7 涙のわけ
「お帰りなさい、ニギリソウは採れた……あら、あら、ソム、どうしたの?」
玄関のドアを開けるなり、機織り機から顔を上げたエターさん目がけて走り込んだソムは、その膝にわっと顔を埋めた。エターさんを手伝っていたタンギも、カード遊びをしていたノノパさんとミュルも、突然のことに、心配そうな顔で寄ってくる。
「え、え、エターさあん……うっ、タロパさんが、タロパさんがあ……」
泣きじゃくるソムの背中をさすって落ち着かせながら、
「タロパ、何をしたの」
のそのそと玄関から入ってきたタロパさんに、一家の視線が集中する。
「いや、私には普通のことだったんだけど……」
そろそろ初夏の薬草が採れる頃だというので、タロパさんが山へ行くという。大人たちの薬屋での仕事ぶりを見ていて、近頃ちょっと薬草に興味を持ちはじめたソムが、
「あのさ、それ、私もついて行っていいの?」
と尋ねると、タロパさんは待ってましたとばかりに即答した。
「もちろん。じゃ、明日は学校も休みだから、一緒に行こうか。ソムもそろそろ山の様子を覚えた方がいいね」
この村の子どもたちは、小さい頃から大人たちについて山に入り、それぞれの家業に応じた技能を身につけていくらしい。
例えば、狩りの名人・アンジさんは、息子のウラさんを赤ちゃんの頃から山に連れていっており、そのおかげでウラさんは、今や村一番の狩人との呼び声も高い。
この家の子どもたちの場合、タンギは数年前から度々タロパさんについて山に入っているが、ミュルは体の構造上まだちゃんと歩けず、普段はぴょんぴょん飛び跳ねて移動しているので、もう少し大きくなって、安定した二足歩行ができるようになるまでは、険しいところへは行かない約束なのだそうだ。
「ミュルがまだ赤ちゃんの頃は、カゴに入れて連れて行ったりしてたんだよ」
「そうそう、布でくるんでね」
にわかに昔を懐かしむ大人たちである。ソムは、両手に乗るくらいちっちゃなミュルが、カゴにすっぽり収まっている姿を想像してみた。今でもミュルは丸くて可愛いけれど、きっと、ふわふわの綿みたいだったんだろうなあ。
「いいなあ、ソム。わたしも行きたいのに」
「じゃ、歩く練習する?昨日、もう少しだったじゃない」
「する!」
元気よくぴょんと飛び跳ねたミュルの丸い体、床に接しているところから、短い足のようなものがふたつ、じわじわと伸びて、体が少しばかり宙に浮く。自分も立ち上がり、ミュルの背後に回って、ミュルのよりもだいぶ長い人間の足でふわふわの体を支え、歩行練習の補助をしながら、ソムは思った。
さすがにもう慣れたけど、やっぱり疑問。みんなの体の中って、一体、どうなってるんだろう……?
「去年の夏には、西の渓谷にたくさん生えてたから、いっぺん、同じところに行ってみようかな。あそこなら、まだそれほど険しくないし」
翌日、朝食を終えてから、タロパさんとソムは連れだって家を出た。ソムの背中には、植物の蔓で編んだカゴ。タロパさんは、ソムのよりも少し大きなカゴを頭に乗せている。
いつも学校へ向かう方向とは逆の道を行く。少し下り坂のその道は、やがて木々の合間を縫うように狭くなり、タロパさんはいつもより体を縦に細くして進んでいく。
「おっと、大きい石があるから気をつけてね」
と言いつつ、短い足でよっこいしょと石に乗り上げておいてから、慎重に滑り降りるタロパさん。その石を、人間の子どもであるソムの足は軽くひとまたぎで越えていく。それを見て、タロパさんが珍しく愚痴のようなことを言う。
「この村はとってもいいところだけれどね、山道だけは大変なんだよ。特に、これだけ体が大きくなってしまうと、私たちでは通れないところもたくさんあるし」
「じゃあさ、もっと細くなれないの?縄みたいに」
「そこまでは無理だねえ。細くじゃなくて、平たくはなれるんだけどね」
平たくなれるのなら、細くもなれそうだけどな。生い茂る枝葉をしゃがんで避けながら、ソムは思う。先を行くタロパさんは、盛大にひっかかっていたけれど。
「ああ、ここだ、ここだ」
急に視界が開けた。道幅が大きく広がり、ちょっとした野原になっている。道の右側は、切り立った崖だ。
「うん、ここにも少しだけ生えてるね。ソム、これがニギリソウだよ」
タロパさんがSの字に折りたたまれた……もとい、しゃがみ込んだ先に、ソムの親指の先くらい小さな白い花がまばらに咲いていた。葉の先がギザギザに分かれている。
「これ、薬屋の壁に干してるやつ?」
「そうそう、よく覚えてるね。乾燥させて、お茶にしたり、煎じて薬にしたりするんだよ……あ、まだ採っちゃダメだよ。もう少し増えてからにしないと、来年、生えて来なくなっちゃうからね」
ソムは慌ててニギリソウに伸ばした手を引っこめた。タロパさんは、体をもとに戻すと、きょろきょろと辺りを見渡し、
「うーん、今日のうちに、少しだけでも採っておきたいんだけどな。もっとたくさん生えているところがあればなあ」
「タロパさん、そっち、崖だから気をつけて……」
ソムが言い終わる前に、突然、土と石とが崩れる音と共に、ソムの視界から、タロパさんが一瞬にして消えた。
「えっ……た、タロパさんっ!?」
道の端から、タロパさんが足を踏み外したのだ。
岩だらけの、切り立った崖を、巨大な白いボールのように、時に弾みながら、ゴロゴロと転がり落ちていくタロパさん。どんどん小さくなるその姿を、ソムは声も出せず、ただ震えながら見守ることしかできない。
やがて、谷底に、豆粒ほどの白い点が止まった。
どうしよう。ここからじゃとても助けに行けない。村のみんなに、知らせに行かなくちゃ。いや、そもそも、こんな高いところから落っこちて、タロパさんは大丈夫なのか。タロパさんたちが、傷ついたり、病気になったりしたところは見たことがないけれど、もし、もし、タロパさんが、動けなくなっていたら……。
道にへたり込んで、ソムがパニックに陥っていると、
「ソムー、聞こえるー?」
遠くからの声が風に乗って聞こえる。谷底に目を向けると、小さな白い点が少し動いている。ソムは崖の方に体を乗り出して、ありったけの大声を出した。
「タロパさん!! 大丈夫!?」
「私は大丈夫ー。今からそっちに戻るから、ソムはそこにいなさいねー」
そっちに行く? どうやって? この深い深い谷底から?
ソムが問う間もなく、タロパさんの体はいっそう小さくなった。遠くてよく分からないけれども、全身が小刻みに震えているようにも見える。豆粒が小麦の粒くらいにまで縮んだと思ったら、今度は、逆に少しずつ膨らんでいく。
そして、米粒がクルミの実くらいの大きさになった時、周りに、土煙のようなものが上がった。その一拍のち。
ドンッ!!!
大きな音が谷底から響いた。土煙の中から、タロパさんの体が勢いよく宙に飛び上がる。さっきまでまん丸だった体を細くして、体の下の方から、溜めた空気を吐き出しながら、ぐんぐんソムのいる高さまで上がってくる。
呆然とその姿を見守るソムの眼前を通り越すと、今度は体を平たくさせて上昇を止めると、そのままふわりと浮いて、風に舞い上がったシーツのような優雅さで、ゆっくりと道に着地した。
「ごめんごめん、うっかり落っこちちゃったね。でも大丈夫、どこもケガはない、ていうか、そもそも私たちケガとかしないから……ソム?」
固まったままのソムの顔を、タロパさんが体をかがめて覗き込むと、
「……うわあああああん、タロパさあん……びっくりしたよう…………」
大粒の涙をこぼしながら、ソムはタロパさんにぎゅっとしがみついた。今までもタロパさんたちの不思議には驚かされてきたが、今回ばかりは、あまりに一度に起こったことが多すぎた。
ひとしきり謝っても涙が止まらないソムを胸に包み込んで、タロパさんは村へと引き返したのだった。
「……まあ、それはソムもびっくりするでしょうね」
「そうか、ソムはタロパが飛ぶとこ、まだ見たことなかったんだ」
「悪かったよ、ごめんね、ソム。今度から、崖のそばを歩く時は気をつけるから。それにね」
タロパさんはちょっと嬉しそうに、カゴから何かを取り出した。
「谷底にね、ニギリソウがたくさん生えてたんだよ。いい群生地を見つけたから、また採りに行ってくるよ」
「ま……またって、転がって……?」
やっと泣き止んだはずのソムの目に、みるみる涙があふれる。
「嫌だよう、あんなふうに落っこちていかないでえ……」
家族が発する、じとっとした視線に、タロパさんは細く伸ばした指で、ぽりぽりと頭をかいた。