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大正浪漫、飾られた令嬢は選ぶ側になる ――象徴として愛された私は、影で支えていた書生を選びました

掲載日:2026/02/04

第一章 飾られた令嬢


 入谷子猫が「理想」と呼ばれるようになってから、もう何年が経つだろう。


 帝都の春は、いつも人の噂と共に訪れる。

 柳の芽吹きよりも早く、新聞の片隅や社交界の茶話の中で、彼女の名はささやかれた。


 ――才色兼備の令嬢。

 ――近代的でありながら、古き良き大和撫子の気品を失わぬ女性。

 ――次代を象徴する存在。


 それらの言葉は、いつしか彼女自身よりも重くなり、入谷子猫という一人の人間を包み込み、動きを縛る「外套」のようになっていた。


 今夜もまた、子猫はその外套をまとって、明るい客間の中央に立っている。


 入谷家の屋敷は、和洋折衷の瀟洒な造りだった。

 磨き抜かれた床板、硝子越しに揺れる行灯の灯り、甘く漂う紅茶と香木の匂い。

 客人たちは皆、慎重に距離を保ちながら、彼女を眺めている。


 近づきすぎてはいけない。

 触れてはいけない。

 だが、見ずにはいられない。


 そんな空気が、部屋全体に張りつめていた。


「入谷様、本日はお招きいただき、ありがとうございます」


 そう言って頭を下げた紳士に、子猫は微笑みを返す。

 鏡の前で幾度も練習した、角度の狂わぬ微笑みだ。


「こちらこそ。お寒い中、足をお運びいただき感謝いたします」


 声の調子も、言葉の選び方も、間違いはない。

 誰にとっても聞き心地がよく、癖がなく、覚えやすい。


 ――だが。


(……また、だ)


 胸の奥で、微かな息苦しさが膨らむ。


 今夜の会合は、名目上は文化交流の茶会だが、実際には縁談を含んだ社交の場であることを、子猫は理解していた。

 そして、その中心に据えられているのが自分であることも。


 客人の視線は、決して露骨ではない。

 だが、その奥にある計算や期待を、子猫は敏感に感じ取ってしまう。


 ――どの家と結べば価値が高いか。

 ――どの立場に置けば映えるか。


 自分が「人」ではなく、「条件」や「象徴」として見られている感覚。


 それを指摘する者はいない。

 それを否定する空気もない。


 だからこそ、子猫は今日も、何も言わない。


「子猫さん」


 控えめに名を呼ばれ、彼女はふと視線を落とした。


 そこに立っていたのは、文殊重人だった。


 派手さのない和装。

 社交の場では目立たない位置に控え、必要なときだけ静かに動く。

 彼はこの場の主役ではない。だが、この場が滞りなく進むために欠かせない存在だった。


「お茶が少し冷めております。新しいものをお持ちしましょうか」


「……ええ、お願い」


 その短いやりとりだけで、子猫の肩から、わずかに力が抜ける。


 文殊は、何も尋ねない。

 何も期待しない。

 彼女が「理想」であろうとする必要がない唯一の相手だった。


 彼が差し出す湯飲みを受け取りながら、子猫はほんの一瞬だけ、視線を伏せる。


(……ここにいると、息ができる)


 それがどれほど救いであるかを、彼女は言葉にしない。

 言葉にした途端、壊れてしまいそうな気がして。


「入谷様」


 別の声が、二人の間に割り込んだ。


 櫻井匡。

 この夜、もっとも注目を集めている人物の一人だ。


 整った顔立ちに、揺るぎない自信。

 名家の出であり、将来を約束された立場。

 彼が一歩近づくだけで、周囲の空気が変わる。


「本日の装い、実にお似合いです。まるで、この時代のために用意された存在のようだ」


 賞賛の言葉。

 だが、その響きに、子猫は小さな違和感を覚えた。


「ありがとうございます」


 そう答えながら、彼女は無意識に、文殊から半歩だけ距離を取ってしまう。

 それを咎める者はいない。

 むしろ、それが「正しい配置」なのだと、この場の誰もが思っている。


「あなたは、特別だ」


 櫻井は穏やかに言った。


「多くの人が、あなたに夢を見る。あなた自身も、それを理解しているはずだ」


 子猫は微笑む。

 否定も、肯定もせずに。


 夢。

 象徴。

 理想。


 それらはすべて、彼女の外側に貼り付けられた言葉だ。


(私は……)


 自分が何者であるのか。

 その問いを、口に出すことは許されていない。


 茶会が終わり、客人たちが去ったあと。

 屋敷には静けさが戻る。


 子猫は一人、廊下を歩いていた。

 足袋の裏が畳に触れる音だけが、やけに大きく響く。


「お疲れさまでした」


 背後から、文殊の声。


「……ありがとう」


 子猫は振り返らずに答えた。


 彼女の背中は、今夜ずっと、まっすぐだった。

 誰にも寄りかからず、誰にも縋らず。


 だが、廊下の角を曲がった瞬間、ほんのわずかに歩調が乱れる。


 文殊は何も言わない。

 ただ、距離を保ったまま、その背を見守る。


 入谷子猫は、まだ知らない。


 自分が「飾られた令嬢」であることをやめる日が、そう遠くないことを。

 そして、その選択が、誰かの価値を壊すことになるという事実を。


 春の夜は、静かだった。

 だが、確かに何かが、動き始めていた。




第二章 影で支える人


 文殊重人は、自分が「裏方」であることに慣れていた。


 慣れすぎて、もはやそれを誇ることも、卑下することもない。

 ただ、そういう性分なのだと知っているだけだ。


 入谷家の屋敷は、夜になると静けさが増す。

 昼間は客の靴音や女中の足取りが途切れなく行き交う廊下も、今は行灯の灯に照らされて、ほとんど物音を立てない。

 障子越しに揺れる影が、時折、風で揺れる庭木と重なって見える。


 重人は台所に立っていた。


 茶会の後始末は女中たちが済ませている。だが、彼が今しているのは、その後の「本当の仕事」だ。


 ――主役が戻ったあとの、生活。


 井戸で冷やしておいた水を鍋に張り、火にかける。

 味噌の壺を開けると、発酵した香りがふっと立った。

 出汁は昼に取ってある。

 具材は豆腐と葱。胃に重くないものがいい。今夜の子猫は、きっとほとんど食べていない。


(……いつからだろうな)


 彼女が、人前でまともに食事を取らなくなったのは。

 いや、取れなくなったのは。


 重人は包丁で葱を刻みながら、ふと思う。

 子猫がいない食卓は、妙に広い。

 ただの器と湯呑みが置かれているだけなのに、まるで席が空いていることが大きな音を立てる。


 彼女は、今夜もまっすぐ歩いていた。

 立ち姿も、言葉も、笑みも、完璧だった。


 だが、その背中が廊下の角を曲がった瞬間、ほんのわずかに歩調が乱れたのを、重人は見逃さなかった。


 重人は、見逃さない。


 それが仕事であり、彼の性質でもあった。


 味噌を溶き入れる。

 湯気がふくらみ、部屋が少しだけ温まった。

 器を用意し、蓋つきの椀に注ぐ。

 それから、小さな皿に漬物を二切れだけ。

 夜食というほどではないが、空腹をやわらげるには充分だ。


 盆に乗せ、重人はそっと廊下に出た。


 主屋の奥、子猫の私室の前で足を止める。

 襖の向こうに気配はある。だが、物音はしない。


「……入谷様」


 呼びかける声を、重人はいつも少しだけ低くする。

 公の場で聞かせる声とは違う。彼女が「飾られた令嬢」でいるための声ではなく、ただの人間としての声だ。


 返事がない。


 重人は焦らない。

 襖に手をかけず、盆を膝に置いてその場に座る。


 待つ。


 昔から、そういう距離感だった。


 入谷子猫は、頼るのが下手だ。

 「欲しい」と言うより先に、飲み込む。

 「苦しい」と言うより先に、笑う。


 だから、こちらから押し込むこともしない。

 ただ、用意して、そこにいる。


 しばらくして、襖がわずかに開いた。


 細い隙間から、子猫の目が覗いた。

 薄暗い中でもわかる、白い肌と、疲れの影。


「……まだ起きていたの」


「お椀が温かいうちに」


 重人がそう答えると、子猫は小さく息をついた。


 襖が開き、彼女は畳の上に腰を下ろす。

 髪を下ろしているせいか、社交の場の「理想」とは違う。

 それでも整っているのが、彼女の面倒なところだ、と重人は思う。


「食べられるか」


「……たぶん」


 たぶん、という言葉に重人は何も言わない。

 盆を差し出し、彼女が手を伸ばすのを待つ。


 子猫は椀の蓋を開け、湯気に顔を近づけた。

 ふっと、肩が下がる。


「……味噌の匂い、落ち着く」


「それはよかった」


 子猫は口をつける。

 一口。二口。

 ゆっくりだが、確かに飲み込んだ。


 重人は、その様子を見ながら、胸の奥が少しだけ楽になるのを感じる。

 生きている。

 今日も。


 それだけで十分だ、と心のどこかで思ってしまう。

 だが同時に、それだけで満足してはいけないとも思う。


 ――彼女は「生きている」だけではいけない立場に置かれている。


 子猫は箸を置き、ふと目を伏せた。


「さっき……櫻井様が」


 その名前が出た瞬間、重人の手がわずかに止まる。

 表情には出さない。出さないが、胸の奥のどこかがひやりと冷える。


「何か、言われましたか」


「特別だって。夢を見せる存在だって」


 子猫の声は淡々としている。

 まるでそれが褒め言葉であるかのように、当然のように語られていることが、重人には恐ろしかった。


 夢を見せる存在。

 それは、本人の意思とは無関係に、勝手に「何か」にされるということだ。


「……入谷様は、入谷様です」


 重人がそう言うと、子猫は少しだけ笑った。


「そういうことを言うの、あなたくらいよ」


 その言葉は、軽い冗談のようだった。

 だが重人は、その軽さに救われるほど器用ではない。


 彼女にとって自分が「そういうことを言う人」になってしまったことが、嬉しいより先に、怖い。


 彼女の生活に入り込みすぎてしまった。

 必要とされることが当たり前になってしまった。

 もしそれが崩れたとき、自分はどんな顔をするのか。


 重人は、自分の心が薄暗い場所で波打つのを感じた。


 子猫が椀を空にした。


「……ありがとう」


「はい」


 その短いやり取りだけで、彼女は立ち上がる。

 襖の向こうに戻る前に、子猫はふと、振り返った。


「ねえ、重人」


「何でしょう」


「私は……ちゃんとできてた?」


 重人は、息を止めた。


 その問いは、社交の場の礼儀でも、飾られた令嬢の言葉でもない。

 ただの、人間の声だった。


 重人は一瞬だけ迷った。

 「できてました」と言えば、彼女はまた仮面を被れる。

 「無理をしてました」と言えば、彼女は崩れるかもしれない。


 だが、崩れていいのだ。

 むしろ、崩れなければ、彼女はずっと息ができない。


「……十分すぎるほど」


 重人はゆっくり言った。


「ただ、できているほど、あなたが苦しくなるなら――そのまま続ける必要はないと思います」


 子猫は目を見開いた。

 次に、ほんの少しだけ唇を噛んだ。


「……あなた、たまに怖いこと言うわね」


「申し訳ありません」


「ううん。……ありがとう」


 彼女は襖を閉めた。


 重人は盆を抱えたまま、しばらくその場に座っていた。

 胸が、妙に熱かった。


 翌朝、重人はいつもより早く目を覚ました。

 入谷家の一角――彼に与えられている小さな部屋で、簡素な布団を畳み、顔を洗う。


 庭に出ると、空気がまだ冷たい。

 夜明け前の光が、薄い霧を透かしている。


 重人は物置へ向かった。

 茶会の道具を整え、帳簿を確認し、必要な買い出しの一覧を頭の中で組み立てる。


 それはいつものことだ。

 だが今日は、いつもと違う気配が屋敷にあった。


 玄関口が騒がしい。


 女中が小走りで廊下を行き、誰かが客を迎える声がする。


 重人は眉をひそめ、足を止めた。


 そこに現れたのは、耳受マチネだった。


 彼は、新聞社か文士か――そういう「言葉を仕事にする人間」の匂いを持っている。

 羽織の襟元、紙の束、目の奥の落ち着かない光。


 屋敷の人間に向けている笑みは柔らかいが、その目は周囲をすばやく観察している。


「入谷様にご挨拶を。昨夜の茶会、たいへん見事でしたのでね」


 耳受の言葉に、女中が曖昧に笑う。


「入谷様は、まだお休みでして……」


「なら、待たせていただきます。噂というものは、待ってはくれないがね」


 軽い冗談のように言いながら、耳受は玄関の上がり框に腰を下ろした。


 重人は、背筋が冷えるのを感じた。


 噂――その言葉が、今の子猫に一番似合わない。

 いや、似合わないからこそ、まとわりつく。


 そこへ、さらにもう一人。


 櫻井匡が、屋敷に姿を現した。


 朝の光の中でも、彼は堂々としている。

 何の遠慮もなく、当然のように敷居を跨ぐ。


「入谷家の皆様には、昨夜は大変お世話になりました」


 丁寧な口調。

 だが、礼儀の下にある「当然」が透けて見える。


 重人は、無意識に一歩、前に出そうとしてしまった。

 それを自分で止める。


 出る立場ではない。

 出れば、子猫の「理想の配置」を乱す。


(……俺は)


 重人は拳を握る。

 守りたいのに、守れない。

 支えているのに、前には立てない。


 その矛盾が、彼を裏方に縛りつける。


 ふと、廊下の奥から足音がした。


 入谷子猫が現れたのだ。


 白い着物に、薄い羽織。

 髪はまとめている。

 顔は、社交の場の彼女に戻っている。


 だが、重人には分かった。

 その目の奥に、昨夜の「人間」がまだ残っている。


「お早うございます、櫻井様。耳受様も……朝からお越しいただいて」


 子猫は微笑む。

 完璧な微笑み。


 耳受はにやりとした。


「いやいや、入谷様の周囲が今、少々賑やかでしてね。昨夜の茶会を境に、皆さん、あなたのことを“より深く”知りたがっている」


 子猫の指が、袖の中で小さく動いたのを、重人は見た。

 耐えている。

 笑みが、ほんの少しだけ固くなる。


 櫻井は子猫に近づき、優雅に頭を下げた。


「昨夜のあなたは、相変わらず美しかった。……あなたには、ふさわしい立場がある。私が、必ず」


 その言葉に、重人の胸の奥が冷たくなる。


 「必ず」。

 そこに、子猫の意思は含まれていない。


 子猫は微笑む。

 それが「正しい反応」だからだ。


 重人は、その微笑みが見ていられなかった。


 ――昨夜、彼女は確かに問いかけたのだ。

 「ちゃんとできてた?」と。


 その問いは、まだ続いている。

 これからも続く。


 そして、もし彼女が「できていた」という答えを拒むようになったとき。


 何かが崩れる。


 重人は、静かに息を吸った。

 裏方のままでいい。

 前に出なくていい。


 ただ――彼女が息をできる場所を、失わせない。


 そのためなら、どんな立場でも構わない。


 春の朝の光が、廊下に差し込む。

 子猫の影が細く伸び、櫻井の影と重なり、そして重人の足元で途切れた。


 まだ、誰も気づいていない。

 この屋敷の中で、静かに始まった小さな綻びが、やがて大きな「選択」へ繋がることを。


 重人は一歩、引いたまま、子猫の背を見守った。

 守るために引く――それが、彼の戦い方だった。




第三章 縁談という名の所有


 縁談というものは、音を立てずに始まる。


 誰かが「そういう話があるらしい」と言い、

 誰かが「悪くない条件だ」と頷き、

 当人の知らぬところで、すでに半分ほど決まっている。


 入谷子猫が、その事実をはっきりと意識したのは、櫻井匡が屋敷を頻繁に訪れるようになってからだった。


 最初は、礼儀正しい訪問だった。

 茶会の礼、書簡、季節の挨拶。

 どれも過不足なく、非の打ち所がない。


 次に、話題が増えた。

 文化、時勢、将来像。

 彼はいつも「社会」や「家」という大きな枠で語り、子猫はその枠の中で、うまく頷く役割を与えられた。


 そして、ある日。


「入谷様」


 静かな声で名を呼ばれ、子猫は庭に面した客間で顔を上げた。


 障子の向こうでは、初夏の風が若葉を揺らしている。

 文殊重人は少し離れた場所で、帳簿に目を落としていた。


「今日は、少し踏み込んだお話をさせていただきたい」


 櫻井匡はそう切り出した。


 子猫の胸が、わずかに強く脈打つ。


「……どのようなお話でしょうか」


「あなたほどの方であれば、察しておられると思いますが」


 彼は微笑む。

 自信に満ちた、迷いのない微笑み。


「私は、あなたを正式に迎えたいと考えております」


 部屋の空気が、一瞬だけ止まった。


 縁談。

 予想していなかったわけではない。

 むしろ、いつか必ず来るものだと理解していた。


 だが、実際にその言葉を向けられると、子猫の喉はひどく乾いた。


「光栄なお話ですが……」


 子猫は、慎重に言葉を選ぶ。

 選ばなければならないのは、言葉だけではないと分かっているからだ。


 櫻井は、子猫のためらいを拒絶とは受け取らなかった。

 それどころか、当然の反応だとでも言うように、続ける。


「あなたは、象徴です」


 その一言が、子猫の胸を突いた。


「この時代において、あなたほど“意味を持つ”女性はいない。

 知性、品格、血筋、そして世間の支持。

 あなたは、多くの人に希望を見せる存在だ」


 彼は、子猫ではなく、どこか遠くを見ている。

 まるで、完成した絵画を前に講釈を垂れるように。


「だからこそ、あなたは正しい場所に立つべきだ。

 私の隣は、その場所にふさわしい」


 子猫は、何も言えなかった。


 正しい。

 ふさわしい。

 意味を持つ。


 それらの言葉は、すべて理屈としては正しい。

 否定すれば、わがままに聞こえるだろう。


「私は……」


 口を開きかけて、子猫は言葉を飲み込んだ。


 「私はどう思うか」という問いが、この場に存在していないことに気づいてしまったからだ。


 櫻井の語る未来に、子猫の感情は含まれていない。

 含まれているのは、配置と役割だけ。


 視線の端で、文殊の背中が動くのが見えた。

 帳簿を閉じ、こちらを見ている。


 だが、彼は何も言わない。

 言えない。


 この話は、彼の立場では踏み込めない領域だ。


「……少し、お時間をいただけますか」


 子猫は、ようやくそう言った。


 櫻井は、わずかに眉を上げたが、すぐに穏やかな笑みに戻った。


「もちろんです。

 ただ――時間は、あまりかけない方がよい」


 その言葉には、圧があった。

 優しさの皮を被った、確信。


 櫻井が去ったあと、客間には静けさが戻る。


 子猫は、畳に置いた自分の手を見つめた。

 指先が、わずかに震えている。


「……重人」


 呼びかける声は、小さかった。


「はい」


 文殊は、すぐに応じる。

 それだけで、子猫の胸に溜まっていたものが、少しだけ緩んだ。


「私、どうすればいいのかしら」


 その問いは、助言を求めているようでいて、実は違う。

 誰かに決めてほしいという、弱さの表れだった。


 文殊は、少しだけ間を置いた。


「……選ばれることと、選ぶことは、同じではありません」


 慎重な言葉だった。


「櫻井様のお話は、条件としては申し分ないでしょう。

 ですが、条件が整っているからといって、それが“幸せ”と直結するわけではない」


 子猫は、目を伏せた。


「でも、私は……多くの人に期待されている」


「期待は、責任ではありません」


 文殊の声は低く、静かだった。


「少なくとも、あなた一人で背負うものではない」


 子猫は、答えなかった。

 答えられなかった。


 その日の夕方、耳受マチネが再び屋敷を訪れた。


 今度は、はっきりとした目的を持って。


「最近、入谷様のお名前を、ずいぶん耳にします」


 縁側に腰を下ろし、彼は紙を弄びながら言った。


「櫻井家とのご縁。

 世間は、すでに“決まった話”として受け取っていますよ」


 子猫の胸が、冷える。


「……まだ、何も決まっておりません」


「ええ、知っています。

 ですが、“決まったように語られる”こと自体が、ひとつの力になる」


 耳受は、楽しそうですらあった。


「人は、結論を待てませんからね。

 語れる物語があれば、それを信じてしまう」


 子猫は、初めてその場で、はっきりと不快感を覚えた。


「それは……無責任です」


「そうでしょうとも」


 耳受は肩をすくめる。


「だからこそ、面白い」


 その言葉に、子猫は何も返せなかった。


 夜。


 私室に戻った子猫は、灯りを落とし、ひとり座っていた。


 櫻井の言葉が、何度も脳裏を巡る。


 ――正しい場所。

 ――ふさわしい立場。


 それらは、彼女の意思を必要としない言葉だ。


(私は……どこに行きたいの)


 自分に問いかけても、答えはすぐに出ない。


 ふと、昼間の文殊の言葉が浮かぶ。


 ――選ばれることと、選ぶことは同じではない。


 その違いを、子猫は今まで深く考えたことがなかった。


 選ばれることは、楽だ。

 流れに乗ればいい。

 責任は、周囲が分担してくれる。


 だが、選ぶことは違う。

 拒む理由を、自分で背負わなければならない。


 子猫は、膝を抱えた。


 静かな部屋で、初めてはっきりとした感情が胸に浮かぶ。


 ――逃げたい。


 それは、衝動に近い思いだった。

 まだ形を持たない。

 だが確かに、そこにある。


 同じ夜、文殊重人は自室で、帳簿を閉じていた。


 彼は、櫻井匡という男を、理屈では理解できると思っていた。

 正しく、賢く、時代に合った人物。


 だが。


(……あの人は)


 子猫を「選ぶ」と言いながら、

 子猫に「選ばせる」つもりがない。


 そのことが、重人には耐え難かった。


 自分は裏方だ。

 前に出る資格はない。


 だが、もし彼女が「選ぶ」ことを望むなら。


 その選択を、奪わせてはいけない。


 夜の屋敷に、静かな決意が落ちる。


 縁談は、すでに始まっていた。

 だが同時に、それを壊す芽も、確かに芽吹いていた。






第四章 噂と視線


 噂というものは、誰かが語り始める前から、すでに形を持っている。


 人々の中にある期待や願望が、自然と結びつき、

 言葉を与えられた瞬間に――あたかも事実であるかのように振る舞い出す。


 入谷子猫は、その渦中に立たされていた。


 数日前から、屋敷に届く書簡の文面が変わった。

 直接的な祝辞ではない。

 だが、「これからのお立場」「将来を見据えて」「末永いご縁を」

 そんな曖昧な言葉が、揃いも揃って滲んでいる。


 誰も、はっきりとは言わない。

 だが、皆が「決まった」と思っている。


 ――櫻井匡との縁談は、既定路線だと。


(……まだ、何も答えていないのに)


 子猫は、朝の身支度を整えながら、鏡に映る自分を見つめた。


 きちんと整えた髪。

 控えめな色の着物。

 非の打ち所のない姿。


 それが、今の自分に与えられた「正解」だ。


 だが、その正解が、ひどく遠く感じられる。


「入谷様、本日は出版社の方がいらっしゃいます」


 女中の声に、子猫は小さく頷いた。


「ええ、分かりました」


 応接間では、耳受マチネがすでに腰を下ろしていた。

 いつもと同じ、軽い笑み。

 だが、目の奥の光は、以前よりもはっきりしている。


「いやあ、最近はどこへ行っても、あなたの話題で持ちきりですよ」


 彼はそう切り出した。


「文化界の象徴。

 次代を担う令嬢。

 そして――」


 そこで、ほんの一瞬、間を置く。


「櫻井家の“未来の人”」


 子猫の胸が、きしんだ。


「……そのような話は、正式には何も」


「承知しています」


 耳受は即座に言った。


「ですが、世間というものは、“正式”よりも“物語”を好む」


 彼は懐から紙を取り出す。

 そこには、いくつかの見出し案が走り書きされていた。


 ――理想の結びつき。

 ――新時代を象徴する縁。

 ――文化と名家の融合。


 どれも、子猫の意思を必要としない言葉だ。


「これらは、まだ世に出ていません」


 耳受は言った。


「ですが、出そうと思えば、いつでも出せる」


 脅しではない。

 事実の提示だ。


 子猫は、静かに息を吐いた。


「……私は、誰かの物語の部品ではありません」


「ええ、そうでしょう」


 耳受は頷く。


「ですが、“そうであろうとする”だけでは、噂は止まらない」


 彼は立ち上がり、障子越しに庭を見た。


「噂というのは、視線の集合体です。

 多くの人が同じ方向を見ると、そこに“意味”が生まれる」


 その言葉は、子猫の心に重く沈んだ。


 その日の午後。

 子猫は、外出のために車に乗った。


 目的地は、若い女性たちが集まる勉強会だ。

 文化や学問を志す者たちが、互いに刺激を与え合う場。


 子猫は、そこで“理想の先輩”として迎えられていた。


「入谷様……!」


 真っ先に駆け寄ってきたのは、涼風ちはるだった。


 年若く、目を輝かせ、子猫を見上げるその姿は、純粋そのものだ。


「お会いできて嬉しいです。

 最近、本当にお忙しそうで……」


「ありがとう。あなたも、変わらず熱心ね」


 子猫は微笑む。

 だが、ちはるの言葉は続く。


「でも……やっぱり、そうなんですね」


「……何が?」


 ちはるは、少し頬を染めた。


「櫻井様とのお話。

 皆、噂しています。

 入谷様にふさわしい方だって」


 その言葉は、悪意のない刃だった。


 ちはるは、ただ憧れている。

 憧れの先輩が、正しい場所に収まっていくことを。


「入谷様は、私たちの希望ですから」


 希望。


 その言葉を聞いた瞬間、子猫は息が詰まった。


 自分は、誰かの希望である前に、自分自身でいたい。

 だが、その願いを口にすることは、ちはるの純粋さを否定することになる。


「……ありがとう」


 子猫は、そう答えるしかなかった。


 勉強会の最中、子猫は何度も視線を感じた。

 探るような視線。

 確かめるような視線。


 彼女が何を言い、どう振る舞うかで、

 「縁談の真偽」を測ろうとする目。


 帰路の車中、子猫は深く座席に沈み込んだ。


(……逃げ場が、ない)


 屋敷に戻ると、文殊重人が迎えた。


「お帰りなさいませ」


 いつも通りの声。

 だが、子猫はそれだけで、胸がいっぱいになる。


「……少し、話してもいい?」


「はい」


 二人は、縁側に腰を下ろした。


 夕暮れが庭を染め、長い影を落とす。


「皆が、もう決まったように言うの」


 子猫は、ぽつりと漏らした。


「私が、何も言っていなくても」


 文殊は黙って聞いている。


「期待されて、見られて、

 正しい位置に立つことを、当然のように求められる」


 子猫の声は、少し震えていた。


「……私が、拒んだら」


 その先の言葉が、喉に詰まる。


 文殊は、ゆっくりと口を開いた。


「拒むことは、裏切りではありません」


 その声は、確かだった。


「それは、あなたが“生きている”という証です」


 子猫は、目を伏せる。


「でも、私は……怖い」


「ええ」


 文殊は否定しない。


「怖くていい」


 彼は、子猫の方を見ない。

 見てしまえば、何かを押し付けてしまいそうだったからだ。


「ただ、ひとつだけ」


 文殊は続ける。


「あなたが選ばなかった未来を、

 誰かに“正しかった”と言わせる必要はありません」


 その言葉は、子猫の胸に、静かに落ちた。


 その夜、子猫は眠れなかった。


 櫻井の言葉。

 耳受の示した見出し。

 ちはるの無邪気な期待。


 すべてが、同じ方向を向いている。


 ――ここに収まれ。


 その声に、初めて、はっきりとした反発が生まれた。


(……私は)


 何者でもない自分を、選びたい。


 まだ、それを口にする勇気はない。

 だが、胸の奥で、小さな火が灯っていた。


 翌朝。


 屋敷に届いた一通の書簡が、事態をさらに動かす。


 櫻井匡からの、正式な訪問要請。

 日時と目的が、簡潔に記されている。


 ――縁談について、最終的な話を。


 子猫は、その紙を見つめたまま、動けずにいた。


 噂は、すでに彼女を追い越している。

 視線は、彼女を囲い込んでいる。


 だが、その中心で。


 入谷子猫は、初めてはっきりと理解していた。


 このまま流されれば、

 自分は「正しい象徴」として、静かに消えていく。


 それだけは――嫌だ。


 縁側の向こうで、文殊重人が庭を掃いている。

 その背中は、変わらない。


 子猫は、その背を見つめながら、静かに思った。


(……私は、選ぶ)


 それが、どれほど怖く、どれほど多くを壊す選択であっても。


 噂と視線に囲まれた世界で、

 彼女はようやく、自分の足で立とうとしていた。





第五章 警告


 入谷子猫が安野佳代子と会うのは、久しぶりだった。


 場所は帝都の外れ、路面電車の終点近くにある小さな喫茶店。

 華やかな社交の場から少し距離を置いた、静かな場所だ。

 看板は古く、内装も流行とは言い難い。だが、ここには余計な視線がない。


 子猫は、そのことにまず安堵した。


「相変わらず、目立つ顔してるわね」


 佳代子は、先に来ていた席から手を上げ、そう言った。

 薄い洋装に身を包み、背筋を伸ばして座る姿は、社交界の女性たちとは少し違う。

 飾り気がない代わりに、迷いもない。


「久しぶり」


「ええ。……噂は、毎日のように聞いてるけど」


 佳代子はそう言って、子猫の向かいに置かれた椅子を顎で示した。


 子猫が腰を下ろすと、すぐに紅茶が運ばれてくる。

 湯気の向こうで、佳代子の目が子猫をじっと見据えていた。


「疲れてる顔」


 佳代子は、前置きなく言った。


「隠す気もないでしょうけど」


 子猫は、苦笑した。


「そんなに分かりやすい?」


「ええ。

 あれだけ“理想”を被せられていれば、誰だってね」


 佳代子は紅茶に口をつけ、それから、はっきりと切り出した。


「櫻井匡。

 あなた、あの縁談を受けるつもり?」


 店内の空気が、一瞬、張りつめた。


「……まだ、決めていないわ」


 子猫はそう答えたが、自分の声が頼りなく聞こえた。


「そう」


 佳代子は頷いた。


「じゃあ、これは“まだ引き返せる段階”ってことね」


 子猫は、思わず顔を上げた。


「引き返す?」


「ええ」


 佳代子は迷いなく言う。


「あなたが思っている以上に、今の状況は危うい」


 彼女は、テーブルに指先を置いた。


「櫻井匡は、あなたを好きなんじゃない。

 “あなたという完成品”を手に入れたいだけ」


 その言葉は、遠慮も配慮もなかった。

 だが、だからこそ、子猫の胸にまっすぐ届いた。


「……それは」


 反論しようとして、言葉が続かない。


「優しい? 礼儀正しい? 将来性がある?」


 佳代子は淡々と続ける。


「それは全部、“条件”よ。

 人を選ぶ言葉じゃない」


 子猫は、紅茶の水面を見つめた。


「でも……私は、多くの人に期待されている」


「ええ、そうでしょうね」


 佳代子は頷く。


「だからこそ、言っておくわ」


 彼女は、身を乗り出した。


「あなたが、その期待に応えるために自分を差し出したら――

 櫻井匡は、あなたを守らない」


 子猫の心臓が、強く打った。


「彼は、“象徴”を守るだけ。

 人間としてのあなたが壊れたら、

 『仕方がない』って言って、距離を取る」


 それは、想像でしかないはずだった。

 だが、子猫の中で、その光景はあまりにも自然に浮かんでしまった。


 沈黙が落ちる。


 佳代子は、少しだけ声を落とした。


「……あなた、もう気づいてるんでしょう?」


 子猫は、ゆっくりと頷いた。


「でも、怖いの」


「ええ」


 佳代子は否定しない。


「怖いでしょうね。

 選ぶってことは、失うってことでもある」


 彼女は、子猫をまっすぐに見た。


「名声。

 後援。

 安全な立場」


 それらを失う可能性がある。


「でもね」


 佳代子は、そこで言葉を区切った。


「自分を失うより、ずっとましよ」


 その一言が、子猫の胸に深く刺さった。


 帰り道。

 子猫は、一人で電車に揺られていた。


 窓の外を流れる街並みが、やけに現実的に見える。

 ここには、象徴も理想もない。

 ただ、人が暮らしている。


(……私は)


 佳代子の言葉が、頭の中で何度も反響する。


 ――彼は、あなたを守らない。


 屋敷に戻ると、文殊重人が出迎えた。


「お帰りなさいませ」


 いつもと同じ声。

 だが、子猫は、その安定に、胸が少し痛んだ。


「重人」


「はい」


「……安野佳代子に会ってきたわ」


 文殊の表情が、わずかに変わる。


「何か、言われましたか」


「はっきりとね」


 子猫は、縁側に腰を下ろした。


「櫻井様は、私を守らないって」


 文殊は、すぐには答えなかった。


 沈黙ののち、彼は静かに言う。


「……私も、同じ考えです」


 子猫は、驚いたように顔を上げた。


「あなたまで、そう言うの?」


「ええ」


 文殊は、視線を庭に向けたまま続ける。


「櫻井様は、正しい選択をする人です。

 ですが、正しさは、常に人を救うわけではない」


 子猫は、ぎゅっと膝の上で手を握った。


「じゃあ、私は……どうすればいいの?」


 その問いには、逃げが混じっていた。


 文殊は、ゆっくりとこちらを向いた。


「……私には、答えを決める資格はありません」


 彼は、はっきりと言った。


「ですが、ひとつだけ言えることがあります」


 子猫は、息を止める。


「あなたが、誰かの期待のために自分を差し出すなら、

 それは“選んだ”ことにはなりません」


 その言葉は、冷静で、残酷で、そして誠実だった。


 子猫は、目を閉じた。


 怖い。

 怖くて、仕方がない。


 だが同時に、胸の奥で、はっきりとした感情が育っている。


(……私は)


 誰かの象徴ではなく、

 誰かの条件でもなく、

 自分として生きたい。


 その夜、櫻井匡からの使者が屋敷を訪れた。


 正式な席を設けたいという申し出。

 期日は、そう遠くない。


 子猫は、その知らせを聞きながら、静かに思った。


 これは、最後の猶予だ。


 警告は、もう十分に与えられた。

 ここから先は――自分で選ぶしかない。


 縁側の向こうで、文殊重人が灯りを整えている。

 その背中は、変わらずそこにある。


 だが、いつまでも、影にいてくれるとは限らない。


 入谷子猫は、初めて、はっきりと理解した。


 選ぶとは、

 誰かに頼ることをやめることではない。


 ――自分の人生を、引き受けることだ。





第六章 仮面の崩壊


 その日、入谷子猫は朝から胸騒ぎを覚えていた。


 理由は分からない。

 ただ、空気がいつもと違う。

 屋敷の中を行き交う女中たちの足音が、どこか早い。

 声を潜めるような間が、廊下のあちこちに落ちている。


「本日は、櫻井様主催の文化催事がございます」


 女中の報告に、子猫は静かに頷いた。


「分かりました」


 分かっている。

 今日が、ひとつの節目になることは。


 この催事は、名目上は文化支援を目的とした会合だ。

 だが実際には、櫻井匡が「次代の象徴」を世に示すための舞台であることを、子猫は理解していた。


 ――自分を、彼の隣に配置するための。


 鏡の前で着物を整えながら、子猫は一度だけ目を閉じた。


(……大丈夫)


 そう言い聞かせるように、息を整える。


 会場は、櫻井家の別邸だった。

 広い庭園に設えられた洋館は、いかにも近代の力を誇示する造りで、記者や関係者の姿も多い。


 耳受マチネの顔もあった。


 彼は、すでに場の空気を掴み取るように、さりげなく人の輪を渡り歩いている。

 子猫と視線が合うと、わずかに口角を上げた。


(……観測されている)


 その感覚が、背筋を冷やす。


 櫻井匡は、中央に立っていた。

 堂々と、揺るぎなく。

 すでに勝利を確信している男の姿だった。


「入谷様」


 彼は子猫に歩み寄り、当然のように腕を差し出す。


 その仕草ひとつで、周囲の視線が一斉に集まる。


 ――ここに立て。

 ――この位置が、お前の居場所だ。


 言葉にされずとも、そう告げられている。


 子猫は、一瞬だけためらった。


 だが、今はまだ、仮面を外す時ではない。


 彼女は、静かにその腕に手を置いた。


 会は、滞りなく進んだ。


 櫻井の挨拶。

 来賓の祝辞。

 文化支援の意義。


 そのすべてが、予定通りだった。


 ただひとつだけ、予定外のものがあった。


 ――噂だ。


 耳受マチネが、ある記者に小声で何かを伝えた瞬間から、空気が変わった。


 視線が、子猫の背後を探るようになる。

 囁きが、波紋のように広がる。


「……あの方、書生と随分親しいそうですね」


「入谷家に長く出入りしているとか」


「支援というより……情の問題では?」


 子猫の耳にも、断片的な言葉が届いた。


 胸が、きゅっと締め付けられる。


 ――文殊重人。


 その名前が、直接出ることはない。

 だが、誰のことを指しているのかは、明白だった。


 櫻井の表情が、わずかに曇る。


「どうしました?」


 子猫が小声で問うと、櫻井は微笑みを保ったまま言った。


「……些細な噂です。気にする必要はない」


 だが、その声には、苛立ちが滲んでいた。


 やがて、ある記者が、一歩前に出た。


「入谷様」


 唐突な呼びかけ。

 場が静まり返る。


「本日、この場を借りてお伺いしても?」


 櫻井が制止しようとしたが、遅かった。


「最近、一部で囁かれている“身辺の親密な関係”についてです。

 長年、生活を共にする男性がいるという話ですが――」


 言葉が、刃のように突き刺さる。


 子猫の視界が、かすかに揺れた。


 その瞬間、櫻井が一歩前に出る。


「その件については、私が――」


「結構です」


 子猫は、静かに言った。


 自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。


 会場中の視線が、彼女に集中する。


「……それは事実です」


 一瞬の静寂。


 櫻井が、子猫を見た。

 その目には、はっきりとした焦りが浮かんでいる。


「入谷様、それは――」


「誤解を含む噂ではありません」


 子猫は、言葉を選びながら、続けた。


「私の生活を、長年支えてくれている方がいます。

 それは隠すべきことではない」


 場が、ざわめく。


 櫻井は、すぐに状況を判断した。


「……ご安心ください、皆様」


 彼は、穏やかな声で言った。


「入谷様は、私の管理のもと、何の問題もなく――」


 その瞬間。


「管理?」


 子猫の声が、初めて強く響いた。


 櫻井が、言葉を詰まらせる。


 子猫は、彼をまっすぐに見た。


「私は、誰の管理下にもありません」


 その言葉は、静かだったが、確かに場を切り裂いた。


 沈黙。


 櫻井の顔から、血の気が引いていく。


 彼は、すぐに態勢を立て直そうとした。


「……このような場で、感情的になるのは――」


「感情ではありません」


 子猫は言った。


「事実です」


 それだけだった。


 その後のことは、子猫には曖昧だ。


 会は、早々にお開きとなった。

 記者たちは、一斉に動き出す。

 噂は、もう止められない。


 屋敷に戻る車中で、子猫は一言も発しなかった。


 夜。


 入谷家では、すでに知らせが回っていた。


 ――櫻井家との縁談に、暗雲。


 女中たちは、落ち着かない様子で行き交う。


 子猫は、自室に戻るなり、座り込んだ。


 身体が、ひどく重い。


 やがて、障子の向こうから足音。


「……入谷様」


 文殊重人の声だった。


「入って」


 子猫は、力なく言った。


 文殊は、静かに部屋に入り、膝をついた。


 彼の顔には、いつもの落ち着きがある。

 だが、その目は、揺れていた。


「今日のことは……」


「聞いてる」


 子猫は、先に言った。


「もう、戻れないわね」


「……ええ」


 文殊は、正直に答えた。


 子猫は、小さく笑った。


「ねえ、重人」


「はい」


「私、怖かった」


 その言葉は、やっとこぼれ落ちた本音だった。


「でも……言ってしまったら、不思議と、少し楽になったの」


 文殊は、何も言わない。


 ただ、そこにいる。


「櫻井様は、私を守るって言っていた」


 子猫は、目を伏せた。


「でも、今日、あの人は……

 私じゃなくて、“体面”を守ろうとした」


 文殊の拳が、静かに畳の上で握られる。


「それが、答えです」


 彼は、低く言った。


 子猫は、深く息を吐いた。


「私……壊したわね」


「ええ」


 文殊は否定しない。


「ですが、それは仮面です。

 本物ではありません」


 子猫は、ゆっくりと顔を上げた。


「……それでも、もう戻れない」


「戻らなくていい」


 その言葉は、強かった。


 子猫の目から、涙が一筋、落ちた。


 声は出ない。

 ただ、静かに泣いた。


 その夜、帝都には、ある見出しが流れ始める。


 ――象徴の失言か。

 ――名家縁談、暗礁に。


 噂は、彼女を叩くためのものではなかった。

 だが、守る者を失った象徴は、もはや安全ではない。


 そして、櫻井匡は気づき始めていた。


 自分が失いかけているものが、

 「縁談」以上の価値を持っていたことに。


 仮面は、割れた。


 もう、元には戻らない。







第七章 過去との対話


 静かになった屋敷は、思っていた以上に広かった。


 夜明け前の廊下を歩きながら、入谷子猫は、足音がやけに遠くへ響くのを感じていた。

 昨日まで、ここは彼女を包む殻だった。

 守られていると思っていた。

 だが今は、その殻が空洞であることを、はっきりと知ってしまった。


 櫻井家の催事から一夜。

 帝都の空気は、確実に変わっていた。


 女中たちは必要以上に言葉を選び、来客は激減した。

 書簡は減り、代わりに様子を探る使いが増えた。

 称賛の裏にあった熱が、急速に冷めていくのを、子猫は肌で感じていた。


(……こんなにも、あっさり)


 自分が象徴でなくなりかけただけで、世界は距離を取る。


 不思議と、怒りは湧かなかった。

 ただ、ひどく静かだった。


 朝食も喉を通らず、子猫は一人で屋敷を出た。

 行き先は決めていない。

 ただ、ここにいてはいけない気がした。


 市電に揺られ、乗り換え、さらに歩く。

 気づけば、子猫は懐かしい町並みに立っていた。


 幼い頃、まだ「入谷家の令嬢」になる前。

 誰かの象徴になる前。

 自分が自分でいられた場所。


 ――翠成都の住む家。


 門は古く、庭も手入れが行き届いているとは言えない。

 だが、その佇まいは、子猫の記憶とほとんど変わらなかった。


 呼び鈴を押すと、少しして戸が開いた。


「……子猫?」


 驚いた声。

 次の瞬間、懐かしい笑顔が現れた。


「どうしたの、こんなところまで」


 翠成都は、昔と変わらぬ調子だった。

 飾らず、過剰に気遣わず、ただそこにいる。


「……会いたくなったの」


「そりゃ珍しい」


 軽く言いながらも、成都はすぐに道を開けた。


「入んなさい。顔、ひどいわよ」


 居間に通され、子猫は座布団に腰を下ろした。

 畳の匂いが、胸にしみる。


「何かあったでしょ」


 成都はお茶を淹れながら言った。


「じゃなきゃ、こんな時間に来ない」


 子猫は、しばらく黙っていた。

 どこから話せばいいのか、分からなかった。


「……私ね」


 ようやく口を開く。


「壊したの」


「何を?」


「全部」


 成都は、手を止めなかった。


「それで?」


 その反応に、子猫は目を伏せた。


「怖くて……でも、逃げたくなくて……」


「うん」


「選ばれるのを、やめた」


 その言葉に、成都の手が止まった。


 彼女は、ゆっくりと子猫の方を向く。


「それで、どうなった?」


「……分からない」


 正直な答えだった。


「世界が、急に遠くなった気がする」


 成都は、ふっと息を吐いた。


「やっと戻ってきたじゃない」


「……え?」


「子猫」


 成都は、真っ直ぐに言った。


「それ、昔のあんたよ」


 子猫は、言葉を失った。


「ここに来たのもそう。

 何も決まってない顔で、怖いって言えるのもそう」


 成都は、子猫の前に湯呑みを置く。


「象徴になってからのあんたは、

 いつも“できてます”って顔してた」


 胸が、きゅっと縮む。


「私は……」


「知ってる」


 成都は、被せるように言った。


「逃げたくなかったんでしょ」


 子猫は、頷いた。


「でもね」


 成都は、少し声を落とす。


「象徴でいることと、生きることは、別よ」


 その言葉は、重く、そして優しかった。


「壊したのが仮面なら、

 本体は、まだ無事」


 子猫の目に、涙が滲んだ。


「……私、どうしたらいい?」


 その問いは、以前とは違っていた。

 答えを委ねるためではない。

 確認するための問いだった。


「選びなさい」


 成都は、即答した。


「誰かの期待じゃなくて、

 あんた自身の重さで」


 沈黙が、二人の間に落ちる。


 そのとき、ふと子猫の脳裏に、別の顔が浮かんだ。


 涼風ちはる。


 憧れの目で見上げてきた少女。


(……あの子は)


 子猫は、はっとした。


「私、あの子たちに……」


「背負わせた?」


 成都が言った。


「ええ」


 子猫は、苦く笑った。


「理想を」


「それは、あんたの罪じゃない」


 成都は、きっぱりと言った。


「でも、これからどうするかは、あんたの責任」


 子猫は、深く息を吸った。


 しばらくして、屋敷へ戻ると、思いがけない来訪者がいた。


 涼風ちはるだった。


 門の前で立ち尽くし、手には小さな包みを抱えている。


「入谷様……」


 ちはるの声は、震えていた。


「お時間、いただいても……」


 子猫は、少し迷ってから頷いた。


 二人は、庭先の縁側に腰を下ろした。


 沈黙が続く。


 先に口を開いたのは、ちはるだった。


「……皆、言っています」


「何を?」


「入谷様は、間違えたって」


 子猫の胸が、ちくりと痛む。


「でも……私は」


 ちはるは、ぎゅっと包みを抱きしめた。


「私は、間違いだと思えません」


 子猫は、驚いて彼女を見た。


「だって……」


 ちはるは、涙をこらえながら続ける。


「入谷様が、あの場で言った言葉。

 あれ、嘘じゃなかった」


 子猫の喉が、詰まる。


「私……」


 ちはるは、俯いた。


「ずっと、入谷様みたいになりたいって思ってました。

 完璧で、正しくて、迷わなくて」


 子猫は、胸が締め付けられる。


「でも……」


 ちはるは、顔を上げた。


「迷ってる入谷様を見て、

 初めて“生きてる”って思いました」


 その言葉は、刃ではなかった。

 救いだった。


「だから……」


 ちはるは、小さく頭を下げた。


「どうか、戻らないでください」


 子猫は、息を呑んだ。


 戻らないで。

 象徴に。


 しばらくして、子猫は、ゆっくりと口を開いた。


「……ありがとう」


 それだけで、精一杯だった。


 ちはるが帰ったあと、縁側に影が差した。


 文殊重人が、そこに立っていた。


「お戻りだったのですね」


「ええ」


 子猫は、彼を見上げる。


「……私、少し分かった気がする」


 文殊は、黙って待つ。


「選ぶって……

 誰かを切り捨てることじゃない」


 子猫は、言葉を探しながら続ける。


「自分を、引き受けることなのね」


 文殊の表情が、わずかに和らいだ。


「そう思います」


 夕暮れの光が、庭を染める。


 子猫は、その中で、初めてまっすぐに立っていた。


 もう、象徴ではない。

 まだ、何者でもない。


 だが確かに――自分だ。


 過去と向き合い、

 憧れを受け取り、

 恐怖を認めた。


 残るのは、ひとつだけ。


 選択。


 それを、次に示さなければならない。





第八章 断絶


 その日、入谷子猫は早く目を覚ました。


 眠れなかったわけではない。

 ただ、目を閉じている必要がなくなっただけだった。


 障子の向こうで、朝の光が静かに満ちていく。

 庭の木々が、風に揺れている。

 世界は何も変わっていないのに、自分だけが、昨日とは違う場所に立っている。


(……行かなきゃ)


 櫻井匡との面会。

 正式な席。

 最後の話し合い。


 逃げることもできた。

 書簡で断ることもできた。

 だが、それでは終わらないと、子猫はもう知っている。


 象徴として扱われ続ける限り、

 沈黙は同意になる。


 だから、行く。


 自分の足で。


 ***


 櫻井家の応接室は、以前訪れたときと同じだった。


 磨き抜かれた床。

 重厚な調度品。

 過剰なほど整えられた空間。


 そこに座る櫻井匡は、完璧な主人の顔をしていた。


「お待ちしておりました、入谷様」


 穏やかな声。

 余裕のある笑み。


 子猫は一礼し、向かいに座った。


「本日は、お時間をいただきありがとうございます」


「いえ。

 むしろ、私の方こそ」


 櫻井は、そう言って手を組んだ。


「先日の件で、あなたが混乱していることは承知しています」


 子猫は、何も言わない。


「不本意な形で、あなたを注目の的にしてしまった」


 謝罪の形をとった言葉。

 だが、その視線は、子猫ではなく“状況”を見ている。


「ですが」


 櫻井は続けた。


「だからこそ、今、きちんと形にする必要がある」


 子猫の胸が、静かに冷えた。


「形、とは」


「婚約です」


 迷いのない声だった。


「不確定な状態が、余計な噂を生む。

 あなたを守るためにも、私の立場を明確にしたい」


 守る。


 その言葉に、子猫は目を伏せた。


「……櫻井様」


 ゆっくりと、しかし確実に言葉を選ぶ。


「私を守る、というのは……

 私の何を、守るという意味でしょうか」


 櫻井は、わずかに眉を動かした。


「それは――あなたの立場、名誉、将来」


「では」


 子猫は、顔を上げた。


「私の意思は?」


 一瞬の沈黙。


 櫻井は、微笑みを崩さない。


「もちろん、尊重します」


 だが、その言葉には続きがあった。


「あなたが、冷静であれば」


 その一言で、すべてが決定的になった。


 子猫は、はっきりと理解した。


 この人は、

 自分が“違う選択”をする可能性を、

 最初から想定していない。


「……私は」


 子猫は、深く息を吸った。


「この縁談を、お受けすることはできません」


 言葉は、驚くほど軽く口を出た。


 長く抱えていた重石を、

 ようやく下ろしたような感覚。


 櫻井の表情が、初めて変わった。


「……それは」


 困惑。

 そして、苛立ち。


「一時的な感情でしょう」


 彼は、静かに言った。


「今は混乱している。

 世間の反応に、影響されているだけだ」


 子猫は、首を横に振った。


「違います」


 声は、揺れていなかった。


「私は、ようやく冷静になりました」


 櫻井は、椅子の背に深く寄りかかった。


「入谷様」


 低い声。


「あなたは、ひとりでは立てない」


 その言葉は、脅しではなく、

 彼の中では“事実”だった。


「後援を失えば、今の地位は保てない。

 世間は、あなたが思うほど優しくはない」


 子猫は、静かに頷いた。


「ええ。分かっています」


 それでも。


「それでも、私は」


 子猫は、まっすぐに櫻井を見た。


「あなたの“正しさ”の中に、

 自分を押し込めることはできません」


 櫻井の口元が、僅かに歪む。


「……恩知らずだな」


 初めて、感情が滲んだ言葉だった。


「私が、どれだけあなたのために動いたと思っている」


 子猫の胸が、きしんだ。


 だが、逃げなかった。


「感謝はしています」


 はっきりと言う。


「ですが、

 感謝と、人生を差し出すことは、別です」


 その瞬間。


 櫻井の目から、余裕が消えた。


「……分かりました」


 彼は、ゆっくりと立ち上がった。


「ならば、こちらも対応を変えざるを得ない」


 子猫は、黙って聞いている。


「あなたがこの選択を後悔する日が来ても、

 私は手を差し伸べない」


 子猫は、静かに頭を下げた。


「それで、結構です」


 その姿は、

 もはや象徴ではなかった。


 ひとりの人間だった。


 ***


 屋敷に戻る道すがら、子猫は不思議と落ち着いていた。


 怖くないわけではない。

 これから、何を失うかも分からない。


 だが、はっきりしていることがある。


 もう、奪われない。


 玄関をくぐると、文殊重人が待っていた。


「……お帰りなさいませ」


「ええ」


 子猫は、少しだけ笑った。


「終わったわ」


 文殊は、一瞬、息を止めた。


「……決断、されたのですね」


「ええ」


 子猫は、頷いた。


「選ばれるのを、やめた」


 文殊の肩から、ほんのわずかに力が抜ける。


「……お疲れさまでした」


 その言葉は、労いだった。


「ねえ、重人」


 子猫は、立ち止まった。


「私、怖いわ」


「ええ」


「でも……戻りたくない」


 文殊は、はっきりと答えた。


「それで、いいのです」


 夕暮れの光が、二人の間に落ちる。


 屋敷の外では、

 すでに動き始めているものがある。


 噂。

 評価。

 そして、反転。


 断絶は、静かに起きた。


 だがそれは、

 終わりではない。


 始まりだった。




第九章 静かな転落ザマァ


 転落というものは、音を立てない。


 叫びも、派手な破滅もない。

 ただ、昨日まで確かにそこにあった足場が、

 気づけば消えているだけだ。


 櫻井匡は、その事実を、数日かけて理解することになる。


 最初は、小さな違和感だった。


 約束していた面会が、先延ばしになる。

 「都合がつかず」という、便利な言葉で。


 次に、返書が遅くなる。

 それも、致命的な遅れではない。

 だが、これまで即座に返ってきていた反応が、確実に鈍っていく。


 そして、ある朝。


 櫻井は、新聞を開いたまま、動けなくなった。


 大きな見出しではない。

 社説でも、糾弾でもない。


 文化欄の片隅に、淡々と記されている。


 ――「入谷子猫、今後の活動方針を再考」


 それだけだ。


 婚約破棄とも、対立とも書かれていない。

 だが、その一文が意味することを、櫻井は理解していた。


(……切られたのか)


 いや、違う。


 彼は、切られてなどいない。

 そもそも、繋がっていなかったのだ。


 櫻井は、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。


 思い返せば、すべては「自分の想定通り」に進んでいたはずだった。


 入谷子猫は、象徴だった。

 正しく配置すれば、世間は納得し、後援は盤石になる。

 自分は、その中心に立つ。


 ――そう、思っていた。


 だが、ひとつだけ、彼は見落としていた。


 象徴は、意志を持たない前提で成り立つ。

 もし、意志を持った瞬間があれば。


 それは、象徴ではなくなる。


 櫻井は、舌打ちした。


 「一時の感情だ」と、どこかで信じていた。

 世間が揺れれば、彼女は戻ると。


 だが、戻らなかった。


 その日を境に、櫻井家の周囲でも、微妙な変化が起き始める。


 後援者の一人が、静かに距離を取った。

 理由は告げられない。

 だが、はっきりとした拒絶もない。


 別の人物は、こう言った。


「今は、少し様子を見たい」


 様子を見る。

 それは、信頼が揺らいだときに使われる言葉だ。


 櫻井は、焦り始めた。


 自分は、何も失っていないはずだった。

 名家の出。

 実績。

 人脈。


 だが、失ったものがある。


 ――「物語」だ。


 入谷子猫という象徴と結びつくことで、

 櫻井匡は「時代を担う人物」という物語の中にいた。


 その物語が、音もなく解体されている。


 誰の手によって?


 彼女自身だ。


 櫻井は、悔しさと共に、奇妙な感覚を覚えた。


 怒りよりも、空虚。

 否定よりも、不可解。


(……なぜ、そこまでして)


 その問いに、答えは出ない。


 ***


 一方、入谷子猫の周囲は、静かだった。


 彼女は、意図的に公の場から距離を取った。

 声明も、弁明も出さない。


 ただ、必要な連絡だけを、淡々と処理する。


 その姿勢が、逆に周囲を戸惑わせた。


「……何も言わないのね」


 安野佳代子は、喫茶店でそう言った。


「ええ」


 子猫は、紅茶を口に運ぶ。


「言い訳は、もうしないと決めたから」


「賢いわ」


 佳代子は、頷いた。


「今、あなたにとって一番の“攻撃”は、沈黙よ」


 攻撃。


 その言葉に、子猫は少しだけ笑った。


「私は、戦っているつもりはないの」


「分かってる」


 佳代子は、軽く肩をすくめる。


「だからこそ、相手は勝手に崩れる」


 実際、世間の視線は、徐々に変わり始めていた。


 ――入谷子猫は、逃げたのではない。

 ――選んだのだ。


 誰かが、そう語り始める。


 最初は、小さな声だった。

 だが、その声は、次第に重なっていく。


 耳受マチネは、その変化を、冷静に観測していた。


 彼は、ある記事を書いた。


 大きな断罪も、過剰な持ち上げもない。

 ただ、事実の整理だけ。


 ――象徴とされた女性が、象徴であることを拒んだ。

 ――その結果、ひとつの縁談が消えた。


 結論は、書かれていない。


 だが、読者は理解する。


 「拒まれた」のは、誰だったのか。


 ***


 櫻井匡は、その記事を読んだ。


 読み終えたとき、彼ははっきりと悟った。


 ――これは、取り返せない。


 入谷子猫は、

 彼を否定しなかった。

 糾弾もしなかった。


 ただ、

 「必要としない未来」を選んだ。


 それが、何よりも残酷だった。


 象徴を失った男は、

 象徴によって得ていた価値も、同時に失う。


 誰も責めない。

 誰も奪わない。


 だが、確実に、立場は変わる。


 それが、櫻井匡のザマァだった。


 ***


 夕暮れ時。


 入谷家の縁側で、子猫は庭を眺めていた。


 文殊重人が、静かに近づく。


「……落ち着かれましたか」


「ええ」


 子猫は、頷いた。


「不思議ね。

 あれほど怖かったのに、今は……」


「今は?」


「空が、広い」


 文殊は、何も言わなかった。


 それでいいのだ。


「ねえ、重人」


「はい」


「私、誰かを壊した?」


 その問いは、慎重だった。


 文殊は、少し考えてから答える。


「……いいえ」


 きっぱりと。


「壊れたのは、

 自分の上に、あなたを置いていた構造です」


 子猫は、目を閉じた。


 胸の奥で、何かがほどける。


 復讐ではない。

 勝利でもない。


 ただ、

 自分の人生を、自分の手に戻しただけ。


 それが、

 最も静かで、最も確かな“ザマァ”だった。




第十章 選んだ未来


 朝の光は、いつもと同じように障子を透かして差し込んだ。


 けれど、その光の受け止め方が、昨日までとは違っていた。


 入谷子猫は、静かに目を覚ます。

 胸の奥にあった重さが、ない。

 完全に消えたわけではないが、少なくとも、押し潰されるような感覚はなかった。


(……生きてる)


 それを、はっきりと感じる。


 屋敷は、以前よりも静かだった。

 訪問者は減り、女中たちの動きも必要最低限。

 だが、その静けさは、寂しさよりも落ち着きを連れてきていた。


 子猫は身支度を整え、庭へ出た。


 文殊重人が、いつものように庭木の手入れをしている。

 彼の動きは変わらない。

 丁寧で、無駄がなく、静かだ。


「おはよう、重人」


 子猫が声をかけると、文殊は顔を上げた。


「おはようございます」


 それだけ。

 だが、その短いやり取りが、胸に心地よく響く。


 子猫は縁側に腰を下ろし、しばらく庭を眺めた。


 鳥の声。

 風に揺れる葉。

 何も特別ではない景色。


 それが、今の自分には、十分すぎるほどだった。


「……ねえ」


 子猫は、ふと口を開いた。


「これから、どうなるのかしら」


 問いは、未来への不安を含んでいる。

 だが、以前のような怯えではない。


 文殊は、少し考えてから答えた。


「正直に申し上げますと、分かりません」


 子猫は、驚いたように彼を見る。


「はっきりしてるのね」


「曖昧な希望を述べるより、

 その方が誠実だと思いました」


 子猫は、小さく笑った。


「……そうね」


 沈黙が落ちる。

 だが、それは居心地の悪いものではなかった。


 しばらくして、文殊が口を開く。


「ひとつ、確認しておきたいことがあります」


「なに?」


「これから先、

 あなたが公の場に戻るかどうか」


 子猫は、すぐには答えなかった。


 櫻井匡との縁談。

 象徴としての役割。

 世間の期待。


 それらは、完全に消えたわけではない。

 だが、今は距離を置いている。


「戻るかもしれない」


 子猫は、正直に言った。


「でも、前と同じではない」


「……ええ」


 文殊は、穏やかに頷く。


「それでよろしいと思います」


 子猫は、彼の横顔を見つめた。


 長い間、影で支え続けてきた人。

 自分が象徴として扱われている間も、

 何も変えずに、そこにいた人。


「重人」


「はい」


「あなたは……」


 言葉が、少し詰まる。


「私が象徴だった頃も、

 今も……」


 子猫は、息を整えた。


「同じように、ここにいるの?」


 文殊は、少しだけ目を伏せた。


「……必要とされる限りは」


 その答えは、いつもの文殊らしい。

 控えめで、距離を保っている。


 だが、子猫は、もうその距離に甘えない。


「それは、“選ばれる”ってこと?」


 文殊が、はっと顔を上げる。


「それとも……

 あなた自身が、選んでいる?」


 空気が、張りつめた。


 文殊は、しばらく黙っていた。

 逃げ場を探すような沈黙ではない。

 言葉を、正しく置くための間だ。


「……私は」


 ゆっくりと、口を開く。


「あなたの人生を、奪うつもりはありません」


 子猫は、黙って聞いている。


「ですが」


 文殊は、続けた。


「あなたが、自分の人生を引き受けると決めたなら、

 その隣に立つことを、

 私は……望みます」


 はっきりとした言葉だった。


 押し付けではない。

 懇願でもない。


 ただの、意思。


 子猫の胸が、静かに熱くなる。


「……ありがとう」


 それだけで、十分だった。


 数日後、子猫は小さな集まりに顔を出した。

 華やかな会ではない。

 規模も小さい。


 だが、そこにいた人々は、彼女を「象徴」としてではなく、

 ひとりの人間として迎えた。


「お久しぶりです」


 耳受マチネが、軽く頭を下げる。


「静かな選択でしたね」


「そうかしら」


 子猫は、微笑む。


「派手に壊すより、

 静かに離れる方が、性に合っていたみたい」


 耳受は、くすりと笑った。


「それが、一番残る」


 何が残るのか。

 彼は言わない。


 だが、子猫には分かる気がした。


 数日後、安野佳代子から手紙が届いた。


 短い文面。


 ――無事に、立っているようで何より。

 ――選んだなら、振り返らないこと。


 子猫は、その手紙をそっと畳み、引き出しにしまった。


 夜。


 屋敷の灯りが、少しずつ落ちていく。


 縁側に並んで座り、

 子猫と文殊は、夜風に当たっていた。


「ねえ」


「はい」


「私、幸せになっていいのよね」


 その問いは、確かめだった。


 文殊は、迷わず答える。


「もちろんです」


「象徴じゃなくても?」


「象徴でないからこそ」


 子猫は、目を閉じた。


 胸の奥で、静かな確信が育つ。


 これから先、

 困難がないわけではない。

 失うものも、きっとある。


 だが。


 選ぶことを、もう恐れない。


 それが、

 入谷子猫が選んだ未来だった。


 夜空に、星が瞬く。

 派手ではない。

 だが、確かにそこにある光。


 象徴ではなく、

 理想でもなく、

 ただの一人の人間として。


 入谷子猫は、

 自分の人生を、静かに歩き始めていた。


 ――完。















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