世界は未完のまま進む
別件で寄るところがあると言う伯父と別れた少年は、一人で西内殿の端を歩いていた。
すぐ右には居院(すまい)の高欄があり、左手には遠くに塀が見える。
立ち入りを制限されているために人気のない庭は、西内殿を横切るのに最適なのだ。
見習いとは言え、少年も密偵の端くれ。官吏が通る道を堂々とは歩かない。
「そこのお前」
突然降ってきた声に、少年は砂利を踏みしめた足を止める。
「え?……え?」
「こちらだ」
辺りを見回すと、また上の方から呼び掛けられた。
見上げた高欄に寄り掛かり、男が一人立っている。その顔を確認して、少年は飛び上がりそうなほど仰天する。
「い、和泉さま!?」
「喧しい」
顔をしかめたのは、王弟の息子だった。
「お前、柏木の身内だな。名は?」
「……霞でございます」
「上がって来い」
その場に平伏した少年――霞を、蘇芳は高い回廊の上に呼び寄せる。
「いえ、それは……」
「構わぬ。早くしろ」
「……はい」
礼節と命令を天秤にかけた上で、霞は軽い動作で回廊に登る。
礼は相手に敬意を表すもので、拘りすぎて相手を不愉快にさせたのでは本末転倒だからだ。
上がってからも再び平伏するべきか迷ったが、呼び寄せられたからには話があるのだろうと拱手にとどめる。
正直なところ、霞にはこの蘇芳と言う青年の立場がよく分からなかった。
父は女王の弟で、母も遠縁ながら王家の血を引くと言う生粋の王族のはずなのに、蘇芳は倭の姓を名乗っていない。
そこだけ見れば蘇芳は王子ではない。ところが彼は王弟と同じく、王族の居住区である西内殿に自由に出入りしているのだ。
定まらない身分に困惑しているのは貴族たちも同様で、蘇芳の敬称は“殿下”でも“どの”でもなく“さま”であると、暗黙のうちに決められていた。
その蘇芳は右手を顎に当て、上から下まで霞を眺めている。
「お前は近頃、よく禁裏で見かけるが……密偵の身内が役所に勤めている訳ではあるまい」
「左様にございます」
「では何をしている」
「それは、その……和泉さまはご存知なくとも、差し支えなきことでございますゆえ」
霞が言葉を選びながら答えると、蘇芳は表情を翳らせた。
「お前も、そう言うのだな」
「は……?」
「私の周りの者は、口を揃えて言う。下々のことは知らぬままでよい。父上に任せればよい。とな」
首を傾け、目を伏せる様は悲哀に満ちていて、霞の罪悪感を煽る。
「私も父上のお役に立ちたいのだが……まだまだ力不足だと言うことであろうな」
力なく呟かれた言葉に、霞は深く同調した。
伯父の役に立ちたいのに、現状ではむしろ足を引っ張っている自分が情けない。
同時に、高すぎる身分のせいで目や耳を封じられている蘇芳に同情もした。
王弟の一人息子である蘇芳は、将来の王位を期待されている。そのために今は下手な役職にも就けず、飼い殺しに近い状態なのだ。
そんな中で、耳くらい自由になってもいいのではないかと霞は思った。
「――王弟殿下の命により、八咫鴉を捜しております」
「八咫鴉と言うと、譜賢内侍の?」
「はい。八咫鴉は世代交代をすると、声を封じる習慣がございます。現在は譜賢内侍の身内が、その役を負っているかと思われますので、それを内密に探し出すようにと」
「何故?」
「は……?」
蘇芳の問いが、霞には分からなかった。
密偵は主の命令によって動く駒。命令の理由など考えない。詮索しない。ただ主の与えられた役目を遂行するのが使命だからだ。
よって、霞も王弟が何を思って八咫鴉を探すのかなど、考えたこともない。
「王弟殿下は、ヒースガルドとの開戦を望んでおられるとのこと。一刻も早く王位を欲しておいでなのではございませんか?」
王弟の立場では大臣たちを動かせても、軍は動かせない。勅命を出すには王位が必要なのだ。
「姿の分からぬ者を探すより、伯母上を脅して譲位させた方が早かろう」
そもそも、八咫鴉の役目は次の王を決めることであり、今の王が決定した譲位を覆すことはできない。
尤もな意見に頷きながらも、霞はそっと異論を挟んだ。
「それは……鴉が浅葱どのを次の王に指名するのを防ぐためでは?」
「浅葱は臣下の身ではないか」
「しかしながら、前王の実子である浅葱どのが指名される可能性も……」
霞の言葉を、蘇芳が片手を挙げて制す。
「伯母上が即位した時、譜言は浅葱ではなく伯母上を認めた」
当時、既に人格の優れていた浅葱を臣下とした仙斎の意見を黙認し、気弱な松葉の即位を承認したのである。
その経緯から考えても、今さら八咫鴉が浅葱を指名するとは考えにくかった。だとすれば、次の王位は順当に王弟に回ってくるはずだ。
しかし彼は、水面下で八咫鴉を探している。
それはまるで――。
「……どうあっても自分は選ばれぬような態度だな」
不穏な呟きの後、蘇芳はしばし沈黙した。
(選ばれない……?)
王弟は、自分が王になれないと思っているのだろうか。
それでは、王になるために画策を巡らせている行動と矛盾する。
どう言うことかと首を傾げた霞に、更に蘇芳が尋ねた。
「霞、父上が鴉を探し始めたのはいつ頃か、知っておるか?」
「確か……二年ほど前かと」
霞が伯父について王弟に拝謁してすぐのことだ。彼が最初に命じたのが霞であれば、それは二年前だ。
「王太后がお隠れになった頃か」
先々代の王の正妃――つまり松葉の母であった王太后は、夫が崩御した後に王宮を離れ隠居していたが、離宮で逝去している。
数人いた王の妻たちの中でも、正妃ながら目立つ存在ではなく、最後まで控え目な存在だった。
生前の希望で密葬だったこともあり、恐らく国民の大多数が喪中だと言うことも知らないだろう。
蘇芳でさえ、父が王太后の今際に呼ばれなければ、その最期も知らなかったはずだ。
「そう言えば、その頃からであったか。父上がヒースガルドとの開戦を進め始めたのは」
その頃を思い出しながら、蘇芳は指で顎をなぞる。
「……分からぬな。父上は何をお考えなのか」
唸って、蘇芳はため息をつく。そして高欄に凭れかかり、霞に退出を許可した。
「苦労であった」
「失礼いたします」
下がれと命じられたからには、抱いた疑問もそのままに下がるしかない。
霞は礼をとって庭に降りた。
「あぁ、霞」
「はい」
思わず見上げた蘇芳は、高欄に肘をついて手を振っている。
「私はこの刻限であれば、大抵ここにいる。また手が空いたら参れ」
「は……」
「せっかく“耳”を手に入れたのだ。重宝させてもらうぞ」
「は、はい」
最後に王弟そっくりの笑みを見せた蘇芳に、霞は口元がひきつった。
王弟は自分でなく、よく似た息子が王に指名されるのを恐れているのかもしれない。
脳裏に浮かんだ霞の思考は、正に事実の一端として正しいものだったのだが、彼がそれを知るのは後のことだった。




