学者は総じて変人
信濃は代々、高位の文官を輩出する家に生まれ、幼い頃から学問に志してきた。
『ちちうえ、ぼくは大きくなったら、先生か学者になります』
などと将来の夢を語る一人息子を、両親ともに微笑ましく見守っていたものだ。
遅くにできた子供であった信濃を、特に父親は可愛がっていた。彼が学問に関して非常に優秀だったことも、父親の気をよくしたのだろう。
このまま行けば、信濃も自分のように議会で高位に就けるだろうと安心していた父親は、息子が語った夢など綺麗に忘れ去っていた。
であるから、息子が成人を控え、そろそろ王宮での仕官先を探してやらねば、と考えていた矢先、
『父上、私は教師か学者になると申し上げたではありませんか。仕官なんてごめんですよ、面倒くさい』
と、本当に信濃が学者になろうとした時には、父親は危うく憤死するところであったと言う。
伯爵家の跡取りが、王宮へ仕官しないなど前代未聞である。
泡を食った父親に、あの手この手で拝み倒され、遂には母親に泣き落としまでされ、ようやく信濃は爵位を継いで大臣の職を得た。
議会では王弟が権力を掌握した頃で、中枢はすでに王弟を支持する派閥が多数を占めていた。けれど、政変に興味のなかった信濃は、教育大臣に任命された時、内心で喝采をあげたのを覚えている。
信濃の仕事と言えば、貴族の子女が遊学する際の、他国との調整と、逆に外国からの留学生の受け入れに関することくらい。閑職と言われるのも頷けたが、信濃はいっこうに構わなかった。
何故なら、有り余る無駄な時間を、全て自分の趣味(学問)に充てることができたからである。
更に嬉しいことに、教育大臣として与えられた僅かばかりの権限で、社会実験と称して私塾を持つことができた。
伯爵と言う地位にありながら、信濃は教師と学者と言う夢を叶えてしまったのだ。
◇
障子を開け放った円窓から、庭園の木々を揺らした風が入ってくる。
自分の代になってから離れと共に増築した書房は、信濃の城だ。
若い頃から集めに集めた、古今東西さまざまな書物を収めていて、許されるなら――いや、許されなくても年中こもっていたい場所である。
当初、私塾の子供や講師たちには解放していなかったが、いつの頃からか特別な生徒に限って、書房を講義に利用するようになった。
「先生にお尋ねしたいことがあります」
「はい、どうぞ」
“三人目”である丁子への講義は、年少の子供たちとは違い、一対一の問答のような形で行っている。
内容はその日によってまちまちだ。信濃が用意した議題について講義した後、意見や質問を交わすのがだいたいだが、時には世間話で終わることもあるし、講義の時間中二人で好きな本を読んでいることもある。
しかし今日は、向き合うとすぐに丁子の方から本日の議題がもたらされた。
「今の政治について、いかが思われますか」
「そうですね……」
言葉を切り、信濃はしばし丁子を見つめた。
信濃から見るに、彼女はけして愚かではない。紹介された時はやや世間知らずだったが、教えを受けることにはとても素直なのだ。
信濃は“一人目”でもある元生徒の真朱に頼まれた通り、丁子には国の成り立ちや、現在の議会組織の役割などについて教えてきた。丁子はいつでも真剣に話を聞いたし、疑問があればその場で尋ねる癖もついている。
だが、今まで政治の在り方について、意見を求められたことはなかった。
そう言ったものに、踏み込ませる何かがあったのだろうか。
「歪んでいる、と思います」
率直に、信濃は答えた。
「それは、王弟殿下のせいですか?」
「かの方も関係がないとは言えません。しかし問題は……そうですね、議会に蔓延する空気でしょう」
「空気?」
「えぇ」
信濃は顎を引いて肯定を示した。行儀よく両手を膝の上で重ね、背筋を伸ばす丁子は、顔だけを天井に向けて首を捻る。
彼女なりに“空気”の概念を捉えようとしているらしいが、何ともおかしな反応は苦笑を誘った。
「今、王宮に関わる貴族の多くは保身に必死です。少しでも高い地位、また役職に着こうとね。何故だか分かりますか?」
「陛下がおられなくて、監視がないからでしょうか」
「私腹を肥やすだけであれば、監視がないのは好都合ですね。ですが、より高い地位を求める動機としては、どうでしょう。正当でない方法を使ってまで何故、己の安定を?」
「……分かりません。普通はそんなことをしなくとも、自分の仕事をしっかりやっていれば、おのずと評価されて相応しい地位やお役職につくのに」
萎れたわりに、丁子の言葉は答えに近い。
あと一歩、生徒が解答に辿り着けるよう、信濃は思考を促した。
「貴族の仕事を評価するのは、誰ですか?」
「それは、宰相や陛下では?……あ」
首を捻った丁子が、にわかに目を輝かせた。悩んだ末に、答えを見つけた子供そのものだ。
「女王陛下からも宰相からも、正当な評価がなされないから、目に見える地位を求めるんですね」
「もう少し、根は深いでしょうが、おおむねそれに近いでしょう」
「根?」
「国の成り立ちをお教えした時にもお話ししましたが、倭はここ二十年弱の間に、先王陛下や王太子殿下、王女殿下など、王族を三人も失っています」
いずれも王位にあった者や、王位に近しい者ばかりである。
絶対的な君主の血統が揺らぐことは、仕える者たちに不安と焦りを与え、安定しない政権は佞臣の存在を見逃してしまう。
「『国のため』と言う大義は、案外脆いものです。規模が大きすぎて、自分を見失いやすい。そのため、国を支える者の拠り所となるのが、『国王』なのですよ」
そう言う意味では、倭には今、貴族を含め国民の尊崇を集める王はいない。
「その不安定な空気に、王弟殿下はどう関わっているのですか?」
「殿下は、言わば自らを拠り所にしたのですよ。自らに権力を集中することで、貴族を掌握しようとしている」
年齢的には不安が残るものの、不安定な状態から抜け出したい貴族にとっては、少々強引でもそれが求心力と捉えられる。
息子がいるのだから、王弟に気に入られれば次代も安泰だ、と思わせることもできた。
「……それって、国にとってはいいことですよね?国民が一つの旗の許に結束するのですから」
「純粋に、政治を正そうとしているのであれば」
「と、仰いますと?」
「貴族をまとめて、何をするかが問題、と言うことです」
ぴくりと肩が揺れた丁子を見て、信濃は口を滑らせたことに気付く。
袖の中で握った手を開き、シワの寄った袴を撫で付けた。
「――とにかく、王を始め多くの機能が正常でない現在の政治は、やはり歪んでいるでしょうね」
「歪み……」
ごまかされたことを分かっているのかいないのか、丁子はむっつりと反芻する。
そして、最後に一つ、と前置きして尋ねた。
「歪んだ政治を変えることは、可能だと思われますか?」
「余程の賢者か暴君でも現れれば、変わるかもしれませんね」
どちらにせよ、一度根本からひっくり返しでもしなければ、この国は変わらないだろう。