調教は子犬のうちから
昨日の騒動がなかったかのように、いつも通り朝の仕事を終えた丁子は、ある伯爵の邸宅を訪れていた。
夢見亭より遥かに立派な門構えは、積み上げた石垣が屋敷の辿って来た歴史を誇るかのように、見る者を威圧する。
しかし一歩邸内に足を踏み入れれば、丁子を迎えるのは家令でも侍従でもなく、
子供たちの歓声だった。
「丁子お姉ちゃん!」
「姉ちゃん、おはよー」
まだまだあどけない子供たちが、丁子を見つけて飛び寄って来る。
丁子は挨拶を返しながら、一人ひとり頭を撫でてやった。
どの子も我が家のようにはしゃぎ回っているが、その中に誰一人として、伯爵家の子供はいない。
彼らは皆、下級貴族や庶民の子供であり、ここは伯爵が長を務める私塾であった。
この私塾は文字の読み書き、算術などを教えることを目的としていて、対象は家庭教師を雇う余裕のない下級貴族や、庶民の子となっている。集まるのは大抵、十歳前後までの子供だ。
丁子がここへ通い始めたのは、侍女として雇われた後。真朱に紹介され、週の半分は講師に教えを乞うようにとの言いつけだった。
もちろん、年少の子供たちに混じって教科を学ぶ訳ではないが。
教室として解放されている離れに入ると、こちらにも子供が溢れていた。
講師役の大人の姿も見えるが、まだ授業が始まる時間ではないので好きにさせているようだ。
板張りの回廊を、数人の男の子が駆けて来る。
服や帯の形などが異なり、親の身分に差があることが見てとれるが、子供たちは一様に楽しげな表情だ。
「姉ちゃん、おはよー」
「きゃあっ」
追い抜きざま、先頭を走って来た子供に尻を叩かれ、丁子が悲鳴を上げる。
「昌騎(しょうき)!」
「なんだよー。ねーちゃん、胸揉まれた方がよかったかー?」
「どちらも止めなさい!」
昌騎は商家の息子で、ここではガキ大将である。
「揉むほど無いくせにー」
「やかましいわ!」
注意したところで、遊びたいばかりの子供が聞くはずもない。笑い声を響かせながらバタバタと遠ざかって行った。
「く、屈辱……」
ため息をついて見ていると、子供たちが行く先に男が現れた。
彼は驚いたように瞬いた後、走って来た昌騎の首根っこを掴み上げる。
ぎゃ、と昌騎が猫のような声を上げ、他の子供たちも雷に打たれたかのように立ち止まった。
「おはようございます、昌騎。今日も元気ですね」
「お、おはよう、ございます。先生」
「おはようございます!」
「ます!」
子供たちも口々に挨拶をするが、男はにっこりと笑む。
それを見て、途端に子供たちが竦み上がった。
「廊下は走ってはいけないと、何度も言いましたよね」
「ごめんなさい!もうしません!」
「それも何度も聞きましたね。お仕置きは何がいいですか?」
『ひぃっ』
子供は危険に敏感らしい。
摘まみ上げられたまま震える昌騎が哀れになってきて、丁子は彼らに近付いた。
「おはようございます、先生」
「おはようございます、丁子」
今度は普通の笑顔で応えて、男は昌騎を下ろす。
「昌騎、敬(けい)、クラウス。全員、自分の名前を百回書いて提出しなさい。授業が終わってからで結構です」
子供たちは声を揃えて返事をすると、ぎくしゃくと去って行った。一人だけ、頭に布を巻いた男の子が遅れを取り、転がるように前方の二人を追いかけた。
それを見送って、男が丁子に向き直る。
「子供はいつでも元気ですね」
「はい。……あの、さっきの子は?布を巻いた子」
「あぁ、クラウスですか?」
「クラウス…」
見送った子供たちの中に、丁子が初めて見る顔があったのだ。
回廊を歩き出した男は、丁子にも先を促した。
「クラウス・アベルと言う名前で、ヒースガルドの商人の子です。仕事でしばらく倭に滞在するとのことで。その間、交流をさせてくれと、ご両親に連れて来られたんですよ」
「ヒースガルド、ですか」
「とてもいい子ですよ」
昌騎につられなければ、と続けて、男はたどり着いた部屋の扉に鍵を差し込んだ。
子供たちに先生と呼ばれ、恐れられながらも慕われているのは、私塾の長である信濃(しなの)だ。
伯爵と言う高位が王弟の鼻についたのか、信濃は任官当初から教育大臣に任ぜられている。
現在の倭では、教育とは貴族の子弟が家庭教師から受けるものである、との考え方が一般的なため、特に仕事のない教育大臣は閑職と名高い。
それでも思うところがあったのか、彼は子供向けの私塾を立ち上げた。
貴族が私的に弟子を持つことが、特に珍しくないことを知った上での逃げ道である。
その信濃が、真朱に紹介された丁子の師であった。
「先日お貸しした本は、お喜びいただけましたか?」
「はい。……とても」
おかげで酷い目に遭った、とは信濃には非がないので黙っておく。
招き入れられたのは、離れの隣に建つ棟の書房だ。
夢見亭よりのそれより広く作られた室内には、国内外を問わず様々な書物が収められており、真朱に貸し出されたのもここの所蔵物である。
信濃が向かったのは、畳が二畳敷かれた一角だ。
ゆったりとした袖と袴の裾を払い、彼が円座に腰を下ろすのを待ってから、丁子も畳に正座した。
「さて、今日は何をお話ししましょうか」