File 18 私は、あなたを――
半年。つまり一年の半分、六ヶ月だ。
それが長いか短いかという感覚は人それぞれだろう。……しかし死神にとっての半年は、途轍もなく短い。
「……はあ」
日も落ちそうな夕方、私はいつもの高台で一人黄昏れるように座り込んでいた。
先輩があと半年で死神の任期を終える。つまり、死神を辞めて新たな人間として転生することになるのだ。
先輩が死神を辞めるなんてちっとも考えていなかった。昔転生したらどんな願いをするのかと尋ねたことはあったというのに、それがいつかなんて聞こうとも思わなかった。シン先輩は例の事件の所為で死神の任期を伸ばされることになった。だからこそ、普通の死神ならある程度予想出来る寿命までの時間を予想することもできなかったのだ。
「そもそもあの事件がなければ、私は先輩と会うこともなかったんだよなあ」
先輩のやったことを感謝する訳ではないが、それでも私が先輩のパートナーになったのは本当に巡り巡った偶然だったのだと思い知らされる。先輩があの事件を起こしていなければ、彼が、私が死ぬ瞬間に立ち会わなければ、全ては変わっていたのだ。
「……嫌だな」
私はしっかりと包帯の巻かれた右腕を目の前に持ち上げた。
先輩に居なくなって欲しくない、ずっと先輩のパートナーでいたい。そんなことばかり考えていたら集中できずに仕事中に怪我をしてしまった。理由を分かっているからか、以前同じことがあった時とは違って怒られることもなかった。
動きに無駄が少なくなったと、後輩が来ても大丈夫だと言われた。……なら実力がなければ先輩も残ってくれたのかと一瞬だけ考えた。が、それだって無理な話だ。あのような特例でもない限り、本来死神の任期が伸びることなどありえないのだから。
「シュリちゃん」
考えが堂々巡って膝に顔を埋めていると、背後から聞き慣れた声が掛かった。のろのろと顔を上げて振り返ると、いつも通り穏やかな表情の課長が「やあ」とひらりと片手を上げていた。
「課長……」
「最近ずっと浮かない顔だね」
「……」
「まあ当然か。あいつ、シンのことだろう」
「……はい」
課長は静かに私の隣に腰掛け、窺うように私の顔を見た。
「シンと離れるのが寂しい?」
「寂しい……そうですね。寂しいし悲しいし、嫌です」
「そうだね、ずっと二人でやって来たんだからそう思うだろう」
「最初はなんでこんな無茶苦茶な人とパートナーなんだって思ってたのに、いつの間にか、先輩じゃなきゃ嫌になっていました」
他の人とパートナーになっても、それなりにやって行けただろう。だが今は先輩でしかありえないと思ってしまう。……後輩なんて、欲しくない。
「シュリちゃんはそれをシンに伝えたのかい。寂しいだとか、嫌だとか」
「そんなこと言ってどうなるんですか。無意味だし、無駄なだけです」
「おやおや、いつも必要ない余計なこと言って叩かれてるシュリちゃんとは思えない言葉だね」
「……うるさいです」
軽く笑って戯けるようにそう言われて少し腹が立った。こっちは本当に深刻に悩んでいるというのに。
「大体、何を言ったところで結果は変わらないじゃないですか」
「それはそうだ。シンの任期が伸びることはもうないだろう」
「……」
「けど、結果が同じでも過程まで一緒とは限らない。そうだろう?」
……それは確かに、そうだ。結果よりも過程重視だと、私も何度か先輩に言ったことがある。課長を見上げると、にこりと笑う彼と目が合った。
「僕は今まで数え切れない程の人間を見てきたけど、言いたいことを言わずに後悔して来た子達は嫌という程見てきた。反対に、言って後悔した子も同じくらいにね。……だが、シュリちゃんは間違いなく前者だと僕は思うよ」
「なんでそんなこと言えるんですか?」
「だって君、いっつも言わなくていいことばっかり我慢出来ずにぽろっと言っちゃうじゃないか。今更あいつに怒られるのを恐れたり後悔したりなんてしないだろう?」
「……それは、そうかも」
「言いたいことを我慢するシュリちゃんなんてらしくないよ。シンのやつはやりたい放題、シュリちゃんは言いたい放題、お似合いのパートナーだからね」
「……」
「時間は有限だ。特にこの半年は、一秒たりとも無駄にするべきではないと思うよ」
課長のその言葉が決定打だった。
そうだ、あと半年しかないのに、何を一人悶々として時間を無駄に消費していたのだろうと気付かされる。
私は即座に立ち上がると、見下ろす形になった課長に軽く頭を下げた。
「課長、助言ありがとうございました! 私ちょっと行ってきます!」
「うん、行ってらっしゃ……相変わらず早いな」
全速力で走り出した私は、時折屋根などを飛び越えたりしながら文字通り一直線にあの家へと向かった。
まだ考えは纏まっていないけど、でも先輩に会いにいかないと。
□ □ □ □ □
「先輩!」
自分でも驚くようなスピードで先輩の家に辿り着いた私は、インターホンなどない日本家屋の引き戸を開けて勝手に中に入りながら声を上げた。
居間には誰も居ない。どこにいるのかと探していると、廊下の先にちらりと黒い影を見つけて立ち止まった。
庭に面した縁側に腰掛けていた真っ黒な背中。探していたその人を見つけて、私はどたどたと足音を立てながら駆け寄った。
「先輩」
「どうした」
振り返った先輩は勝手に家に入ったことも咎めずに、いつも通り感情に乏しい表情でじとりと私を見上げる。
……こんないつも通りももうすぐ終わってしまう。私の目の前から一生姿を消してしまう。もう二度と、会うことも出来なくなる。
「どうしたじゃ、ないですよ……っ!」
そう思ったらもう我慢できなかった。次々と涙がぼろぼろと溢れて来て、ちっとも止まらなくて。
「いやです、せんぱい。おいていかないでっ、どこにもいかないでください!」
うわあああん!! と年甲斐も無く大声を上げながら泣く。何十年か振りのそれは全く止まる気配は無く、しゃくり上げながら何度も「いやです」と言い続ける。
自分で先輩がいなくなる事実を認めるようで、言葉にすると余計に苦しくなる。
「……お前は」
突然泣き始めた私にずっと言葉を失っていた先輩が、ため息と共に小さく呟いた。
「お前は俺をこんなに変えた癖に、お前自身はちっとも変わらんな……」
不意に、後頭部に触れられてそのまま引き寄せられた。顔が先輩の肩に押しつけられ、まるで慰めるように頭を撫でられる。
酷く優しい手だ。仕方ないなやつだとでも言いたげな声も、先輩には似つかわしくないほどに優しい。
やめて、と言いたかった。いつも通り厳しい人のままでいい。そんな我が儘言われても知らんとでも突き放してほしい。そうでないと、私は――
「すきです」
――言ってしまった。
その瞬間、頭を撫でていた手がぴたりと止まるのを感じた。
「好きです、先輩。ずっと、ずっと前から……先輩がずっと八重さんを愛していても、それでも……好きなんです!」
一度堰を切ったが最後、もう止まらない。これだけは、本当に言うつもりなんてなかったのに。先輩がどれだけ八重さんを大切に思っているのか分かっているから、パートナーとしての今の最高の関係を壊したくなかったから。だからこの三十年、ずっと自分の気持ちを誤魔化して来たというのに。
「好き、好きです、先輩……」
でも、もう伝えたいことを我慢できない。泣きながら目の前の体に縋るように抱きついて、何度も何度も同じ言葉を繰り返す。……それでも、三十年我慢してきた分は全然足りない。
「……シュリ」
「っ!?」
名前を呼ばれた瞬間、先輩は抱きついていた私の体を引き剥がした。
拒絶されたのだと思った。しかし彼は、直後私の頭を掴むようにして顔をぐい、と上に向けさせた。
「せ――」
先輩、と呼ぼうとした声は、最初の一文字目を残して全て彼の口に飲み込まれた。
目を閉じるという考えすら頭に思い浮かばなかった。ただ目の前に先輩の顔があって、唇に酷い熱を感じて、それがどういう状況なのか理解が追いつかずにただただ先輩の目を見ていた。
「……待ちくたびれた」
唇を離した先輩が最初に告げたのは少し苛立たしげなそんな言葉だった。しかし驚きで半ば放心状態になった私は、ぽかんと口を開けたまま呆然と先輩を見上げることしか出来ない。
「な……な」
「間抜け面。貴様、俺を三十年も待たせるとはいい度胸だな」
「さ、三十年……? っていうか、なんで、今……き、キスして」
「そんなことすら分からんのか、馬鹿め。理由なんて一つしかないだろうが」
相変わらずの先輩の口の悪さと視線の鋭さに少しずつ思考が冷静になっていく。
理由は一つしかないと言った。……私も一つしか思いつかないけど、でも本当に……?
「だ、だって先輩は八重さんが」
「あいつは確かに、大事な人だ。それは一生……俺の自我が消滅するまで変わらない。だがそれはお前が思っている感情とは少し違う」
「え?」
「もう俺が死んだ頃とは違う。あいつが誰と幸せになろうと、今は心から祝福できる。俺をそういう風に変えたのは他ならぬお前だ」
「私が……」
「そもそも何故気付かん。俺は謂われの無いことを言われて流せる性分じゃない。あの眼鏡がさんざん妻だの夫婦だの言って、気に食わないと思っていればすぐに手か口が出ている」
「……そ、そういえば!」
スルーされて落ち込んでいたというのに、そう言われて見れば確かにそうだ。いつもちょっと短気だの人外だの言った瞬間に手が飛んで来るのが先輩だというのに、課長が冷やかす時は文句一つ付けていなかった。
つまり先輩は……ああもう、顔が熱い!
「なんで今まで一言も言ってくれなかったんですか!」
「言った」
「私がどれだけ悩んだと思ってるんです!? 言ってくれれば……え? 言った? いつ!?」
「誰も必要とせずに一人で生きてきた俺に頼るように言ったのはお前だ。お前が俺の生き方を変えたんだ、一人で生きていけなった責任を取れと、そう言っただろうが」
……あー! 思い出した! そういえばあの事件の後にそんなこと言ってたような。あ、あれそういう意味だったの!? てっきりこれから色んなことを手伝わせるから覚悟しろって意味かと……。
……いや、何というか。
「わ、分かり難い!!」
「お前の理解力が無いだけだ、鈍いやつめ」
「もっとはっきり言葉にして下さいよ!」
「察しろ、空気を読め。それでも日本人か」
「横暴! この亭主関白!」
「ほう、亭主だと認めるのか」
「……く」
意地が悪そうに眉を吊り上げた先輩の言葉に二の句が告げなくなる。負け惜しみのように睨んでみるものの「それで睨んでいるつもりか」と鼻で笑われた。
「……だったらもっとあからさまに態度に出してくれればよかったのに」
「じゃあ聞くが、俺がお前を優しく甘やかしたら察したのか」
「いや多分正気を疑うと思いま、だあっ!?」
そんな先輩怖い、と思って真顔で言い掛けると容赦なくはたかれた。……何十年も成長してない気がする。
頭がじんじんして止まっていた涙が少し零れた。痛みの所為か、安堵の所為か、それとも別離への不安か。……きっと全部だ。
「……先輩」
「なんだ」
「好きです」
「……」
「返事は?」
先輩が押し黙る。ここまで言っているのだからはっきりとした言葉の一つは欲しいというのに、眉間に皺を寄せてやけに難しい顔をして口を閉ざしている。
それでも今回は引かないぞと私はじっと待ち続ける。半ば睨み合いのようになっていると、不意に先輩が逃げるように視線を外し縁側の外を見上げた。
いつの間にか外はもうどっぷりと日が暮れて真っ暗だった。人間界とは違ってろくに街灯もない此処の光源など殆どない。
その唯一とも言える明かりを見上げて、先輩の口が僅かに動いて消え入りそうな声を出した。
「……月が、綺麗だ」
□ □ □ □ □
「……夢かー」
薄らと目を開けて上半身を起こすと、部屋の中はまだ薄暗かった。時計に目をやるといつも起きる時間よりも一時間ほど早く、まだろくに日も昇っていない時間だ。
大きく伸びをして隣を見るが、そこはもぬけの殻だった。こんな時間から一体どこへ行ったのやら。
私は立ち上がると台所へ行って朝ご飯を作り始めた。塩おにぎりと卵焼き、それから沢庵を切ってからそれらをタッパーに入れる。それからお茶を水筒に入れて身支度を終えると、私は家を出て急ぎ足であの場所へと向かった。
「先輩、おはようございます」
「……ああ」
いつも人間界へ降りる高台にいた真っ黒な背中に声を掛ける。驚きもせずに振り返った先輩の隣に腰掛け、私は持ってきたお茶と朝ご飯を差し出した。
お互い無言になって朝ご飯を食べ始める。黙々と食べるおにぎりも卵焼きもいつも通りの味のはずなのに、素直に美味しいとだけ考えることができない。
「……今日、ですね」
「そうだな」
あれから半年、先輩は今日死神の任期を終了する。
本当に、今までで一番短い半年だった。先輩に好きだと言ったあの時がほんの昨日のように感じてしまう。
「シン先輩……長い間、お世話にっ、なり、ました!」
こみ上げて来る寂しさに視界が滲む。この半年ずっと泣かないように我慢してきたというのに、今日は最後だと思うといとも簡単に涙腺は緩んでしまった。
本当はもっと言いたいことがある。あの時は楽しかった、あの時横取りされた焼き鳥の恨みは忘れない、無茶苦茶なスパルタだったのにいつの間にか言われたことは全て出来るようになった。真面目なこともくだらないこともまだまだ話したいことがいっぱい出てくるのに、全て言葉にならずに嗚咽に飲み込まれる。
「シュリ、泣くな」
「無理ですよそんなの……」
「俺がいなくなるのがそんなに嫌か」
「んなの当たり前でしょうが! 馬鹿じゃないですか!?」
「泣きながらキレるな」
先輩はずっと冷静なままだ。なんでそんなに平静でいられるんだ。泣くまではいかなくても、少しも悲しいとは思ってくれないのか。……先輩にとって私はそれほどどうでもいい存在だったのか。
「……お前、また何か馬鹿なことを考えているな」
「馬鹿ってなんですか……だって先輩が」
「そんなに泣くほど別れが嫌だというのなら、また会えばいいだけのことだ」
「え?」
「一度しか言わない、よく聞け」
どういう意味だ、と尋ねようとしたところでぐっと体を引き寄せられた。そのままきつく抱きしめられ、耳元で低い声が聞こえた。
「お前が俺に追いつくまで待っていてやる。だから、さっさと会いに来い」
「先輩、それは」
「……そろそろ時間だ」
一度、折れるほど力強く抱き込まれた後にすぐ先輩は体を離して立ち上がった。
呆然としている私の腕を取って立ち上がらせ、そのまま引っ張って歩かせる。
「……」
「……」
転生協会本部までの道を、先輩の斜め後ろから着いていく。あっという間に商店街に辿り着き、そしてその奥に見える本部の大きな建物がどんどんはっきりしていく。
そして正門の前まで来たところで、先輩は私の腕から手を離した。
「ここまででいい」
「……」
「さよなら、だ」
私をじっと見下ろした先輩が背を向ける。先輩らしい真っ黒なローブが翻り、彼は私に背を向けて本部に向かって歩き出した。
「……先輩」
「先輩っ! 大好きです!!」
私が全力の大声で叫んだ瞬間、背を向けていた先輩ががく、と膝から力が抜けたようにしてバランスを崩した。
突然響いた大きな告白の声に商店街にいた人々が集まって来て、注目を受けた先輩が苦い顔をする。
あの先輩を動揺させられたのが嬉しくて、私はついしてやったり、という顔をしてしまった。
「シュリ、貴様――」
「私、絶対に……必ず会いに行きます!」
また、ぼろぼろと涙が溢れる。目の前が滲んで先輩が見えなくなるのが嫌で、乱暴に拭って私は笑ってみせた。
「どこに逃げたって、絶対に追いかけてとっ捕まえてやるんですから! 覚悟しといて下さい!」
「……はっ、大した自信だな」
「伊達に先輩に鍛えられてませんよ!」
振り返った先輩が偉そうに口角を上げて笑う。泣きながら、私も自信満々に笑みを浮かべる。最後に見ることが出来たのがいつも通りの先輩で、本当に嬉しい。
「シュリ、先に行く」
「はい、すぐに追いつきます!」
ひらりと片手を振るようにして先輩が今度こそ本部に入って行く。私は、それを最後まで見届けて……やがて、力が抜けたようにしゃがみ込んで顔を覆った。
「――さよなら、先輩」




