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6 一年生

 真新しい帳面とペン、インク壺。そして、エターさんが糸からつむいで織り上げた布を使った、タロパさんお手製の、黄色い手提げカバン。


「教科書は先生が下さるから、ちゃんと受け取ってくるのよ」


 エターさんの言葉も半分耳に入らず、ソムは机に並べた持ち物を、机にひじをついて眺めていた。にやにやが止まらない。


 これらを持って、いよいよ明日、村の学校へ初めて登校するのだ。


 故郷でも少しだけ学校には通ったが、入学して半年も経たないうちに戦闘が起こってしまった。その後「楽団」では、下働きと歌と踊りと旅の毎日で、勉強をする機会も暇もなかったため、十歳のソムの学力は、就学前の子どもとほとんど変わらない。辛うじて、文字と数字がひととおり読める程度だ。


 なので、先生たちとタロパさんが話し合った結果、ソムは改めて一年生の勉強から始めることになった。


「ずっとにこにこしているよ、この子は」


 ソムの様子を見て、後ろを通りかかったノノパさんもにこにこしている。


「だって、行きたかったんだもん、学校」


 もちろん不安はある。タンギとミュルというきょうだいや、エターさんの兄、ノマおじさんのところの子どもたちなど、見知った子はいるものの、大半が知らない子、しかも年下の子よりも遅れて勉強することになるのだ。果たして、同い年の子に追いつくことができるのか。


 だけど、その不安以上に、ソムはとにかく学校へ行きたかったのだ。「楽団」にいる時からずっと。


「ソム、大丈夫だよ。わたしがいっしょにいるからね」


 ミュルが寄ってきて、任せなさいとばかりに胸を張った。学校の先輩として、何としても新入生を助けてやらねばと思っているらしい。


「ありがと」


 丸い体をさらにふくらませて気合を入れるミュルが何とも可愛らしく、思わずポフポフとお腹をなでてしまう。


「ミュル、宿題済んだの?」


 そんな中でも、ひとり冷静なタンギの一声に、パンパンだったミュルのお腹がみるみるしぼんでしまった。


「今やろうって思ってたのっ」


 ぶつくさ言いながら勉強道具を取りに行くミュルに、台所で夕食の魚をさばいているタロパさんが振り向いて、


「でも、明日からは、ソムといっしょに宿題ができるじゃない。良かったね、ミュル」

「……うん、そうだね! ね、ソム、いっしょに宿題がんばろうね」


末っ子の機嫌はくるくる変わる。ミュルにうなずき返しながら、ソムは思った。


 そうか、学校に行ったら、宿題も出るんだったな……。




「ごちそうさまでした」


 いつものとおり、家族全員での朝食を終え、みんなで食卓を片付ける。


 が、ここからが違う。


 ソムはベッドの脇にある、自分用の小さな棚から黄色いカバンを手に取った。玄関では、もうタンギとミュルが待っている。


「はい、これ、お昼ごはん。つぶさないようにね」

「うん」


 エターさんから手渡された包みを、慎重にカバンへしまう。


「分からないことは、すぐ先生に聞くんだよ。ちゃんと教えて下さるから」


 ノノパさんは少し身を縮めると、折れていたズボンの裾を直してくれた。


「うん、ありがとう」


 頭の上に、タロパさんの手が伸びてきた。


 昨日、ソムの髪を短く切りそろえてくれた、先端がどうなっているのか、未だによく分からないけれど、器用で、何でも作ってくれる手。


「しっかりね、ソム。行ってらっしゃい」

「うん、行って来ます」


 早く早く、と道の真ん中で跳ねるミュルを追いかけて、ソムは大人たちに見送られ、家を後にした。


 並んで歩くソムとミュルの後ろを、つかず離れず、タンギが続く。からりと晴れた空に、だいぶ雪も少なくなった「七本鰭の山」の頂が映えている。


 薬屋の先の一本道は、なだらかに下っている。やがて、あちこちに点在する家や小道から、子どもたちの声が、さらに姿が見えてきた。


 村の中心にある広場に差しかかったところで、


「おはよう! ソムちゃん、今日から学校なのね」

「おはよう。うん、そうなの」


 明るい声をかけてくれたのは、ノマおじさんの孫娘、ナーダちゃん。


 年はソムよりふたつ上だけれど、すらりと背が高く、長い髪を春風になびかせた姿は、ずっと大人っぽく見える。でも、顔はやっぱり、ノマおじさんにそっくりだ。


「そのカバン、可愛いね。タロパさんが作ったの?」

「うん」

「いいなあ。私も新しいカバンが欲しいんだけどさ、母さんが言うの。腕は二本しかないんだから、いくつもカバンはいらないでしょ、って。そういう問題じゃないんだけどなあ」


 ふたりの前を歩きながら会話を聞いていたミュルが、ふいに、


「だったらさ、腕、増やせばいいじゃない」


と言うなり、ちょっと体を縮めたかと思うと、


「うわっ!」


ソムとナーダちゃんは思わずのけぞった。ミュルが、胸といわずお腹といわず、全身からババッと無数の尖った腕を突き出したのだ。巨大な栗のイガのようで、正直……ちょっと怖い。


「ミ、ミュル、危ないから、それ、引っ込めて」

「えー、そう?」

「さすがに、そんなにはいらないわ、腕」

「でもさあ、あと二、三本あった方が便利かもよ。あっ、今度、タロパのお手伝いする時、生やしてみよっと」

「……エターさんはやめなさいって言いそう、タロパさんは分かんないけど」


 ソムのカバンから、腕の本数へ話題が移ったあたりで、学校の校庭が見えてきた。子どもたちの声がだんだん大きくなる。


「おはようー、宿題やった? ちょっと見せて」


 タンギやナーダちゃんと同じ、大きい子たちが集まってくる中、


「ミュル! あんた、今日、お茶当番じゃなかった?」


 低学年の友だちの声に、ミュルは文字どおりぴょんと飛び上がった。


「あっ、忘れてた! ソム、ごめんね、先に行ってるね。教室は分かる?」

「大丈夫。前にタロパさんといっしょに来たから」

「じゃ、教室で待ってるねっ」


 ぴょんぴょん跳ねながら校舎に急ぐミュルを見送りながら、ソムはふと気づいた。あれ、私、いつの間にかひとりで歩いてるわ。まあ、でも、もう少しで教室に着くし、のんびり行くか、と思った矢先、


「おい」


後ろから声がした。まるで、ソムがひとりになるのを見はからったかのように。


「お前、調子乗るなよ」


 振り向くと、ソムと同い年くらいの男の子がいた。多分、村の子だから、どこかで会ったことはあるんだろうけど、この坊主頭は記憶にない。それなのに、男の子は、なぜかソムを睨みつけて言った。


「街から来たんだってな、お前。だけどな、そんなの、ここじゃ関係ねえんだよ。いい気になって、でかい面してたら……」


 まだ一言も発していないソムに、一方的にまくし立てる坊主頭の顔に、すっと影がさした。背後に、さっきまではなかった、壁のようなものがある。


 いや、いる。


「うちの妹に、何か用?」


 いつの間にか、坊主頭の後ろにタンギがぬっと立っていた。


 一見、いつもの無表情のようだが、二か月余りいっしょに暮らしていると、これが少しイラっとしている時の顔だと分かるようになったのが不思議である。


「……っ!!」


 タンギに見下ろされた坊主頭が固まっている。


 よく見ると、タンギは体を平たくさせて、その分、正面から見るといつもより大きく見えるよう、伸びあがっている。しかも、ちょっと坊主頭の上に首をもたげている。威嚇の効果は抜群だ。


「と、と、とにかく、おとなしくしとけよなっ」


 何とか捨てゼリフを吐いて、坊主頭は校舎へ走り去っていった。


「何か言われた?」

「うん、調子に乗るなって……でも、私、あの子のこと知らないんだけど」


 もとの大きさに戻ったタンギが、珍しくソムの頭をポンポンとなでる。その仕草は、タロパさんによく似ていた。


「ま、気にすることないよ。あいつ、アグノって奴で、ちょっと乱暴だけど、そんなに害はないから」


 でも、とタンギは少し首をかしげた。


「あんなふうに、急につっかかってくるような奴じゃないんだけどね。何でだろ」


 校舎の広い玄関に着いた。「じゃ、また放課後にね」と、大きい子たちの教室に向かうタンギと別れ、ソムはひとつ深呼吸をすると、ミュルの待つ教室へと歩を進めた。




 この学校には先生が三人いて、ふたつの教室を受け持つのは、リント先生とダント先生という兄弟である。


 兄のダント先生が大きい子たちの、弟のリント先生が小さい子たちの担当。もうひとりは校長先生で、授業以外の仕事を一手に引き受けているらしい。


 ソムの担任、リント先生は、その日の授業のはじめ、ソムをみんなの前へ立たせ、


「ソムはこれまで、事情があって学校に通えなかったので、ここでは一年生の勉強から始めます。みんな、ソムが困っていたら、助けてあげるように」


と紹介すると、最前列の真ん中の席につくよう、ソムを促した。


 子どもたちは全部で二十人。知っている顔も何人かいる。さっき、校庭で言いがかりをつけてきた坊主頭がいなかったので、ソムは少しホッとした。


 七歳から十歳までの子どもたちがいるので、勉強の内容も様々だ。同じ年くらいの子どもたちが固まって席につき、それぞれ教科書を読み、書き取り、計算し、時々巡回してくるリント先生に質問したり、子どもたち同士で教え合ったりしている。


 ソムは途中から入って来たので、当然、一年生の中でもひとりだけ進み具合が異なる。もらったばかりの真新しい教科書、まずは読み書きの最初からスタートだ。


「よーし、じゃ、最初の行から、声に出して読んでごらん」


 机をはさんで、ソムの正面に腰をかがめたリント先生が言うと、とたんに教室が静かになった。すかさず、


「おい、人の心配する前に、自分たちの勉強しろよ。また宿題増えるぞ」


リント先生の声に、こちらに集中していた視線が散る。


 でも、何となく、みんなが聞き耳を立てているのが分かる。すごくきまりが悪いけど、ええい、もういいや。ソムが意を決して声を出そうとすると、


「あっ、キツネ! 外にキツネがいる!!」


教室中に響く甲高い声。にわかにザワザワしだす子どもたちである。


「えっ、どこどこ?」

「ほら、あそこ、門の近く……」


 リント先生はというと、子どもたちを諫めもせず、ソムに、


「ほれ、今のうちに読んでみ。ここから」


と教科書の文字を指し示した。


「えっと……は、はるが、きた。ゆきが、と、と……こ、て?」

「これは『とけて』だな」

「とけて……か、わ、に……」


ひととおり音読してから、同じ文章を帳面に書き取るよう言われたソムは、インク壺のふたを開けながら、ちらりと、窓際の席につくミュルを見た。


 さっきの大声、あれは間違いなく、ミュルの声だ。


(ありがと、ミュル)


 目が合うと、ソムは少しほほ笑んでみせた。ミュルは、ペンを持った手を小さく振ると、また計算に戻っていった。




 エターさんが持たせてくれたお弁当は、揚げた魚と香草のサンドイッチだった。


 お茶当番のミュルが沸かした、香りのよいお茶を飲みながら、みんなでお昼ご飯を食べる。その間、子どもたちは入れかわり立ちかわり、自己紹介とソムへの質問で、しばしばソムの食事の手を止めた。


 午後の授業は、おやつ時より前に終わった。最後に、リント先生から宿題の指示があり、


「じゃ、今日はこれまで」


の声と共に、子どもたちは一斉に帰り支度を始め、あっという間に、


「また明日ねー、さよーならー」


と、校庭へ飛び出していった。


 教科書の分、行きよりも重くなった黄色いカバンを手に、ソムもミュルと連れ立って学校を後にした。


 家に着いたら、エターさんの機織りの手伝いをすることになっている。おしゃべりをしながら(というか、ミュルの話にソムが相づちを打ちながら)歩くふたりが、村の広場に差しかかったあたりで、


「おい」


背後からの声。今朝も、こんな状況あったな、と振り向くと、そこにいたのは、朝と同じ、あの坊主頭。これまた朝と同じく、こちらを睨みつけてくる。


「お前、聞いたぞ。十歳なのに、何で一年生なんだよ。おかしいだろ」


 何となく、こいつには説明したくないなあ、とソムが黙ったままでいると、坊主頭は、やおら、とんでもないことを言いだした。


「分かった。お前、サボってたんだろ。サボって、ずっと街で遊んでたんだろ。今までサボってたくせに、一年生からやり直してもらえるなんて、お前、ずるいんだよ」

「ちょっと……」


 口をはさもうとするミュルを手で制し、ソムは努めて表情を崩さず、一歩前へ出た。


「あのさあ」


 坊主頭が少しばかりひるんだように見えた。この機を逃さず、ソムは反撃を開始した。


「何なの? さっきから。私が黙ってるからって、いい気になってんのは、そっちじゃない。だいたい、私、あんたに何かした? ていうか、あんた誰? 文句言うんだったら、名乗ってから言えよ、卑怯者」


 はっきりと及び腰になった敵へ、もう一歩近づくと、ソムは一気に言い放った。


「それにね、私は学校に行かなかったんじゃないの。行けなかったの。ずっと勉強したかったのに。本が読めるようになりたかったのに。この村に来て、タロパさんちの子になって、今、やっと、勉強できるようになったの。いくらあんたが勉強嫌いだからって、私を、あんたなんかといっしょにしないでくれる?」



 ソムの剣幕に、今や硬直してしまった坊主頭から顔をそむけると、


「行こ、ミュル」


 いつになく戦闘モードのソムに目を丸くするミュルを促し、ソムは広場を歩きはじめた。自然と早足になる。


 早く帰って、タロパさんのふわふわのお腹に包まれて、この嫌な気分を消してもらいたい。家のみんなに、学校でのことを話すのが楽しみだったのに、最悪だ。いや、あんな奴のことを考えるだけ、時間のムダ。早く忘れよう。


 ソムが懸命に気持ちを切り替えようとしているのに、


「おい、待てよ!」


坊主頭の声が追いかけてくる。ソムはいっそう歩を速めた。もう、走り出してしまいたい。


「待てって言ってんだろっ!!」


 声に続いて、ソムの傍らで、ボスッと鈍い音がした。坊主頭の声に振り向いたミュルが、そのままの姿勢で立ち止まっている。


 その顔を見て、ソムは小さな悲鳴を上げた。


 坊主頭が腹いせに投げたらしい小石が、ミュルの顔のど真ん中にめり込んでいたのだ。


「ミ、ミュル、ミュル! 大丈夫!? ど、どうしよう、痛いよね、どうしたらいいの?」


 顔を大きくへこませたまま、ミュルは動かない。手を突っ込んで、石を取ってあげた方がいいのか、それとも、後頭部から押し出した方がいいのか。


 逡巡していると、広場の入口に、カバンを頭に乗せたタンギの丸い姿が見えた。手を振って、こちらに注意を引こうとしたその時、


「……ソムを、ソムをいじめるなあああっ!!」


 ミュルの体が倍くらいにふくれ上がったかと思うと、何かを吐き出すように、一気に縮んだ。


 ミュルの顔から、とてつもないスピードで放たれたのは、めり込んでいた小石。それは一瞬のうちに坊主頭の頬をかすめ、乾いた音と共に、少し離れた木の幹に突き刺さった。まるで、弾丸のように。


 周りにいた誰もが凍りついた。騒ぎを聞きつけた大人たちが集まってくる。坊主頭は、頬からひとすじ血を流しながら、へたり込んでいる。


 ソムは何とか気を取り直し、走って来たタンギといっしょに、ひとり、ぽかんとしているミュルをのぞき込んだ。


「ミュル、大丈夫? ケガはない?」


 すると、ミュルの小さな両目に、みるみる涙があふれてきて、


「うわあああん……」


自分のしたことにびっくりしたのか、声を上げて泣き出してしまった。タンギは、地面に落ちたミュルのカバンを拾うと、


「タロパを呼んでくる。ソム、ミュルを頼んでいい?」

「うん」


家に向かって、丸い体を精一杯ゆらして走り出したタンギを見送ると、ソムは地面に膝をつき、ミュルをそっと抱き寄せた。


「泣かなくてもいいよ。もうすぐタロパさんが来るからね」


 ミュルの体は、タロパさんよりも、もっとずっと柔らかくて頼りなく、タンギがタロパさんを連れて戻ってくるまで、ただただ、ソムは泣きじゃくるミュルに半身を埋めるように、抱きしめてやることしかできなかった。




「そしたら、ミュルは自分も悪かったって、分かってるんだね」

「うん」


 玄関の上の出窓から夕陽の差す居間の真ん中で、タロパさんは、まだ涙ぐんでいるミュルを膝に乗せ、諭すように言った。


「それが分かったら、明日、何をしたらいいかも、分かるね」

「……アグノに謝る」


 よく言った、と褒めてから、タロパさんは静かに言葉を続けた。


「それからね」


 店じまいをしたノノパさんが居間に入ってきた。テーブルで縫物をしているエターさんが目くばせをする。少しうなずいたノノパさんは、新聞を手に、その隣に腰を下ろした。ソムとタンギは並んで座り、タロパさんたちの様子を見守っている。


「私たちは人間といっしょに暮らしているけれど、人間とは違う生き物だよね。人間にはできないことができるし、その逆もある。私たちと人間は、それぞれ補い合って暮らしてきたんだ。けどね、私たちが力の使い方を間違えると、今日みたいなことが起こってしまう。分かるね」

「……分かる」

「だからね、私たちは、人間を傷つけたりしないように、感情のままに動くのを避けなきゃいけない。それには、いつも心を穏やかにすること。あと、いろんな知識を身に着けて、自分で考える力を持つこと……まだ、ミュルには難しいかもしれないけどね」

「難しくない! タロパ、わたし、できるよ!」


 まだ目に涙をためながらも、ミュルが言い募る。


「だって、だって、わたし、おばあちゃんとか、ソムとか、友だちとか、みんなを傷つけたくないもん」


 タロパさんは、にっこりしてミュルの頬をなでた。


「うん、そうだね。じゃ、ちょっとずつでいいから、覚えていこうね」


 その時、玄関のドアがノックされた。


 ノノパさんが立ち上がり、ドアを開くと、そこには男の人と女の人、そして真ん中に、左の頬に絆創膏を貼った、あの坊主頭、アグノがうつむいて立っていた。


「あのう、この度は、うちのバカ息子がご迷惑をおかけしまして……」

「いやいや、アグノくんのケガこそ、大丈夫ですか」

「こんなの、ケガのうちに入りませんよ。ほら、アグノ、下向いてないで。あの、ソムちゃんとミュルちゃんは」

「ええ、いますよ。ソム、ミュル」


 ノノパさんが手招きをする。ソムが立ち上がると、タロパさんはミュルを膝から下ろし、そっと背中を押した。ズボンの裾が引っ張られたように感じたので、見ると、ミュルの細い手がズボンをつかんでいる。その手をつないで、ソムは玄関へ向かった。


 まだうつむいているアグノと向かい合う。気まずい空気を、だしぬけに、甲高い声が破った。


「あ、あの、アグノ、ケガさせちゃって、ごめんねっ!!」


 ちょっと体がふくらんでいるのは、多分、緊張しているせいだろう。ミュルの素直な謝罪に、アグノは顔を上げ、交互にふたりを見た。


「お、俺も、何か色々、悪かった……ふたりとも、ごめん」

「私も、言いすぎちゃって、ごめんね」


 お互いに謝罪はしたものの、まだぎこちない子どもたちをよそに、大人たちはすでに和解モードである。ノノパさんに続いて、タロパさんとエターさんも玄関先に立つ。


「いや、こいつもね、ソムちゃんの事情をよく知らないのに、早とちりしてたようで。よっく言い聞かせましたから、もう、失礼なことは言わせないようにしますので」

「こちらこそ、危ない目に遭わせてしまって。うちの子たちにも、話して聞かせましたから」

「本当に、すみませんでした」

「いやいや、こちらこそすみません」

「まあまあ、もう、子どもたちも謝りましたから」


 と、いきなり、アグノが両親の間をすり抜けて玄関の外に走り出た。さっきまでのしおらしい態度はどこへやら、口をとがらせて、ソムを指さす。


「でもな、お前……ちょ、ちょっと可愛いからって、調子乗ってたら、承知しねえからな!!」


 それだけ言い残すと、アグノはくるりときびすを返すと、一目散に、夕陽に染まる一本道を駆け下りていってしまった。


「こらっ、アグノ!!」

「もう、ほんとにあの子は……ソムちゃん、ごめんなさいね」


 あっけにとられるソムの後ろから、エターさんがクスクス笑う声がする。


「あら、まあ、『ちょっと可愛いからって』ですって」

「え……えっ? ひょっとして、アグノの奴……」

「おお、そういうことなのかね」


 大人たちの顔が一様にゆるむのをよそに、部屋の奥に留まっていたタンギが、ボソッとつぶやく。


「ちょっと可愛いから、だって?」

「まあ、タンギ、まだそうと決まったわけじゃないから……」


 タロパさんのフォローを聞きながら、タンギの顔を見たソムは、すぐに気づいた。


 あっ、あれは、ちょっと、いや、だいぶイラっとしてる時の顔だ……。


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