表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
月夜の宝石は泥中ごときには染まらない―冷遇された公爵令嬢が、隣国の至宝として輝くまで―  作者: jnkjnk


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/4

第3話:綻びる公爵家と磨かれる宝石

季節は巡り、あの凍てつくような冬から半年が過ぎようとしていた。

かつては栄華を誇ったヴァルデック公爵家の屋敷は、今や見る影もなく澱んだ空気に包まれていた。


「あなた! どうなっているのですか! 今月の予算がもう底をついたなんて、冗談ではありませんわよ!」


広間に、継母マーガレットのヒステリックな金切り声が響き渡る。

彼女はテーブルの上に置かれた家計簿――といっても、まともな記帳などされていない殴り書きの紙束――を床に叩きつけた。


「新しいドレスも作れない、夜会の会費も払えない……これでは社交界で笑い者ですわ! 私とソフィアに恥をかかせるおつもり!?」


ソファに深く沈み込み、頭を抱えているのは当主であるヴァルデック公爵だ。その顔色は土気色で、かつての威厳など微塵もない。


「そ、そう言われてもだな……領地からの税収が、予想の半分以下なのだ。それに、商会からの未払い請求が山のように届いていて……」


「そんなこと、あなたが何とかすればよろしいでしょう! 今までは何とかなっていたではありませんか!」


マーガレットの言う通り、今までは「何とかなっていた」。

だが、それは魔法でも奇跡でもなく、エリーゼという一人の少女が徹夜で帳簿を整理し、無駄を削り、商会と交渉し、領地の特産品流通を管理していたからこそ成り立っていたバランスだったのだ。


彼女を追い出したその日から、公爵家の歯車は狂い始めた。

領地の代官たちは、中央からの指示が途絶えたことをいいことに横領を始め、特産品の販路は管理不足で途絶え、屋敷の使用人たちは給金未払いで次々と辞めていった。

残ったのは、無能な主人たちと、最低限の家事しかしない老いた使用人だけ。屋敷のあちこちに埃が積もり、花瓶の花は枯れたまま放置されている。


「お母様ぁ、私のマカロンは? お茶の時間なのに、何も出てこないなんて信じられない」


不機嫌そうに部屋に入ってきたのは、義妹のソフィアだ。

かつては愛らしいと称賛されたその顔も、不満とわがままで歪み、どこか薄汚れて見える。着ているドレスも、半年前の流行遅れのもので、レースの端が綻びていた。


「ソフィア、我慢しなさい。今、料理人も辞めてしまって……」


「えーっ! じゃあ誰が夕食を作るの? まさか私たちが作るわけじゃないわよね?」


「当たり前でしょう! 公爵夫人が台所に立つなんて!」


親子の醜い言い争いを聞きながら、公爵は重いため息をついた。

(なぜだ……なぜ急にこうなった? エリーゼがいた頃は、何も言わなくても全てが回っていたのに)

彼は未だに認めることができずにいた。自分が「役立たず」として捨てた娘こそが、この家の心臓であったという事実を。


そこへ、一人の執事が盆を持って入ってきた。この家に残ってくれた数少ない古株の執事だ。


「旦那様。隣国のガルガディア帝国より、急ぎの書簡が届いております」


「帝国から? 借金の取り立てか?」


公爵は怯えながら、金色の封蝋がされた封筒を手に取った。

だが、中身を改めた瞬間、その表情が一変した。


「こ、これは……!」


「どうなさったの?」


「招待状だ! ガルガディア帝国王宮で催される、王太子レオンハルト殿下の婚約披露パーティーへの招待状だ!」


「まあっ!」


マーガレットとソフィアが色めき立った。

ガルガディア帝国といえば、近年急速に勢力を拡大している大国だ。その富と軍事力は大陸随一と言われている。


「しかも、ただの招待状ではない。『貴殿の家格を見込んで、特別に招待する』とある。これは……我が家復興のチャンスかもしれん!」


公爵の手が震える。

落ちぶれたとはいえ、ヴァルデック家は腐っても名門公爵家だ。帝国側もそのブランド価値を認めてくれたに違いない。そう、彼は都合よく解釈した。


「王太子殿下の婚約披露ということは、世界中の富豪や高位貴族が集まるということですわね」


マーガレットの目が、獲物を狙う肉食獣のようにぎらりと光った。


「そこでソフィアの美しさをアピールすれば、帝国の有力貴族に見初められるかもしれませんわ! いや、もしかしたら王太子殿下御本人のお目に留まることだって……」


「やだ、お母様ったら。でも、今の婚約者はあの王太子妃なんでしょう?」


ソフィアが媚びるような笑みを浮かべる。


「ふふ、男心なんて分かりませんもの。それに、我が国の貧乏貴族カイルなんて捨てて、もっと良い殿方を見つける絶好の機会ですわ」


カイルとの関係も冷え切っていた。カイルの実家であるバーンスタイン伯爵家も、公爵家との繋がりで利益を得ていたため、公爵家の没落と共に共倒れになりつつあったのだ。「金のない男に用はない」というのが、この母娘の共通認識だった。


「そうと決まれば、準備ですわ! 家にある宝石、美術品、売れるものは全て売って、最高級のドレスを用意させましょう!」


「うむ。これが起死回生の一手だ。帝国の高官に取り入って、援助を引き出すのだ」


屋敷の中に、久しぶりに活気が戻った。

だがそれは、断崖絶壁に向かって全力疾走するような、破滅への狂騒でしかなかった。

彼らは知らなかったのだ。

そのパーティーの主役である「王太子妃」が、かつて自分たちが泥のように捨てたエリーゼであることを。


***


一方、国境を越えた先にあるガルガディア帝国の王都は、春の陽光に包まれていた。

整備された石畳の道路、活気あふれる市場、そして街の中心に聳え立つ白亜の王宮。すべてが秩序立ち、豊かさに満ちている。


その王宮の一角にある執務室で、エリーゼは書類の山と格闘していた。


「……物流ルートの再編案、これで承認をお願いします。北部の山岳地帯を通る新ルートが開通すれば、輸送コストは二割削減できます」


「素晴らしいな。まさかあの荒れ地を、特産品の薬草栽培地として活用するとは。住民の雇用も確保できるし、一石二鳥だ」


書類を受け取ったレオンハルトが、感嘆の声を上げた。

半年前に雪山で拾われたエリーゼは、今や彼の右腕として、いや、それ以上の存在として帝国の政務を支えていた。

彼女が提案する政策はどれも理にかなっており、長年停滞していた問題を次々と解決していった。かつて「氷の人形」と呼ばれた彼女の冷徹なまでの理性は、ここでは「至高の知性」として称賛された。


「君のおかげで、この半年で国庫の収入は大幅に増えた。重臣たちも、もはや君の出自を気にする者などいない。皆、君を『帝国の至宝』と呼んでいるよ」


レオンハルトは立ち上がり、エリーゼのそばへ歩み寄った。

そして、彼女が座る椅子の背に手を置き、その美しい銀髪にそっと口づけを落とした。


「……買いかぶりすぎです、殿下。私はただ、与えられた場所で最善を尽くしているだけです」


エリーゼは少し顔を赤らめて俯いた。

この半年で、彼女の表情はずいぶんと柔らかくなった。かつては生きるために感情を殺していたが、今は自分を認め、愛してくれる人がいる。その安心感が、彼女本来の優しさと魅力を引き出していた。


「エリーゼ。もう『殿下』と呼ぶのはやめてくれないか? 二人きりの時くらい、名前で呼んでほしい」


「……はい、レオン様」


恥ずかしそうに名前を呼ぶと、レオンハルトは満足そうに目を細め、彼女の手を取って立たせた。そして、そのまま優しく抱き寄せる。

彼の腕の中は温かく、強固な守りに包まれているようだった。


「明日のパーティー、準備はいいか?」


耳元で囁かれた言葉に、エリーゼの体が僅かに強張った。

明日の婚約披露パーティー。それは、エリーゼが正式にレオンハルトの婚約者として、国内外にお披露目される晴れ舞台だ。

そしてそこには、かつての家族たちも招待されていた。


「……はい。覚悟はできています」


「無理をしなくていい。君が望むなら、彼らを会場に入れないことだってできる。門前払いにして、恥をかかせてやることも」


「いいえ」


エリーゼはレオンハルトの胸から顔を上げ、きっぱりと首を振った。その紫紺の瞳には、揺るぎない意志が宿っている。


「私は逃げたくありません。あの日、雪山で捨てられた私はもういません。今の私がどれほど幸せで、誇り高く生きているか……それを証明するためにも、彼らと対峙しなければなりません」


それは復讐というよりも、過去との決別ケジメだった。

自分がどれほどの価値を持つ人間であったか、彼らに思い知らせる。そして、彼らが捨てたものが二度と手に入らないものであると突きつける。それが、エリーゼなりの「ざまぁ」であり、自分自身への誇りを取り戻す儀式でもあった。


レオンハルトは愛おしそうに彼女を見つめ、頷いた。


「分かった。君がそう望むなら、俺は全力でその舞台を整えよう。……最高のドレスと宝石を用意した。君の美しさで、あの愚か者たちの目を焼き尽くしてやるといい」


「ふふ、物騒ですね、レオン様」


二人は笑い合い、窓の外を見やった。

夕日が王都を黄金色に染めている。明日はきっと、晴れるだろう。


***


そして迎えたパーティー当日。

王宮の大広間は、贅を尽くした装飾で彩られ、大陸中から集まった貴賓たちで埋め尽くされていた。

天井の高いドームにはフレスコ画が描かれ、無数の蝋燭が星空のように輝いている。楽団が奏でる優雅なワルツが、会場の華やぎを一層引き立てていた。


その会場の入り口付近で、場違いな空気を纏った一行がいた。

ヴァルデック公爵一家と、それに付いてきたカイルだ。


「な、なんて豪華なの……! うちの屋敷の広間が三つは入りそうだわ!」


ソフィアが口をあんぐりと開けて周囲を見回す。

彼女は家中の金目の物を売り払って作った、ショッキングピンクの派手なドレスを着ていた。リボンとフリルが過剰についたそのデザインは、帝国の洗練されたシックな流行の中では、あまりにも野暮ったく、悪目立ちしていた。


「オホホ、これならソフィアが一番目立ちますわね。皆様、私たちのことを見ていらっしゃいますわ」


マーガレットもまた、ジャラジャラと安物の宝石を重ね付けし、けばけばしい化粧をして胸を張っていた。周囲の視線が「羨望」ではなく「失笑」と「憐憫」であることに、彼女たちは気づいていない。


「公爵、早く誰か有力な貴族を紹介してくださいよ。僕の家だって危ないんですからね」


カイルは焦燥感を隠せない様子で公爵に詰め寄った。彼の顔はやつれ、目の下には隈ができている。ソフィアの我儘と浪費に付き合わされ、彼もまた疲弊しきっていたのだ。かつてエリーゼに向けた傲慢な態度は消え失せ、今はただの余裕のない男に成り下がっていた。


「分かっている、分かっている。……おお、あれは帝国の宰相閣下ではないか? ちょっと挨拶をしてくる」


公爵は鼻息荒く、人ごみをかき分けて宰相と思しき人物に近づこうとした。しかし、すぐに衛兵にやんわりと、しかし力強く制止された。


「これより、王太子殿下と王太子妃殿下のご入場です。道をお開けください」


荘厳なファンファーレが鳴り響いた。

会場のざわめきが一瞬にして止み、全員の視線が大階段の上に注がれる。


「さあ、見ものですわよ。どこの国の姫君か知りませんが、私のソフィアより美しいはずがありませんわ」


マーガレットが扇で口元を隠しながら、隣のカイルに囁く。

ソフィアもまた、対抗心を燃やして階段を睨みつけた。


重厚な扉がゆっくりと開かれる。

そこに現れたのは、息を呑むほどに美しい一対の男女だった。


凛々しい軍服に身を包み、王者の風格を漂わせるレオンハルト。

そして、その腕に手を添えている女性。


彼女が纏っているのは、夜空を切り取ったような深い群青色のドレスだった。生地にはダイヤモンドの粉末が織り込まれており、動くたびに星々のような煌めきを放つ。

銀色の髪は複雑に編み込まれ、頭上には月と星を模した繊細なティアラが輝いている。


その姿は、まさに女神の降臨だった。

会場中からため息が漏れる。


「……嘘、でしょう?」


ソフィアの声が震えた。

カイルが目を見開き、呼吸を忘れたように立ち尽くす。

マーガレットが持っていた扇を取り落とす。


階段の上に立つその女性。

洗練された化粧と、自信に満ちた微笑みで別人のように輝いているが、見間違えるはずがない。


「エ、エリーゼ……!?」


公爵が掠れた声でその名を呼んだ。

半年前にボロ雑巾のように捨てたはずの娘が、隣国の至宝として、自分たちを見下ろす高みに立っている。

その事実は、彼らの脳髄を麻痺させるほどの衝撃を与えた。


階段をゆっくりと降りてくるエリーゼの視線が、ふと公爵家の一行を捉えた。

彼女は足を止めず、ただ一瞬、優雅に微笑んでみせた。

その笑みは冷たく、そして圧倒的に美しかった。


「さあ、ショーの始まりだ」


レオンハルトがエリーゼだけに聞こえる声で囁く。

エリーゼは小さく頷き、かつての家族たちが待つフロアへと、堂々たる足取りで降り立った。


その瞬間、公爵家の人々を支配したのは、かつてないほどの恐怖と、逃れようのない絶望の予感だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ