昔話を少々
丁子が取り落とした茶杯は、床に叩きつけられる寸前で藍の手によって救出された。
陶器の割れる音に代わって響いたのは、椅子が倒れるそれだった。
立ち上がった月白は、しかし宙に視線を投げたまま放心している。
「も、申し訳ございません!藍さん、怪我は…」
「大丈夫、大丈夫。それより気を付けろよ」
幸い茶を注ぐ前だったので、火傷もしていない。
茶杯を受け取り、丁子は深く頭を垂れた。
「はい……。その、驚いてしまって。真朱さまが、侯爵さまのご息女だったなんて」
「そうだ、侯爵の娘…」
丁子の呟いた言葉に、月白が反応する。
「元は王族でも、浅葱は臣籍に下って姓も与えられている。なのにその娘が倭を名乗っているのはなぜですか」
通常であれば、真朱が名乗るべきは駿河の家名だ。
侯爵の娘が倭を名乗れるとすれば、父親である浅葱が臣籍に下る前に真朱が生まれ、王に彼女は王族であると宣下を受けているか、もしくは――母親が現在も王族であるか、だ。
真朱と浅葱の年齢と、当時の状況。そして先の条件を総合して思考し、弾き出した答えに驚愕した月白は、腰が抜けたように座り込んだ。
「まさかそんな……朱華(はねず)殿下との?」
「はねず、殿下?」
「女王陛下の娘だよ。十年くらい前に亡くなってる」
藍が注釈をつけてやると、主人の出自を知らなかったらしい丁子はぽかりと口を開けた。
「では……真朱さまは、女王陛下のお孫さまなのですか?」
「それだけではない。浅葱のご尊父は女王陛下の兄、先の王だから――」
真朱は先王の孫にもあたる、間違いなく直系の王女だ。
「何と言うことだ…」
頭を抱えた月白に、真朱は不敵に笑った。
「頭の中身までヘタレてはいないようだね」
「ふざけている場合か!浅葱、なぜ黙っていたんです?こんなことが王弟に知れたら……」
「だからこそ、黙っていた」
そっと吐き出すように、浅葱は言った。
「――少し、昔の話をしようか」
◇
「二十年ほど前。私が十六の頃まで、この国は父上の下で、安定した政治体制だった」
卓に両手を重ね、浅葱は語り始める。
兄は幼少期から病弱だったが、王太子としての才は十分あり、自分が兄の支えになって国を継いでいくのだと言う理想を、浅葱は早くから描いていた。
しかし、ある程度成長してくると、浅葱を王太子にと推す勢力が現れる。
まだ若いながらも議会で勢いをつけ始めた、王弟であった。
王弟は叔父と言う立場を利用して近付いて来ては、言葉巧みに王になることの利を囁いたが、子供ながらに兄を尊敬していた浅葱には、彼の言葉に何の魅力も感じられなかった。
おかげで、自分の存在が兄の立場を脅かすものだと理解した浅葱の行動は早かった。
王族の名を捨て、臣籍に下ることを父王に申し出たのである。
「父上を始め誰もが反対した。兄上にさえ、頼むから馬鹿なことは止めてくれと懇願されたほどね」
当時、臣籍に下るのは臣下の元へ嫁いだか、罪を犯した者への罰かのどちらかであり、まだ十代の王子がそれを申し出るなど前代未聞のことだった。
誰もが浅葱に翻意を迫る中、ただ一人理解を示したのは従妹の朱華だ。
彼女とは同世代であり、幼い頃から兄も含め三人で遊んだし、悪さをしては乳母から叱られた。
きちんと整理された衣装部屋ですべての衣を裏返しにしたり、厨房に忍び込んで塩と砂糖の入れ物を取り替えたり。議場前の大階段に油を塗って、議員たちが滑るのを見て笑ったり。いたずらを思い付くのは朱華で、叱られるのはもっぱら浅葱だったが。
「今思えば、我が妻ながら随分と型破りな人だったよ。君は母親似だね、真朱」
目を細める浅葱は本当に嬉しそうだ。
「会ったことのない人に似てるって言われてもね」
「いや、その憎まれ口もそっくりだ」
破天荒な性格の従妹は、その時もやはりぶっ飛んでいたのだ。
『でかしたわ、浅葱。臣籍になるなら、貴方は公式に私の下僕よ』
心から喜んだ朱華を前に、本気で止めようかと思ったのは秘密だ。
「うわ、真朱さまそのものです」
「間違いない」
頷き合う従者二人に真朱が顔をしかめる。
「私はそこまで傲慢ではない」
「無邪気なだけ、と朱華は言っていたね」
「………」
最終的に、弟の台頭を感じていた父王が息子の意思を酌んだ形で、浅葱は侯爵の地位を得た。
駿河の姓を与えられ王宮を出た浅葱に、王弟は興味をなくしたようで、その後二年ほどで顔を会わせても声をかけてくることはなくなった。
だが、これで王位継承に波風が立たないと安心した浅葱は甘かった。
王弟は役に立たない浅葱から、次の標的に乗り換えただけだったのだ。
兄が父王の後を継げなかった場合、王位が転がり込んでくる可能性がある従妹に。
浅葱を懐柔しようとした時とは違い、朱華に対して王弟は威圧的だった。
自我の成立してきた王子や王女の後ろについて実権を握るより、自ら王位を手に入れる方へ、欲の天秤が傾いたらしい。
言いなりにならなければ、いっそ邪魔者として消すこともいとわないほど、王弟は短期間で力をつけていたのだ。
朱華は他人に迎合するような質ではなく、当然叔父の思惑も突っぱねていたが、身の危険を感じるようになった彼女に、浅葱は離宮へ逃れるよう訴えたこともある。
それでも朱華は王宮を離れようとしなかった。
己が去れば、王弟は今度こそ兄に手をかける。そうなれば父王亡き後、気の弱い己の母を押さえ込んで王位につくだろう、と。
しかし浅葱も、指をくわえて見ている訳にはいかなかった。
幼い頃から積み上げてきた朱華との関係が、その頃には恋人に変わっていたからである。
「何度頼んでも、彼女は私と共には来なかった」
「危険が迫っていたのに、なぜです?」
「臣下となった私の代わりに、父上や兄上を側で支えるのだと。逆に私は、議会で早く出世しろと焚き付けられた」
結果として、出世を待つ時間はなかった。
浅葱が臣籍に下って三年後、兄が流行り病であっけなく亡くなったからだ。
それまでの数年は、風邪を引くことも少なくなってきていたため、兄に期待をかけていた父王の嘆き様は相当なものだった。
その憔悴と心労が祟ったのか、翌年にまた猛威をふるった病で、父王もまたこの世を去った。