仮初めなら、いらない
「不侵条約……」
三本の指を眼前に突き付けられた月白は、ゆっくりと繰り返した。
「不侵条約でも和平条約でも構わない。とにかく、国際規定に乗っ取った平和的条約を結ぶ。それも開戦の前に」
不侵条約も和平条約も、国家間で戦争をしないことに合意して結ばれる協定だ。条約締結の場には中立の立場として第三国の立ち合いが必要となり、成立した条約は法的な拘束力を有する。
破れば当然、国際社会から厳しい批判を受けることになる。
「国内……それも王宮内で動けば、必ず王弟の子飼いに察知される。けれど、国外の更に水面下でなら、まだ危険度は低い」
国内へはいくらでも圧力をかけられる王弟だが、体裁を取り繕わなければならない国際社会では、目立ったことはできないからだ。
「条約となるとヒースの首脳陣との折衝が必要になる。戦争を仕掛けようとしている相手だ。陛下との接触より遥かに難しいだろう?」
「そうでもないよ、兄さん」
「藤?」
「ヒースから宝石商が来てると言ったよね?ヒースとの国交は正常だよ。戦争をしたがっているのは王弟だけ」
つい先日、ヒースからの客人を招いての夜会に出かけるのを見送ったのは月白だ。
それから顔を合わせていなかった淡藤が、何故かこうして夢見亭にいる。
「王弟はギリギリまでヒースに勘付かせない目的があるのだろうけど、おかげで向こうと接触しても不自然じゃない」
そこまで言われれば、さすがの月白も弟がここにいる理由に察しがつく。
「お前まさかヒースガルドに……?」
「ついこの間も行ったけれど、今回は別。僕は仲介を頼まれただけだよ」
艶やかに微笑む淡藤は、月白より余程、真朱に買われているようだ。
「開戦云々はまだ水面下。貴族の中でも王弟に近い者くらいしか知らないことだから、こちらも知らぬ振りが通る」
言われてみれば。浅葱から聞かされなければ、月白も王弟が隣国を攻めようとしていることなど気付かなかったに違いない。
「よかったね。王弟が影でコソコソしてくれているおかげで、貴方は堂々と動くことができるよ」
「ちょっと待て!私が動くのか!?」
「貴方以外に、交渉の席につける人間がいるの?」
女王が表に出られない場合、国政の決定権は宰相が持つのが普通だ。
しかし任官した時から王弟の仕切りに任せてきた月白は、当然、重要な判断を委ねられたことがない。
情けない話だが、本当にお飾りでしかなかったのだ。
「……浅葱とか」
「あの人には王弟の監視が張り付いていて使い物にならないよ。貴方は、自分が宰相だって言う自覚があるの?」
「それは、その……」
月白が及び腰になるのを、真朱は鼻で笑った。
「『私が動くのか』なんて、信頼の置ける手足を持つ者が言う言葉だよ。貴方に藍のような存在がいるのなら別だけど」
「う……」
ちらりと視線を上げれば、藍は呆れ顔で肩を竦めた。
「そりゃ大層な誉め言葉だな。どれだけ働いても謝辞の一つも言わないんだから。俺が力不足なのかと思ってた」
「藍を使わないのは宝の持ち腐れだからね。心配しなくても、これからも働いてもらうよ」
「まったく。諜報までやらせといて、まだ物足りないってか?人使いの荒い主に捕まったもんだ」
「自分で居着いたくせに」
会話から察するに、藍は密偵としても動くらしい。となれば、彼は月白でも側近に欲しいと思う。
口は少々悪いが、身のこなしと所作は十分信頼に足るものだし、身の回りの世話から時に危険と隣り合わせの諜報活動もできる。親しみと忠心が矛盾なく内包される主従関係は、多くの者にとっての理想だ。
少なくとも、全てを兼ね備えた者は、月白の周囲にはいない。
「兄さんの従者は、幼少の頃からの世話係って言う側面が大きいものね」
「王宮で信頼の置けるお友だちでも作っていれば、こんなことにはならないんだよ。それが見事に孤立なんてしているから、ツテもないのでしょう」
「それは無理だよ、郎女どの。兄さんは友だち作るの苦手なんだから」
また藤が余計なことを言う。
だが、それには月白も反論したい。
なにせ月白が王宮に出入りするようになった頃には、既に王弟の独裁政治が始まっていたのだ。祖父が王弟と対立していたために、彼の不興を買う危険をおかしてまで、孫である月白と親しくしようと言う者はいなかった。
おかげで今や、王宮や議会では孤立無援の状態なのである。
いっそのこと、弟のように政治に関わらなければ状況は違っただろうが、伊勢の家を継ぐ者として選択の余地はなかった。
黙った月白に、淡藤が眉尻を下げる。
「大丈夫だよ、兄さん。そのための“仲介”だからね」
「……お前の仲介は、嫌な予感しかしない」
呟いて、月白は一度深く息をついた。近頃はそればかりな気がする。
溜め息をつくと幸せが逃げると言う。逃げ出したものは首に縄をつけてでも連れ戻さなければ、割りに合わないことになりそうだった。




