表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Seven  作者: 如月ちえ
7/7

緑雨

「おかえり」

「ただいま」

「雨大丈夫だった?」

「うん」


 彼女は傘についた雨粒を軽く払って、靴箱にかけた。


「ごはんは?」

「まだ食ってない」

「なんで」

「めんどくさくなっちゃった」

「ふふ、そうだよね。私も」


 じゃあ、これ余りものだけど食べて、と言って、彼女はお風呂へ消えていった。

 彼女と初めてちゃんと話したのも、こんな雨の日だった。


 あの夜は、俺の友だち数人で家飲みをしていた。男も女も関係なく、集まれる人が集まって飲んでいた。当時、俺も彼女も今とは違う仕事をしていて、彼女とは数回しか会ったことがなかった。

既に、彼女以外の友だちは電車やタクシーで帰っていた。


「翼ちゃん、帰らないの?」

「あ、あの、もうちょっとだけいさせてもらっていいですか」

「あー、俺は別にいいけど」


 彼女が俺の部屋に居たがった理由はすぐに判明した。俺がシャワーを浴びて出てくると彼女の姿はなくて、ああ、帰ったのかなくらいに思っていた。とりあえず一服しようとベランダに出ると、歩道の真ん中で、ずぶ濡れの女の子が、棒立ちの男性にしがみついているのが見えた。


「いやだ、待って!」

「……」

「ねえ、お願いだから」


 その女の子は、さっきまで俺の部屋にいた翼ちゃんだった。大きな声を出すイメージはなかったのに、彼女の声は闇に響いていた。しばらくすると、男性は彼女を振り払って歩いて行った。彼女はその場に座り込んで動かなくなってしまった。あーあー、チャリでも来たら轢かれるぞと鍵をポケットに入れて、ジャケットだけ羽織って部屋を出た。

 外は小雨が降っていた。彼女の頭から背中を包むように、後ろからジャケットをかけた。その瞬間、彼女の泣き声は大きくなった。同時に、雨も強くなった。


「翼ちゃん、とりあえず部屋戻ろう?」


 ううん、と彼女は首を振ったけれど、終電はとっくに過ぎたし、こんな時間に女の子を一人で歩かせることはできなかった。

別に恋愛感情があるわけじゃねえし、と自分に謎の言い訳をしながら、彼女を部屋まで連れていった。

 肩にかかるくらいの黒髪が、雨のせいで量が少なくなりペタっとしている。毛先はふわふわとカールがかかっていた。


「シャワー、浴びといで?」


 俺が言うと、彼女はまた首を振る。


「どうした?俺こわいかな」


 そう言うと、彼女はまた首を振る。


「もう、赤べこじゃないんだから」


 俺は今の彼女に何を言っても無駄だと思って、ジャケットを剥がして彼女を脱衣所まで連れて行った。とりあえずタオルだけ出して、俺はそこを出た。クローゼットの中から適当にスウェットとTシャツ、パーカーを出して、脱衣所の洗濯機の上に置いた。

 ジャケットをハンガーにかけると、彼女の髪の香りがほんのり鼻に入ってきた。おおダメだダメだと自制して、平然な振りをしながら缶ビールを開ける。


「あの、ありがとうございました」

「お、ううん」


 彼女はまだ遠慮をしているようだった。俺は立ち上がって、ソファに座るように促した。


「もう今日は泊まってきな?」

「……はい」


 冷蔵庫からミネラルウォーターを出して、彼女に渡した。


「ありがとうございます」

「ううん、とんでもない」


 彼女は何も話そうとしない。このまま何も聞かないほうがよかったのかもしれないけれど、俺はアルコールのせいにして何があったのか聞くことにした。


「で?どうしたの」

「見えて、ましたよね」

「うん。ごめん」

「元カレ、です」

「そっか」

「なんか、上手く別れられなくて。この近くにいるっていうんで、ちょっと待ってみようかなって」

「そっか」

「私、実は生まれてきたときは男性だったんです」

「うん、知ってる」


 彼女がトランスジェンダーだということはとっくに知っていた。どこからの情報かは忘れちゃったけれど。別にだからどうこうという感覚はなかった。


「あ、ごめん、別に翼ちゃんが男っぽいとかじゃなくてね。前から俺は知ってたよ」

「そうなんですね」

「うん。性別が変わるから関係がどうこうとはならないでしょ」

「それが、元カレはそこを責めてきたんです」


 先ほどの棒立ち男は、結婚のこと、子どものこと、その他いろいろとあることないことを彼女に吐いたようだった。


「ごめん」

「いや、こちらこそすみません、なんか泣かせてしまって」


 どういうわけか、俺の目からは水分が溢れ出していた。


「本当にごめんなさい」

「なんで謝るの、つらい思いしてきたのは翼ちゃんでしょう」

「ごめんなさい」


 今すぐここを飛び出して、棒立ち男を殴りたくなった。


「どうしてここまで我慢してたの」

「誰にも、言えなくて」

「そうだよね、ごめん」


 きっと、不安なんだ。普通の女性じゃないって。結婚も子どもも叶わないんだって。俺が考える何倍も、何十倍も苦しいんだ。


「でもね、翼ちゃん」

「はい」

「結婚を選ばない人もいるんだよ」


 彼女は不思議な顔をして、俺のほうを見た。


「結婚がすべてなのかな?子どもを産んで育てることが全てなのかな?」

「……」

「俺はね、それが幸せの頂点じゃねえと思ってる」

「どういうことですか」

「自分を愛していないと、自分を一番大事にしていないと、誰も幸せにはできないってことよ」


 俺はテーブルの上で一人ぼっちになっているペットボトルを手に取った。


「俺の親父はホテルで料理長をしてて、おふくろはスーパーで働いてて。ごく普通の家庭だと思ってた。でも、どっちも、自分を大切にしていなかったんだ。なんでも子ども、子どもって、第一に子どもだった。だから、過保護っつーか、変な愛情のかけ方になっちゃったんだと思う。お金は必要だし、子どもを世間に適応させなくちゃいけない。それで、どんどん息苦しくなっていったんだと思う」


 右手に力を入れてそれを回すと、ピキ、と音がした。差し出すと、彼女は遠慮がちに受け取った。


「俺の想像だけどね」


 ハハ、と自嘲的に、軽く笑う。


「俺はね、人の笑顔を見るのが好きだし、同じケガをしていても自分より他人に優しくしてきた。それが全てだって、俺の生き方なんだって思い込んできた。でもね、自分のケガを治してくれる人がいなかったんだ」


「それで、高校時代、壊れた。元には戻らなかった」


「今の日本じゃ、結婚するリスクが大きすぎる。結婚するまでも大変かもしれないけど、それは、たぶん、愛していれば全然楽勝。問題はね、そこからなんだと思うんだ。嫁姑問題、子どもをコウノトリさんが運んでくれるか問題、子どもを預ける問題、もしかしたらパートナーを失うかもしれない。それを支えてくれる制度を、調べずに今すぐ言える?」

「言えません」

「うん。俺も言えない。だから、未来を大事にするより、今の自分を大事にしな?」

「はい」


 彼女の目から涙が出ていて、頬を伝っていた。とても美しかった。





 濡れている髪が、どんどん軽く、淡い茶色になっていく。シャンプーの香りが鼻に舞ってくる。


「あ、朱梨ちゃんに言ってくれた?」

「最近仕事忙しいみたいで顔見てなくてさ。だからたっちゃんに直接頼んどいたよ」

「ありがとう」


 翼の友だちが結婚するようで、ウェルカムボードにイラストを描いてくれる人を探していた。その話をした時は朱梨ちゃんがよく来ていたんだけれど、それからパッタリと来なくなってしまって、今日吉祥寺をフラフラ歩いていたら偶然たっちゃんに会ったから、話しておいた。


「いつから付き合い始めたんだっけ」

「いつだったっけ」

「朱梨ちゃんもたっちゃんも、お互い仕事を知らなかったんでしょ?」

「うん、ずっとどっちも勘違いしてた」

「おもしろいよね、本当」


 あの二人は、付き合うまでお互いの仕事を明かさなかった。嘘を信じて、どっちも勘違いしたままでいた。心の底から好きな人間には、肩書きで恋しないんだって、ちょっと笑った。


「で?そっちのイケメンリーマンはどうなったの」

「この間一緒に来たよ。付き合うことにしたっていうか、私が付き合わせた」

「どうやって」

「いい加減付き合えば?って」

「やばいなそれ」

「それでね、二人の会社、超大手だったよ」


 彼女はソファから立ち上がって、カバンから名刺を出した。

 それには大手広告代理店の名と、総務部総務課長 桑原明彦と書かれていた。もう一枚のほうも、総務部総務課 松多実織と書かれていた。


「この実織ちゃんてさ、七福神に来たことある子かな」

「ああ、よく行ってるって言ってた」

「みおちゃんか」

「知ってるの」

「うん、超グチってた」

「そうなんだ」

「課長のこと好きかどうかわからないーって」

「そりゃそうだ」

「え、まさか、イケメンリーマンへたれなの?」

「あれは生粋のへたれだね」


 二人で笑い合う。変なとこで繋がってるもんだなと思いながら。


「あの人はどうなったの?不倫してた人」

「ああ、実家に帰ったみたいよ。奥さんと子ども連れて」

「へえ」

「それがさあ、うちに来る中条って男と同じマンション住んでたみたいで」

「あら」

「そいつまだ若いんだけどね。不倫男の子どもが夜遅くにエントランスに放置されてて、迎えくるまで一緒に待ってたらしいのよ。そしたら警察に通報されて、謝りに来た不倫男と仲良くなったみたい。んで、中条の妹がその子の面倒を見てくれるって言った日に引っ越したらしい」

「なにそれ」

「俺にも『店長さん、お世話になりました』って言うから、何事かと思ったら『帰省してそのまま帰ってこれないかもしれません』 って。だから、あれが最後だった」

「じゃあその中条さんは何も知らないってこと?」

「そう」

「教えてあげなよ」

「……いいんだ、知らないほうがいいこともある。あいつもそれ以来何も言ってこないし」

「……あ、祥さん、食べた?」

「まだ食ってない」

「もうー何してたの」

「ちょっと考えごと」

「なにそれ」

「いいだろなんでも」

「はいはい」


 君が泣いた夜を思い出していたんだ。

 なんて言ったら、一体どんな顔をするのだろう。


最終更新日 17/08/16

 ここまで読んでくださって、ありがとうございました!つたない文章でしたが、アクセスの半分以上の方が同じ人で、ものすごく驚いているのは誰でもなく私です。

 今年の三月から書き始めたこの連載もついに完結です。やっと終わった、というのが本音と言いますか、なんだかバタバタして終わってしまった気もします。この話のタイトル「緑雨」についての解説は、長くなると思うので(笑)、ブログでしたいと思います。

 そして、お知らせです。えー、冬眠ならぬ秋眠したいと思っています。まあまあ、夢を追うためなら仕方ねえな、と優しく見守っていただければ幸いです。

 本当にありがとうございました。また逢う日まで。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ