馬子にも衣装
「真朱さま、お手紙です」
漆塗りの文箱を手に居間に入ると、真朱は藍と卓を挟んで盤上の遊戯をしていた。
縦横に区切られた盤の上で王や馬などの駒を取り合う、チャトランガという遊びは藍が持ち込んだものらしいが、駒の動きや決まりが複雑で、丁子はまだ覚えきれていない。
屋敷の中でも、それで遊べるのは彼ら二人だけだ。
「その辺りに置いておいて」
劣勢なのか、難しい顔で盤上を睨む真朱が言う。
「ですが、急ぎのようです」
文箱にかけられた組み紐は、至急の用件であることを示す赤色だ。
「誰から?」
「差出人の名前はございませんが、白磁どのは『駿河さまから』と仰いました」
基本的に、屋敷の表向きのことは家令の白磁が取り仕切っているため、丁子は文を届けに来た人物を見ていない。
見ていたとしても、それがどこの誰に仕えているのかが分からない丁子では、あまり意味はないのだが。
「駿河…と言うことは」
「厄介ごとだな」
片手で額を覆う真朱に頷いて、藍は駒を片付け始めた。
「丁子、手紙」
「はい」
手渡した文箱を膝に乗せると、特殊な結い方をしてある組み紐を難なく解く。
受け取る相手と差出人だけが知る手順で紐を結うのは、途中で文を読まれないための工夫だ。仮に無理やりほどいても、元の結び目に直せなければすぐに気付かれる。
民間にはあまり普及していないが、一部の貴族では組み紐を結う専門の用人を雇うこともあるほどだ。
「真朱、片付けたから卓を使え」
「ん、ありがとう」
紐と箱を卓に置くと、真朱は文を広げた。
装飾はなくとも上質だと分かる紙に書かれた丁寧な筆跡を、さほど時間をかけずに目を通す。
「丁子、それを持って来てくれ」
手持ち無沙汰になった丁子に藍が示したのは、折り畳んだチャトランガの盤。
彼は駒の入った箱を抱えているので、彼女はすぐに従った。
いくつかある玩具は、目を離すとすぐに真朱が散らかす。片付けが面倒でないよう、それらは隣の書房にまとめることにしていた。
「厄介ごとなんですか?」
「そうだろうねぇ。滅多にここへは来ない人だから」
四畳ほどの広さにある書棚には、ところ狭しと書物が詰め込まれている。それでもまだ居間に積み上がっているのだから、真朱の読書量は半端でない。
その書棚のひとつ、玩具を集めた籠に盤と駒を納めて、書房の扉を閉めた。
「真朱、侯爵は何だって?」
居間の卓に伏せた真朱に藍が尋ねると、彼女は指先でつまみ上げた文をひらひら振って見せる。
「午後から来るって」
「へぇ」
「宰相も一緒に」
「……へぇ」
「あー、面倒。藍、白磁に知らせて。それから、浩伊に昼食を早めにと頼んできて」
「分かった」
取り上げた文を畳んで文箱に戻し、藍は踵を返した。
「丁子。宰相はどうでもいいから、侯爵を迎えられるくらいの衣裳を選んで。着替えるから」
「え?」
「なに?」
「いえ。真朱さまの衣裳に関する認識が、思いの外、常識的でしたので」
普段着を緩めた格好で客を迎えると言い出さないか、ドキドキしていただけに真朱の指示に反応が遅れてしまった。
丁子が正直に口にすると、彼女は心外だとばかり起き上がる。
「残念ながら常識的な認識も持ち合わせてるんだよ。ほら、早く」
「はい!」
◇
寝房で着付けを手伝う傍ら、丁子が疑問を向ける。
「真朱さま、午後にいらっしゃるのはどなたです?」
「駿河侯爵。臣籍に下った女王の甥だよ」
最初に小袖の紐を留めて、朱色の大袖を着せる。正装ではないが、公式の場に出られるくらいの服装を丁子は選んだ。
「昨日仰っていた方ですね。なぜ夢見亭に?」
「夢見亭を所有しているのは駿河侯爵だからね。侯爵自身が来るのは、別におかしなことじゃない」
「ここの主人は、真朱さまではないんですか?」
「私はここを与えられて住んでるだけ。藍と丁子以外は侯爵が雇ってる」
用人は屋敷に付随するもので、侍従は個人に仕えるものであるから、雇用先が違うことはままあることだ。
「私、てっきり用人たちも真朱さまが雇っているんだとばかり」
口を動かしながら白い袴の上に裳をつけ、帯を締めた。床に膝をついて裾を整えてから、丁子は真朱を見上げる。
「えっと……真朱さまは、駿河侯爵の、その」
「囲われの愛人かって?」
「いえ、あの…」
慌てて両手を振る丁子に、主は長い袖を翻して笑った。
「愛人だったら、もっと頻繁に来ると思うね。丁子はここへ来てから、屋敷で侯爵を見たことは?」
「……ございません」
屋敷どころか、どこでも目にする機会はない。
「そう言うことだよ」
「失礼なことを申しました。申し訳ございません」
主人に対して随分と不敬な想像をしたものだ。
恥じ入って頭を下げる丁子を、真朱は鏡台の前から呼んだ。
「髪、結って」
「はい」
わだかまりを感じさせない声に、仕え始めてから何度も救われている。




