7月7日
壁時計の長針が十一時を過ぎた頃。お客は試験勉強をしている大学生の女の子が一人。あの子は、あと三十分経てば帰る。読みかけの推理小説を開いたとき、チリンチリン、と音が聞こえた。
「空いてますか?」
「あ、どうぞ、いらっしゃいませ」
小説を慌てて閉じた。入ってきた男性は、半袖のポロシャツ、下はスーツを着て、ブランドもののバッグを持っている。その人はカウンターに座った。
「まだ大丈夫なのって、どれですか?」
律儀な感じ。大手町勤めか?
「なんでも大丈夫ですよ」
「じゃあ、ブレンドコーヒーのホットで」
「かしこまりました」
うちにはお客さんが少ないときに来るほうがおすすめ。じっくり豆を挽いて落として、そのまま出せるから。忙しいとどうしても作り置きをしてしまう。
「お待たせしました、ブレンドコーヒーです」
「ありがとうございます」
その人からは、ほんのり日本酒の匂いがした。でも、汗はかいていないし、髪も適度な長さ、……性格に難がなければ相当モテるだろう。
一口飲んだあと、その人が口を開いた。
「何時までですか、ここ」
「二時までです。深夜二時」
「そうなんですね……また来ようかな」
一体なぜ、ここ吉祥寺で、花金の夜にコーヒーを飲みに来たのだろう。
女子大生は十五分前に帰った。スーツの人は、ぐっすり寝てしまっている。ちょっと片付けをしてから、起こそうと思っていた。
携帯電話のベルが鳴り響く。私の着信音ではない。
「ん……」
スーツの人が目を覚ました。顔をテーブルにつけたまま電話している。
「なに」
うおー、声低い。男性の寝起きの声を久々に聞いたかも。
「あ?」
こわい。ここに来た意味なんて聞けたもんじゃないな。
スーツの人は何か言い合いをして、電話を終えたようだった。
「ねえお姉さん」
「はい?」
「お酒ないの、ここ」
聞かれたときにだけ出すアルコールメニューをそっとテーブルの上に置く。
「ここで一番強いのちょうだい」
私は半ば諦めで焼酎ロックを出した。
スーツの人はそれをグッと飲み切って、またテーブルに伏せた。
「ごめんねぇ、お姉さん」
「大丈夫ですよ」
私は片付けを終わらせて、推理小説を開いた。さっき急いで閉じたせいで、どこまで読んだかわからなくなってしまった。最悪。
「酔っぱらいの戯言、聞いてくれる?」
「……はい」
ここはスナックじゃねえんだよと若干思いながら、仕方なく話を聞いてやることにした。
「その前に、一ついいですか?」
「なに?」
「終電は、大丈夫ですか?」
「ん、タクシーで帰るから大丈夫」
「そうですか」
「じゃあしゃべっていい?」
「はい」
「聞き流してもらっていいから」
「いえ、ちゃんと聞きますよ」
タクシーで帰るなんて、やっぱりお金もちなのかなあ。
「俺ね、会社の後輩に恋してるみたいで」
「ほう」
「でもさ、一回りくらい違うんだ」
「はい」
「お姉さんは、どうなの。年の差とか気にするの」
「うーん、それくらいなら気にしないですかね」
「そっかあ」
仕事ができて、イケメンの部類に入る人でも、恋愛に悩むんだ。
「俺、ちょっと焦っててさあ……やっぱ結婚とか考えちゃうじゃん」
「お客さんはおいくつですか?」
「今年三十五」
「それは考えますね」
会話が途切れて、またスーツの人は話を始めた。
「その後輩にね、ストーカーみたいなことしちゃったの」
「ストーカー?」
「うん。俺、飲みすぎて、気が付いたら後輩の家にいてさ」
「え?」
「あ、いや別にそういうのはない、けど」
背広がピンと伸びる。
「関係は、ないけど、運悪くお母さまと会っちゃって」
「後輩さんの?」
「そう、そうなの。一人暮らしの娘の家に出入りする男なんて、もう恋人しかいないじゃん」
気まずそうに上目づかいを振りまいた。後輩さん、もう惚れてるんじゃないかなあ。
「まあ、普通はそうですよね」
「お母さまに、娘をよろしくお願いしますなんて言われちゃって」
「それは……」
「俺の脳フル回転。否定したら怪しい関係だし、肯定したら松多に悪いしさあ」
爪先をガリ、といじっている。
「で、なんて答えたんですか」
「こちらこそよろしくお願いします、としか言えなかったよ……」
「ああ……」
「どうしても松多に謝りたくて、でもあいつ俺のこと避けてて」
「ちゃんと話さなきゃいけないって思ったから、駅前まで行っちゃったんだよなあ……ちょお後悔してる」
「お話は、できたんですか?」
「うん、まあ」
「で、今はどうなんですか?」
「うーん……一緒に飲みには行ったりするけど、その話は一切してない」
「そうなんですね」
「お姉さんなら、どんな気持ちになる?」
「たぶん、ですけど」
「うん」
「後輩の、松多さんでしたっけ。お客さんのこと、嫌いじゃないと思いますよ」
「どうして」
「私なら。まず、本当に嫌いな人は家に上げません。たとえ上司でも、社長でも。タクシーにも二人で乗らないかも」
「お姉さんかたいの」
「いえ、本当に嫌いな人なら、の話です。この時点で、お客さんは嫌われていないと思います」
「確かに」
「それに、嫌いな人と飲みに行かないと思いますよ。それって、勘違いされてもいいってことですからね」
「うん、誰かに見られる可能性もあるしね」
「私が思うに、好き避けじゃないかなあって思うんです」
「すきさけ?」
「はい。好き避け。好きだから、避けちゃうんです。小学生の、素直になれない男の子、みたいな」
「ああ」
「好きだからこそ、冷たくしちゃう」
「でも、あいつがそんな器用なことできるとは思えない」
「器用じゃないから、そうなるんですよ。そう考えると、どんどん可愛く思えてきませんか?」
お客さんの目線が右へ、左へ、きょろきょろする。
「確かに」
そういって、口角が上がっていた。
「お客さんは、後輩さんが自分のことを好きでいてくれる自信はあるんですか?」
「正直、ないよ」
「じゃあ、今度ここに連れてきてみてくださいよ」
「どうして」
「後輩さん、紹介してくださいよ。見てみたい」
「でも、悪いよ」
「私、いやな女に見えますか?」
「うーん……つーかちょっとこわい」
優しくされたことがないのかなあ。騙されてきたのかなあ。
「私、こう見えても彼氏いますし」
「それはわかるよ」
「最近までお客さんと一緒でした」
「……なにが」
「性別です」
「え、全然見えない」
「かなり早い段階で周りが動いてくれたので」
「そーなんだあ」
「はい」
「へええ」
あまりカミングアウトはしないようにしているけれど、人間不信に陥っていたときに培った、人を見る目は我ながら侮れないと思う。
「お姉さんは、素敵な人たちに囲まれて生きてきたんだね」
「そうですかね」
「うん、俺男子校出身だけど、もうオカマちゃんにしか見えない人いるもん」
「大事にされてるんだよ」
お客さんもね、と心の中で返事をする。
「お姉さん、いつならいるの」
「土日は必ずいますよ」
「夜も?」
「夜は基本的に平日です。あんまりお客さんがいないほうがいいですか」
「うん、できれば」
「じゃあ、今月の夜のシフトの日だけ渡します」
レジ横にあるメモ帳を一枚ちぎって、休憩室に貼られたシフト表から日にちを書いていく。
「どうぞ」
「ありがと」
「また気が向いたら来てください」
「ううん、必ず来るよ。松多連れて」
「お待ちしております」
カップを洗って、ちょうど午前二時。私は帰り支度をして、裏口を出た。自転車のサドルについた雨粒をサッと拭いて、店の玄関まで自転車を押す。そういえば、今日は七夕だった。相変わらず天の川は見えないけれど、お兄さんと後輩の松多さんが結ばれればいいなあと、こっそり夜空に願った。
そして、Sevenのネオンサインが消えていることを確認して、自転車に乗った。
アパートに入ると、わたしのパートナーが先に家についていた。リビングにあるソファで寝ている。そっと髪を撫でた。
シャワーを浴びて、彼にブランケットを掛けて、缶ビールのプルタブを開けた。……うん、しあわせ。
柿ピーを口に放り込みながら、深夜番組を見ていると、彼が起きた。
「おはよう」
「おはよ。なにくってんの」
「柿ピー」
「めしは?」
「食べてないよ」
「またかよ」
「祥さんは何か食べたの」
「ん……空気」
「じゃあ私も空気」
「柿ピー食ってんじゃん」
「ふふ」
私は冷蔵庫から二つビールを取り出して、棚から柿ピーを一袋取った。そして、それを彼に渡す。
「ありがとう」
「いいえ」
「今日のお客さんがね、恋する乙女でさ」
「うん」
「かわいいよね。恋の仕方がわからなくて、自分に自信がなくて、お酒に走っちゃうのって」
「確かに。一人で悩むより話すだろうし」
「うん、部屋で一人で飲んでても解決しないからね」
通販番組が終わり、朝のニュースが始まる頃、私たちは眠りにつく。
最終更新日 17/04/16
更新遅れてごめんなさい、そしてこのお話はまだ途中です・・・次回まで続きます。
なかなか二人が動いてくれず、私自身もパソコンを弄ぶ時間が作れず・・・言い訳です。
まだ画像を作っていないので、次回更新に間に合えば、画像もつくりますね。




