめはきっかけ。波動。」

「あの老人か……。」

 今の今まで、勇はそのことを忘れていた。それは、確かに、途中までは覚えていたのだが、いつの間にか、勇の記憶の片隅から脱落してしまっていた。それを今、勇は思い出した。三年前、江戸に帰省した時、話のついでに聞いた神通力を持つ仙人の話。勇は、その仙人を探しに、わざわざ奥多摩の山中を分け入り、滝の畔で、彼に出会った。吉蔵である。

「確かに、あの時、未来が、俺の天命がという話をしていた。お前は、あの時の老人か。」

「いえ。わたくしは、ただのきっかけ。あなたがあの方と出会った、そのことそのもの。あのとき、あなたの内に宿った波。それらは巡り巡り、今、あなたの御前に、こうして姿を現しております。しかし、今、こうしてあるものは、もともと、あなたの内にあったもの。小さな波が波を呼び、大きなうねりとなるように、それらが今、互いに、呼び合いながら、大きな波となり、伝わっているのでございます。」

「それが波動……。」

 改めて、勇が目覚めた場所は、伏見城内の畳の上であり、その傍らには歳三が座っていた。


「待っていたぞ。」

 勇は奥多摩の滝の畔に立っていた。

「然れば、某の用向きは、言わずとも分かり申しますかな。」

「それでも、やはり、お前の口から聞くのが良かろう。」

「左様か。」

 勇が対峙しているのは、吉蔵である。近藤勇の狙撃から後、上方の幕府軍は瓦解した。鳥羽伏見の戦いで、薩長軍に敗れた幕府軍は、新撰組も含めて、大坂から軍艦に乗り、海路江戸に敗走した。その中には、勇らと共に、沖田総司もいたが、総司の姿は、夢の中とは異なり、やはり、男の姿をしていた。

 江戸に戻り、甲州鎮撫を命じられた新撰組一行は、大人しく、その命令に応じ、甲州街道を西に、甲府を目指していた。その途次、肩の傷も癒えぬ間に、勇は、誰も供を連れず、この滝の畔まで来たのである。

「我三十を越えたりと雖も、未だ天命を知らず。苟も瑞穂国の武士に成りたりと雖も、法を踰えるを得ず。然れど、我為す事に偽りなく、我が成す心に一点の曇り無し。義に依りて生を成し、忠にして君に報いること、此れ男児の本懐なり。敢えて言う、国君滅び、僚友死すと雖も悔いること無し。然りと雖も、唯一無念なるは、無辜の幼児、純白の婦人の事のみ。異邦の神仙、若し我が志を請けむと為すならば、我が愛する者、之一人の命。天寿を全うせむとするまで、慈愛し、照覧せむ事を欲す。」

 滝の音が鳴る傍らで、勇は、明朗闊達に詠った。それは彼が高揚している証である。

「懐を見よ。」

 勇の胸の高鳴りとは代わって、吉蔵は変わらない。彼の姿形も座っている場所も、三年前のあの日と何も変わることはなかった。

「これは、おろぼろす……。」

 勇の手の内に波動の腕輪が握られていた。

「おろぼろすというのか。それは。実のところ。我は、その腕輪の事は何も知らぬ。」

「某は、この腕輪の力によって、今、ここにいるのでござる。」

「そうか。それでも、それはただの腕輪に過ぎぬ。お前をここに呼んだのは、お前自身の力に過ぎぬ。我の力もまた、然り。」

「然れど……。」

「さあ行け。時は迫っている。」

 目も眩むような輝きの中で、吉蔵は消え失せた。そして、勇は、奥多摩の山中から、江戸の市中に移動していた。彼は千駄ヶ谷の植木屋にいた。そこには、総司がいた。

「近藤さん。」

「総司。」

 家の屋根を潜り抜け、奥座敷へ行くと、布団から抜け出した総司が、縁側に座っていた。

「どうしたのでございますか?」

「些か、所用があってな。」

 総司は髪を下ろし、寝間着姿である。総司の胸元の布地は、彼女の小さな乳房で膨らんでいた。

「お恥ずかしうございまする。」

「いや。似合っているぞ。」

「ご冗談を。」

 総司は薄い笑みを見せた。

「実は、お前に渡したい物がある。」

「何でございますか?」

 懐から勇はウロボロスの腕輪を出した。

「これを俺だと思い、天寿を全うして欲しい。戦が終わったら、お前は名を捨て、女として生きろ。」

「それは……。」

 突然のことに、総司は混乱していた。それと言うのも、その時、勇の逞しい両腕は、総司の背中を抑え付けて、勇の胸内に、彼女の体と乳房を、ぎゅっと抱き、押し付けていた。

「俺はお前を好いていた。ずっとだ。すまなかった。どうか俺の分まで生きてくれ。」

 勇の涙が、総司の頬を濡らした。

「さあ。行かねば。」

「あの……。」

 屋敷を入り口に向かって歩く勇の姿を、総司は追うことができなかった。そして、それが、彼女が勇の姿を見た最後となった。


 時は駆け、時代は明治に変わった。それでも、東京と改められた江戸の町は、以前と変わらずにある所もあれば、開化の波を受けて、変わっていった所もあった。その中で、多摩の上石原村にある寺院では、人知れず近藤勇が葬られていた。

「あ、お姉さまじゃ。遊んで下さりませ。」

 彼の命日である旧暦四月には、必ず、墓前に花が供えられている。

「これ、これ。まずは墓前にご挨拶をさせてくださいな。」

 東京から来るというその婦人は、色白く、華奢で、以前は病に伏せっていたかのような様相である。それでも、どこか芯のありそうな佇まいは、彼女の病が、今ではもう全快していることを物語っていた。

「また、その腕輪をしているのですね。」

 婦人は、墓参りを終えると、決まって、寺院の境内で遊ぶ子どもたちの相手をした。

「ええ。これは、私の、とても大切な御方の形見の品なのでございますよ。」

「へえ……。」

 そして、また、決まって彼女は、その片腕に、所々、黒くなった銀の腕輪を嵌めており、その腕輪という物も、日本では珍しく、自らの尾を食らうウロボロスを象った腕輪であることが、子どもたちの記憶に残っているということである。

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