8_山猫の正体は?
前回は春らしい話をしたのに、今回は秋の物語についてお話します。
きっかけはごく単純。仕事(学校司書)の関係で『どんぐりと山猫』を久しぶりに読んだことでした。
宮沢賢治の童話作品は、独特な世界観ですがいろいろ深い考察ができるものが多いですよね。真波が働いている小学校では、子どもたちはあまり宮沢賢治作品を借りてくれないので「もったいないな」と思っています。小学生には少し難しい話もあるのですが、『銀河鉄道の夜』なんかはぜひ幼少期に一度は触れてほしい。どうすれば賢治作品に興味を持ってもらえるか、日々模索しているところです。
前置きはこのくらいにして、真波が初めて『どんぐりと山猫』に出会ったのはたしか中学生のとき。読書感想画を描くために読んだと記憶しています。以来、実に十年以上ぶりに読み返したのですが、改めて「不思議な物語だな」という印象を抱きました。
まず、冒頭で主人公の一郎宛てに届く「おかしなはがき」からすでに賢治ワールド全開です。せっかくですので、下に「おかしなはがき」の全文を載せました。
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かねた一郎さま 九月十九日
あなたは、ごきげんよろしいほで、けっこです。
あした、めんどなさいばんしますから、おいで
んなさい。とびどぐもたないでくなさい。
山ねこ 拝
≪青空文庫:宮沢賢治『どんぐりと山猫』より(https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/43752_17657.html)≫
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ところどころ誤字というか、言葉が抜けているのがクスッと笑えますね。
物語は、一郎がこのはがきを受け取り山猫へ会いに行くところから始まります。一郎は、栗の木や滝やきのこなどに山猫の居場所を尋ね、やがて山猫の馬車別当をしている小男に出会いました。そこへ山猫とどんぐりが登場し、「めんどなさいばん」が繰り広げられるのです。
ご存じの方も多いと思いますが、この「めんどなさいばん」というのは、どんぐりたちが「自分が一番エラいんだ!」と争うものです。やれ「背が高いのがエラい」だの「丸いのがエラい」だの、どんぐりたちは互いに譲る気配をまったく見せません。この状況に困り果てた山猫は、どうすればこの面倒な裁判を終えられるだろうかと一郎に相談します。一郎がどんぐりたちをあっさりと黙らせた鶴の一声とは……。
ネタバレしては面白くないので、肝心のところは読んでのお楽しみ。
ちなみに、一郎はこの裁判で山猫に大層感謝され「また裁判に呼んでもいいか」と言うのですが、これっきり、一郎のもとに山猫からのはがきが届くことはありませんでした。
最後まで賢治独特の不可思議な雰囲気が漂う『どんぐりと山猫』ですが、さて、この物語で賢治は読者にどんなことを伝えたかったのでしょうか。
ぱっと読んだときは「エラいことは本当に偉いのか?」という至極単純なメッセージを受け取りましたが、大人目線で解釈を深めてみると、これはある種の“警告”ではないかと考察することもできます。
まず、冒頭のはがきを受け取ったときの一郎ですが、いかにも怪しげな招待状を受け取ったにもかかわらず「うれしくてうれしくてたまりません」状態になります。子どもらしいといえばらしいですが、警戒心の欠片もありません。
そして次の日、一郎は山猫へ会いに行こうと、栗の木や滝やきのこなどに「やまねこがここを通らなかったかい」と尋ねます。このとき、栗の木や滝やきのこたちは「東へいったよ」「西へいったよ」「南へ行ったよ」などと答えて一郎を惑わるのですが(彼らに一郎を惑わせる意図があったのかは不明です)、ここでよくよく考えてみると、上記のはがきには裁判が行なわれる場所が明記されていないんですよね。なんと不親切なのでしょう。一郎が無事目的地へたどり着いたのは、強運というほかありません。
さらに、はがきの文面にも注目。最後の一文に「とびどぐもたないでくなさい」とあります。この「とびどく」とは「飛び道具」、つまり鉄砲を意味するらしいのですが、これは山猫が「一郎が自分たちに危害を加えないように」と念を押したのではないかなと真波は解釈しています。
そして、一郎が出会った馬車別当。物語の中では「せいの低いおかしな形の男」「片眼」「あしが、ひどくまがって山羊のよう」と表現されています。さらに、上記のはがきを書いたのはこの馬車別当だと判明するのですが、一郎よりはるかに年上に見える(作中で、山猫が吸う巻煙草をほしがるような描写がある)男が書いたにしては随分拙く感じられます。思うに、この馬車別当は長いあいだ山猫に仕えていて、きちんとした教育を受ける機会を逃してしまったのではないでしょうか。対して、一郎はおそらく小学生くらいでしょうが、別当よりも随分賢い話し方をしますし山猫への受け答えも実に聡明です。この二人は、実に対照的に描かれている気がします。
さて、ここで真波が言いたいのは、この『どんぐりと山猫』という物語は“子どもの誘拐”を暗示しているのではないか、ということです。
随分突飛な発想だと思われるかもしれませんが、「おかしなはがき」に対する一郎の無防備さや、栗の木や滝やきのこたちの行き先を惑わせるような答えは勾引かしを連想させませんか。また馬車別当の小男ですが、おそらく彼も、かつて一郎と同じようにはがきを受け取ったのではないでしょうか。しかし、一郎のような賢さを有していなかったために、山猫に騙され手下にされてしまったのです。
山猫からのはがきが一郎に二度と来なかったのは、一郎の賢さを間の当たりにした山猫がある種の警戒心を抱いたからではないでしょうか。
実は山猫は一郎に、今度またはがきを出すときは「『用事これありに付き、明日出頭すべし』と書いてもいいか」と提案するのですが、一郎は笑いながら止めたほうがいいと返します。もしここで一郎が山猫の提案を受け入れていたら、果たして再び例のはがきが一郎のもとに舞い込んできたのでしょうか。一郎は物語の最後、山猫からの便りが途絶えたことに対して「やっぱり、出頭すべしと書いてもいいと言えばよかった」と残念がります。しかし、もし山猫の本性が子ども攫いの常習犯だったすれば……。
と、いろいろ考察を述べましたが、おそらく賢治先生はそんな荒唐無稽なメッセージなどこの物語に込めてはいないでしょう。真波自身、自分で考えておきながら「ないない」と一人ツッコミしていました。
ただ、これこそが「物語を読む」ことの醍醐味ではないでしょうか。趣味における読書は、国語の勉強や試験とは違います。どんな解釈をしようが自由、正しいとか間違っているとかいう基準も一切なし。「あなたの解釈は正しくない。有罪!」などと裁判で言い渡されることもありません。ならば、想像の翼を思い切り広げ、物語の世界を自由自在に飛び回りましょう。それこそが、物語を紡ぐ作者たちが真に望んでいることではないかと思うのです。