♯1 出会いの日に
何かの始まりは、いつも突然に始まる。
新しい生活、新しい出会い、新しい思い出、全てにおいて人は大なり小なり、不安と希望を抱くものである。
少なからず、このオレ自身も、これから始まるであろう新しい生活に、不安を持ちつつも希望で満ち溢れている。
なにせ、明日からは夢にまでみた高校生活が明日から始まる。先人の言葉によれば、高校生活とは即ち、男女が恋焦れ、喜怒哀楽の青春を謳歌する夢の時……これは浮かれずにはいられまい。
中学の生活といえば、野郎どもで固まり、ふざけ合い、傷を舐めあいと、それはそれで楽しいものだが、浮かれた話すら聞こえてこなかったものだ。そんな生活とも、ついに明日からおさらばである。高校生活……ああ、なんと甘美な響きであろうか!
そんな入学を明日に控えたオレは、家でひとり明日への期待で浮かれているのであった。
――ピンポーン
チャイムがなった。
「は〜い!」浮かれ気分でドアを開ける。
そこには大きなトランクを持った、長い髪の女性が立っていた。
「暁、約束どおり嫁ぎにきたわ!」女性がにっこり微笑む
「間に合ってます」
オレはドアを閉め、自分の部屋で浮かれ気分の続きをすることにした。
――ドンドン
ドアが激しく叩かれている。
「ほんと間に合ってます〜〜」
「開けて〜〜わたし葵、アオイよ〜〜〜〜」女性がドアの向こうでそう叫んでいる。
はて――葵……アオイ……あおい……
「ああ!」オレは急いでドアを開けに走った。
「葵さんでしたか〜すいませんでした」ドアを開けて女性に頭を下げた。
「ひどいわね……それが妻に対する東京流の歓迎のしかたなの?」
「妻とか、東京流とか、よくわかりませんが、とりあえず入ってください」
「じゃあ、お邪魔しま〜す!」
葵さんを居間へと案内する。
「すいませんでした、母からは聞いてたんですが、いきなりあんなこと言われたんで」
コップに注いだ麦茶を、葵さんへと出した。
「ありがと〜〜ふう……生き返った……」淡くルージュの痕がコップへとついた。
「東京は、春でも暑いのね……ふう〜……」暑そうに白いワンピーズの胸元を指でつまみ上げ手で風を送っている。
「ここ最近はこの時期になると、もうこんな暑い日もありますね」
先日までの寒い日が嘘のように、今日はたしかに暑かった。
毎年毎年、春と秋という季節が段々無くなっているのではないかとおもうくらい、暑さと寒さの格差が大きく現れている。これが俗にいう『異常気象』ってヤツなのかはわからないが……
――ツルルルーツルルルー
電話がなる。
「ちょっと電話に出てきますので、葵さんゆっくりしててください」
「あ〜い」葵さんが仰向けに身体を寝かせ、手をあげた。
「はい、もしもし」
「ああ、母さん……うん……葵さんついたよ」
「うんうん……部屋はちゃんと片付けておいたから……うん心配しないで」
「じゃあ週末に行くから……うん、また」電話を切る。
受話器を置き居間へと戻ってくると、葵さんが身体を起こした。
「お母様?」
「はい、葵さんが着いてるかどうかって確認です」
「そう……お母様の具合はどう?」
「ええ、とても元気です 先生も順調とおっしゃってましたし」
「そう……」葵さんが気まずそうに背中を向けた。
「えっと……葵さんの部屋に届いた荷物は入れておいたんで」
「そう……ありがとう」背中を向けたまま葵さんが立った。
「じゃあ案内してもらおうかな」こちらを向いた葵さんは笑顔だった。
葵さんは、オレの親戚だ。
この春より東京の大学への進学が決まり、下宿先を探していた。そんな時に母が葵さんを是非にと我が家に招いたのが、冬のことだった。
その後に母が倒れ、入院することとなり、話は一旦流れかけたが、葵さんの強い希望と、未成年のオレの生活も見てもらえるということで、母から今度はお願いして実現することとなった。
二階への階段を上がり、一番奥にある白いドアを前に立った。
「ここです」茶色のドアノブを回し、中へと入る。
部屋には白いベッドと黒い机、床のフローリングの上にダンボールが幾重にも積み重なって置いてある。
「衣類とかかもしれなかったんで、ダンボールは開けずに置いておきました」
「うん、暁ありがと〜〜」葵さんがベッドへと飛び込んでいった。
「ここって晃さんの部屋だったのよね? 私つかっちゃってよかったのかな……」葵さんが枕にうずめていた顔をこちらに向ける。その仕草がとても可愛らしく見えた。
晃とは父の名前だ。この家には、いまオレしか住んでいなかった。父は根っからの自由人だそうで、いまは世界のどこかに旅に出ているそうだ。生活の面では、母と父の家系は裕福なようで、金銭面で不自由はしていない。いまも入院中の母が、毎月定期的に生活費をくれる。
ここまで聞けば、五月蝿い親がいなく、自由でとてもいい生活にみえるだろう。しかし、未成年のオレには、全てやってくれていた母が突然いなくなって、全部を自分でやらなければならなくなったのだから、そんな甘い事態ではない。
いまの生活を例えるならば、不自由はあっても自由はないっていうのが、正しいところだろう。
母の入院を継起に、親の重要性を再確認できた。そのこと自体は良い事だが、親が入院するまで気づかなかったのは、なんとも皮肉なことである。
「大丈夫だとおもいます。何年も使ってなかった部屋なんで」
「何か必要な物があれば言ってください」ドアの前に置きっぱなしになっていたトランクを部屋の中に入れる。
「この部屋の掃除とか用意って、お母様が?」ベッドから身体を起こし立ち上がった。
「まさか、もう数ヶ月家に母さん戻れてないんで」
「じゃあ暁が?」葵さんはベッドへ座りシーツをそっと撫でた。
「そうしたかったんですが……どうも掃除は苦手で」
「同級生に……結っていう子なんですが、そいつに手伝ってもらいました」
それを聞くと葵さんが「ゆい?」と言いながらシーツを強く掴んだ。
「はい、結は隣に住んでで、母さんがいなくなってから何かと世話になってて……」
「――ん? 葵さん?」葵さんの様子がおかしい。小刻みに震えながらうつむいている。
「お、おれなんか変なこと言いましたっけ?」
葵さんがベッドから立ち上がり、ゆらりゆらりとこちらへ近付いてくる。
「あ、あの、あの……非常にこわいのですが」こちらへ近付いてきた葵さんが、オレの肩へ両手を乗せた。
「暁くん〜わたし、さっきなんて言ったかおぼえてる?」目が笑っていない笑顔でオレをみつめてきた。
「え〜え〜……先ほどと言いますと……ええ……」葵さんの目が目が……座ってる。
「お忘れのようなので、もう一度言うわね?」
「お、お願いいたします」
「暁、約束どおり嫁ぎにきたわ」
「それ……冗談じゃなかったのですか……ぐあ」グッと肩に力がこもった。
「そうか……忘れちゃったのか」葵さんが悲しそうな表情を浮かべ、肩にかかっていた力が無くなっていった。
「じゃあ、思い出すまでゲームをしましょう!」
「げ、ゲームですか……」
「そう、ゲーム! 私以外の誰かを、アナタは好きになりなさい!」
「そして、その子を恋人にするの」
「その子がアナタを想う気持ちが、私より強ければ、私は身を引くわ」
「そんな無茶苦茶な……」
「できなかったら……アナタは私のモノ! いいわね?」再びグッと肩に力がこもる。
「は、はい……頑張らせていただきます……」
「さあ、恋せよ暁!」葵さんが微笑み抱き着いてきた。
こうして、強引な彼女との生活が始まったのである。