2_『猿の手』が招いたもの
幼い頃、「願いを叶えてくれる魔法のランプ」みたいなおとぎ話をよく耳にしました。もちろんそんな都合のいい魔法の道具は、現実には存在しないのですが、子ども時代はそういった他愛もない想像を楽しめたものです。
というわけで、今回のテーマは「魔法のランプ」。ただし、大人向けの魔法のランプは上述したような可愛らしいものではありません。
以前、有栖川有栖先生の『妃は船を沈める』を読んだとき、作中でアリスと火村先生がある「魔法のランプ」について議論していました。その議論が糸口となり、火村は事件を見事解決へと導くのですが……。
ミステリ好きなら、ピンときたでしょう。今回お話する「魔法のランプ」は、イギリスの作家ウィリアム・ジェイコブズが生み出した『猿の手』です。
前回の『蜘蛛の糸』とは異なり、あらすじを知らないという方も一定数いるかと思いますので、今回はあらすじ紹介を挟みます。
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【『猿の手』あらすじ】
ホワイト氏とその妻、息子ハーバードが暮らす家に、ホワイト氏の知人であるモリス氏が訪れる。モリス氏は、「三つの願いを叶えてくれる代わりに、害悪をもたらす猿の手」を所持していた。氏は既に三つの願いを叶えてもらったと告げたうえで、猿の手を暖炉の火にくべようとする。ホワイト氏は興味本位でモリス氏から猿の手を受け継いだ。
ホワイト氏はハーバードにせがまれ、「二百ポンドを与えてくれ」と願いを唱える。すると次の日、ハーバードは勤務先の工場で機械の事故に巻き込まれてしまう。ホワイト夫妻には、補償金として二百ポンドが渡された。
息子の死から一週間後、夫人は「猿の手に、息子を生き返らせるよう頼もう」と言い出す。夫は妻の勢いに根負けし、猿の手に二つ目の願いを告げる。すると少し経ってから、何者かが家の玄関のドアをノックする音が。「息子が返ってきた」と興奮し、ドアを開けようとする夫人。ホワイト氏は慌てて猿の手に最後の願いを唱える。その瞬間ノックの音はピタリと止み、玄関を開け放った先には何者の姿も見えなかった。
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だいたい、こんなお話です。
『妃は船を沈める』の中で議論されているのは、「二つ目の願いを唱えたとき、ホワイト夫妻の家を訪れた者の正体」。夫人にせがまれ、ホワイト氏が「息子を生き返らせよ」と唱えたわけですから、ノックの主は息子のハーバードと予想されます。ところが、アリスと火村の間では次のように意見が割れました。
アリス曰く、「ノックの主は、生き返ったハーバード。ゾンビのように血まみれで、見るに堪えない姿の息子が両親のもとに帰ってきたのだ」。
対して火村先生は、「『猿の手』の話には超自然現象は一切登場しない。だから、ドアをノックしたのは血まみれのゾンビと化したハーバードではない」。
これ、実は真波が購入して読んだ『猿の手』と有栖川先生が参照した『猿の手』の訳が微妙に異なっていたため、火村の持論に最初は頭が混乱しました(ちなみに真波が読んだのは、河出文庫『エドワード・ゴーリーが愛する12の怪談』です)。
火村によると、彼が読んだ『猿の手』(有栖川先生が参照した『猿の手』)には
・ハーバードが機械に巻きこまれた
・ハーバードの死体は、服でしか見分けられない状態だった
の描写があるのみで、つまり「ハーバードが死んだ」という直接的な表現はなかったらしいのです。
これはミステリでいうところの「顔のない死体」トリックに該当し、火村は上述の描写から「ハーバードの死には疑問の余地がある」と指摘するのですね。そして、「ハーバードは自分の死を偽装して、猿の手の最初の願いを叶えた。そして、二つ目の願い通り夫妻のもとに帰ってきたのかもしれない。生前と同じように小奇麗な姿のままで」と推理したのです。
さすが名探偵、と真波はひれ伏したわけですが、それからしばらくして浮かんでしまったのです。アリスも火村も考えつかなかった、第三の推理を。
そもそも真波が参照した本には、ハーバードの死体が服でしか見分けられなかった、という描写がありませんでした。それもあって、ハーバードの死に関しては、たしかにその死体はハーバード本人であったのだろうと想像します。
ただ、猿の手の二つの願いが唱えられた直後、ホワイト夫妻の家のドアをノックしたのはゾンビ化したハーバードではありません。真波が注目したのは、物語のはじめに登場しているホワイト氏の友人・モリス氏です。
そもそも、真波はモリス氏がなぜ猿の手を持ってホワイト氏を訪ねたのか、ずっと疑問に思っていました。モリス氏自身は、暖炉の火で燃やそうとしたくらい、猿の手を気味悪がっていたわけですよね。そんなものを、常時持ち歩いているわけでもないでしょう。
だから、想像を巡らせました――モリス氏は最初から、忌まわしい猿の手をホワイト氏に渡すことが目的だったのではないか?
一方で「願いを叶えてくれる」という曰くがある以上、万一猿の手がホワイト一家の願いを叶えられなかったら、ホワイト氏は怒って猿の手をつき返すかもしれない。だからモリス氏は、猿の手が本当に三つの願いを叶える「魔法のランプ」だと思わせるために、一連の出来事を偽装したのではないでしょうか。
つまり、ハーバードの死も、夫妻の家のドアをノックしたのも、すべてはモリス氏の企みだったのです。そして猿の手に唱えられた最後の願いを聞き、慌ててホワイト家を立ち去った……。
火村の推理ほど理路整然とした美しさはないかもしれませんが、彼の言うところの「超自然現象」も起こりませんし、個人的には結構気に入っている推理だったりします。
「モリス氏はどうやってハーバードを事故死させたんだ」と鋭いツッコミが(火村先生から)入りそうですが、そこはまあ、何とでもこじつけられるでしょう。多分。
モリス氏がホワイト氏の家で暖炉の火に猿の手をくべようとしたのは、ホワイト氏が猿の手をほしがるように仕向けるための演技だったのかもしれません。策士だな、モリス氏。
「そんなに猿の手を手放したいのなら、焼くなりゴミに出すなりすればいいのに」という意見も挙がりそうですが、そこはモリス氏も人の子。猿の手の呪いを恐れたのではないでしょうか。「焼いたりゴミに捨てたりすれば、猿の手が怒り自分に罰を与えるのでは」と。
いずれにせよ、猿の手が彼らにもたらしたものは決して幸福ではありません。ご都合主義の「魔法のランプ」は、やはり夢物語に過ぎなかったのです。
『妃は船を沈める』の中で、アリスがある人物に「三つの願いが叶うとしたら何を願いますか」と問いかけるシーンがありました。相手の返答は、「私は何も頼まない。虫が良すぎて怖いから」。シンプルながら真理を突いた答えだと思いました。
魔法のランプは、現実には存在しない。だからこそ、苦労の先には何物にも代えがたい価値ある幸福が待っている――そう願いたいものです。