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1 逃避行

 息が苦しい。


 鬱蒼とした森が、いつしか岩だらけの斜面に変わった。もうすぐ日が暮れる。目の前には、空の半分も覆わんばかりにそびえる山。故郷では、遠くにぽつりと見えていた、頂が巨大な魚の背びれのように見える、美しい山。


 人買いのアジトを逃げ出してきてから、四日になる。途中、空腹に耐えかね、民家の軒先に吊るしてあった干し肉を盗んだが、それも昨日尽きた。追っ手に怯えながら、最初のうちは物陰に隠れ、夜に紛れ、街を抜けてからはひたすらに、あの山を目指して歩き続けた。なぜかは分からない。ただ、無性にあの山の近くへ行きたかったのだ。


 素足についた、いくつもの傷。全身に埃や泥をかぶり、どれだけ汚れたひどい顔になっているだろうか。粗末な服も汗と砂にまみれている。


 周りが暗くなってきたのは、日没のせいか、それとも自分の意識が遠のきつつあるのか。


 ソムはついに立ち止まり、地面に両手と両膝をついた。こんなところで止まってはダメ。せめて、人に見つからない岩陰に行かなければ。でも、もう足が言うことを聞いてくれない。


 夕焼けの空を仰ぎ見る。故郷では、あの山は「七本鰭の山」と呼ばれていた。今となってはもう、どこにあるのか、どうやって帰ればいいのかも分からなくなってしまった、故郷。


 お腹が空いた。帰りたい。目がくらむ。寒い。息が苦しい。帰りたい。


 ついに手足で体を支えられなくなり、地面に倒れ伏す。ソムは、自分の荒い呼吸の音だけを聞いていた。やがて、それも遠くなった。



「……大変だ! 人だ、人だぞ」

「何てこった、子どもじゃないか」

「かわいそうに、裸足で……ひとりでここまで来たの?」


 幾人かの大人の声。頬に触れる手。でも、振り払うことすらできない。わずかに顔をしかめるのが精一杯だ。


「良かった、生きてる!でも、すっかり冷え切っちまってるな」

「とりあえず、村へ連れて帰ろう。このままじゃ危ないよ」

「タロパさん、包んでやってくれ。あんたの荷物は俺が持つよ」

「うん、そしたらこれを頼むね……まあ、こんなに小さいのに、よくここまで登ってきたもんだね」


 ふわりと、体が持ち上げられた。布とも、人の肌とも、毛皮とも違う、柔らかい何かに、全身をくるまれる。風が遮られ、少しずつ体の震えが治まっていく。


「安心なさい、私が村まで運んでいくから」


 柔らかいものの向こうから、声がした。疲れ果てていたソムは、目を開けることすらできなかったが、その温もりの中、心地よい揺れを感じながら、再び意識は遠のいていった。



 目覚めると、だだっ広い部屋の隅の寝床に、分厚い布団にくるまれて寝かされていた。


 厚い壁をくり抜いた、大人がひとり入れるくらいの窪みを、ベッドとして使っているらしい。綿のシーツがかけられた布団。近くの壁には、同じようなベッドがいくつか見える。高い天井には明かり採りの窓。湯が沸く音がする。


「あら、目が覚めたの。気分はどう?」


 女の人の声。板張りの床を歩く音が近づいてくる。


「タンギ、タロパと村長さんたちを呼んできて」

「はあい」


 子どもの声と共に、ドアが開いてバタンと閉じる音がした。足音がしなかったことを少し不思議に思ったけれど、こちらに向かって来た女の人に、思わず身構える。


「のどが渇いたでしょう。お水を飲みなさい」


 見たところ、六十歳くらい。地味な上着とズボンを身につけ、長い髪を後ろで束ねている。手にはコップ。優しそうに見えるけれど、ダメ、油断は禁物。街の大人は、みんな笑顔で嘘をつく。


 あれ、でも、街から逃げて四日も歩いてきたはず。外の景色は、窓が遠くてよく見えない。ここはどこ? また街に連れ戻されちゃったの? それとも、全然別の場所?


 頭の中ではぐるぐると考えを巡らせているものの、体は鉛のように重く、少しも動かせない。ともかく、差し出されたコップを、ソムは無視した。が、女の人は気を悪くするふうでもなく、


「じゃ、気が向いたら飲みなさいね」


と、ベッドの脇の小さなテーブルにコップを置いた。


 本当は、すぐにでもそのコップを手に取りたい。だけど、中に入っているのは本当にただの水なのか、それとも違うものなのか。見たところ、質素ながらきれいに片付いた家に見えるこの部屋だけれど、もしここが、あの人買いのアジトだとしたら、今すぐに動けない自分は、一体どんな仕打ちを受けるのか。


「おや、早かったね」


 ドアが開き、幾人かの大人が部屋に入って来た。小声で話をしながら、ソムの横たわるベッドへ近づいてくる。中年の髭を生やした男の人、もう少し若い男の人、その後ろに、その、後ろの、大きな影は……?


「うわあああああああ!!」


自分でもびっくりするくらいの叫び声をあげ、ソムは反射的に身を縮めた。その反応に、大人たちがきょとんとしている。


 何だ、これ?


 大人たちよりもずっとずっと大きく、真っ白な丸いものが、のそっと立っていた。人でいえば顔がある辺りに、黒い小さな目らしきものがふたつついている。手足は見えない。巨大なおまんじゅうのような姿のそれは、


「あらら、驚かせちゃったみたいだね」


……しゃべった。低く、静かな声で。


「ああ、そうか! この子はタロパさんを見たことがないんだね」

「こんなに驚くとはなあ、こっちがびっくりしたよ」

「いやいや、そりゃそうだ。他の街にタロパさんはいないもの」


 まるでソムの方がおかしいかのように話す大人たち。何なんだ、こいつら。少しムッとしたその時、ソムはふと気がついた。行き倒れて、誰かに抱えあげられた時、あの不思議な肌触りの外から聞こえた声は、この生き物?の声にそっくりだ。


「あんた、わしらの言葉は分かるかね」


 髭の男の人が、ソムに話しかけた。どうしよう。分からないフリをしておいた方がいいだろうか。いや、逆に厄介なことになるかもしれないと素早く考え直し、小さくうなずいて返した。


「一昨日、うちの村人たちが山へ薬草採りに行った時にな、少し下った山道のはずれで、あんたが行き倒れているのを見つけたもんで、村へ連れて帰って来たんだ。ずいぶん冷え切っとったから、ほれ、このタロパさんが包んで、運んで来てくれたんだよ」


 包んで、とはどういうことか。何か荷物と一緒に運ばれたということなのか。いや、その前に、ここの村人と名乗る人たちは、さも当然のように、この生き物を村の一員としているみたいだけど、そもそも、こいつが何者か、全く説明してくれないんだけど。まず、そこからでしょ、普通?


 普段のソムなら、これくらいの言葉はポンポンと出てくるはずなのだが、いかんせん、今は極限状態から脱したばかり、ベッドから動けない。さらに、起き抜けに思いきり驚かされたところなので、けげんな顔をしながら、村人たちとその生き物を見上げることしかできない。


と、その生き物が、体の割にはものすごく小さな口を開いた。


「ここは私の家だから、安心なさい。どこか痛いところはない?」


 ここに住んでるのか。ていうか、人間みたいな家に住むんだ、木のウロとかにいるんじゃないのか、と思う間もなく、白く丸い体の中程から、にゅっと腕のようなものが突き出てきた。思わず身を引きそうになったソムだったが、その「腕」はゆっくり伸びてきて、ふわりとソムの額に触れた。


 その感触には、はっきり覚えがあった。夕暮れの岩山、凍えた体を持ち上げ、すっぽりとくるんで暖めてくれた、柔らかな、少ししっとりとした、心地よい感触。


「ただいまあ」


 戸口から声がした。目覚めたばかりの時、遠くに聞こえた子どもの声だ。


「おかえり。あら、みんな一緒なのね」


 ソムに水を勧めた女の人が言った。みんな、という割には、足音が聞こえないと思っていたら、


「おや、気がついたのかい。良かった良かった」


……増えた。大きな白い生き物がもう一体。あるのかないのか分からないほど短い二本足で、のそのそとこちらへ歩いてくる。さっきからいる方とそっくりだ。


「もう起きられるの?お話できる?」

「いや、すぐには無理だよ。目覚めたばかりだし」


 さらに、小さいのが二体。ソムと同じくらいの背丈のと、その半分くらいのと。いちばん小さいのは、ぴょこぴょこと小さく跳ねながら、こちらへやって来る。


「私の家族だよ。こっちは私の親のノノパ。で、この人は私の母のエター」


 さっきからいた方が、後から来た方を親と紹介したのは、まあ分かる。でも、人間の女の人が、母? はい、もうよく分かりません。


「で、これが私の子どもたち。大きい方がタンギ、小さい方がミュル」

「こんにちは」


 小さいの二つは、ちょこんと丸い体を曲げておじぎをすると、興味津々の様子で、ベッドの脇でソムをのぞき込む。ちょこちょこ動くその姿は小動物のようで、正直、すごく可愛い。


「ところで、あんた」


 ずっと皆の話を聞いていた若い男の人が、おもむろに言った。


「ひょっとして、誰かに追われてたんじゃないか?」


 やっぱり来たか。ソムは身を硬くした。変な生き物たちや、村人のゆるい雰囲気にごまかされていたが、そもそも、まだこの人たちが何者なのか、敵なのか味方なのか、分かっていないのだ。


「あんたを助けてから、俺たちは二手に分かれたんだけど、こっちの後をつけてきた奴らがいたんだよ。二人組の男で、妙な黒い頭巾みたいなのを被ってたんだが、心当たりはあるかい」


 間違いない。あの人買いの手下だ。にわかに青ざめるソムを見て、慌てて髭の男の人が続ける。


「いやいや、あんたはもうタロパさんに包まれて、別の道を運ばれとったから、大丈夫、見つかっちゃいないよ」

「そう、それに、俺たちの方も、獣道に入ってそいつらを巻いてやったのさ。だから、今頃はまだ山の中で迷ってるんじゃないかな」

「この子を助けたところから、村に帰って来るまでは、私たちでも半日かかる距離だからねえ。まあ、山を知らない人が、何の目印もなしにこの村を見つけるのは、まず無理だね」


 ソムが逃げ出してから四日。そのうち、山に入ってからは約三日。子どもの足とはいえ、かなりの距離を歩いているはずだ。そこからさらに、大人の足で半日かかる場所、とは。


「……ここ、どこ?」


 久しぶりに出した声はかすれていた。大人たちは少し顔を見合わせると、最初に現れた変な生き物、つまり「タロパさん」に目をやった。「タロパさん」は少しうなずくと、また腕のようなものを、今度は二本、ソムに伸ばしてきた。そして、掛け布団ごと、ひょいと、ソムの体を持ち上げた。


 ああ、この感触だ。人間でいうところの胸元、「タロパさん」の丸い体に、ソムの左半身がほぼ埋まっている。布団よりも柔らかくて、弾力があって、暖かくて……やっぱり、この生き物が、自分を助けてくれたんだ。


「タロパさん」は、ソムを抱き上げたまま、玄関へとゆっくり歩を進めた。大人たちも、他の大小の丸い生き物たちも、前に後ろに「タロパさん」に続く。ドアが開き、少し冷たい風が頬に触れる。日の光が眩しい。やがて目が慣れ、景色がよく見えるようになって、ソムは思わず息を飲んだ。


 目の前には、あの「七本鰭の山」。

ただし、故郷で眺めていたものよりもずっとずっと大きく、手が届くんじゃないかと思うくらいに近い。


 魚の背びれから連なる峰々はどこまでも続き、その上には、麓で見るよりも深みを増した青空。目線を下げると、今出て来た家の前には一本の道路が伸び、その先に、藁葺き屋根の家々と畑が広がっている。


「ここはね、私たちが先祖代々住んでいる村だけど、いちばん近い町からでも、険しい道を歩いて五日はかかるもので、外からやってくる人はほとんどいないんだ。だから、安心して養生なさい。あんたが望まない限り、あんたを街へ送り返したり、誰かに渡したりはしないし、体がもとに戻るまでは、うちでゆっくり休むといいよ」


「タロパさん」の声は、目の前の山々のように静かに響いた。その足元で、ぴょんぴょん跳ねながらこちらをのぞき込もうとしている小さいのが、


「ねえ、名前はあるの? 何て名前?」


左上に顔を向けると、「タロパさん」の小さく黒い目が、ちょっと細くなり――にっと笑った。反対側を見下ろして、小さく答えた。


「……ソム」


 風が出てきた、体に障るから家に入ろう、と誰かが言った。再びベッドに運ばれたソムは、上体を起こしてもらい、さっきは拒否したコップを受け取って、素直に飲んだ。故郷の湧き水に似た、澄んだ味がした。眠くなったり、気分が悪くなったりはしないかと、ちらりと思ったが、何事も起きなかった。


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