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Seven  作者: 如月ちえ
5/7

セブンスター

「またおとーさんがオンナ作ってさ」

「うん」

「もうお母さんには別れてもいいって言ってるんだけど」

「うん」

「泣いてるの見てらんないし」

「うん」


 大人より、子どもは大人だ。浮気だの不倫だの騒いでいるのを100メーターくらい離れた場所から見ている。そして、不貞行為は許されず、被害者は法律によって守られ、自分がお金をもらえることも、精神的に楽になれることも、彼女は知っている。


「なんか、大人って、バカばっかり」

「そうかもねえ」


 私は、強く言い返せなかった。それがこの生徒にとって、良かったか悪かったかはわからない。


「あれ、佐由美ちゃんライター変えたの?」

「ううん、どっかいっちゃったんだよねえ」

「え、あの高そうなやつ?」

「火がつけられればなんでもいいんだけど」

「相変わらず女っぽくないね」


 この間、彼からもらったzippoを失くした。どこで失くしたのか、記憶がない。このタイミングで、それがいなくなったということは、彼との別れを示唆しているような気がした。



 部屋の電気を消して、窓際に座りながら、夜空に白い息を吐く。


「なんか、鼻声じゃない?」

「そう?」

「うん。薬飲んだ?」

「飲んでない」

「子どもにうつさないでよ」

「お前は、いいの?」


 二人で煙草をふかすのが、何回目かわからないほど、月日が経った。世間からは良くない関係に見えていることはわかっていたけれど、心の奥底から惹かれてしまったのは、……泥棒猫は、私だ。

 どうしてこうなったのか、とか、どうして早くやめないのか、とか、そういうことは考えることをやめてしまった。こうなるべくしてなった。ただ、それだけなのだ。

養護教諭という仕事上、生徒の話を聞くことも多い。恋愛、友人、家族、……人間関係はヘドロのようにベッタリとくっついていて、とても面倒くさい。ヘドロの源になる沼が自分であって、若者を勉学に支障が出るほど困らせているのは、養護教諭を目指していた過去の自分が許さなかった。


「ごめん、電話」


 午後七時頃になると、小刻みに震えるバイブレーションにも慣れた。


「ねー」


 お気に入りのブランケットに顔を擦りながら、私はそっと、彼の背中を押す。


「帰る?」

「うん」


 玄関に向かう背中に抱きつくと、なんとも言えない安心感に包まれた。


「またね」

「うん、またね」


 彼のぬくもりを感じると、どうしてもそれに縋りたくなってしまう。今、この瞬間だけは、今だけは、私のもの。


 優越感が罪悪感に変わってしまったら、関係は終わりを示す。いつ、それを言うかだけ。

 


 翌朝、コーヒーの香りがべっとりとくっついた職員室で、彼の瞼の上がぼったりしているのを見て、私は悟った。

 放課後、彼から、今晩泊まらせてほしいとメールが入った。私はそのメールに返信して、それを消去した。


「バレてた」


 彼の奥さんが、教師の友だちを通じて高校の様子を探っていた。部活も会議もない日に帰りが遅くなることを疑われ、彼の車にこっそりGPSをつけていたようだった。用心して、カバンを車の中に置いてまで、私のアパートに入っていたのにも関わらず。


「そこのスーパーに停めてたから、ここは知られてないと思う」

「でも、怖かったら、お金出すから引っ越して」

「今度から駅の近くに停めるから、迎えに来て」


 彼の口から反省の言葉は一切出なかった。それに、まだ関係を続ける気でいることに、私は失望した。


「離婚しないんでしょ」

「まだ、できない」

「じゃあ終わりだね」

「待って、冷静になれって」

「それはこっちの台詞」


 一度ひっくり返った女は怖い。


「もう疲れたんだよね」

「俺は、負担かけてないつもりだったんだけど」


 確かに、私が彼のために生活リズムを崩したり、わざと時間をずらすことはなかった。


「精神的な、負担はかかってるよ」


「そんなことわかってたつもりだったけど、やっぱり無理だと思う」

「待てって、俺はいつかは佐由美と結婚するつもりで」

「勝手に言ってなよ、一つの家庭も守れないくせに」

「ああ、じゃあいいよ。もう終わりだ」


 強く閉めたドアの音が、部屋に響いた。



「さゆー?生きてるー?」

「死んだって聞かないでしょ」


 久しぶりに高校の同級生、香織とお酒を飲むことにした。香織のおすすめのお店は、一度、彼と一緒に来たお店だった。不倫関係に気づいていながら、私を責めなかった彼女の誘いを断ることはできなかった。


「なんか、不安そうな顔してるけど」

「うん」

「あたし、佐由美のこと責めないよ」

「どうして」

「そのうち気づくでしょ。そんなに佐由美はバカじゃないしさ」


 張っていた涙腺がジワジワと緩んで、頬にこぼれた。


「うちのだって、どこにオンナ作ってるかわかんないしさー」

「でも、やっぱりよくなかった。私を怒って」

「昔っからそれ言うけどさあ、佐由美って怒られて育てられたの?あたしは佐由美の親じゃないよ。友だち。大事な、大事な友だち。バカなこともできる友だち」

「ごめん」

「なんで謝んのよ」

「ごめん」

「もうやめてよー。海外は一夫多妻もあるわけじゃん。オトコとオンナは、いつ何が起こるかわからないんだよ。いつ死ぬのか予測できないのと一緒でさ」

「私、生きてていいのかな」

「はあ?」

「やっぱり罰を受けるべきじゃない?」

「そりゃ奥さんに訴えられたら然るべき罰は受けなくちゃいけないけどさ。そうなったらなったで考えればいいし」

「うん」

「もおー、佐由美らしくないなあ」


 そうだ。普段の私はこんなに弱くないし、ネガティブでもない。

「ねー、さっきからずっと通知音鳴ってるよ」


 そう言われて携帯を確認すると、彼からのメッセージが次々と送られてきていた。とりあえず別居することになったこと。ビジネスホテルにいるけれど、私の部屋に泊まりたいこと。本気で離婚するつもりでいること。


「それ、あいつ?」


 携帯をスッと奪われて、画面を見られたあと、香織はそれをテーブルの上に置いた。


「消しなさい。今すぐ」

「え」

「着拒もして」

「無理だよ毎日会うんだから」

「……佐由美が信頼できる先生いないの?」

「いないよ、いたとしても不倫のことなんて言えない」

「じゃーあ、それを逆手に取ろう!」


「教頭か校長に連絡して」

「こんな時間にできるわけないじゃん」

「セクハラされてました、とか」

「同意の上で不倫関係があったってバレたらどうすんの」

「んーじゃあしばらく耐えるしかないね」

「それはわかってるんだけどさあ」


 香織が私を救おうとしてくれていることはわかっていたし、私も今の状況を改善したいとは思っていたけれど、どうしてもそれに耐える気持ちが作れなかった。

 結局答えは出ないまま、覚悟もできないまま、お会計をしていると、若い定員さんが話しかけてきた。


「あの、以前これ、お忘れになってませんか?」

「あ、これ私のだ」

「よかったあ、ライターはなかなか捨てられなくて」

「そうだよね、ありがとう」


 彼女の手から渡されたのは、彼にプレゼントされたzippoだった。勢いでライターとセブンスターを受け取ったものの、処分に困っていた。あそこで捨てていいと、要らないと言えばよかったと後悔した。

 彼に影響は受けず与えずの自立した関係だと思っていたのに、思い切り影響を受けていた。それまで百円ライターだったのに、彼が使っているからとzippoに替えた。オイルも綿も石も、部屋にある。たかが五千円くらいなのに、なかなか捨てられなかった。うっすらと半分のハートが彫られたそれは、初めて私の独占欲を埋めたものだったから。


「國武先生、次の会議の資料です」

「ありがとうございます」


 彼のメッセージにはもちろん返信しなかった。けれど、彼の顔を見ると心が締め付けられた。資料には付箋がついていて、[今夜部屋行っていい?]と書かれていた。私はそれをむしり取って、破って、ごみ箱に捨てた。視線を感じ、斜め右を見ると、彼の冷たい目が私の目と繋がった。私は視線をパソコンの画面に戻した。近い未来を思うと、過去の自分を恨むしかなかった。


 私の予感は当たって、その後も付箋攻撃は続いた。

 [今日放課後空いてる?]

 [ずっとあいしてる]

 [メールの返事ちょうだい?]


 何も気にしていないはずなのに、廊下ですれ違うと睨まれた気がしたり、周りの先生にも違和感を抱かせ始めたころ、彼は保健室に来た。


「國武先生」

「はい」

「足をくじいてしまって」

「じゃあ湿布貼りますね」


 椅子に座った彼は足を出そうとも、靴を脱ごうともしない。


「先生?」

「いつまでそうしてんだよ」

「はい?」

「俺、待ってるよ」


「なんか喋れよ」

「……足、出してください」

「どういうつもりだよ」

「ここじゃ話せません」

「じゃあ今夜部屋行っていい?」

「それは困ります」

「外ならいい?」

「いえ、五分後に屋上に来てください。私、先に行ってるんで」

「わかった」


 私は先に屋上に行って、半分の心が書かれたそれで煙草に火をつけた。最後の味。きっちり五分後、錆びたドアが開いた音がした。


「もう、無理なのか」


 少し離れた場所から、彼は声を発した。私は無言で近づいて、zippoを差し出した。


「もう、要らないから」


「私と、別れてください」


 彼はため息をついて、静かに手を伸ばし、それを受け取った。


「わかった。最後に理由だけ、聞かせてほしい。その気持ちに至った経緯でもいい」

「理由なんてないよ。ただ、世間から見たら、人を傷つける恋愛だったってこと」

「じゃあ、俺に気持ちは」

「……もうないよ」


 間を置いたのも、涙を浮かべてしまったのも、失敗だった。言葉は嘘だと言っているようなものだった。


《お呼び出しします。國武先生、保健室までお願いします。國武先生、保健室までお願いします》


「じゃあね」


 私は、運がよかっただけ。ただ、それだけ。家に帰ったら、泣こう。


「佐由美ちゃーん、ひざ擦ったー」

「あらー、かなり血出てるね」


 私の心は出血どころじゃないな、と自嘲した。


最終投稿日 17/06/12

大変お待たせいたしました。7月7日に続きがあると書いておきながら、書けませんでした。本当に申し訳ありません。

今回のお話は、二度と書かないと決めた不倫ものでした。しかし、今回は所謂バッドエンド。佐由美ちゃん、しあわせになれるよ。しあわせになってね。



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