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桜咲く

作者: なみさや


廸はついと手を伸ばした。

その手に舞い落ちるのは、ほんのり薄紅に色づいた、桜の花びら一枚。

桜が咲くには、かなり遅い。廸は辺りを見回した。廸のいる通りには桜の大木が何本もあるが、もう既に咲き終わり、散った花びらも見当たらない。

だが一ヶ所だけ、高い塀の向こうに今を盛りと咲き誇る桜の枝が僅かに見えた。

そこは知っている家宅の筈で、廸は思わず瞬いた。

「ああ、あそこ。正院宮家(しょういんのみやけ)のお住まいでしょう?」

「やっぱり」

大学で公家出身の友人に問えば、逆に驚いたように問われた。

「気づかなかったの?」

「……いいえ、知っていたけれど、あそこに桜が植わっているなんて、気づかなかったの」

「あそこの観桜の宴はいつも遅いのよ。去年も今頃だったわね。でも正院宮家なら見せて頂いたら? 確かお兄さまと宮さまは御学友だったのでしょう?」

京都女子大学は大学とは言え、廸のように学問を学びたいと志して入学する者は少ない。大学は義務教育と定められた小学校、中学校とは違う。同じく義務教育ではない高等学校とは違い、それなりの学費が必要で、ほとんどの学生は必然的に裕福な家庭の子女となる。

友人の多くはどこそこの公家出身、あるいは大藩出身の子女が多く、女子の心得として外国語や礼儀作法を学ぶことを目的に通っている。だからいずれは同じような家格へ嫁ぐから、自然と妙齢の男子の交遊関係を把握することになる。

正院宮家は、かつての征夷大将軍を勤めた徳川家茂の子である徳川雅千代と絲姫(いとひめ)を市井に置くは忍び難しと、帝が猶子に迎えたことで開かれた宮家である。

最初こそ令徳上皇の仙洞御所で養育された遺児たちだったが、雅千代が元服して家煕(いえおき)と改名したことを期に、仙洞御所の外れを宮家として与えられた。

徳川家は廸の父・松平容保の主家にあたるので、松平家との繋がりが深く、廸の兄・容真は家煕と同じ歳ということもあり、京都大学でずっと家熙と学友として過ごした。その関係は今でも続いている。その為、家熙は松平家の屋敷にも何度も訪れたことがある。その逆も然りで、廸は兄に連れられて宮家を訪れ、二歳年上の絲姫に遊んで貰ったことを不意に思い出した。

とは言え、桜が見たいから見せて欲しいと門を叩くのは、廸もそれなりに妙齢の女性である。何となく気が引けたのだ。

知己であるなら、桜を見せて貰ってはという友人の言葉には素直に頷くことは出来ず、桜を見せて貰うにしても、最も宮と近しい兄が留学中で叶うまいと、廸は応えたのだった。




桜を見ると、母を思い出す。

桜はね、寂しいのかしらね。だから一緒に咲くのかしら。

何故だか覚えている、母の声。

廸が四歳の時、母は亡くなった。

だから母の記憶はほとんどない。とは言え、一歳になる前に母を亡くした弟と違い、廸には僅かに母の記憶が残っている。よく子守唄を歌ってくれたこと、髪を梳いてくれたことなど、殆どが細やかな日常のものだけれど、その中でも母のその言葉を覚えていた。

後々に父に問えば、廸が桜の花色に染まった山を見て、桜がいっぱい、いっぱい咲くのはなぜ? と問うて、母から返ってきた応えだという。

長じた今では、同じ品種の桜だから同じ時に咲くのだと分かるけれど、なぜ物悲しく聞こえる応えを母は返したのだろう。

桜の花びらを見る度に母の声が、脳裡に甦る。

だから桜が咲き誇った少し前、廸はよく足を止め、桜を見上げていた。だから、大学の友人たちには廸は無類の桜好きと思われている。

廸は大学の帰り道、塀越しの桜を見上げて、溜め息を落とす。

帰ろうと歩を踏み出した時、呼び掛ける声に振り返った。

「もし、松平家の廸さまで?」

予想もしなかった誰何(すいか)にどう答えを返そうかと廸が言い淀むと、使用人然とした男は穏やかに、

「それがしは正院宮家の者です、実は宮さまに従い、松平家にお邪魔したことがございました。先程お見かけして、宮さまに申し上げたところ、是非ともお呼びせよとのお言葉ですが、如何されますか?」

そう言われれば断る訳にもいかず、廸は正院宮家の門をくぐった。




庭の四阿(あずまや)に設えられた宴席は御家族だけでのお花見だけだと使用人が言った通り、細やかなものだった。廸の前に薄茶と茶菓子が運ばれてきた。

「京風に言うならば、いけずではないか。廸どの、我が家の前を素通りとは」

主に揶揄うように言われて、廸は深々と頭を下げた。

「申し訳ありません、兄が帰ってからお伺いしようかと思っておりまして。私一人でお邪魔するのは失礼かと思いましたので」

主の正院宮家熙は、何度か瞬いた。

「失礼? 我が家はそなたが幼い頃来ていたのに、今更ではないか?」

「兄上、仮にも妙齢の女性が一人で他人様の御宅に訪うなど、なかなかしませぬよ」

絲姫が苦笑しながら言うのを、家煕はふむと相槌を打つ。

「絲、そんなものか」

「私がそうする所、想像出来ますか?」

「宮さま、絲姫さま、どちらにしても廸どのが困っておられる。この話はここまでになさりませ」

静かな声に廸が瞬けば、初老の女性が微笑みながら続けた。

「お初にお目にかかりますね。天璋院篤姫と申します」

廸は慌てて頭を下げた。

「ご挨拶が遅れ、失礼しました。松平廸と申します」

慌てながらも丁寧に挨拶を口にする廸を見つめて、天璋院は言う。

「廸どのの父上、会津どのにはかつて大変に苦労をかけました。会津どのは息災にお過ごしか?」

「はい、三月まで国防省顧問として勤めましたが、漸くお役御免となりましたので夏までは京都に住まい、秋には会津に戻るつもりのようです」

「会津に戻られるか」

「父は……会津を大切に思うております故に」

「おばあ様は、夏の絲姫の婚礼の為にお出で下されたのだ」

家煕の言葉に、廸は去年の今頃に父から聞かされた話を思い出した。

絲姫は帝の猶子となってしばらくして、尹宮家の嫡子と婚約を交わしていた。来年の夏には、結婚することが内々に決まったという。

「絲姫さま、おめでとうございます」

「ありがとう。母上がどうなることかと随分と気を揉まれたけれど、亡くなる前に報告が出来たことは良かったわ」

二人の母・静寛院宮は去年の冬に持病が悪化して亡くなった。

「母宮さまのご心配は姫様の婚儀だけではありませんでしたよ、宮さま、そろそろ身を固めては如何ですか」

母の思い出話が突然自分に振りかかり、天璋院の言葉に家煕は憮然とした表情を浮かべる。

「今ここで斯様な話をしても、廸が困るでしょうが。今日は花見ですよ、おばあ様」

続けて家熙が廸に言った。

「瓊二朗は、いや、容紀は元気か?」

「よほど大学が気に入ったのか、泊まり込みが多く、使用人に頼んで着替えを届けさせることがよくあります」

「さもありなん、会津の神童は帝も先が楽しみと仰せだったからな」

雲上人まで弟を知っているのかと、廸は身体を固くした。しかし絲姫の艶やかな微笑みを含んだ言葉に頷く。

「さあさ、茶と茶菓子を召し上がれ。うちの桜はね、いつでも他より遅くて、だけど今年はおばあ様がいらっしゃる時に咲いてくれて本当に良かった。廸さんにも久し振りに会えたし、うちの桜は人を呼ぶのね」

「桜は寂しがりですから、人を呼ぶのでしょうか」

廸の応えに絲姫は小首を傾げる。

「どういうこと?」

「……失礼しました。亡くなった母が言っていたのです、桜は寂しいから一緒に咲くと。こちらの桜は」

廸は桜の古木を見上げて、独り言のように言った。

「やはり寂しいから。でも同じ桜ではなく人を呼ぶのかと」

「……そう、素敵な話ね。お母様はとても素敵なことを廸さんに教えたのね」




「少しばかり変わった娘でしたね」

廸が帰った後、天璋院は桜を見上げながら言った。家熙は微笑みながら、

「廸のことですか、お婆様」

「桜は寂しがりだから、とは。なるほどと思うがなかなかそのような考え、浮かばぬもの」

「廸の母御前の言葉でございましょうな、わしはあれの兄と親しゅうございますが、その者の話では、母御前はなかなか賢く、しかし考え方が面白い方であったようです」

「そう言えば、どこか既に縁付いているのでしょうか? 兄上、御世話されては? ああ、いっそのことお迎えしては如何ですか? 兄上も知る者ならば、気心も知れようもの」

先程遮られた話を戻すような絲姫の言葉に、家熙は苦笑する。

「あれは紫の君だからな。横から奪おうものなら、源氏の君に一生恨まれる」

「紫の君?」

源氏物語は天璋院も絲姫も読んだことがある、高位の女性の(たしな)みだ。だからすぐに理解した。紫の君は源氏の君の初恋の女性の遠縁にあたり、幼い頃に源氏の君に見出だされ養育されたが、後に源氏の君の正室として迎えられた。

つまり、紫の君と言えば、女性を幼き内より養育した者がいずれ妻に迎えるという意味を持つ。絲姫はあらと小さく声をあげて、思わず綻ぶ口許を手で隠す。

「源氏の君は、兄君ですか?」

「容真はいずれは廸を妻に迎えたいと父上に言うと言っていた。確か容真がイギリス留学の前に婚約は整えたはず。会津どのからも容真が留学を終えて、国防軍に入ったら、廸を妻合(めあ)わせるつもりと聞いております故に」

「そこまで話は進んでおるのか」

なるほどと頷いて、天璋院はちらりと家熙を見る。

「宮さま、楽しそうですな」

「それはもう。容真は知り合うた時から、廸にずっと一途でしたから。長年の思いが叶うのを見届けるのは、楽しいでしょう? 」

ひらりと舞い落ちた花びらが、家熙の茶碗に落ちた。

「容真は今年中にはイギリスから帰ります。華燭の典はまだ先ですが、祝いの品が何が良いか、考えるのが楽しいでしょう?」




「宮家の桜は、どうだった?」

「とても綺麗でございました。絲姫さま手ずから作られた茶菓子を土産に頂きましたから、父上、後で頂きませんか」

娘の言葉に、容保は頷く。

「夕餉のあとにな。それよりも廸、容真から文が届いているぞ。部屋に持って行かせた故に、後でゆっくり読むがよい」

「はい」

にっこりと微笑む様子に容保は苦笑しながら言った。

「来年の桜は皆で見えるだろうとわしの文にはあった。楽しみだな」




異国から届いた長男からの書状には、廸への書状が同封されていた。書状の厚みは廸へのものが遥かに勝っていて、それを思い出し容保は苦笑する。 自分への書状には近況や、イギリス国内の様子、春は日本で迎えることができるだろう、そんなことが書かれていたが、さて廸への書状には何が書かれているのか。

廸に聞くような野暮な真似はするつもりはないが、娘を嫁に出す父親と、息子に嫁を迎える父親、両方を経験しなくてはならないという、複雑な時を迎えるのだと思うと、なおのこと苦笑するしかない。

容保は胸元に手を当てて、肌身離さず身に付けている小さな竹筒を感じながら呟いた。

「嬉しい悩み事、だな。真紀」




容真と廸が、華燭の典を挙げるのは、六年後のことである。





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