第2話:国境の邂逅と新しい価値
凍てつくような寒さが、皮膚を通り越して骨の髄まで染み込んでくる。
視界は白一色に塗り潰され、空と大地の境界さえ曖昧だった。
エリーゼは、雪に埋もれた街道の端で膝をついていた。
王都を出発した護送馬車は、数日かけて北の国境付近まで彼女を運んできた。だが、本来の目的地である修道院まではまだ距離があるはずだった。それなのに、御者は何もない山道の途中で馬車を止め、「ここで降りろ」と告げたのだ。
「公爵様からは『二度と顔を見せるな』と言われているだけだ。修道院まで送り届ける義理はない。ここから先は自分の足で行くんだな」
そう吐き捨てると、御者は僅かな食料が入った包みを雪の上に放り投げ、馬車を反転させて去っていった。エリーゼを置き去りにして。
それは実質的な処刑宣告だった。薄いドレスに粗末な外套を羽織っただけの身で、吹雪く山道を歩き通せるはずがない。
(ああ、これで終わりなのね……)
感覚のなくなった指先を擦り合わせることもできず、エリーゼは雪の上に崩れ落ちた。
恐怖は不思議となかった。ただ、圧倒的な疲労感と、ようやく全てから解放されるという安堵にも似た感情が胸を占めていた。
公爵家のための過酷な労働も、継母や義妹からの嘲笑も、信じていた婚約者からの裏切りも、もう何ひとつ感じなくて済む。
意識が遠のいていく。
白い闇の中に沈んでいく感覚。
母様、今そちらへ行きます――。
その時だった。
遠くから、雪を踏みしめる重い音が響いてきたのは。
風の音ではない。規則正しい、複数の蹄の音と、車輪が軋む音。
(……馬車?)
幻聴かと思った。こんな悪天候の日に、国境の峠を越えようとする物好きがいるはずがない。だが、音は確実に近づいてくる。
エリーゼは最後の力を振り絞り、雪の中から顔を上げた。
吹雪の向こうから、黒塗りの頑丈な馬車が二台、そして数名の騎馬の護衛が現れた。馬車の紋章は見えないが、その装備と馬の質を見れば、ただの旅人でないことは明らかだった。
「おい! 何か倒れているぞ!」
「人か? こんな場所で」
先頭を行く護衛の一人が声を上げ、馬を止めた。
エリーゼの視界に、馬から飛び降りて駆け寄ってくる男の姿が映る。
誰かが私の肩を抱き起こす。温かい何かが体に触れる。
「しっかりしろ! 生きているか!」
呼びかけに応えようと唇を動かしたが、声にはならなかった。
そのまま、エリーゼの意識はぷつりと途切れた。
***
次に目を覚ました時、エリーゼは柔らかな毛布に包まれていた。
ほのかな暖かさと、芳醇な茶の香りが鼻をくすぐる。
ゆっくりと目を開けると、そこは豪奢な内装の馬車の中だった。ランタンの灯りが揺れ、外の猛吹雪が嘘のように静かな空間が広がっている。
「気がついたか」
不意に、低い声がかけられた。
エリーゼは弾かれたように身を起こそうとしたが、体が重くて動かない。
「無理をするな。酷い低体温症だったんだ。温かいスープでも飲むといい」
声の主は、向かいの席に座っていた青年だった。
年齢は二十代半ばほどだろうか。黒曜石のように濡れた黒髪に、射抜くような鋭さを秘めた金色の瞳。整った顔立ちは冷徹な印象を与えるが、その奥には知性と理性が宿っている。簡素な旅装をしているが、隠しきれない高貴な雰囲気が漂っていた。
差し出されたカップを、エリーゼは震える手で受け取った。温かいスープが喉を通り、冷え切った内臓に熱を運んでいく。
一息ついてから、彼女は掠れた声で礼を述べた。
「……助けていただき、ありがとうございます。貴方様は……」
「俺はレオン。ただの旅の商人だ」
青年は短く名乗った。商人にしては、その立ち居振る舞いはあまりに洗練されすぎている。それに、護衛たちの統率の取れた動きを見ても、彼がただの商人でないことは明白だった。だが、命の恩人の事情を詮索するのは無作法というものだ。
「私は……エリーゼと申します」
家名は名乗らなかった。今の自分は追放された身。名門公爵家の名を口にする資格などない。
「そうか、エリーゼ。あんな場所で何をしていた? 身なりを見るに、近隣の村娘というわけではなさそうだが」
レオンと名乗った青年の視線が、エリーゼの着ているドレスに向けられる。古びてはいるが、生地の質は上等なものだ。
エリーゼは視線を伏せ、淡々と事実を告げた。
「……捨てられたのです。役立たずの道具として」
「捨てられた?」
「はい。家族からも、婚約者からも。北の修道院へ行けと命じられましたが、御者は私を雪山に降ろして去っていきました」
悲劇のヒロインぶるつもりはなかった。ただ、ありのままを話しただけだ。しかし、レオンの瞳が僅かに細められた。彼は同情するでもなく、かといって嘲笑うでもなく、冷静な観察者の目でエリーゼを見定めているようだった。
「なるほど。口減らしか、あるいは厄介払いか。貴族の家ではよくある話だが……随分と勿体ないことをするものだな」
「勿体ない、ですか?」
「ああ。死にかけていたにも関わらず、君の目にはまだ光が残っていた。それに、状況を嘆くよりも先に礼を述べる理性もある。そんな人間を捨てるなど、その家には見る目がないらしい」
レオンの言葉は、慰めというよりは事実の分析のようだった。だが、その乾いた響きが、今のエリーゼには心地よかった。過剰な同情は惨めさを増幅させるだけだからだ。
その時、馬車の窓がコンコンと叩かれた。
レオンが窓を開けると、外から冷気と共に一人の従者が顔を覗かせた。
「殿……いえ、旦那様。少々厄介なことになりました」
「どうした?」
「先ほど斥候から報告が入りました。この先の峡谷にかかる橋が、昨夜の雪崩で崩落しているそうです。復旧には数日かかるとか」
「何だと?」
レオンの眉間に深い皺が刻まれる。
「迂回ルートはどうなっている」
「西の峠を回るしかありませんが、この雪です。馬車で抜けるには三日は余分にかかるでしょう。……問題は、積荷です」
従者は声を潜めて続けた。
「今回運んでいる『希少薬草』は、鮮度が命です。あと二日以内に加工場へ届けなければ、全て枯れて効果を失います。損害は計り知れません」
レオンは舌打ちを堪えるように口元を引き締めた。
商人を装っているが、その「薬草」とやらは、おそらく国家的に重要な物資なのだろう。彼の焦り方には、単なる金銭的損失以上の切迫感が滲んでいた。
「……馬を切り離して、騎馬だけで山越えをするか? いや、この吹雪では遭難のリスクが高すぎる。薬草を凍らせてしまっても終わりだ」
レオンは腕を組み、厳しい表情で沈思黙考した。馬車の中には重苦しい沈黙が流れる。
エリーゼはその会話を黙って聞いていたが、ふと、ある記憶が脳裏をよぎった。
この付近の地理。ヴァルデック公爵家の領地ではないが、彼女はかつて家業の一環として、隣国との物流ルートを徹底的に調べ上げたことがあった。公爵家は国境貿易の利権も持っていたため、有事の際の代替ルートを把握しておく必要があったのだ。もちろん、それを実際に活用し指示を出していたのはエリーゼで、手柄は全て父のものになっていたが。
「……あの、差し出がましいようですが」
エリーゼは意を決して口を開いた。レオンと従者の視線が彼女に集まる。
「橋が落ちているのなら、川を渡ればよろしいのでは?」
「川だと?」
レオンは呆れたように鼻を鳴らした。
「君はここがどこか分かっているのか? この峡谷を流れる川は激流だ。しかもこの寒さだぞ。馬車ごと水没して終わりだ」
「いいえ。通常の場所ならそうですが、この先二キロメートルほど下流に、古くから地元猟師たちが『沈黙の瀬』と呼ぶ場所があります」
エリーゼは、かつて頭に叩き込んだ地図を思い出しながら、毅然と言葉を紡いだ。
「そこは川幅が広がる代わりに水深が浅く、川底も一枚岩の岩盤になっています。特に冬場は上流の滝が凍るため、水量が極端に減るのです。今の時期ならば、馬車の車輪も半分ほどしか浸からないはずです」
「……本当か? 地図にはそんな浅瀬など載っていないぞ」
「正規の街道図には載っていません。密輸などに使われるのを防ぐため、あえて記載されていないのです。ですが、地元の古文書と公爵家の……いえ、古い交易記録を照らし合わせれば、確かに存在します」
エリーゼの瞳には、確かな自信の光が宿っていた。それは先ほどまでの「捨てられた令嬢」の顔ではなく、何百人もの領民と物資を動かしてきた「指揮官」の顔だった。
レオンは彼女の瞳をじっと見つめ返した。嘘やハッタリを言っている目ではない。それに、彼女の言葉には具体的な根拠があった。
「……地図を見せろ」
レオンは従者に指示し、羊皮紙の地図を広げさせた。
「ここです」
エリーゼは細い指で、峡谷の一点を指し示した。
「ここから獣道に入り、斜面を下ります。傾斜はきついですが、貴方様の馬車の御者ほどの腕があれば、十分に降りられます。そこを渡れば、対岸の街道まで半日で抜けられます」
レオンは地図とエリーゼの顔を交互に見た後、ニヤリと口角を上げた。それは獲物を見つけた猛獣のような、獰猛で魅力的な笑みだった。
「面白い。一か八か、試してみる価値はある」
「旦那様、しかし……」
「行け。もし失敗したら、俺の判断ミスだ」
レオンの即決に、従者は一礼して慌ただしく出て行った。
馬車が再び動き出す。
エリーゼの指示通り、一行は正規の街道を外れ、雪深い森の中へと進んでいった。
予想通り、斜面は険しかったが、レオンの部下たちは見事な手綱さばきで馬車を操った。そして、木々が開けた先には、エリーゼの言った通り、驚くほど水量の少ない、穏やかな浅瀬が現れたのだ。
「……すごいな」
馬車が水しぶきを上げながら川を渡り切った時、レオンが感嘆の声を漏らした。
対岸にたどり着き、街道への復帰を果たした頃には、吹雪も小康状態になっていた。これで薬草は間に合う。
「君の言う通りだった。おかげで助かったよ、エリーゼ」
レオンは心底感心した様子で言った。
「命を救っていただいたお返しができて、安堵いたしました」
「いや、これだけの知識、ただの貴族の娘が持っているものじゃない。地形、気候、裏の地理情報。どれも現場を知らなければ出てこない言葉だ。……君は一体、何者なんだ?」
彼の金色の瞳が、探るようにエリーゼを射抜く。
エリーゼは少し迷ったが、もはや隠す意味もないと思い、静かに答えた。
「ヴァルデック公爵家の長女でした。……昨日までは」
「ヴァルデック公爵家……あの、北部の要衝を治める?」
レオンの目に驚きの色が浮かぶ。
「噂では、あの家の領地経営は見事なものだと聞いていた。公爵の手腕だと思っていたが……まさか、その裏で糸を引いていたのは、君だったのか?」
「……父や義母は、数字を見るのが苦手でしたから。私が代わりにやっていただけです。誰に褒められるわけでもない、地味な仕事ですわ」
自嘲気味に笑うエリーゼを見て、レオンは信じられないものを見るような表情をした。
「地味? 馬鹿なことを言うな。君のその知識と判断力は、一国の宰相にも匹敵する才能だぞ。それを『役立たず』と呼んで捨てたのか、あの家は?」
レオンの声には、明確な怒気が混じっていた。それはエリーゼに向けられたものではなく、彼女の価値を理解しなかった者たちへの憤りだった。
「呆れたな。宝石を泥だと勘違いして捨てるとは。……だが、おかげで俺が拾うことができた」
「え?」
レオンは居住まいを正し、真剣な眼差しでエリーゼに向き直った。
「エリーゼ。俺はただの商人ではない」
彼は懐から、精巧な装飾が施された短剣を取り出し、その柄に刻まれた紋章を見せた。
双頭の鷲。それは隣国、ガルガディア帝国の王家の紋章だった。
「俺の名はレオンハルト・フォン・ガルガディア。帝国の王太子だ」
「……王太子殿下!?」
エリーゼは驚愕に目を見開いた。まさか隣国の次期皇帝が、こんな場所でお忍びの旅をしているなど。
「今回の視察で、俺は優秀な人材を探していた。我が国は今、急速な発展の最中にあるが、それを支える実務能力を持った者が不足している。……まさかこんな雪山で、得難い逸材を見つけることになるとはな」
レオンハルトは、エリーゼの手をそっと取った。その手は大きく、温かく、そして力強かった。
「エリーゼ。君の能力を、俺に貸してくれないか。君を捨てた国ではなく、君を必要とする俺の国で、その才能を存分に振るってみないか?」
それは、プロポーズにも似た熱烈な勧誘だった。
今まで誰からも必要とされず、邪魔者扱いされてきたエリーゼにとって、その言葉はどれほど甘美で、心を震わせるものだっただろうか。
「私などで……お役に立てるのでしょうか。私は、婚約破棄され、家を追われた身です。殿下の経歴に傷がつくかもしれません」
「傷? 笑わせるな。俺は自分の目で見たものしか信じない。君は優秀で、賢く、そして誰よりも気高い。それ以外の評価など、俺には必要ない」
レオンハルトは力強く言い切った。
「来い、エリーゼ。君を捨てた奴らが、血の涙を流して後悔するほどの高みへ、俺が連れて行ってやる」
その言葉に、エリーゼの瞳から一筋の涙が零れ落ちた。それは悲しみの涙ではなく、凍り付いていた心が溶け出し、再び脈打ち始めた証だった。
「……はい。謹んで、お受けいたします」
エリーゼは深く頭を下げた。
こうして、雪の国境で拾われた宝石は、新たな持ち主の手によって、その真の輝きを取り戻すための第一歩を踏み出したのだった。
馬車は速度を上げ、国境を越えていく。
その先には、エリーゼがまだ知らない、広い世界と輝かしい未来が待っていた。




