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たゆたうモスグリーン

作者: 望月

 人間というのは生まれた瞬間に息を吐き、死ぬ時に息を吸う、所謂『息を引きとる』という循環ができている。この国では人間は心臓が止まった後、最期に残る感覚器官が聴覚であるという説が一部で広まっており、病床に横たわる体温が消滅した人間に涙ながら声をかける者も居る。

 では、これから死にゆく人間は何を求め、どのような終わりを望むのだろうか。それがわかるのは本人だけなのはわかっているし、それが身内でないなら尚更興味など薄いものだろう。だけど僕の興味の有無は関係無く、他人の人生の終わりの空気が肺に入り込んでくる。


 だからこそ、僕は今日も店のドアにかかったCLOSEDの板をひっくり返す。カランコロンとドアに吊り下げた鐘が鳴った時。それは来客の知らせであり、ひとりの人間の終わりの警告ランプが灯っている合図である。


 ここは、ちいさな喫茶店。雑誌やサイトにも載っていない、古びたお店。立ち寄る人々に振る舞うのは、一杯のコーヒーだ。



◇ ◇ ◇


「いらっしゃいませ」

 と、お冷を置いて言うと、彼は肩をピクリと揺らした。黒々と長く伸びた睫毛がチカチカ光っている。目線は伏せたままだ。僕はすぐに気付いた、彼が“向こう”に足を踏み入れようとしていることを。

 僕は基本的に客人に対して声をかけない。勿論会話を好む人間も居るわけだし、話を振られたら応えるようにはしている。けれど、この店に来る大半の客は無言を求める。今さっき来店した青年もそうだ。空気を含んだラミネート加工のメニューをじっと見て、ゆらりと瞬きをしている。

 キッチンで豆の選別をしていると、羽虫の鳴き声よりも小さな声がきこえた。

「ご注文はお決まりですか」

「あの……すみません、ずっと悩んでも選べなくて……」

「そう、ですか」

 すみませんすみません、と頭を下げる彼を制止して、キッチンに向かう。そして僕はひとつ、深呼吸をした。溢れんばかりに並べられた豆の袋たちから、一つを取り出した。封を開けると、少しの酸味と、やわらかい死の匂いがした。


 ふと彼の方を見ると、荷物も無く、財布だけ所持しているように見えた。大学生が宅飲み中に酒をきらして財布だけ持ってスウェット姿でコンビニに向かうのとは訳が違う。彼は身なりをきちんと整えて、シワひとつないシャツを纏っている。まるで全てを清算するような、そんな出で立ちだ。


「お待たせしました」

「え?」

 驚くのも無理はない、何も注文を受けていないのにコーヒーを差し出したのだから。

「これは……?」

「名前のある豆ですが、語る必要はないでしょう。どうぞ、冷めないうちに召し上がってください」

 彼は少し戸惑いながら軽く会釈をした。

「ごゆっくり」

 陽が当たりきらきら輝く角砂糖をスプーンに乗せた彼は、それをゆっくりとカップに沈めた。瞬く間に溶けていく白を、彼は口をぽかんと開けて見ていた。持ち上げると波紋がじわりじわりと広がって。ゆっくり、口をつけた。

「どうして」

 彼は静かに涙を落とした。抑えきれない感情が爆発して、彼はついに声を上げて泣き出したのだ。

 僕は何もしていない。ただ、彼に一杯のコーヒーを捧げただけ。


 窓の外を見ると、風に乗ってひらりと緑の葉が舞っていた。彼はぽつりぽつりと言葉を紡いだ。幼少期のこと、思い出、初恋、苦悩、ここに来るまでのこと。僕はそれを全て聞き入れた。

「もう、ゆくのですか」

「はい。取り乱してしまってすみませんでした。お会計を……」

 財布を取り出す彼の手を、僕はそっと抑え込んだ。

「旅にお金は必要なものです。どうか、しまって。ほら」

「……すみません、ご迷惑をおかけして」

「謝ることではありませんよ。……良き旅を」

 彼は深々とお辞儀をして、店を出た。


 旅立つ彼に振る舞ったコーヒーを口にすると、塩辛かった。

 深き森は今日も鳴いている。

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