隣は何を知る人ぞ
丁子が客間から茶器を下げて来ると、厨房では浩伊が鍋を覗いていた。
来客を迎えるため、厨房から茶壺などを持ち出したのが昼過ぎで、今はもう格子窓から西日が射し込む刻限である。
桶に水を張り、丁子は丁寧に茶杯を洗う。
「茶は足りたか?」
「はい。ほとんど真朱さまが飲んでいましたけど」
浅葱と月白にはそれぞれ二度ほど注いだが、真朱は軽くその倍は飲んでいた。
「そりゃあ、機嫌が悪い証拠だな」
「そうなんですか?」
「あぁ。嬢さまが浴びるように茶を飲んでたら要注意だ」
浩伊は茶目っ気のつもりか、片目を瞬かせる。
彼の体躯とひげ面では、熊が顔をしかめたようにしか見えなかった。
その熊――もとい浩伊は、杓子で鍋をかき混ぜつつ、こんなことを言った。
「宰相閣下との話は決裂か?」
「いえ、それがそうでもないらしくて……」
丁子にとっては緊張続きだった会談は、月白の下僕宣言が効いたのか、数日後にまた彼らを招くことを真朱が承知して終了となった。
「でも見ているこっちが疲れました。真朱さまは始めから機嫌が悪いし、藍さんは宰相さまに剣を向けるし」
「藍さまは、嬢さま命だからなぁ」
「それにしても、やりすぎです。侯爵さまもお止め下さらないし、本当に私の寿命が縮みましたよ」
「侯爵さまは負い目感じておられるから、嬢さまに強く出られないんだろうよ」
ふと手を止め、丁子は浩伊を見る。
まるで真朱の出自を知っているような口ぶりだ。
「…真朱さまと侯爵さまのこと、ご存知なんですか?」
「親子だって言う話なら、知っている。ここの用人は皆、旦那さまに所縁のある者たちだからな」
皆、と彼は言うが、夢見亭で働く用人は片手で数えられるほどしかいない。
目の前の浩伊と、家令の白磁。そして白磁の妻だ。
「知らなかったのは私だけですか…」
真朱に直接拾われたため、どうやら丁子は前提がないまま雇われたらしい。
「しかし、あまり驚いていないようだな」
杓子で鍋のふちを叩き、浩伊が見下ろしてくる。
「そんなことはないですよ」
茶杯を桶から上げて、丁子は答えた。
火を止めて洗い場に来た浩伊が、丁子の手から茶杯を取る。
「お前は、嘘がつけないな」
目を合わせたら余計な感情まで読み取られる気がして、彼女は無言で桶を見つめた。
その頭を、大きな手がぐしゃぐしゃと撫でた。
「責めてる訳じゃない」
「……分かっています」
浩伊は居丈高に説教などする男ではないし、丁子から何かを感じ取っていても、その確信を他の人に言ったりしない。
ただし、事実を知らぬ振りも、またしないのだ。
「その時が来たら、真朱さまには自分で言います」
そうしろ、と再び頭に置かれた手は優しかった。