第五話 『掃除は突然に』
遅くなってしまい申し訳ございませんでした。まだ見てくれている人がいるのを願っています。先週は忙しく、なかなか書く時間がなかったので、今週はもう何話投稿できると思います。
水道をひねり、バシャバシャと顔にかけていく。顔にかかる水がレイの意識をまどろみから吹き飛ばす。冬ならば寒いところだが、今は六月近くなので心地いい爽快感だ。
顔をタオルで拭こうとして気づく。タオルがない。
取りに行こうにも、顔は水で濡れているし、目をつぶっているから取りに行けない。
「……どうしようかな」
若干ため息をつきながらそうつぶやく。顔に水がかかったままなので、いくらかけた時は気持ちいとは言えど、流石に寒くなってきたし、水が服の中に侵入しそうだ。近くを手探りで探すが、手が触れるのは石鹸や鏡だけだった。
しょうがない。袖で拭くかな、なんてレイが思っていると、後ろから声が聞こえた。
「はい、これ」
顔のあたりにザラザラとした感触がある。レイは見えない視界の中顔の辺りを探り、なんとかそれを手に取る。
それはタオルだった。渡してくれた人物の声が小さいせいで聞こえず誰かわからないが、とりあえずタオルで顔を拭くことにした。
顔に着いた水分を根こそぎ、タオルが掃除していく。顔にベタベタと残る水の感覚がなくなり、顔から余分なものを全てとったかのようにサッパリとした気持ちになった。顔をゴシゴシと擦り、ついでに服の中に入った水も拭き取っておく。
「フゥ~。さっぱりした」
ようやく目を開けられることに感謝をし、ゆっくりと瞼を開ける。水で目を開けられない間は、長いとも言えない間だが、それでも数秒掛かったせいか、やけに鏡が眩しい。
目の前の鏡を見るが、タオルを渡してくれた人物はレイの姿が邪魔で鏡では見えない。レイは後ろを振り返った。
「いやいや。お礼は貰っておくよ。十万円でいいからさ」
「……なんだお前かよ。お前だったら礼をする気は起きないな。むしろ十万もらいたいぐらいだ。逆にお前に感謝する奴がいたら見てみたいものだな」
「おいおい。そんなこと言わないでおくれよ兄さん。悲しいなぁまったく」
そう言って肩を竦めるのはレイの弟、現在小学六年生の前夜だった。前夜は小学五年生にしては身長が高く、約154㎝である。レイが162㎝であることからその大きさが伺えるだろう。
毎日毎日カップラーメンを食べていてよくここまで背が大きくなるものだ。しっかり食べているレイでさえ平均身長の枠を出ないというのに、やはりこの差は運動をしているか否かだろうか。
この弟だけは、家族の中で唯一レイに失望していない人間だ。むしろ、レイが絶望されている分、前夜は期待されているので、ちょうどいい引き立て役ぐらいに思われているのかもしれない。
「……でもまぁ、兄さんはいつも通り暇なのかい?」
「ああ。そうだな。今日は特に用事もないな。いつも通り」
「悲しいねぇ」
明らかにバカにしてますよという態度で、前夜は溜息をつきながら溜息をつく。何が悲しくて弟に憐れみの眼とため息を同時に貰わなければいけないのだろう。
確かに前夜はリアルに充実しているし、彼女こそいないが小学五年生とは思えない口と能力的に日常を謳歌しているだろう。だが、それとこれとは話が別だと思うのだ。謳歌するならレイのいないところでやってほしいものである。
前夜は「そういえば」と少し間をあけたところで、その多弁な口を開いた。
「聞いたよ。ねーさんと喧嘩したんだって? まったく、喧嘩するほど仲がいいとは兄さんとねーさんの為にあるような言葉だね。僕にはそんな幼馴染はいなかったから羨ましいよ。あ、小さい頃から一緒に居るという点では僕もねーさんと幼馴染という事になるのか」
「─────」
その口から出たのは楓のこと。一体一日も立っていないというのにどこから情報が入ってきたのだろう。愛子も知らないというのに。もはや前夜は情報屋として生きていけるのではないだろうか。
だが、その情報はもう古い。レイの中の新情報には、もはや楓など乗っていないのだ。
「……ああ。喧嘩したよ。それこそ今までにないくらいの大喧嘩をな」
「うん知ってる。だって見ていたんだもん」
まるでドヤァという効果音が聞こえてきそうに笑う前夜。どうやら悪趣味なことに、昨日の光景を二階から見ていたらしい。ただ、窓で遮られていたせいか、聞こえたのはレイの叫びや、楓の声など少しだけのようだ。
「あははっ。すごいこと言っていたね。『ふっざけんじゃねぇぇぇぇ!』とか、『レイに友達いないじゃない!』とか、姉さんはほんと容赦ないこと言うよね」
「……まあな」
前夜の言葉に淡々と返事を返すレイ。確かに喧嘩したが、何度も言うがもう気にしていない。客観的に見ればレイが悪いだろうが、それもレイが選んだ選択であり、実際レイ自身も後悔─────していないと言ったら噓になるが、気にしてはない。
それでもその劇事はレイにとって衝撃的であった。だからこそ、その言葉に対してそっけない態度しか取れないのだ。せめてその話題からそ逸らそうと、心の中でいう言葉を決め、
「……けど、もう関わらないことにしたんだ。ていうか、向こうが言ったんだ。『縁を切る』ってさ」
「へぇー……」
この話題がすぐに終わるよう、その喧嘩の結果を口にした。だが、それは逆効果だったようだ。普通なら気の毒に思うか無反応で終わるだろうが、目の前の弟は興味を持ったらしく、感心したように目を細め、まるで新しい玩具を見つけたような笑みを浮かべた。
「ふーん。へー。なるほどねぇ~。いやー、まさかそんなことになるとは思わなかったよ」
「……なんだよ?」
次々に前夜の口から出る納得の言葉に対し、レイは妙な苛立ちを覚えて前夜を睨む。なんだか、ようやく正解を見つけた子供の様に、前夜はレイの周りを、まるで観察するようにくるくると回る。
「いいや? ただ納得したのさ」
「納得? 今までの話に、お前が納得するような事柄なんて出てきたか? お前の話題は一つも出てないはずだが?」
「違う違う。ボクの事じゃなくて、兄さんの事さ。ようやく今分かったんだ。──────ちょっと前から、兄さんは諦めたような顔してるから、姉さんに届かないっていう、諦めの感情が、ね……おっと、それとも兄さんは諦めていないとでもいうのかい? あれほど羞恥に顔をさらしておいて、よくもぬけぬけとそういうことを言えたもんだね」
「……今日は、ずいぶんよく喋るな。ちょっと黙れよ」
レイがイラつくポイントを見事についてきた前夜の言葉に対し、レイの口調が辛辣なものになる。
他の部分なら、構わない。気にしない。だがその部分は、楓に追い付けないことは、言って欲しくなかった。まだどこかで恐怖しているからだ。何時ぞや体験した、頑張りが無駄になる瞬間を思い出したくない。
もうこれ以上、つらい体験などしたくないのだ。昨晩のこと、嫌な夢。その上に前夜の言葉など聞きたくない。あれもこれも、すべてレイの怠惰が原因だが……
「おいおい。知り合いの十人中十人に多弁症ならぬ多弁病と判断された僕にそんなこと言うかい? それはつまり、僕に黙れと言っているのかい? それはないよ兄さん。僕に口数を少なくしろというのはカップラーメンを食べるなという事の次に苦しいことなんだよ? 僕よりいっぱい喋る人なんてたくさんいるし、そもそも僕は自分を多弁症だと思っていない。むしろ、もっと喋る僕の友人に謝ってほしいぐらいだよ。それはそれとして、まあまあそんな怒らないでよ。別に兄さんを怒らせたいわけじゃあないんだよ。困ったなぁ」
頬を搔き、前夜は罰の悪そうな顔でそう呟く。いったいどこが困っているというのか。その多弁症はいつにもまして健在だ。
選んだ言葉を失敗したように困り顔をし、とうとう掻き続けている頬が赤くなり始めた。
「うん。ほんと。僕は怒らせたいわけじゃない。ましてや兄さんをバカにしようだとか、陥れようとか、そういうことを言いたいわけじゃないんだ」
「じゃあなんだっていうんだ? そこまで俺が嫌がることを言っておいて? ふざけるのも大概にしろよ、前夜。言いたいことがあるならはっきりしてくれ」
今までの言葉を聞けば、それらは全てレイをバカにする、或いは挑発するような言葉だ。いくら学校でバカにされているとしても、弟までバカにされては兄の威厳────元からないが、バカにされ果ては堪ったもんではない。もっとも、レイが前夜より劣っていることは事実なので、否定できないところがある。
レイとしては、これ以上自分の羞恥を晒したくないので、さっさと言いたいことを言わせ、早急にこの場から去りたいところである。
やがて前夜はやれやれとため息をつきながら、観念したように話し出す。
「もう少し兄さんをからかいたかったけど、仕方ないね……じゃあ言うけど、兄さんは自分がしたことをどう思っている?」
「……? どうって、そりゃ喧嘩だと思ってる」
「あはは! 違う違う! そうじゃなくて、『自分のしたことを正しいと思うかそうでないか』と言うことだよ」
前夜はレイを指差した。
楓にしたことを正しいと思っているか聞かれれば、それは微妙なところだ。最初は後悔こそしたが、レイは自分の言いたいことを言ったし、楓もそれを受け入れたからこそ、レイの元を去ったのだ。
そう言う点を考えれば、レイのやったことは正しいことでもあるし、幼馴染に暴言を放ったことから悪いことでもあるだろう。
しかし、それは第三者が見た場合の客観的な考え方だ。レイの中で、それが正義か悪かと言われれば───
「───正義、じゃないかな」
顎に手を当て、若干の疑問を残しつつも、レイはしっかり自分の行いを肯定した。
「そう。兄さんは正義だと思うんだね。なるほど。兄さんならそう考えると思ったよ。けど、それは間違ってる。兄さんの行動は『悪』だ」
対して、前夜は前夜でレイの考えを真正面から否定した。その言葉に、レイの顔からが若干の歪みを見せる。
「……いきなり否定とはひどいな。なんでだよ。俺は正しいことしただろ」
「正しくないさ。百歩譲っても悪であることに変わりはないよ」
「けど、俺は正しいと思って───」
「それを間違いと思わない限りは、兄さんは成長しないよ」
自分を正当化するレイに対し、前夜は否定すると言うイタチごっこが続いている。お互いに正しいと思う考えを出し合い、一歩も引こうとしない。
しばらく間が空き、お互いに硬直状態が続いている。と言っても、レイはイラつきながら、前夜はにやにやと笑みを浮かべながら、という、圧倒的に優劣のついているような状況だが。
だが、ここで引いたら自分の考えを否定することになる。理由がはっきりしているレイと違い、前夜がなぜここまで意地を張るのかわからないが、どっちも譲らないだろう。やれやれ、我慢比べか、なんてレイが思っていると、前夜はおもむろに口を開いた。
「……分かった。分かったよ。今日は僕の負けさ。言い合いはこれでおしまいだ」
あっけなく負けを認めた前夜に対し、レイは少し驚いてしまう。狡猾なこの弟が簡単に負けを認めるとは思わなかったのだ。だが、これ以上不毛な争いを続けても時間の無駄だ。レイはその提案を甘んじて受け入れることにした。
「わかった。それで今日は終わりにしよう」
「よかった。僕も言い合いを続けるのは本望じゃあなかったんだ。兄さんを傷つけるのは悲しくて悲しくて……」
「……その言い方だと、自分が確実に勝てるような言い方だな……」
「勝ち負けの問題じゃない気がするけど……」
よよよ……と泣き崩れる前夜に対し、レイは冷静なツッコミを入れる。その態度を見て、前夜は満足そうに頷いた。さっきまでの喧嘩腰のような雰囲気が終わりをつげ、レイはほっと息をつく。
前夜が負けを認めたからと言って、勝敗が付いていないことは誰でもわかるだろう。雰囲気を終わらせるため、いわば前夜は大人の対応をしたのだ。弟にその対応をさせているレイが、年上に見えないというツッコミは無しである。
そこから、さほど間が明かないうちに、前夜は「あっ」と言葉を漏らし、手をパンっ! と叩いた。
「そうだった……忘れてた。兄さん、僕が兄さんにタオルを持ってきたのは、善意じゃあないんだ」
どうやら、レイの所まで来た用事を忘れていたらしい。何やら頼みごとがあるようだ。タオルを持ってきたのも、その頼みごとを断れなくさせる口実らしい。
「じゃあなんだ。お前は別に、俺にタオルを届ける気はなかったってことか? 現金だな……」
「現金で何が悪いんだい? 兄さんがねーさんに行ったことも「わかった聞こうじゃないか前夜君!」」
レイは額に人差し指を当て、考えるような仕草をして前夜の言葉を遮った。
負けを認めたばかりなのに、その話題を持ち出す限り、本当に前夜はいい性格をしているのだろう。もっとも、厄介極まりないものだ。
その反応までも前夜の予想通りだったのか、そのニヤニヤとした笑みを崩すことなく、その頼みごとの内容を話し始めた。
前夜の話はこうだ。
曰く、前夜は朝起き、朝ご飯を食べた後、愛子に頼みごとをされたらしい。どうやら今日は、小中連携の一環で、川のゴミ拾いをするらしい。前までは地域でやりたい小中学生を募っていたのだが、年を重ねるごとにだんだんと減っていき、とうとう一人になったらしい。もはや笑いごとである。
……その一人が、楓であったことは笑えない事実である。
その原因は様々だが、一つは川の面積が日本で五本指に入るほど巨大な事や、地域の祭りの日と被っていることなどが原因だ。
その原因をどうにかしようという声が上がり、前者はどうにもならずとも、後者はどうにかなった。被っている曜日をずらせばいいのだ。
むしろ、なんで今まで気づかなかったのか不思議なくらい簡単な問題だった。その結果、掃除を土曜日。祭りを日曜日に変更されたらしい。
しかし、それだけでは掃除に参加しないと思った地域の人々の手により、掃除に参加した子供たちにはたこ焼き一つ無料券が配布されるらしい。
なんともまあ、前夜の様に現金なことだが、その効果は絶大らしく、今年の参加者は小中の生徒合わせて六割にも上った。
前夜も参加しようとしたのだが、友達が新作のゲームを買ったとかで、どちらに行くか悩んでいたらしい。結局悩んだ挙句、掃除に行くことにしたらしい。その友達は翌日の祭りにも行くらしく、明日会えるならいいか、と納得したらしい。しかし運が悪いことに、諦めかけていた前夜の目に入ったのは、タオルを探しあたふたしているレイの姿だった。
前夜は直感でこれだッ! と悟ったらしく、恩を売ってレイに変わりに参加させるらしい。
「おいおい。何もタオル一つでそこまで……」
「ん? いやいや。あのまま僕がタオルを渡してなかったら、兄さんは服で拭いていただろうけど、そしたら汚れて怒られていたんじゃないの? それに服にもかかっていたし、いくら少量とはいえ、服に模様がついていたらバレるってもんだ。お母さんに怒られて、叱られるんじゃないの? いわば僕は救世主なんだよ。その救世主にお礼をしても、バチは当たらないと思うなぁ? ん? んん?」
「グッ!」
とてつもなくうざい顔で迫ってくる前夜に対し、レイは反論することなく呻いてしまう。ここまで言われたらもはや従うしかない。休日がつぶれることは残念だが、レイは従うことにした。
「……分かった。行ってくるよ」
「ありがとう兄さん」
満面な笑みを浮かべる前夜を殴りたい衝動を抑えつつ、場所が分からないのでそのチラシを受け取る。場所はさほど遠くなく、徒歩十分ぐらいだ。
今が一時過ぎで、開始時刻が一時半だから────
「って! 開始まで残り十分ちょっとじゃないか!?」
「え? マジ? ……がんばって! 兄さん!」
「ちくしょう!」
最低限の荷物や水筒を持って、玄関へ走り出す。このままでは走らない限り間に合わないだろう。少し涙目になりながら、レイは思う。
(……ああ、また汗かくんだろうな)




