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愛は炭酸

作者: 番場すぐる

「またね」


 在りし日とは違った笑顔があった。彼女の表情にはいつも色があった。その色が少し変わっていた。歳月を感じさせる変化。目に飛び込んでくるピンクから、目に優しい落ち着いたピンクへの変遷とでも言えばいいだろうか。

 変わるものがあれば、変わらないものもあった。電車の走行音をものともせずに空気を通る声は変わらない。だけど、『また』はきっとない。


「うん、また」


 僕が微笑むと、彼女はおもちゃを買ってもらえなくて駄々をこねる幼児を眺めるような顔になった。

 高校の卒業式。二年前。その時以来の邂逅。久しぶりに見た彼女は、高校生のときよりも髪を伸ばしていて、服装も子供っぽさがなくなり、なによりまとっていた雰囲気が幼さからの脱却を図っているように思えた。

 彼女が背中を向けた。皴のない女の子らしい服がきれいだ。電車が止まる。右から左に体が揺れた。髪をなびかせて、彼女が肩越しにふり向いた。僕より大人の階段を上っている微笑み。僕たちは静かに笑いあって、お互いに小さく手を上げた。


 きっとこれが今生の別れになる。


 ぷしゅうっ、と疲れた息を吐いた電車の扉が開く。彼女は駅のホームを向き、肩から下げているトートバックの位置を直した。

 彼女が踏み出す。軽やかに力強い、そんな一歩を。

 夜の七時、くたびれたサラリーマンの群れに似合わないよく伸びた背筋と艶のある髪の毛は、僕を名残惜しむことなく堂々と消えていった。

 彼女がいたことで存在していた温かさを思わせる空気が、僕の周りから消えた気がした。


 小さくため息を吐く。口の端が優しく上がったのを感じた。

 まだ働かせるのか、と長い息を吐いた電車が嫌々仕方なく走り出した。どん、どん、と振動し、衝撃がつり革を持った手まで伝わる。電車の嫌がらせかもしれないと思うと、ちょっと面白い。

 こんなことを考えるようになったのは彼女に出会ってからだったような気がする。初めての恋人。絶対に忘れない、きっともう縁のない人。

 彼女との日々が頭のなかをぐるぐる回る。一番の思い出は、やっぱりあれか。


     ※


「ぷはあーっ! うまいっ!」


 夕菜が満面の笑みで口元を手の甲で拭った。


「ハンカチ使ったら?」

「出すのが面倒なんだよね」


 笑った夕菜が足をぷらぷらさせた。

 優しい気持ちにさせるオレンジの夕焼けを浴びながら公園のベンチに並ぶ学ランとセーラー服は、どこからどう見ても付き合っていて、夜が訪れても不安に襲われたりしないように見えるだろう。


「いつも思うけど、本当に美味しそうに飲むね」

「ん? はい」


 夕菜が口の開いたペットボトルを僕に渡そうと差し出してきた。


「ありがとう」


 別に催促したわけじゃなかったんだけどな。

 受け取るとき、夕菜の指に触れた。汗で少し湿っているけど触り心地がいい。特に手入れをしていないらしい爪が光って見えた。

 ペットボトルの飲み口に唇をつけて、残り半分の炭酸水を口内に流し入れる。口のなかでじゅわーっと泡が弾け飛び、喉を刺激する。特に味のしないただの炭酸水。温くなってしまっているために、夏の日差しで熱くなった体をあまり冷ましてはくれなかった。


「おいしい?」

「うん」

「んっ」


 夕菜が笑顔で手を出した。僕が「はい」と渡すと、「ありがと」と優しく持ち上げた。音もなく僕の手からペットボトルが離れていき、飲み口が彼女の湿った赤色に触った。


「たまにはサイダーとか飲んでもいいんじゃないの? いつも味のない炭酸水は飽きない?」


 夕菜が炭酸水を飲みながら僕に目を配り、そこから全部飲み干してから答えた。


「太るじゃん」

「全然太ってないよ」

「いまは大丈夫だけど、油断したら後が怖いの」

「ちょっとぐらいいいと思うけどなあ」

「清春のそういうところよくないよ。なんというか、詰めが甘いとこ」

「……明日、僕たちケーキを食べに行くよね?」

「うん」

「それはいいの?」

「もちろんっ!」

「わかんないなあ……」


 だったら別にサイダーとか飲んでもいいんじゃなかろうか。

 と、思うのだが、夕菜に「わかってないなあ」と言いたげな深いため息をつかれた。


「炭酸水のダイエット効果があるからこそ、気兼ねなくケーキを食べることができるのです」

「思うんだけどさ、本当に効果あるの?」

「えっ!?」夕菜がお腹を隠すように腕を組んだ。「やっぱりわたし太って――」

「違う違う! そうじゃなくて、夕菜が痩せてるのは炭酸水のおかげなの? 朝にジョギングしてる成果じゃ……」

 夕菜が首をかしげて言った。「……相乗効果?」

「なるほど」

「なるほどでしょ」

「炭酸水は疲労回復にもいいとされてるから一石二鳥だね」

「へー、そうなんだ」

「知らなかったの? 炭酸のお風呂も効果があるらしいよ」

「いやいや、そんな贅沢はできないよ」

「贅沢?」

「だって炭酸水を温めてお風呂にするんでしょ? どんだけお金がかかるのさ」

「……さすがに違うんじゃ」

「じゃあどうやって作んの?」


 夕菜が目を半開きにして僕の目をじーっと見つめてくる。

 僕はポケットからスマートフォンを取り出して夕菜から視線を移した。


「わたしにも見せて」


 夕菜が体を僕に密着させた。夕菜は僕の左胸の前に顔を出している。スマートフォンで炭酸風呂の作り方を検索しながら、僕は夕菜の匂いを感じていた。これだけ気軽に近くに寄れる、寄ってもらえるというのは、恋人ができた人間の特権だと思う。


 それっぽいページにアクセスして……、見つけた。


「えーっと……」夕菜が前かがみのままで読み上げる。「『炭酸風呂は重曹とクエン酸をお風呂のなかに入れる。あるいは入浴剤を使って作ります』……だって」

「ほら、やっぱり違った」

「知らなかったくせに」


 夕菜が僕から距離を少し取ってそっぽを向いた。わざとらしすぎる仕草に思わず笑みがこぼれる。


 ――だけど、笑っている場合ではない。


 僕はズボンのポケットに手を突っ込んだ。指先で確認する。大丈夫、ちゃんと二枚入ってる。

 学校にいるときからずっと、映画のチケットを僕はいまだに夕菜に渡せずにいる。アクション映画やコメディ映画だったならすんなり渡すことができるのに。

 よりによってこれはラブストーリー映画のチケットだ。


 相手からこの手のものを観ようと誘われるのなら抵抗はない。でもこっちから誘うとなると、そのための一言が出そうになったところで急ブレーキがかかる。別にそのまま走ったところで夕菜にはねられなんてしないはずなんだけど……。

 僕に後ろ頭を見せていた夕菜が半目でこっちを見た。目線が僕の膨らんだポケットに向けられる。


「で、さっきからポケットになにが入ってんの?」


 僕は思わずポケットから手を出した。風が吹いてきて、夕菜の短髪が横に流れた。その風を押し戻すように、夕菜がふうっとため息を吐いた。


「……気づかないと思った? 今日、ずっとポケットに手を入れてるから、そりゃ気づくよ」


 さあ出しなさい、気になるから。夕菜の視線が雄弁に語る。

 僕はせめてもの抵抗に目を閉じて眉間にしわをわざと寄せた。ポケットに手を入れて、少しタメを作ってから、指で挟んだチケットで空気を切るように夕菜の顔の前に出した。


 勢いに驚いたのか、夕菜が目を見開いて身体を引いた。「……なにこれ」

「……映画のチケット」


 夕菜が「それぐらい普通に渡してよね、彼氏なんだから」と呆れながらチケットを一枚取った。「えーっと」とチケットを見て眉をひそめる。「はあ、なるほどねー」とにやついた。


「言いたいことがあるなら言えば?」

「やーい、清春さんのロマンチストー」


 僕の体が急激に熱くなる。夕菜の「あはははは」とお腹を押さえながら出している笑い声が僕の体をさらに焼いていくようだ。かすかに流れる風が笑い声という炎を煽り、僕をウェルダンに仕上げていく。


「なんだよ!? 文句あるの!?」

「文句はないけど、あはは」と笑いすぎて乱れた息を整えた夕菜が、決め顔でCMのマネをした。「『あなたは永遠の愛を目撃する』……ダメだ。お腹痛い」


 自分で言っといてツボにはまったらしい。夕菜は大きく体を前に倒して震えながら、抑えきれない笑い声と戦っている。

 僕は夕菜の背中を見下ろしながら額の汗を拭った。つづいて頬を伝って顎まで来た汗も拭う。

 僕と夕菜は付き合い始めてまだ日が浅い。いまの関係になる前から親交はあったし、遊びに行くこともあった。映画に誘ったことも何回かある。感動ものやラブストーリものを観ようと提案したことはない。そういった行為は僕のキャラじゃない。


 だからこそ夕菜はここまで笑っているのだ。


 少し時間が経った。恥ずかしさが治まってきてなんとなく涼しくなってきた。だと言うのに夕菜はまだ笑っているままだ。疲れを知らないのか、超前傾姿勢を保ったまま、体を震わせている。


「夕菜」

「えっ、なに――」


 呼びかけに応じて体を起こそうとした夕菜の背中に素早く手を回して引き寄せた。


「――うわっ、……ちょっとなに? もう」


 僕の太ももに夕菜の耳が乗った。「もう」ともう一度牛の鳴き声を上げながらも、夕菜は僕から身体をはがさない。


「映画、見に行こうよ」

「うん。でもこのチケットどうしたの? 清春が買ったんじゃないよね?」

「中学の友達にもらった」

「えー、うっそだあ。清春に彼女のいる友達がいるとは思えなーい」

「僕にはモテない自覚があるけど、それに友達は関係ないだろ?」

「そうだけどさあ。なんかこう、友達ってだいたい同類じゃん?」

「僕のことなんだと思っているの?」


 夕菜が僕の方を見た。夕菜が後頭部を移動させながら何度か僕の太ももに叩きつけ、居心地のいい場所を見つけてから言った。「まああまり友達が多いタイプじゃないよね。ノリもあんまよくないし。顔は、んー普通。身体つきは華奢で頼りない。握力二十ある? 大丈夫? ……あっちょっ、痛いっ。痛たたたた」


 両方のこめかみを右手でぎゅうっと潰すように押してやると夕菜は痛がった。


「いくらなんでも二十はバカにしすぎ」

「悪かったって! もうギブ!」


 パッと離してあげると、夕菜は自分のこめかみに指を触れ、痛みを和らげようとマッサージするように優しく揉み始めた。


「暴力反対」

「はいはい。悪かったよ」

「釣った魚にも餌をください」

「足りない?」

「全然足りない。明らかに減ったよね。付き合う前は、もっと優しかった」

「遠慮がなくなるのを前向きにとらえてほしいな。それにそっちだって減ったよ」

「嘘」

「減らず口が増えたし、女の子らしさが鳴りを潜め――ぐうっ!?」


 みぞおちに頭突き。


「遠慮がなくなるのを前向きにとらえてほしいな」

「……そう、だね」


 多少暴力的になったけど、お互い本気で怒っているわけじゃない。ちょっとしたじゃれあいのようなものだ。その証拠に、夕菜の後頭部は僕の太ももに戻ってきている。


「ねえ」夕菜の声が真面目になった。「『永遠の愛』ってあると思う?」

 僕は真剣に答えた。「あると思うよ、絶対に」

 夕菜が僕の目を見つめる。数秒ほどそのまま見つめ合って、夕菜は穏やかに微笑んだ。「やっぱりロマンチストだ」

「夕菜は信じてないの?」


「…………うん」瞳を逸らし、申し訳なさそうな表情で、ぽつり。間を置いて、夕菜は僕に視線を戻した。「前にも言ったけど、わたしの親ってさ、離婚してるんだよね。でもさ、昔の写真を見たことがあるんだけど、そこに写ってた二人はすごく仲がよさそうで、愛し合ってるように見えた。わたしが幼いころはわたしの前でキスもしてたし、愛し合ってたと思う。……だけど離婚したんだよ」少し早口になった。「どんどんどんどん、日が経つごとに家の温度が下がって行って、大きな氷ができて、ひびが入って、そのまま割れる。そんな感じだった」

「……夕菜の両親はそうだったかもしれないけど……」


 そうじゃない愛だってあると思う。口にし辛かった。


 でも夕菜には伝わったと思う。夕菜は口角を上げた。「きっと、愛はいつか消えてなくなるものなんだよ。炭酸と同じ。最初はいっぱいあっても、時間が経てば抜けていって、空っぽになっちゃう。きっとそうなんだよ」

「その考え方は寂しいな」

「……優しいね。付き合う前みたい」

「……やっぱり僕は、永遠の愛はあると思うよ」

「そっか」

「いつか夕菜にも、あると思う日が来てほしい」

「……期待していい?」


 返事の代わりに、僕は夕菜に顔を近づけた。ゆっくりと距離が縮まる。夕菜は少し目を見開いて、頭を少し浮かせた。すかさず夕菜の頭を支えるように手に乗せて持ち上げた。そしてそのまま――


     ※


 あれが初めてのキスだったな……。


 思い出に浸っていると、電車はいつの間にか降りる駅に止まっていた。これから乗ろうとする人の隙間を「すいません」と潜り抜ける。

 帰り道にコンビニがある。立ち寄って、炭酸水を買った。彼女と別れてからずっと飲んでない。

 外に出て早速一口飲んだ。口のなかで泡がはじける感覚が懐かしかった。


「あれ? 先輩じゃないですか」


 サークルの後輩の声がした。


「バイト帰り?」

「はい。先輩もですか?」

「そうだよ」

「……先輩」後輩が首をかしげて、炭酸水を指差した。「炭酸、嫌いじゃありませんでしたっけ?」

 思わず笑みがこぼれた。「いま飲んだら、美味しいと思ったんだよ」

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